HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第七章(3)

《彼女は美しい体をしていた。小さくしなやかで、硬く引き締まり、丸みをおびていた。肌はランプの光を浴び、かすかに真珠色の光沢を浮かべていた。脚はミセス・リーガンのようなけばけばしい優美さにはあと一歩及ばないが、とても素敵だった。私は後ろめたい思いや情欲に駆られることなしに、ざっと彼女に目を通した。そもそも彼女は裸の娘として部屋にいたのではない。ただの麻薬で頭のイカレた女としてだ。初めて会った時から私にとって彼女はイカレた女だった。》

 

深夜の室内で全裸の娘を前にしたマーロウの独白である。少し言い訳めいて聞こえるのは読者をおもんばかってのことだろうか。両氏の訳にさしたるちがいはない。私が「ランプ」としたところを、双葉氏が「電気スタンド」、村上氏が「フロア・スタンド」としているところに時代というものを感じるくらいか。ただ、双葉氏は三つある照明器具をすべて「電気スタンド」と訳しているのに対し、村上氏の方は、台座に載った物を「フロア・ライト」、床に置かれた一対の物を「フロア・スタンド」と訳している。原文は<the lamplight>だ。特定の照明器具の灯りと決めつけるのは、慎重な村上氏にしてはめずらしい。

 

娘の脚の美しさをリーガン夫人のそれと比較しているところ、原文は<Her legs didn’t quite have the raffish grace of Mrs. Regan’s legs, but they were very nice.>。双葉氏は「足はリーガン夫人ほど淫蕩的ななまめかしさはなかったが、すこぶる結構だった」、村上氏は「彼女の脚にはリーガン夫人のようなくだけた優雅さはなかったが、それなりに素敵だった」と訳している。<the raffish grace>だが、<raffish>には「いかがわしい、低俗な」という否定的な語義が、<grace>には「上品な、優雅な、しとやかさ」といった誉め言葉が並んでいる。

 

両極端に相反する言葉を強引にくっつけたところに、マーロウがリーガン夫人に抱く感情がほのめかされているのだろう。それを「淫蕩的ななまめかしさ」ととるか「くだけた優雅さ」ととるかでは、かなりの差が生じる。双葉氏のマーロウには、いかにも当時のハードボイルド探偵小説に登場する私立探偵の男っぽさが感じられるし、村上氏のマーロウには、折り目正しさのようなものが漂う。それは「すこぶる結構」と「それなりに素敵」にも表れている。私のマーロウは、その中間あたりの線をねらっているようだ。

 

最後の「麻薬で頭のイカレた女」と訳したところも、結構考えさせられた。ここは注意を要するところである。例によって原文を引く。<She was just a dope. To me she was always just a dope.>。<just a dope>が二度繰り返されている。双葉氏の訳「ただ麻薬中毒者として存在しているのだ。もっとも私にとって、彼女は、はじめて会ったときから麻薬みたいなものにすぎなかったが」。村上氏「そこにいるのは、麻薬で頭がどこかに飛んでいる一人の女に過ぎない。私にとって彼女は常に、頭がどこかに飛んでいる娘でしかなかった」。

 

原文のシンプルさに対して、両氏とも歯切れの悪い訳しぶりに思えるのには理由がある。実は<dope>には、一般的な「麻薬常用者」の意味の他に俗語表現として「愚か者」に類する人を貶めて言う類語が並ぶ。つまり、チャンドラーは、はじめの<just a dope>に通常の意味の「麻薬常用者」を、二度目のそれに俗語の「愚か者」の意味をあてて書いたのだ。わざと同じ表現が繰り返されたなら、その二つの間にはズレがあると考えるのは常識だ。しかし、日本語で、二つの意味を兼ね備える単語はなかなか思いつかない。それで、両氏も苦労したのだろう。

 

双葉氏の方は、あっさりと「麻薬みたいなもの」と逃げているが、「麻薬みたいなもの」では、カーメン嬢のぶっ飛んだキャラクターの説明にはなっていない。律儀な村上氏は「頭がどこかに飛んでいる」という説明を加えることで、二つの言葉に共通する「心神喪失」の語義を表すことに成功している。ただし、いつものことながら回りくどく感じられることは否めない。「頭がどこかに飛んでいる」女という表現は、一般的には使用されない、ここだけの言葉になってしまっている。それでは<dope>という通常日常的に使用されている言葉の訳語としては適当とはいえない。「イカレた」なら、日本語として古くはなっているが、まだ賞味期限は切れていないと思うのだが。

『大いなる眠り』註解 第七章(2)

《部屋の片端の低い壇のような物の上に、高い背凭れのチーク材の椅子があり、そこにミス・カーメン・スターンウッドが、房飾りのついたオレンジ色のショールを敷いて座っていた。やけに真っ直ぐに座り、両手は椅子の肘掛けに置き、両膝を閉じていた。背筋をピンと伸ばした姿勢はエジプトの女神のようだ。顎は水平に保たれ、両の唇の割れ目から小さな白い歯が輝いていた。両眼は大きく見開かれていた。暗灰色の虹彩が瞳孔を呑みこんでいた。狂人の目だった。彼女は意識を失っているように見えたが、気を失った者のとる姿勢ではなかった。心の中では何か重要な仕事を立派に遂行中であるかのようだった。口からは耳障りな含み笑いが漏れていたが、表情が変わることも唇が動くこともなかった。》

 

初めの文で、双葉氏が「チーク材の」という部分をカットしているが、それ以外は問題のない訳だ。同じく双葉氏、「暗灰色の虹彩が瞳孔を呑みこんでいた」のところを「瞳の灰色が、まつげをにらむみたいに上向いていた」と訳しているが、意味がよく分からない。因みに原文は<The dark slate color of the iris had devoured the pupil.>。<iris>は植物のアイリスではなく「虹彩」、<pupil>は中学では「生徒」と習ったけど「瞳、瞳孔」、<devour>は「貪り食う」の意味だ。

 

薬物の過度の接種によって「縮瞳」が起きていることを、マーロウは見て取ったのだろう。瞳孔が収縮している状態を「虹彩が瞳孔を呑みこんでいた」と表現したのだ。例によって村上氏は< dark slate color>を「粘板岩のような暗色の」と「粘板岩」にこだわって訳している。<slate>はもちろん粘板岩のことだが、「暗い青味がかった灰色」という色を表す意味もある。目の色を表すのに粘板岩を持ち出さないではいられない、このあたりのこだわりが村上訳の面目躍如たるところか。

 

最後のところ、双葉氏の訳では「口からは小さな笑い声みたいな音がもれていたが」、村上氏の訳は「口からは浮わついた含み笑いが聞こえたが」となっている。原文を見てみよう。<Out of her mouth came a tinny chuckling noise>の部分だ。はじめは双葉氏と同じように「小さな」と訳してしまった。<tinny>を<tiny>と読みちがえていたのだ。<tinny>は<tin>(スズ、ブリキ)から「スズのような」、「ブリキのような音のする」「(金属製品が)安っぽい」というような意味がある。

 

双葉氏の訳は<tinny>を<tiny>と読んだのだろうと推測できる。村上氏の方は「安っぽい」という意味からの「浮わついた」という訳ではないか。ただ、スズメッキを安っぽく見せているのは、主に視覚からくるのであって、聴覚の方でいうなら、「ブリキのような音のする」(不快な、耳障りな)の意をとるのが順当ではないだろうか。

 

《彼女は細長い翡翠のイヤリングを着けていた。見事なイヤリングで、おそらく二百ドルはくだらない。それ以外は何一つ身に着けていなかった。》

 

双葉氏の訳は「彼女は両耳に細長いひすいの耳飾りをつけていた」。この「耳飾り」という訳語が賞味期限切れ。どんな名訳も、流行に関する語彙は、十年も経てば錆が出てくる。経年劣化というやつで、どうしようもない。村上氏が、自分の好きなチャンドラーの小説をいつまでもピカピカにしておきたくて、錆取りをしたくなる気持ちがよく分かるところだ。

 

<She was wearing a pair of long jade earrings. They were nice earrings and had probably cost a couple of hundred dollars. She wasn’t wearing anything else.>。「彼女は細長い翡翠のイヤリングを着けていた」を「見事なイヤリングで、おそらく二百ドルはくだらない」という肯定的な価値判断を間に挟んで「それ以外は何一つ身に着けていなかった」という、同じ単語<wearing>を使い、その否定形で受ける。この鮮やかな対句表現を使ったスタイルがチャンドラーの文章だ。

 

『大いなる眠り』註解 第七章(1)

《横長の部屋だった。家の間口全部を使っている。低い天井は梁を見せ、茶色の漆喰壁は、鏤められた中国の刺繡や木目を浮かせた額に入れた中国と日本の版画で飾り立てられていた。低い書棚が並び、その中でならホリネズミが鼻も出さずに一週間過ごせそうなくらいけばの厚い桃色の中国緞通が敷いてあった。フロア・クッションがいくつかと絹でできた雑多な品が放り出されていた。誰であれ、そこに住む者は手を伸ばして親指で何か触っていなければならないとでもいうように。古代薔薇を織り出した幅広の低い長椅子があった。その上にはひとかたまりの洋服が乗っていて、中には薄紫色の絹の下着もあった。台座に乗った大きな木彫のランプの他に、翡翠色の笠に長い房飾りがついたフロア・スタンドが二つ立っていた。四隅にガーゴイルが彫られた黒い机の後ろには、背と肘掛けに彫刻を施した黒い椅子があった。磨き立てられ、黄色い繻子のクッションが置かれていた。部屋には何かが組み合わさったような奇妙な匂いが漂っていた。今のところ最もはっきりしているのは、銃の発射された後のような鼻を刺す臭いと、吐き気のするようなエーテルの匂いだ。》

 

<It was a wide room.>を双葉氏は「広い部屋だった」、村上氏は「横に長い部屋だった」と訳している。広い部屋としたいところだが、家の間口と比較しているところから、奥行きのない部屋なのだと分かるので、横に長いと訳すのが親切だろう。次を双葉氏は「薄暗い間接照明の天井」とやってしまっている。最初は<It had a low beamed ceiling>をそう取った。車の「ロービーム」からの連想である。しかし、ここは村上氏の「天井の梁が低く」が正解だろう。いわゆる「梁見せ天井」。ログキャビン風の建築ならなおさらだ。

 

<There were low bookshelves>を村上氏が「丈の低い本棚があり」としているのに、珍しく双葉氏の方が複数にこだわって「本棚がずらりと並び」としている。でも、<low>がどこかへ行ってしまっているのが惜しい。その次が面白い。双葉氏はこう訳す。「厚い桃色の中国じゅうたんがあった。このじゅうたんでなら、野鼠など一週間ぐらい、鼻をぴくりともさせず眠りつづけるだろう」。村上氏は「ピンク色の中国絨毯が敷かれていた。絨毯は厚く、地リスが一週間けば(傍点二字)の上に鼻先を見せずに過ごすことができそうだった」。原文は<there was a thick pinkish Chinese rug in which a gopher could have spent a week without showing his nose above the nap.>。

 

<rug>は、今ならそのまま「ラグ」でも通じそうだが、けばの厚さを強調して「緞通」を使ってみた。というのも「絨毯」は長尺の物を意味し、ラグのように一部に使う物に当てはまらないようだ。小形で方形の物を「緞通」と呼ぶ。ただし、このラグが方形でない場合「緞通」は誤訳になる。どうだろうか。<gopher>は、ホリネズミを意味する語なのだが、アメリカの一部では地リスのことを<gopher>と誤って呼んでいるらしい。アメリカ生活の経験者である村上氏ならではか。地下に穴を掘るのは共通しているから、まあどちらでも好きな方をと言いたいところだが、けばの長い敷物の中から鼻をのぞかせるイメージとして、「ホリネズミ」という呼称は捨て難いと思うが如何。

 

さらにもう一点<nap>の件がある。<nap>という名詞には二通りの意味があり、一つは双葉氏の訳にあるように「うたた寝、居眠り、午睡」の意。もう一つが村上氏の採用している「けば」だ。絨毯の上で眠りつづける野鼠のイメージも可愛くて捨てがたいが、< without showing his nose above the nap>とあるからには、「けば」の上に鼻を見せることなしに、と訳すしかなかろう。どちらにせよ、こういう比喩を楽しんで使うチャンドラーの文章が好きだ、としか言いようがない。

 

まだまだ続く。「フロア・クッションがいくつかと絹でできた雑多な品が放り出されていた」のところだ。双葉氏は「床には絹の房をくっつけたクッションがあった」としている。村上氏は「いくつかのフロア・クッションと絹でできた何やかやがあたりにばらまかれていた」である。<There were floor cushions, bits of odd silk tossed around.>という原文の<bits of odd silk>が厄介なのだ。複数のフロア・クッションと、絹製の何かが辺りに「トス(投げる、ほうる)」されている光景なのだが、村上氏も「何やかや」としか書けないように、何なのかよく分からないものが辺り一面に散らばっているらしい。

 

床に放り出された品物の数の多さを表せていない双葉氏の意訳は、次の<as if whoever lived there had to have a piece he could reach out and thumb.>にうまく続かない。双葉氏は「ここに住む人間なら、誰でもちょいと手を伸ばしてその房をいじれるようなぐあいだ」と、やはり意訳を重ねているが、「ちょいと手を伸ばし」たくらいで、広い部屋に置かれたクッションの房飾りがいじれるものだろうか。村上氏はこう訳す。「手を伸ばして常に何かを親指で触っていないと落ち着かない人間が、そこに暮らしているみたいだった」。しかし、これも少し、住人の性向に踏み込み過ぎた訳に思える。<whoever>とあるからには、そこに住む人間であれば誰でもという意味になる。特定の性向(例えばフェティッシュのような)を持つ人間を意味してはいない。ここは、誰であれ、その部屋に入れば何かに触れるくらい絹製品が散らばっていた、と解釈するのが穏当だろう。

 

「古代薔薇を織り出した幅広の低い長椅子があった」は<There was a broad low divan of old rose tapestry.>。これを双葉氏、「低いばら色のソファもあった」と、訳すが、少しあっさりしすぎでは。村上氏は「古いバラ模様のタペストリーのついた、低く幅の広い長椅子があり」と訳している。<old rose>が曲者で、近代のバラに対し、古いバラの品種を表す場合もあれば、「褪紅色」という薄赤色を表す場合もある。ここは「タペストリー」(綴れ織り)が手がかりになる。掛物になったタペストリーなら分かるように、絵模様を織り出した平織りの生地のことである。色だけを意味するならタペストリーの語はいらない。ここは、古いバラの模様を織り出した生地と読みたいところだ。

 

「四隅にガーゴイルが彫られた黒い机」は<There was a black desk with carved gargoyles at the corners>。双葉氏は「一隅には、彫刻のついた黒い机があり」としているが、<the corners>と複数になっているのを忘れている。ガーゴイルは、ノートルダム寺院の物が有名だが、屋根の上にいる例の怪獣である。当時としては説明するのも面倒だと思ったのか双葉氏はそこをトバしている。村上氏は「黒いデスクがひとつ、四隅にはガーゴイルが彫ってある」と、語順通りに訳している。

 

部屋に残っている臭いについて。双葉氏の訳では「変なにおいが部屋じゅうにただよっていた。そのにおいが強く感じられるときは、火薬が燃えたあとの臭気みたいでもあり、気持が悪くなるようなエーテルの匂いみたいにも思えた」と、いつになくまだるっこしい訳しぶりだ。村上氏は「部屋の空気にはいくつかの匂いが奇妙に混じりあっていた。今の時点で最も際だっているのは、コルダイト火薬のつんとした匂いと、気分が悪くなりそうなエーテルの芳香(アロマ)だった」と、几帳面な訳し方だ。

 

少し長い文だが原文を引く。<The room contained an odd assortment of odors, of which the most emphatic at the moment seemed to be the pungent aftermath of cordite and the sickish aroma of ether.>。問題は村上氏が「コルダイト火薬」と訳す<cordite>だ。それまでの黒色火薬とちがって煙の出ない無煙火薬の一種で、主に銃器の弾丸の薬莢内の火薬に使われる。そこから、探偵小説で<cordite>と書けば、銃を思い浮かべるという約束になっているのだろう。しかし、日本で「コルダイト火薬」と字義通り訳しても、註でもなければ通じない。こういう時こそ意訳が必要ではないだろうか。「部屋には何かが組み合わさったような奇妙な匂いが漂っていた。今のところ最もはっきりしているのは、銃の発射された後のような鼻を刺す臭いと、吐き気のするようなエーテルの匂いだ」と訳してみた。

『大いなる眠り』第六章(7)

《私は橋の横についている柵を跨ぎ、フレンチ・ウィンドウの方に身を乗り出した。厚手のカーテンが引かれていたが網戸はついていない。カーテンの合わせ目から中を覗いてみた。壁のランプの明かりと書棚の片隅が見えた。私は橋に戻り、垣根のところまで行くと、肩に全体重をかけて玄関ドアにぶつかった。ばかだった。カリフォルニアの家で、そこを通って中に入ることの出来ない、おそらく唯一つの場所が玄関だ。肩を痛め、腹が立っただけだ。私は再び柵を跨ぎ越し、フレンチ・ウィンドウを蹴った。帽子を手袋代わりに使い、下側の窓ガラスの大半を引き抜いた。そして中に手を伸ばして窓を敷居に固定している掛け金を外した。残りは簡単だった。上側に掛け金はなかった。留め金が開いた。私はよじ登って中に入り、顔にかかったカーテンをはがした。

 部屋にいた二人のうちのどちらも、私の入り方を気にも留めなかった。もっとも、そのうちの一人は死んでいたのだが。》

 

このパラグラフは問題ありだ。まず、書き出しのところ。双葉氏は「私は板敷のどんづまりの柵をまたぎ、雨で曇ってはいるが、カーテンはおりていないフレンチ・ドアのほうへからだを伸ばし、雨滴が固まってガラスの曇りを消している個所から内部をのぞいた」と訳している。少し長くなるが原文を紹介しておこう。

 

<I straddled the fence at the side of the runway and leaned far out to the draped but unscreened French window and tried to look in at the crack where the drapes came together.>。まず、柵のあるのは<side>(わき、横)であって、「どんづまり」ではない。次に、こちらは深刻だが、フレンチ・ウィンドウには<unscreened>つまり、スクリーン(網戸)がないのであって、「曇っている」のではない。これは完全に誤訳だろう。「雨で曇っている」と誤訳したのがあだとなって、<at the crack where the drapes came together>という単純な部分を複雑に誤訳する羽目となった。「ドレイプ」は厚手の生地でできたカーテンで、複数であることから両側についていると分かる。ルー大柴の「トゥギャザーしようぜ」ではないが、対のカーテンが両側から引かれたその合わせ目にできたクラック(割れ目)のことだ。双葉氏ほどのベテランでも、一度思い込んでしまうと、それに引きずられて辻褄合わせをやってしまう。この雨滴は、後でもう一度誤訳の手伝いをしている。そこを見てみよう。

 

<I climbed in and pulled the drapes off my face.>(私はよじ登って中に入り、顔にかかったカーテンをはがした)のところだ。双葉氏は「私ははいり、顔の雨滴をふいた」と、またしても「雨滴」を使っている。これは想像だが、双葉氏、<drapes>を<drips>と読み間違えたのではないだろうか。それなら、こうまでしつこく雨滴が登場してくる理由が分かる。もちろんここでは、閉じられていた厚手のカーテンが侵入者の邪魔をするのをきらって払いのけただけのことだ。

 

村上氏は「私は敷居を乗り越えて中に入り、顔にかかったカーテンを払った」と訳している。双葉氏も、あっさり「入り」と訳している。ここで、気になるのは<climbed>のことだ。フレンチ・ウィンドウというのは、開け放したらそのままポーチに出られるように、床まで続く観音開きの窓のことだ。しかし、ガイガーの家にポーチはない。どういう構造になっているのだろうか。おそらく、村上氏も訳し様に困って、「敷居を乗り越えて」としたのだろう。しかし、たかだか敷居をまたぐだけのことに、<climb>(手足を使って上る、はい上がる)は、いささか大げさではないか?

 

ここからはまったく想像の域を出ないが、ガイガーの家は、もしかしたら建売住宅で、デザインはどの家も一定だったのではないか。普通ならポーチに続くはずのフレンチ・ウィンドウの前がガイガーの家の場合平地になっていなくて、かなり深い谷のような空間が開いている。それで玄関に続くアプローチ代わりに柵のついた橋をつけてあるのだろう。となると、柵を乗り越えて窓の中に入り込むために、侵入者は体をその空間に曝す必要が出てくる。それが<climb>という語を使う理由ではないだろうか。

 

村上氏がその著書の中で「翻訳というのは一語一語を手で拾い上げていく『究極の精読』なのだ。そういう地道で丁寧な手作業が、そのように費やされた時間が、人に影響を及ぼさずにいられるわけはない」と書いている。日本語訳だけを読んでいたら、こんなことを考えたりは絶対にしないだろう。力もないのに翻訳をしてみようと思うのは、細かな部分にまで目が届くところに愉しさを感じるからに他ならない。

『大いなる眠り』第六章(6)

《ドアの前には細い溝があり、家の壁と崖の縁の間に歩道橋のようなものが架かっていた。ポーチも堅い地面もなく、背後に回る道もなかった。裏口は下の小路めいた通りに通じる木製の階段を上ったところにあった。裏口があることは知っていた。階段を踏んで降りてゆく足音が聞こえたからだ。そのあと、いきなり車が発車する轟音が聞こえた。やがてそれは急速に遠ざかっていった。別の車の響きが重なったように思えたが、確かではない。目の前の家はまるで地下納体堂のように静かだった。急ぐ必要はない。そこにあったものは、そこにある。》

 

ここも訳すのにてこずった。初めの文。双葉氏はこう訳す。「玄関の前はせまい板敷だった。谷間の小さな橋みたいに、家の壁に沿って、土手との空間にわたされていた」。村上氏はこうである。「ドアの前は狭い渡り橋になっていた。家の壁と斜面との間に隙間があり、それをまたいでいる」。原文を上げておく。<The door fronted on a narrow run, like a footbridge over gully, that filled the gap between the house wall and the edge of the bank.>。ドアの前にあるのは、本当は橋ではなく<run>だ。動詞の「走る」の方ではなく名詞で「ドッグ・ラン」のように使用される。厄介なのは、この単語に、「板敷」や「渡り橋」の意味はない。一番用法として近いのは、建築用語で階段の踏板の奥行を示す語として用いられていることぐらい。もともとは、動詞<run>から、水の流れる場所を意味する。

 

それではなぜ両氏が、そう訳したかといえば、後の説明にあるからだ。<footbridge>は「歩道橋」で、それが<gully>(溝)を跨いでいる。要は、家の前に溝があって、そこに歩道橋のようなものが架けられているということなのだが、問題はそこは平地ではなく、LA特有の丘状地に建てられていることにある。後に続く説明を読めば分かるように、ガイガーの家は空中に浮いているようなもので、その橋を通ってしか入れない。ハリウッド映画で、斜面に張り出すように建てられた架空建築をよく見かける。あれの小型版なのだろう。アメリカ人にはイメージが湧くが、日本人には分かりづらい。「板敷」も「渡り橋」も訳者の工夫なのだろうが、こなれた訳語とも思えない。両側に柵のついた「歩道橋」の方が、まだしもイメージがつかめるのではないだろうか。

 

「裏口は下の小路めいた通りに通じる木製の階段を上ったところにあった」も難しい。双葉氏は「裏口の扉は、下手の路地みたいな横丁から通じている木の階段を上りきったところにあった」。村上氏は「裏の出入り口は、小路のように狭い下の通りに通じている木製の階段の踊り場にあった」だ。ここは、双葉氏に軍配を上げたい。「踊り場」とは、階段の途中にある方形の空間を指す。スペースを節約して上下動をするため階段を半分に切って繋ぐ必要があるからだ。しかし、ガイガーの家は階段の途中にあるのではない。

 

<The back entrance was at the top of a flight of wooden steps that rose from the alley-like street below.>が原文。何が難しいかといえば、話者の視点は裏口の入り口から木の階段を下りて、下の通りに出て行っているのに、使われている単語は、<top><rose(riseの過去形)>といった上を意味する語ばかり。そこを双葉氏は、下から上へ上昇する視点を使って訳している。<at the top of a flight of wooden steps >(ひとつながりの木製階段の最上段)とあるからには、踊り場でないのは明白。「上りきったところに」に<top><rose>が響いている。

 

最後の「そこにあったものは、そこにある」は、原文が面白い。<What was in there was in there.>。双葉氏は「家の中にはあるべきものがあるだけのことだ」。村上氏は「中にあるものはそのまま動かない」。原文のような言い回しが、よく使われるのかもしれないが、不勉強で分からない。両氏の意訳はなるほど、堂に入ったものだ。「地下納体堂」と訳したのは<vault>で、教会の地下にある納骨所のこと。双葉氏は「地下の納骨堂」、村上氏は「納骨堂」としている。<vault>は、ゴシック建築などに見られるアーチ形天井の空間を意味する。「納骨堂」と訳すと、小さい棚が並んだ場所のように思われるといけない。手持ちの辞書にあった「納体堂」をあてた。




『大いなる眠り』第六章(5)

《私はドアポケットから懐中電灯を取り出すと、坂を下って車を見に行った。パッカードのコンバーティブルで、色はえび茶か、こげ茶色。左側の窓が開いていた。免許証ホルダーを探って、明かりをつけた。登録証は、ウェスト・ハリウッド、アルタ・ブレア・クレッセント3765番地、カーメン・スターンウッド。私は再び車に戻り、座り直した。幌から雨が膝に落ち、胃の腑はウィスキーで灼けていた。それ以上車は丘を上ってこなかった。車を停めた前の家に明かりが灯ることはなかった。悪い癖を招き入れるにはもってこいの界隈のようだった。》

 

双葉氏は最後の<It seemed like a nice neighborhood to have bad habits in.>を訳していない。訳し忘れたのか、省略したのか判然としない。村上氏は「悪しき習慣を持ち込むには、格好の環境であるようだ」と訳している。もったいぶった訳し様だが、何やら意味深な文だ。カットしてしまうには惜しい文に思えるのだが。

 

《七時二十分、夏の稲光のように激しく白い光がガイガーの家を一閃した。暗闇がそれを包み喰い尽くさないうちに、細く甲高い叫び声があたりに響き、雨に濡れた木々の中に消えた。その響きが消える前に、私は車を出てそちらに向かっていた。》

 

何故か双葉氏は「七時三十分」と訳しているのが不思議だ。原文の表記は数字ではなく<seven-twenty>で、間違えようがない。版を組む時、原稿の漢字の「二」が「三」に見えでもしたのだろうか。次の部分は意味は分かるのだが、一つの事態と別の事態の間の時間の関係が分かりづらく、文としてまとめるのが難しかった。光が消えるのは早いが、音の方はもっと長くその場にとどまる。マーロウの動きの素早さをどう表すか、ということだ。

 

《悲鳴に恐怖はなかった。愉快さの混じった驚きの調子、酔ったような怪しい呂律、真性な白痴の上げる高音。不快な響きだった。私は、白衣の男たち、格子の入った窓、手首と足首を縛る革帯がついた固く狭い寝台を思い浮かべた。私が生垣の隙間を見つけ、玄関を隠している角を回った時には、ガイガーの隠れ家は元のようにひっそりと静まり返っていた。ドアにはライオンの口に鉄の環の通ったノッカーがついていた。私はそれを掴もうと手を伸ばした。ちょうどその時、合図を待っていたかのように、家の中で三発、銃声が轟いた。長くざらついた溜息のような声が聞こえ、それから鈍く歪んだ何かのぶつかる音。次いで家の中に慌ただしい足音――逃げてゆく。》

 

チャンドラーの情景描写は感情が必要以上にまぶされた語句が使われている。それが畳みかけるように、次から次へと読者に浴びせかけられる。土砂降りの闇の中に聞こえた悲鳴から精神病院を思い浮かべるマーロウ。マーロウのとる行動とガイガーの家から聞こえてくる物音が並行して同時に語られる。

 

「私が生垣の隙間を見つけ、玄関を隠している角を回った時には、ガイガーの隠れ家は元のようにひっそりと静まり返っていた」は、<The Geiger hideaway was perfectly silent again when I hit the gap in the hedge and dodged around the angle that masked the front door.>。双葉氏は、文を二つに区切り、「私は生垣のすき間に飛び込み、玄関のほうへまわった。家は完全な沈黙にかえっていた」としている。その際<the angle that masked>の部分をカットしている。生垣の迷路がよほど目障りだったのだろうか。村上氏は「私が生け垣の隙間に飛び込み、玄関の目隠しになっている角を曲がったとき、ガイガーの隠れ家は完全な沈黙に包まれていた」と訳している。その前に何度も言及されている目隠しの生垣だ。これを省略してはいけないだろう。

 

<I hit the gap in the hedge>を、両氏とも「生垣(生け垣)のすき間(隙間)に飛び込み」と訳しているが、<hit>という動詞に「飛び込む」という訳語がある訳ではない。「ぶつける」という訳語の意訳だろうが、隙間に飛び込むというのは「ぶつける」ことになるだろうか。相手は隙間である。それにまともにぶつかることなんかできない。どうも的をはずしているようで、これでは<hit>という語の語感にぴったり来ない気がする。<hit>には、他に「見つける、行き当たる」という用例がある。ここは日本語にもなっている「ヒットする」の出番ではないだろうか。

 

村上氏の訳文をよく読めば、マーロウは、意を決して生け垣の隙間に飛び込んでおきながら、わざわざ「玄関の目隠しになっている角を曲がっ」たりしている。そんなに慌てた様子ではない。ましてや、ドアロッカーに手を伸ばすのだから、正式訪問のつもりである。生け垣を傷めてしまったり、自分のスーツに引っかき傷を作ったりする危険を冒すとも思えない。ハード・ボイルド小説の探偵といってもマーロウはそれほどのタフガイではない。あまり気負わないほうがいいのではないか。

『大いなる眠り』第六章(4)

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《ガイガーは車のライトを点けていた。私は消していた。曲がり角のところで速度を上げて追い越すとき、家の番号を頭に入れた。ブロックの終点まで行って引き返した。彼はすでに車を停めていた。下向きにされた車のライトが小さな家の車庫を照らしていた。四角く刈り込まれた生垣が正面扉を完全に隠していた。私は彼が傘をさして、車庫から出て生垣を通り抜けるのを見守った。彼は誰かにつけられているなどと微塵も感じていない素振りだった。家に明かりが点いた。私は坂をすべり下り、上手の隣家につけた。空き家のようだが、看板は出ていない。車を停め、コンバーチブルに外気を入れると、瓶から一口飲み、座ったままでいた。何を待っているのか分からなかった。何かが待つように告げていた。例によって、緩慢な時間の大軍がのろのろと脇を過ぎていった。》

 

この段落はほぼ異同がない。「下向きにされた車のライトが小さな家の車庫を照らしていた」の<His car lights were tilted>を、双葉氏は「車の灯火が、小さな家の車庫の中にぼんやり見えた」と訳している。村上氏は「車のライトは下向きに、小さな家のガレージを照らしていた」だ。ティルトという単語はハンドルなどにも使われているので、上下に移動する物という受け止め方でいいと思う。「ぼんやりと」はハイビームでないことを意味する意訳だろう。<be+過去分詞>の受動態なので、「下向きにされた」と訳してみた。両氏とも、出来る限り、語順を原文通りに訳そうとされている。それを踏襲するなら、「車のライトは下向きにされ」とするのも可。

 

「例によって、緩慢な時間の大軍がのろのろと脇を過ぎていった」の部分。原文では<Another army of sluggish minutes dragged by.>だ。この、いかにもチャンドラーらしい一文を、双葉氏は「時間は、のろのろした軍隊の行進みたいに流れた」、村上氏は「一分一分が、ものぐさな軍隊の行進のように、再び私の前を通り過ぎていった」と、両氏とも暗喩を直喩に代えて訳している。原文に忠実にというなら、直喩は直喩として暗喩は暗喩として訳すことにこだわりたい。また、<an army of+名詞>には「~の大軍、大ぜいの~」の用例がある。わざわざ「軍隊の行進」と訳す必要があるとも思えない。ここでは、マーロウはひたすら待ちの姿勢を余儀なくされる。その気分を強めるため「例によって」と訳してみた。

 

《二台の車が丘を登ってきて峰を越えていった。とても静かな通りのようだ。六時を少しばかり回った頃、明るい光が土砂降りの雨を透して跳ねた。その頃には漆黒の闇になっていた。車はゆっくりとガイガーの家の前に止まった。フィラメントの光が次第に薄暗くなり、やがて完全に消えた。ドアが開き、女が出てきた。小柄でやせた女で、ヴァガボンド・ハットに透き通ったレイン・コートを着ていた。彼女は箱形の迷路の中を通り抜けた。ベルがかすかに鳴り、光が雨を通し、ドアが閉まり、やがて静寂。》

 

雨はまだやまない。人通りも明かりもない通りで何かを待つマーロウ。やがてお目当ての車がやってくる。「明るい光が土砂降りの雨を透して跳ねた」は、原文では<bright lights bobbed through the driving rain.>。<bob>は何かがひょこひょこ上下動する動きのこと。双葉氏は「明るいヘッドライトが浮かびあがった」と訳す。村上氏はいつものように丁寧に「一対の明るいライトが上下しながらやってきた」だ。確かに前照灯は一対あるに決まっているが、そこまで複数にこだわらなくても、と思ってしまう。真っ暗な山道を車の明かりが上下動を繰り返しながら近づいてくる。その感じを短い文で伝えるには工夫がいる。

 

ヴァガボンド・ハットは40年代から50年代にかけて流行した帽子で、クラウンが高く角ばった、中折れ帽の形を崩したような帽子のこと。註も使わずに訳すのは難しいからか、両氏とも「レイン・ハット」と訳している。仕方のないことかもしれないが、「ヴァガボンド(放浪者)」という言葉はマンガのタイトルに使われるくらいには定着している。そのままにしておいても漠然としたイメージは浮かぶかもしれない。