HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第二十一章(1)

《私はスターンウッド家には近寄らなかった。オフィスに引き返して回転椅子に座り、脚をぶらぶらさせる運動の遅れを取り戻そうとした。突然風が窓に吹きつけ、隣のホテルのオイル・バーナーから出る煤が部屋の中に吹き下ろされて、空き地を転々とするタンブルウィードのように転げ回った。私は昼食を食べに出ようかと考え、人生はとんでもなく退屈だと考え、おそらく酒を飲んでも退屈さに変わりはないし、一日のこんな時間に一人で酒を飲んでもたいして面白くもない、とそんなことを考えていたときノリスから電話がかかってきた。持ち前の慎重さと礼儀正しさで、スターンウッド将軍の気分がすぐれず、読み聞かされた新聞のとある記事で、私の調査が完了したものと推測した、と告げた。

「ガイガーに関してはそうだ」私は言った。「私は彼を撃っていない、知ってのように」

「将軍もあなたとは考えておられません。ミスタ・マーロウ」

「将軍はミセス・リーガンが心配していた例の写真のことを知っているのか?」

「いいえ、まったくご存知ありません」

「将軍が私に何を渡したか知っているかい?」

「はい、存じております。三通の借用書と一枚の名刺だったと思います」

「その通り。それを返すよ。写真は破棄した方がいいと思う」

「それがよろしいかと存じます。ミセス・リーガンが昨夜何度も電話をおかけになられていたようですが──」

「外へ飲みに行ってたんだ」私は言った。

「はい、とても必要なことです、サー、そう思います。将軍があなたに五百ドルの小切手を送るようにとお命じになりました。それでご満足いただけますか?」

「たいへん気前のいいことだ」私は言った。

「そして、私どもはこの件に関して鍵がかけられたと考えてよろしいのでしょうか?」

「ああ、確かに。時限錠付きの地下金庫室みたいに厳重にね」

「ありがとうございます、サー。私ども一同感謝いたしております。将軍のご気分がもう少しよくなられたら──明日にでも──直接お礼を申しあげたいとのことです」

「結構だね」私は言った。「お伺いしてブランデーでも頂戴しよう。シャンパンも添えて」

「ちょうど飲み頃に冷えているか見ておきます」老人は作り笑いが聞こえる一歩手前の声で言った。

 それで終わり。私たちはさようならを言って電話を切った。窓から隣のコーヒー・ショップの匂いが煤といっしょに入り込んできたが、食欲を起こすところまではいかなかった。そんなわけで私はオフィス用のボトルを出してひと口飲り、自尊心には勝手にレースをやらせておいた。》

 「三通の借用書と一枚の名刺だったと思います」は<Three notes and a card, I believe.>。前にも書いたことだが、この<a card>は名刺のことだ。双葉氏もそう訳している。ところが、村上氏はまた「三通の借用書と、一枚の葉書であると理解しておりますが」と、執事のノリスにまでまちがいを犯させている。ちなみに村上氏自身の文章を引いておく。「私は封筒から茶色の名刺と、ごわごわした三枚の便せんを取り出した」『大いなる眠り』(p.17)

「そして、私どもはこの件に関して鍵がかけられたと考えてよろしいのでしょうか?」は<AndI presume we may now consider the incident closed?>。<closed>は店の看板にあるのと同じ意味で閉店、或いは休業中の意味だ。それを「鍵がかけられた」と意訳したのは、次の「ああ、確かに。時限錠付きの地下金庫室みたいに厳重にね」というマーロウの言葉があるからだ。原文は<Oh, sure. Tight as a vault with a busted time lock.>。 

双葉氏は「では、これでご依頼申し上げました件は落着といたしてよろしゅうございましょうか?」「モチ。時限錠付の保護金庫みたいにがっちりおしまいさ」と「おしまい」に「終い」と「蔵う」をかけている。村上氏は「そしてわたくしどもは、これで一件は終了(クローズ)したと考えてよろしいのでしょうか?」「もちろん。防犯時限ロックつきの金庫みたいに、しっかり閉鎖(クローズ)している」とルビを使っている。 

「老人は作り笑いが聞こえる一歩手前の声で言った」は<the old boy said, almost with a smilk in his voice.>。双葉氏は「わが友は、くすくす笑いながら答えた」。村上氏は「と執事は言った。その声にはほとんど淡い笑みさえ浮かんでいた」。<smirk>だが辞書には「にやにや笑う、気取った[きざな]笑い方をする、いやになれなれしく笑う、作り笑いをする」という意味が並んでいて、あまり好感の持てる笑いではないような気がするのだが、両氏とも、あまりそれを気にはしていないようだ。 

「食欲を起こすところまではいかなかった」は<but failed to make me hungry>。双葉氏は「私の空腹をさそうようにただよった」とし、村上氏は「それは残念ながら私の食欲を刺激してはくれなかった」としている。双葉氏の訳では、食欲が刺激されているように読める。問題はこの後の<So I got out my office bottle and took the drink and let my self-respect ride its own race.>にあるように思う。 

双葉氏はそこを「私は机からびんをとりだし一杯ひっかけ、腹は減ってもひもじゅうないと見得をきった」と、いかにも時代がかった訳にしている。それというのも<let my self-respect ride its own race.>が何を意味しているのかよく分からないからではないだろうか。こういうとき、双葉氏は決まり文句に頼ることが多いからだ。村上氏も「自尊心には好きにレースを走らせておくことにした」と、ほぼ直訳ですませている。 

何故、ここで唐突に自尊心が登場してくるのか?ノリスと電話で会話をする前にマーロウは酒を飲むかどうか、とつおいつ考えていた。マーロウの眼には回転草が回るように煤煙が吹き下りてくるのが見えていた。人生の味気なさに思いをいたしていたのだ。酒瓶に手を伸ばすかどうか躊躇していたともいえる。日も高いうちから酒を飲むことに内心の抵抗があるのはその口ぶりからも透けて見える。自尊心はそう簡単に酒に頼るべきではないと内なる声で囁き続けている。マーロウは、それを無視して酒瓶に手を伸ばし、一杯ひっかける。自尊心に「勝手に自分のレースでもやっているがいい」とうそぶいて。

『大いなる眠り』註解 第二十章(3)

《グレゴリー警部は頭を振った。「もし彼が稼業でやっているくらい切れるなら、この件も手際よく処理するさ。君の考えは分かるよ。警察は彼がそんな馬鹿なまねをするわけがないと考えるからわざと馬鹿なまねをしてみせるというんだろう。警察の見方からすればそれは悪手だ。警察と関われば頭を悩ますことが増え、仕事に支障をきたすだろう。君は愚かな振りをするのが利口だと思うかもしれない。私もそう思うかもしれない。現場はそうは思わない。彼らは彼の悩みの種になるだろう。私はその考えを取らない。もし私がまちがっているなら、君が証明すればいい。そうしたら私は椅子のクッションを食ってみせよう。それまでエディは白のままだ。彼のようなタイプに嫉妬という動機は似合わない。一流のギャングはビジネスの頭脳を持っている。彼らはどうするのが得策かを学んでいる。個人的な感情をはさんだりしない。私は除外するね」

「何を残しているんだ」

「夫人とリーガン自身だ。他にはいない。彼女はかつてはブロンドだったが、今はちがうだろう。警察は彼女の車を発見していない。おそらく二人はその中だ。彼らは我々より先にスタートしている──十四日も。リーガンの車を別にしたらこの件に関しては全く手がかりがつかめない。もちろん、そんなことには馴れっこだ。特に上流家庭の場合は。そして言うまでもないことだが、私がこれまで調べたことは帽子の下にしまっておかにゃならん」

 彼は椅子の背にもたれ、椅子の肘掛けをその大きながっしりした両手の付け根で叩いた。

「私は何もしないで、ただ待っている」彼は言った。「外部に協力を求めてはいるが、結果はすぐには出てこない。リーガンが一万五千ドル持っていることは聞いている。女もいくらかは所持している。かなりの量の宝石も持っているだろう。しかし、いつかは底をつく。リーガンが小切手を現金化するか、約束手形を書くか、手紙を書くかするだろう。見知らぬ町で、新しい名で通っていても、人の欲望は変わらない。彼らは財政の仕組みに帰らざるを得なくなるだろうよ」

「エディ・マーズと結婚する前、彼女は何をしていたんだ?」

「歌手だ」

「その当時の写真は手に入らなかったのか?」

「ない。エディはきっと何枚か持っているはずだが、気前よく見せてはくれなかった。彼は彼女の邪魔をしたくないのだろう。私は彼に強制できない。彼は町に友人がいる。でなきゃ今のようになれはしない」彼は不服そうだった。「これで何かお役に立てたかな?」

 私は言った。「二人とも絶対に見つからないだろうね。太平洋が近すぎる」

「椅子のクッションについて言ったことは本気だ。いつかは見つける。時間はかかるかもしれない。一年か二年はかかるだろう」

「スターンウッド将軍はそんなに長くは生きられない」私は言った。

「我々はできることはすべてやった。彼がいくらか金をはずんでほうびを出す気があれば、結果を出せるかもしれん。市はそのために金を出してくれんのだ」彼の大きな両眼がじっと私を見、まばらな眉が動いた。

「君は本気でエディが二人を片づけたと考えているのか?」

 私は笑った。「いや、ちょっとからかってみただけだ。私も同じように考えているよ、警部。リーガンは相性の悪い金持ちの妻より、惚れた女と一緒に逃げたのさ。それに夫人はまだ金持ちになっていない」

「彼女に会ったんだろう?」

「ああ。週末を派手に過ごすのだろうが、彼女はそんなお定まりにうんざりしている」

 彼は何かぶつぶつ言った。私は手間を取らせたことと情報をくれたことに礼を言って部屋を出た。グレイのプリムス・セダンが市庁舎からあとをつけてきた。私はそれに静かな通りで私に追いつくチャンスを与えたが、相手はのってこなかった。そういうわけで、私はかまわず仕事に戻った。》 

「現場はそうは思わない」は<The rank and file wouldn’t>。この<the rank and file>だが、「兵士、一兵卒、平社員、一般組合員、庶民、大衆」を表すイディオムだ。双葉氏は「が、俗衆はそう思わん」と、「一般大衆」の意味に訳している。村上氏はというと「しかし、現場の兵隊たちはそこまで深く考えやしない」と、現場の兵隊、つまり平の刑事や警官と解している。問題は、解釈のちがいが次の訳に関わってくることだ。 

「彼らは彼の悩みの種になるだろう」は<They’d make his life miserable.>。その「彼ら」を大衆と取るか、警察と取るかで「彼ら」のやることが変わってくる。双葉氏は大衆、つまり賭博場の客と取るから、「店の信用が落ちて哀れなことになる」と訳す。村上氏は警察と取るから、「連中はやつの生活をかきまわすだろう」と訳す。エディ・マーズの生活がひどいことになるのはいっしょだが、そうする相手がちがう。文脈から考えると、それまで話題に上っていたのは警察関係者だから、「彼ら」は捜査関係者と取るのが順当ではないか。 

裏の裏をかいたつもりでも、相手がそこまで考えるとは限らない。順調に利益を上げている高級賭博場経営者がそんな危ない橋を渡るだろうか。いくら市の上層部に顔がきいたとしても殺人容疑がかかったら、警察に出向く必要があるだろう。あるいは警察のほうからやってくるかもしれない。それは彼の仕事上、あまりうれしくはない動きだ。経営手腕がある経営者はそんなリスクは負わないだろう。 

「彼女はかつてはブロンドだった」は<She was a blonde then>。主語は「彼女は」だ。双葉氏は何を思ったか、そこを「その二人は金髪だったが」とやってしまっている。その少し前にリーガンの容貌について「ふさふさした黒い髪の毛」と書いているというのに。こういう凡ミスは双葉氏には珍しい。 

「かなりの量の宝石も持っているだろう」は<maybe a lot in rocks>。<rocks>はダイヤなどの宝石のことだが、双葉氏は「相当な現金かもしれん」と訳している。その前に「女もいくらか持っている」としているのだから、現金ではないと考えるべきだ。女性が自由にできる現金は知れているが、ジュエリーなら、簡単に持ち出せて金に換えられる。村上氏は「とくに宝石なんかをたっぷりとな」。 

「彼らは財政の仕組みに帰らざるを得なくなるだろうよ」は、< They got to get back in the fiscal system.>。双葉氏は「それやこれやでこっちの網にかかろうというものさ」と、例によって曖昧な常套句を多用して済ませている。村上氏は「身についた金遣いはそうそう改まるものじゃない」と、意訳している。<fiscal system>は「財政制度」を意味する硬い用語だ。村上氏はそれを彼らの「金遣い」と解釈しているようだ。ここは警部がその前に話している「リーガンが小切手を現金化するか、約束手形を書くか、手紙を書くかするだろう」を指していると考えたい。ただの紙切れが現金に代わるのが<fiscal system>だからだ。 

エディ・マーズ夫人の前職は原文では<Torcher>となっている。アメリカには女性歌手が失恋の痛手を切々と歌う、トーチソングというジャンルがある。それを知る音楽産業界の誰かがしゃれで言い出したのが、一時流行した「ご当地ソング」だ。「トーチャー」というのは初耳だが、<torch singer>なら辞書にも載っている。双葉氏は「歌姫」、村上氏は「クラブ歌手」と訳している。 

「週末を派手に過ごすのだろうが、彼女はそんなお定まりにうんざりしている」は<She’d make a jazzy weekend, but she’d be wearing for a steady diet.>。双葉氏は「どんちゃん騒ぎの週末が好きな女らしい。根気強い減食などできない性質(たち)ですね?」。村上氏は「派手に遊びまわるのが好きな女だ。しかし限られた小遣いでは何かと厳しい」。両氏の訳だが、後半の訳にはどちらも首をひねりたくなる。 

< steady diet>とは「お決まりのこと、習慣化されたこと」という意味で、もともとは毎日の決まった食事から来ている。「根気強い減食」というのは傑作だが、誤訳だろう。ミセス・リーガンは細身の美人で、ダイエットが必要とは思えない。村上氏の「限られた小遣い」となると、どこからひねり出してきたのか、さっぱり見当もつかない。夫人はエディ・マーズの高級賭博場に出入りし、五千ドルという大金をエディ・マーズから借りることもできる、と言っている。「限られた小遣い」とはいえ、遊ぶ金に困っている様子はない。》

『大いなる眠り』註解 第二十章(2)

《「彼が出て行ったのは九月十六日のことだ」彼は言った。「それについて唯一つ大事なことは、運転手が休みの日で、午後遅くだったというのにリーガンが車を出すところを見た者がいないことだ。四日後、我々はサンセット・タワーズ近くのリッチなバンガロー・コートのガレージで車を発見した。見慣れない車があるとガレージ係が盗難車係に連絡してきた。カーサ・デ・オロというところだ。あとで話すが、いわくつきの場所だ。車をそこに置いた人物はわからなかった。車に残された指紋を採取したが、登録された指紋の中に該当するものは見あたらない。ガレージにあった車は犯罪に関わってはいない、とはいえ犯罪を疑わせる理由はある。あとで話すといった件と合致してるんだ」

 私は言った。「失踪届に載っているエディ・マーズ夫人の指紋と一致したんだろう」

 彼はいらついているように見えた。「そうだ。警察は入居者を調べて彼女がそこに住んでいたことを突きとめた。出て行ったのはリーガンが消えたのとほぼ同じ頃、いずれにしても二日のうちだ。リーガンと思しき人物が彼女とそこにいるところを目撃されていたが、彼だと断定することはできなかった。警察稼業では時に愉快なことがある。窓の外を男が走るのを見た婆さんが、半年後の面通しでそいつを選び出したりするんだが、映りのいい写真をホテルの従業員に見せても証言は取れなかったよ」

「それは良いホテル従業員の資格の一つだ」私は言った。

「まったくだ。エディ・マーズとワイフは別居していたが、仲はよかったとエディは言ってる。ここにいくつか可能性がある。一つはリーガンがいつも一万五千ドル身に着けていたことだ。一枚目だけじゃなく札束全部が現ナマだそうだ。かなりの大金だが、リーガンは見せ金用に持ち歩いていたのかもしれない。それか、全然気にしていなかったか。夫人によると、彼はスターンウッド老人から小銭一枚もらっちゃいない。賄い付きの部屋と夫人がくれたパッカード120を別にしたら。たなぼたで金づるを得た元酒の密売人を縛るのがそれだけとは」

「分からないものだ」私は言った。

「さてと、ここに一人の男がいて、ふらっと出て行くが、ズボンのポケットに一万五千ドル入れているのは誰もが知ってる。ところで、問題はその金だ。もし一万五千ドル持ってたら、俺だってふらっと消えるかもしれん。高校に通う二人の子どもがいてもな。だからまず考えられるのは、金を盗ろうとした誰かがやり過ぎて、砂漠に運んでサボテンの間に埋めた、というものだ。しかし、その説はあまり気に入らない。リーガンは銃を持っていたし、それを使った豊かな経験を持っている。ただのつるりとした顔の酒の密売屋ではない。1922年のアイルランド内戦だったか何かでは一旅団を指揮していたそうだ。そんな男は追いはぎの餌食にはならない。それに、彼の車がガレージにあったということは、彼を襲ったのが誰であれ、そいつは彼がエディ・マーズのワイフに夢中だと知ってる。おそらくそうなんだろう。だが、玉突場にいる穀つぶしどもの知るところではない」

「写真はあるのか?」私は訊いた。

「彼のは。彼女のはない」それもまたおかしなことだ。この件にはおかしなことがたくさんある。ほら」彼が机ごしに光沢のある写真を押してよこしたので、私はアイルランド人の顔を見た。陽気というより悲しげで、大胆というよりは控えめだった。タフガイの顔ではなく、誰かにこき使われるような顔でもなかった。まっすぐな黒い両眉の下に頑丈な骨があった。額は高いというより広く、ふさふさともつれる黒髪に薄く短い鼻、大きな口。力強い形をした顎は口の割に小さかった。顔には少し緊張が見受けられた。素速く動き、本気で勝負する男の顔だ。私は写真を返した。会えば分かる顔だ。

 グレゴリー警部はパイプを叩いてから新しい煙草を詰めて親指で押し固めた。それに火をつけ煙を吐き、また話し始めた。

「ところで、彼がエディ・マーズ夫人に惚れていたことを知る者がいても不思議ではない。エディ・マーズ本人のほかにだ。驚いたことに彼はそのことを知っていた。しかし、気にしているふしはない。その頃我々は彼をかなり徹底的に調べあげた。もちろん、エディ・マーズは嫉妬から彼を殺したりしない。状況から彼に容疑がかかるのは目に見えている」

「それは彼がどれだけ悪賢いかによる」私は言った。「裏の裏をかこうとしたのかもしれない」》 

「リッチなバンガロー・コート」としたのは<ritzy bungalow court place>。<bungalow court>というのは南カリフォルニア州パサデナにある、数件の住宅がコの字型に並んだ中庭を共有する形式の住宅地のこと。バンガロー・コートという呼び名で、今でもパサデナに残っている。当時流行したマルチ・ファミリー向けの住宅地で、庭園に向かい合うように低層の住宅が建ち並び、一種のコミュニティーを形成している。双葉氏は「しゃれた別荘」、村上氏は「高級集合住宅地」と訳している。 

「彼はいらついているように見えた」は<He looked annoyed>。双葉氏は「彼は当惑しているような表情を浮かべた」。村上氏は「彼は顔に憂慮の色を浮かべた」と、いつものように格調が高い。<annoyed>は「困る、悩む、いらいらする」の意味だ。双葉氏が「当惑」としたのは、「マーロウがなぜ知っているのだろう」、村上氏の場合は「私立探偵にそこまで知られているのか」くらいか。グレゴリー警部もいろいろと腹の中を探られて大変だ。 

「それは良いホテル従業員の資格の一つだ」は<That’s one of the qualification for good hotel help.>。双葉氏は「ホテルの番頭もあてにならない証拠がまた一つふえたわけですね」と訳しているが、<qualification>は「資格」の意味で、どう考えたらこんな訳になるのかよく分からない。村上氏は「そうじゃないとホテルの良き従業員にはなれないんだろう」と言外に皮肉を込めて訳している。 

それと、もう一つ気になるのが双葉氏がマーロウの言葉を訳すとき、グレゴリー相手にかなり丁寧な言葉遣いをさせていることだ。敬体を使うこともそうだが、みょうに下手に出ている。もちろん原文にはそんな気配はない。英語がいいな、と思うのは上下関係や男女関係においてフラットなところだ。いくら日本人に分かるように訳すとしても、それを忘れてはいけないと思う。『大いなる眠り』の頃のマーロウはまだ若手だが、一介の警部相手にそこまで遠慮はしないだろう。クロンジャガー相手の時はもっと突っ張っていた。グレゴリーが気に入ってるということなのかもしれない。 

「一枚目だけじゃなく札束全部が現ナマだそうだ」は<Real money, they tell me. Not just a top card and a bunch of hay.>。ここを双葉氏はまるきりカットしている。村上氏は「紛れもない本物の現金だったということだ。上だけ見せ金で、あとは偽物というようなやつじゃない」と訳している。<hay>は「干し草」だが、「金」を意味する俗語がある。<a bunch of >は<a lot of>と同じだから、<a bunch of hay>は大金という意味になる。意味的には同じだが<a bunch of hay>を本物と取るか、ただの紙の束と取るかで訳し方は異なる。双葉氏は迷った挙句にスルーしたのだろうか。 

たなぼたで金づるを得た元酒の密売人を縛るのがそれだけとは」は<Tie that for an ex-legger in thr rich gravy.>。原文だけでは、どうしてこんな訳になるかわかりにくい。実は<tie that bull outside>という「信じられない」という意味のイディオムがある。おそらく警部はそれを言い換えているのだろう。<gravy>は、あのグレイビー・ソースのことだが、スラングでは「思いがけない利得物、たなぼた、甘い汁」の意味がある。双葉氏は「宝の山に入った元闇酒屋にしては奇妙な話さ」。村上氏は「何不自由のない生活をするかつての密売業者にとって、これがどういう意味を持つと思うね?」と訳している。 

「ただのつるりとした顔の酒の密売屋ではない」は<and not just in a greasy-faced liquor mob>。双葉氏は「ただの三下(さんした)とはちがうからね」。村上氏は「それもそのへんの酒の密売ギャングを相手にしていただけじゃない」だ。両氏ともに<greasy-faced>を訳していない。<greasy>には「脂ぎった」のほかに「つるつるした」の意味がある。脂ぎった顔とすべすべした顔では印象がまったく反対になってしまう。<liquor mob>は直訳すれば「酒の暴徒」だが、禁酒法時代に酒を扱っていたギャングのことだろう。 

<and>から始まっていることから分かるように、訳文は二つの文になっているが原文は一文だ。前半は<Regan carried a gat and had plenty of experience using it,>。<gat>は拳銃や銃を意味する古い俗語だ。グレゴリー警部の使う言葉には古いスラングが多くて訳にてこずる。双葉氏は「リーガンはパチンコを持っていたし、その使い方もお手のものだ」と、手馴れた訳しぶりだ。村上氏は「リーガンは銃を携行していたし、実際にそいつをさんざん使ってきた」と訳している。 

つまり、この文の主語はリーガンで、後半も当然そうである。双葉氏はリーガンは「ただの三下とはちがう」と訳しているが、村上氏は<a greasy-faced liquor mob>を相手と解している。となると<a greasy-faced liquor mob>をどう考えるかという問題が出てくる。これは、あとに出てくるアイルランドの内乱に蜂起したアイルランド兵との対比である。同じ<mob>でも、無骨な兵士たちと比べれば、ピン・ストライプの三つ揃えで決めたギャングたちは、髭も剃った< greasy-faced>だったろう。その仲間にいたとしてもリーガンはちがう、といいたいのだ。 

「そんな男は追いはぎの餌食にはならない」は<A  guy like that wouldn't white meat to a heister.>。<white meat>は白身の肉ではなく「楽にできること[手に入るもの]」のことらしい。<heister>は「大酒飲み」が一般的だが、「強盗」としている辞書もある。双葉氏は「そんな男が、ちゃちな追はぎにしてやられるとは思えまい」と訳す。村上氏はそこらのけちな物取りの手に負える相手じゃない」だ。「ちゃちな」とか「そこらのけちな」はどこからきたのだろう。原文の<meat>を生かして訳すなら、「食い物」「カモ」なども使えると思うが、ここは「餌食」を使ってみた。 

「玉突場にいる穀つぶしどもの知るところではない」は<it ain’t something every poolroom bum would know>。双葉氏はちゃんと「玉突場の与太者たちにまで知られるほどじゃなかった」と「玉突場」を訳しているが、村上氏は「そのへんの与太者の耳に入るような話じゃない」と<poolroom>を訳していない。原文に忠実に訳す村上氏にしては珍しい。 

「まっすぐな黒い両眉の下に頑丈な骨があった」は<Straight dark brows with strong bone under them.>だが、この一文が双葉氏の訳から、すっぽり抜け落ちている。顔の印象を伝える大事なところだ。意識的にカットしたのではなく、おそらく読み落としたのだろう。村上氏は「まっすぐな黒い眉毛の下には、がっしりとした骨格があった」だ。 

「惚れていたことを知る者がいても不思議ではない」は<there could be people who would know he was sweet on>なのだが、双葉氏の訳ではなぜか「知っている奴は、エディのほかに数人いる」と人数まで分かったように書いているのはご愛敬だ。村上訳では「惚れていたことを知っていた連中がいたとしてもおかしくない」だ。 

「裏の裏をかこうとしたのかもしれない」は<He might try the double bluff.>。双葉訳は「こっちの裏をかこうというて(傍点)かも」。村上訳は「やつはその裏をかいたのかもしれない」だ。<double bluff>は辞書的には「はったりのように見せかけ、実は本当という二重のはったり」だから、「裏の裏」ではないのだろうか? 

夫人が失踪しているのだから、その相手を殺す動機のあるのは夫だろうと考えるのが普通の刑事で、いわば「表」の読みだ。だが、グレゴリーはそうは考えない。そんなことをしたら容疑がかかるのは必至だ。賢いエディ・マーズはしないだろう、と考える。これは裏を読んでいるのではないのだろうか。そのうえで、エディ・マーズがやったのなら、裏の裏をかいたことになるのではないだろうか?

『大いなる眠り』註解 第二十章(1)

《失踪人課のグレゴリー警部は広い平机の上に私の名刺を置き、その角が机の角に正確に平行になるように置き直した。彼は首を傾げ、ぶつぶつ言いながら名刺を調べると、回転椅子の向きを変え、窓から半ブロック先の裁判所の縞になった最上階を見た。疲れた目をした頑丈な男で、殊更にゆっくりした動き方は夜警のようだった。声は感情がなく、単調で、そっけなかった。

「私立探偵ねえ?」彼は、私の方を見ようともせず、窓の外を見ながら言った。犬歯からぶら下がったブライアーのパイプの黒ずんだ火皿からひとすじの煙が上った。

「どんなご用かな?」

「私はガイ・スターンウッド将軍の依頼で動いている。彼の住所はウェスト・ハリウッド、アルタ・ブレア・クレセント三七六五だ」

 グレゴリー警部はパイプをはなさず、口の端から少し煙を吐いた。

「何の件かな?」

「厳密に言えばあなたの案件に関係しているわけじゃないが、気になることがあってね。手伝ってもらえるだろうか」

「何を手伝うんだ?」

「スターンウッド将軍は金持ちだ」私は言った。「彼は地方検事の父親の旧友でもある。もし彼が私用にフルタイムの使い走りを雇いたがっても、警察は責められない。それくらいの贅沢をする余裕が彼にはある。

「どうして君は、私が彼のために何かしていると考えたんだ?」

 私はそれには答えなかった。彼は回転椅子をゆっくり重たげに回し、床を覆う剥き出しのリノリウムに彼の大きな足をべたりと置いた。彼のオフィスは長年の決まりきった仕事のせいでかび臭かった。彼は鬱陶しそうに私を見つめた。

「時間の無駄だったようだ、警部」私は言い、十センチほど椅子を引いた。

 彼は動かなかった。彼は疲れ切った目で私をじっと見ていた。「地方検事を知ってるのか?」

「会ったことはある。以前そこで働いていた。主任捜査員のバーニー・オールズとは昵懇にしている」

 グレゴリー部長は電話に手を伸ばし、受話器に向かってくぐもった声を出した。「地方検事局のオールズにつないでくれ」

 彼は受け台に下ろした受話器を握ったまま座っていた。時が過ぎた。パイプの煙が漂っていた。彼の両眼は手と同じように重たげで動きを欠いていた。ベルが鳴り、彼は左手を私の名刺にのばした。「オールズか?…本署のアル・グレゴリーだ。オフィスにフィリップ・マーロウという男が来てる。名刺によると私立探偵だそうだ。私から情報を得たいらしい…ふん?見ためはどんなだ?…わかった。ありがとう」

 彼は受話器を戻し、口からパイプを取り出すと、太い鉛筆に嵌めた真鍮のキャップで煙草を詰めた。彼はそれを慎重に粛々とやった。まるで彼がその日やらねばならないことの中で何よりも重要だとでもいうふうに。彼は椅子に背中をもたせてしばらく私を見つめていた。

「何が知りたい?」

「捜査の進捗状況。もし、あればだが」彼は思案していた。「リーガンか?」やっとのことで彼は言った。

「そうだ」

「知り合いか?」

「会ったことはない。聞いたところでは、三十代後半の美男のアイルランド人で、以前は酒の密売をやっていた。スターンウッド将軍の上の娘と結婚したがうまくいかず、ひと月ばかり前に出て行ったそうだ」

「スターンウッドは運が良かったと思うべきだ。私立探偵を雇って探りを入れたりせずに」

「将軍は彼が大のお気に入りだった。よくある話さ。老人は足が不自由で、孤独だ。リーガンは彼につきあって話し相手をしていた」

「君に何ができるというんだ。警察にもできないのに?」

「何もない。リーガンの行方を探ることに関してなら。しかし、そこに少々いわくありげな脅迫事件がからんでる。私はこの件にリーガンが関わっていないことを確かめたい。彼がどこにいて、どこにいないのかを知ることは、その助けになるかもしれない」

「なあ、助けてやりたいが、彼の行方は知らない。彼は幕を引いた。それで終わりだ」

「あなたの組織を向こうに回して行方をくらますのは容易じゃない。ちがうかな警部」

「そうだ――が、やれないこともない――少しの間ならな」彼は机の脇のボタンを押した。中年の女が横のドアから顔を出した。「テレンス・リーガンのファイルをくれ、アバ」

 ドアが閉まった。グレゴリー警部と私は今しばらく重い沈黙の中で互いを見合っていた。ドアが再び開いて女がタブ付きの緑のファイルを机に置いた。グレゴリー警部は頷いて彼女を退出させると、厚い角縁眼鏡を静脈の浮いた鼻にかけ、ファイルの書類をゆっくりめくった。私は指で煙草を巻いた。》

 

また一人印象的な刑事が登場してきた。グレゴリー警部だ。<Captain>という呼称はクロンジャガーと同様だが、雰囲気がまったくと言っていいほどちがう。「失踪人課」と訳したのは<Missing Persons Bureau>で、双葉氏は「失踪人調査部」と訳し、役職名は「部長」としている。日本の警察らしく「課」と訳すと部長はおかしいので、「警部」としておいた。村上氏も同じ扱いだ。

 

「縞になった最上階」は<the barred top floor>。<barred>には「縞のある、棒、鉄格子」などの意味がある。調べたところ、ロサンゼルス裁判所はかなり有名な建築で、その最上階にはギリシア建築を意識した花崗岩の列柱が並んでいる。それが縞に見えるのだ。双葉氏の「鉄格子をつけた屋根」でも、村上氏の「鉄柵のついた最上階」でもない。1921年に建てられたというから、本作が発表された時にはすでにランドマークになっていたはず。ネットのない時代には難しかったかもしれないが、今では<L.A Hall of Justice>で検索をかければ画像が並んでいる。早川書房には校閲がいないのだろうか?

 

「殊更にゆっくりした動き方は夜警のようだった」は<the slow deliberate movements of a night watchman>。< deliberate>は「意識して、故意に」だが、双葉氏は「夜警みたいに鈍重な動作だった」とカットしている。夜間、暗い中で警備をする夜警は単に「鈍重」なわけではなく、見落としのないようにわざとゆっくり動くのだろう。グレゴリー警部にもそういう意識があるとマーロウは見ているのだ。村上氏は「動作には夜警のような意図的な緩慢さがあった」と訳している。

 

「煙草を詰めた」<tamped the tobacco>。<tamp>は「(タバコなどを)詰める・突き固める」の意だが、双葉氏は「ほじった」と顔している。実は、このあと警部は煙草に火をつけていない。双葉氏はそれでこう訳したのかもしれない。次にやったのは、パイプを叩いて中身を捨て、新しい煙草を今度は親指で詰めている。そこの<tamp>については、双葉氏も「詰めた」と訳している。作者の勘違いを訳者が正したのだろうか。もしそうだとしても、それはやり過ぎというものだ。話に夢中になっていて、前に詰めたことを忘れているのかもしれない。些末なように見えても大事なことがある。神は細部に宿るというではないか。

 

「スターンウッドは運が良かったと思うべきだ。私立探偵を雇って探りを入れたりせずに」は<Sternwood oughta think himself lucky instead of hiring private talent to beat around in the tall grass.>。<beat around the bush>というイディオムがあり、それには「やぶの回りをたたいて獲物を追い出す、さぐりを入れる」という意味がある。チャンドラーがブッシュを<tall grass>に替えた意味はよく分からない。

 

双葉氏は「私立探偵を雇って藪(やぶ)の中をつつき回らせるなんて、スターンウッドも酔狂だな」と、前半を「酔狂だな」の一言ですませている。村上氏は「スターンウッドはそれを幸運とみなすべきなんだ。私立探偵を雇って無益な調査をさせるよりな」だ。<beat around>には「遠回しに言う」「回りくどい言い方で言う」という意味があるが、双葉氏は<beat around the bush>を直訳しているし、村上氏は「捜し回る、ぶらぶら歩き回る」の意味を採用しているようだ。

 

その前のところで、スターンウッド将軍が警察を使って個人的にリーガンを探させていることは了解済みのはずだ。ここは、将軍がマーロウにリーガンを探させていると取るのではなく、業を煮やした将軍が直接言ってくるのではなく、私立探偵を使って捜査の進捗状況に探りを入れてきたことにグレゴリーが腹を立てていると取った方がいいのではないだろうか。

 

「それで終わりだ」は<that's that>。「それでお終い」という時に使う決まり文句だが、「煙幕で姿をくらましたまんまさ」と、双葉氏はカットしている。次の「少しの間ならな」は<for a while>。これも「少しの間」という、よく使う言葉だが、「時にはそういうこともあるさ」と訳すなど、このあたりは少々勝手が過ぎる気がする。意味が変わってしまうのは困る。村上氏は「それでおしまい」、「当座のあいだは」と正しく訳している。

 

中年の女の名前「アバ」を両氏とも「アッバ」としているが、<Abba>は日本でもあれだけ売れたグループ名と同じスペルなのだから「アバ」でいいのではないかと思うが、音楽にも詳しい村上氏がなぜそうしなかったのだろう。

『大いなる眠り』註解 第十九章(2)

《五分後、折り返して電話が鳴った。私は酒を飲み終わり、すっかり忘れていた夕食が食べられそうな気分になっていた。私は電話は放っておいて外に出た。帰ってきたときも鳴っていた。それは一定の間隔をおいて十二時半まで続いた。私は灯りを消し、窓を開け、一枚の紙で電話をくるんで寝た。スターンウッド一家にはうんざりだった。

 翌朝私はベーコン・エッグを食べながら三紙の朝刊をすべて読んだ。事件の記事は、ふつうの新聞記事のように真相に迫っていた――- 火星が土星に近いように。三紙とも、リドの桟橋で自殺した車の運転手、オーウェン・テイラーと、ローレル・キャニオンの異国風のバンガローの殺人事件とを結びつけていなかった。どれひとつとして、スターンウッド家、バーニー・オールズや私に言及していなかった。オーウェン・テイラーは「ある富裕な一家の運転手」だった。クロンジャガー部長は管轄下のハリウッド管区で起きた二件の殺人事件解決の手柄を独り占めしていた。事件についてはハリウッド大通りの書籍商ガイガーなる人物の裏稼業の儲けを巡る争いが原因とされていた。ブロディがガイガーを撃ったその仕返しにキャロル・ランドグレンがブロディを撃った。警察はキャロル・ランドグレンを拘留中。彼は自供した。彼には前科があった――おそらく高校時代のものと思われる。警察はまた重要参考人としてガイガーの秘書であるアグネス・ロゼルも拘留していた。

 なかなか良く書けていた。それを読めばクロンジャガー部長は、昨夜ガイガーが殺され、その約一時間後にブロディが殺されたのを、煙草に火をつける間に二件とも解決したという印象を受ける。テイラーの自殺は二面のトップ扱いだった。動力付き艀の甲板上に載せられたセダンの写真はナンバー・プレートが黒塗りされ、ステップの傍の甲板には布で覆われた何かが横たえられていた。オーウェン・テイラーは最近元気がなく、健康を損ねていたという。遺族がドゥビュークに住んでおり、遺体はそこに移送される。検死は行われない。》

 

「テイラーの自殺は二面のトップ扱いだった」は<The suicide of Tailor made Page One of SectionⅡ.>。両氏ともこれを「第二セクションの一面」と訳しているが、新聞の紙面に「第二セクション」というところはあるのだろうか?この部分は新聞記事を要約したような扱いのせいか、他に大きく異なるところはない。

『大いなる眠り』註解 第十九章(1)

《車を停めて、ホバート・アームズの前まで歩いてきた時には十一時近かった。厚板ガラスのドアは十時に施錠されるので、私は鍵を取り出した。方形の退屈なロビーの中にいた男が鉢植えの椰子の傍に緑色の夕刊を置き、伸びた椰子の鉢の中に煙草の吸殻を弾き飛ばした。彼は立ち上がり、私に向かって帽子を振って言った。「ボスがあんたに会いたいそうだ。友達をずいぶん待たせてくれるじゃないか、なあ」私は立ったまま彼の潰れた鼻とクラブ・ステーキのような耳を見た。

「何の用だ?」

「あんたの知ったこっちゃない。行儀よくしてさえいれば、事は済む」彼の手は開いた上着の第一ボタンの穴のあたりをさまよっていた。

「警察臭がする」私は言った。「話すには疲れ過ぎたし、食べるにも疲れ過ぎたし、考えるにも疲れ過ぎた。それでも、エディ・マーズのいうことを聞けないほど疲れ過ぎちゃいないと思うなら――試しに銃を抜いてみたらどうだ。良い方の耳を吹っ飛ばされる前に」

「ばかな、あんたは銃など持っちゃいない」彼はしらけきった目で私を見つめた。彼の黒い針金みたいな両の眉が寄り、口がへの字になった。

「昔は昔、今は今だ」私は彼に言った。「いつも丸腰ってわけじゃない」

 彼は左手をひらひらさせた。「いいだろう、あんたの勝ちだ。誰も撃ち殺せとは言われていない。彼から聞いてくれ」

「手遅れだ。とっとと失せろ」私はそう言いいながら、私の前を通ってドアに向かう彼に、ゆっくり体をひねった。彼はドアを開け、後ろも見ずに出ていった。私は自分の愚かしさに苦笑いし、エレベーターに乗って部屋に上がった。私はカーメンの小さな銃をポケットから取り出し、それを見て笑った。それから私は銃をくまなく掃除した。オイルを塗り、綿ネルの布切れに包んでしまいこんだ。酒をつくり、一杯飲んでいると電話が鳴った。私は電話の置いてあるテーブルの横に腰を下ろした。

「今夜はやけにタフじゃないか」エディ・マーズの声が言った。

「デカくて、素早くて、タフ。おまけにとげだらけだ。何のご用かな?」

「警官があそこに押しかけた――例のところだ。俺のことは口にしなかったろうな?」

「なぜ口にしちゃいけない?」

「俺は優しい相手には優しいんだ、ソルジャー。優しくない相手には優しくない」

「耳を澄ますんだ。歯がカタカタ鳴っているのが聞こえるだろう」

 彼は素っ気なく笑った。「したのか――しなかったのか?」

「黙ってた。なぜだか自分でもよく分からない。君を抜きにしても事態は十分複雑すぎるからだろう」

「ありがとう、ソルジャー。で、誰の仕業だった?」

「明日の朝刊を読めよ――多分出てるだろう」

「俺は今知りたいんだ」

「君は欲しいものは何でも手に入れるのか?」

「いや。それが答えなのか、ソルジャー」

「君が聞いたこともない誰かが撃ったんだ。そこまでにしておこう」

「もし、それが本当なら、いつかあんたの頼みごとを聞いてやってもいい」

「電話を切って、もう寝かせてくれ」

 彼はまた笑った。「ラスティ・リーガンを探しているんだろう?」

「多くの人がそう考えているようだが、そうじゃない」

「もし探してるのなら、教えてやれることがある。海辺に来たら立ち寄つてくれ。いつでもいい。楽しみにしている」

「またいつか」

「それじゃな」電話の切れる音がしたが、私は腹立たしさを抑えて受話器を握ったままでいた。それから、スターンウッド家の番号を回した。呼び出し音が四、五回鳴ったあと、執事のそつのない声が聞こえてきた。「スターンウッド将軍邸です」

「こちらはマーロウだ。覚えてるかい?百年くらい前に会った――それとも昨日だったかな?」

「はい。マーロウ様、もちろん覚えています」

「リーガン夫人はご在宅かな?」

「はい。そのはずです。しばらくお待ちいただけますか――」

 私は急に気が変わり、話を遮った。「いや。言づてをたのむよ。彼女に言ってくれ。写真は手に入れた、ひとつ残らず、万事うまく行った、と」

「はい…はい.…」その声は少し震えているようだった。「写真は手に入れた――ひとつ残らず――万事うまく行った…。イエス・サー。そう伝えます。――まことにありがとうございました」》

 

「手遅れだ。とっとと失せろ」と訳した部分は<Too late will be too soon>。双葉氏は「負けるが勝ちか」、村上氏は「そいつは楽しみだ」と、全く共通点のない訳になっている。おそらく両氏とも、ぴったりくる訳が見つからなかったのだろう。<If I never see you again, it'll be too soon.>という言い回しがあって、二度と会いたくない相手に向かって言う台詞だそうだ。多分その前半を略して使っているのだと思う。<Too late>はそのままの意味で、後半はその意を汲んで意訳してみた。

 

「デカくて、素早くて、タフ。おまけにとげだらけだ」は<Big, fast, tough and full of prickles.>。双葉氏は「デカくて手が早くてすごいんだ。そのうえ肉刺(まめ)だらけさ」と訳しているが<prickle>は動物や植物の持つ「とげ」のこと。ハリネズミを思い出せばどんな様子か分かる。「今夜の俺に下手に手を出せば痛い目に合うぜ」と言っているわけだ。それを肉刺にしてしまうと効き目がないだろう。村上氏は「でかくて機敏で、つっぱっていて、とげとげ(傍点四字)しているんだ」。

 

「電話の切れる音がしたが、私は腹立たしさを抑えて受話器を握ったままでいた」は<The phone clicked and I sat holding it with a savage patience.>。双葉氏は「電話はかちりと音をたてたが、私はがまん強く受話器を握ったままだった」。村上氏は「電話が音を立てて切れた。私はそこに座り、ささくれた気持ちをなんとか抑えながら、受話器をじっと握っていた」だ。<with patience>は「忍耐(辛抱)強く」だが、間にはさまった<a savage>をどう訳すかが問題だ。

 

例によって双葉氏はあっさりカットしているが、<savage>には、「野蛮」だけでなく、「獰猛な、残忍な、未開の、荒涼とした、飼い慣らされていない、野生の、かんかんに怒った」等々、かなり色あいの異なる訳語がある。疲れて帰った挙句、エディ・マーズの勝手な話に付き合わされたマーロウは、先に電話を切ってもかまわないのに、そうしなかった。<savage>には「無作法者」の意味もある。自分まで粗野になるのを抑えたのだろう。

『大いなる眠り』註解 第十八章(5)

「このように事件を揉み消されて警官がどう感じるか、君は知るべきだ」彼は言った。「君には逐一陳述してもらわねばならない――せめて書類の上だけでもな。二件の殺人を別件として処理することは可能だろう。その両方からスターンウッド将軍の名前を外すことも。私がどうして君の聞きたくもないことを話し続けているか分かるかね?」

「いいえ、私は何も聞くことはないと思ってました」

「君はこれでいくらもらえるんだ?」

「一日二十五ドルと経費です」

「それでは五十ドルとここまでのガソリン代くらいだろう」

「そんなものです」

 彼は首をひねり、左の小指で顎の先をこすった。

「それだけの金のために郡の法執行機関の半分を敵に回そうというのか?」

「好きでやってるわけじゃない」私は言った。「しかし、他にどうしたらいいんです?私は事件の捜査中だ。私は生活のために自分の売れるものを売っている。神が与えてくれた少しばかりの度胸と知性、それに依頼人を守るためなら喜んで身を粉にする意欲。今夜私が言ったように、将軍に相談もせずに話すことは、私の原則に反する。揉み消しについていえば、ご存じのように私もかつては警察にいた。どんな大都市にも掃いて捨てるほどある。警官は部外者が何かを隠そうとしたときにはいやに強圧的になるが、自分たちは同じことを一日置きにやっている。友人やコネのある相手に恩を売ろうとしてね。この件は終わったわけじゃない。私はまだ調査中だ。必要とあらば、また同じことをするでしょう」

「クロンジャガーが君の免許を取り上げなければな」ワイルドはにやりと笑った。「君は二つの個人的な事実を秘密にしておいた。そんなに大切なことか?」

「私はまだこの事件を調査中です」私は言い、彼の眼をまっすぐ見つめた。

 ワイルドは私に微笑んだ。彼はアイルランド人らしい率直で豪胆な微笑の持ち主だった。「ひとついいかね。私の父は老スターンウッドの親友だった。私は老人を悲嘆から救うために私の職権の許す限りのことを――もしかしたらそれ以上のことを――やってきた。しかし、長い目で見れば、役には立てなかった。あそこの娘たちはおとなしくしていられない輩とばかりくっつく。特に妹の金髪のじゃじゃ馬の方が。あのように好き放題させておくべきではない。それについては老人の責任だ。今の世界がどうなっているか、彼はまるで分かっていないのだろう。それから、腹を割って話しているときだから、もうひとつ言うが、私は君に腹を立ててはいない。カナダの十セント銀貨に一ドル賭けてもいいくらい確かなことだが、将軍は義理の息子、もと酒の密売屋がこの件に関わっているのではないかと恐れていた。本当は彼が無関係であることを君が突きとめるのを願っていたんだ。どう思うね?」

「話に聞く限り、リーガンが強請をやるとは思えない。彼は今いるところを気に入っていたが、それが弱みにもなっていた。それで退場したんだろう」

 ワイルドは鼻を鳴らした。「どこを持って弱みというのが、君にも私にも判断のつけようがない。もし彼が聞いた通りの男なら、そんなにやわではなかったはずだ。彼を探していることを将軍は君に言ったかな?」

「彼がどこにいるのか、元気にしているのかを知りたいとは言っていた。彼はリーガンのことが好きだ。そして彼が老人に別れも告げずに出て行ったことに傷つけられたようだ」

 ワイルド背を後ろにもたせて眉をひそめた。「そうか」彼は声の調子を変えていった。彼の手は机の上の資料の周りを動いていた。ガイガーの青いノートブックを片側に置き、他の証拠物件を私の方に押し出した。「君が持っていればいい」彼は言った。「私にはもう使い道がない」》

 

「このように事件を揉み消されて警官がどう感じるか、君は知るべきだ」は<You ought to understand how any copper would feel about a cover-up like this>。双葉氏はこの<cover-up>をガイガーの商売を黙認していることだと読んでいるらしい。「いまみたいに、お目こぼし(傍点三字)の内幕をさらけ出されたら、警官の奴がどんな気持ちになるか、君も考えるべきだな」と訳している。村上氏は「こんな風に事件のもみ消しが行われて、警官たるものどんな気持ちになるか、君も理解しなくてはな」と、将軍に対する強請の件のもみ消しと取っている。もちろん、後に続く話から見て、それが正しい。

 

「私がどうして君の聞きたくもないことを話し続けているか分かるかね?」は<Do you know why I’m not tearing your ear off?>。双葉氏は「なぜわしが君の耳を引きちぎらないかわかるかね?」。村上氏は「私がどうして君の片耳をむしり取らないか、その理由がわかるかね?」だ。どうして唐突に耳を引きちぎったり、むしり取ったりする話が出てくるのだろう?と疑問に思っていたが、原文を見てそのわけが分かった。

 

talk one’s ear off>というイディオムがある。「(耳をオフにしたいくらい)必要以上に話をする、喋りすぎる」という意味だ。クロンジャガーもオールズも出て行ったのに、ワイルドはマーロウ相手に長談義を続けている。その訳がわかるか?と聞いているのだ。ただ、<talk>の代わりに<tear>(引き裂く)を使って、しかもそれを否定形で用いている。意訳するなら「君が耳をとってしまいたくなるくらいくどくどと私が話している理由がわかるか?」だ。

 

耳を取り去ってしまえば話は聞こえない。つまりわざわざ話したいことがあるから、<not tearing>なのだ。もちろん、マーロウもそれが分かっているので<No, I expected to get both ears torn off.>と返している。ただでさえ、イディオムは分かりづらいのに、それをいじくられてはお手上げだ。両氏とも、それでストレートな訳にしたのだろう。いろいろ考えてみたが、うまい訳語は見つからなかったので、話のつながりを最優先するため、ここは意訳した。

 

「あそこの娘たちはおとなしくしていられない輩とばかりくっつく」は<Those girls of his are bound certain to hook up with something that can’t be hushed,>。双葉氏は「娘たちは、二人とももみ消しきれない事件にひっかかってばかりいる」。村上氏は「あそこの娘たちは、簡単にはもみ消せないごたごたに必ず巻き込まれる」だ。

 

< hook up>はふつう「引っかける、つなぐ」の意だから両氏とも「ひっかかって」「巻き込まれる」とひっかっかる対象を「事件」や「ごたごた」と解釈して訳している。しかし、スラングで<hook up with(someone)>といえば、「(~と)一緒に時を過す(遊ぶ)」から「キスをする」「イチャイチャする」「性交する」まで範囲は広いが、相手は人である。ここは<something>を人物と理解したほうが事実に即している。特に妹のカーメンは、オーウェン、ガイガー、ブロディと手あたり次第だ。

 

「腹を割って話しているときだから」は<while we’re talkimg man to man>。双葉氏は「こうやって男同士で話している際だから」と訳している。<man to man>だから、そう訳したくなるのはもっともだが、これは「正直に、腹を割って」という意味だ。村上氏は「お互いこのように腹蔵なく話しているからこそ」と訳している。

 

「カナダの十セント銀貨に一ドル賭けてもいいくらい」は<I’ll bet a dollar to a Canadian dime>。双葉氏はこの部分をカットしているが、村上氏は「一ドルにつきカナダの十セント硬貨の割合で賭けてもいいが」と訳している。村上氏の訳の意味がよく分からないが、これは<bet a dollar to a dime>(一ドルを十セントに賭ける)という慣用句をひねったもの。よく似た意味で「一ドルをドーナツに賭ける」というのもある。ドーナツが一ドルで買えることから、あえて意味のない賭けを持ち出すことで、「自信をもって宣言するが」という意味になる。

 

「彼は今いるところを気に入っていたが、それが弱みにもなっていた」は<He had a soft spot where he was>。双葉氏は「何か気に入らないことがあって」と意訳している。村上氏もそれを踏襲して「自分がいる場所にいささか感じるところがあって」と訳している。<have a soft spot>には「お気に入り(大好き)」という意味を表すと同時に「弱点、弱み」の意味がある。どうしてそう訳さないかというと、ワイルドの台詞に<The softness of that spot><If he was a certain sort of man, it would not have been so very soft>と同じ言葉をひねった使い方がされているからだ。

 

最初の<soft spot>を「大のお気に入り」と訳してしまえば、次の<The softness of that spot>の訳が難しくなる。両氏があいまいな表現にとどめておいたのはそういう理由があるからだ。しかし、<have a soft spot>には、そんなぼんやりした意味はない。チャンドラーはあえて、両義的な言葉を用いることで、二人の会話を成立させる意図があった。ここは何とかしなければ日本語に訳す意味がない。あまり芸がないが両論併記で乗り越えることにした。