HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第三十一章(2)

《「その中」彼女は窓から身を乗り出して指さした。
 小径に毛が生えたような狭い未舗装路で、山麓の牧場への入口みたいだった。五本の横木を渡した幅の広い木戸が切り株にぶつかるまで折り返され、何年も閉じられたことがないように見えた。高いユーカリの樹々に囲まれた小径には深い轍がついていた。トラックが通った跡だ。今は人気がなく、日に曝されているが、まだ埃っぽくはない。強い雨が降ったばかりだからだ。私は轍に沿って車を走らせた。街の往来の喧騒が急に不思議なほど遠くなった。まるでここが街中ではなく、遠く離れた白昼夢の郷ででもあるかのように。やがて、油染みてずんぐりした木造の油井櫓の、静止したウォーキング・ビームが枝の上に突き出た。錆の浮いた古い鋼鉄のケーブルがそのウォーキング・ビームを他の六台と繋いでいた。ビームはどれも動いていなかった。ここ一年は動いていないだろう。油井はもはや石油を汲み上げてはいない。積み重なった錆びた鋼管、片方の端が撓んだ荷積み用プラットフォーム、ぞんざいに山積みされた半ダースほどの空のドラム罐。古い汚水溜めの澱んだ水の上に浮いた油が陽を受けて玉蟲色に光っていた。
「ここを全部使って公園にでもしようというのか?」
 カーメンは顎を引いて、思い入れたっぷりに私を見た。
「そろそろ潮時かもしれない。あの汚水溜めの臭いは山羊の群にとっては毒だ。ここが君の考えていた場所なのか?」
「うん、気に入った?」
「申し分ない」荷積み用プラットフォームのそばに車を停め、我々は外に出た。耳を澄ますと、遠くの往来の音が、蜜蜂の立てる羽音のような、ぼんやりした音の織物になった。教会の墓地のように寂しいところだった。雨の後でさえ背の高いユーカリの木はまだ埃っぽく見えた。いつでも埃っぽく見える。風で折れた枝が汚水溜めの端に落ちて、平たいがさがさした葉が水の中にぶら下がっていた。
 私は汚水溜めの周りを歩き、ポンプ小屋をのぞき込んだ。がらくたがいくつかあったが、最近動かせた様子はなかった。外には大きな木製の回転輪が壁に立てかけてあった。絶好の場所だった。
 私は車に引き返した。少女が傍に立って髪の毛を手で梳き、日にかざしていた。「ちょうだい」と彼女は言って、手を突き出した。
 私は銃を取り出し、その掌の上に置いた。私は腰をかがめ、錆びた缶をつまみ上げた。
「慌てるな」私は言った。「それには五発装填されている。私がこの缶をあの大きな木の回転輪の真ん中にあいた四角い穴に置いてくる。見えるか?」私は指さした。カーメンは首をすくめた。嬉しそうだった。「ざっと見たところ三十フィートある。私が君のところに戻るまで撃ち始めるんじゃない。分かったか?」
「分かった」彼女はくすくす笑った。
 私は汚水溜めを回って戻り、大きな回転輪の真ん中に缶を置いた。素敵な的だった。もし、缶に当たらなくても、きっと外すだろうが、おそらく回転輪には当たるだろう。回転輪が小さな弾を完全に止めるだろう。しかし、カーメンはそれに当てるつもりさえなかった。
 私は汚水溜めを回って引き返した。十フィートばかり戻った時、汚水溜めの縁で、娘は小さく尖った歯を残らず剥き出し、銃を挙げ、しゅうしゅうと音をたてはじめた。
 私はぴたっと止まった。汚水溜めの澱んだ水が背中でひどく臭った。
「じっとしてろ、このろくでなし」彼女は言った。
 銃は私の胸をねらっていた。手はかなり安定しているようだ。しゅうしゅういう音が次第に大きくなり、顔は肉を削り取られて骨のように見えた。歳をとり、劣化し、獣になりかけていた。それも、あまりいい獣ではなかった。
 私は笑いかけ、そちらに向かって歩きはじめた。銃爪にかけた娘の小さな指がぴんと張って先端がみるみる白くなった。六フィートまで近づいたところで相手は撃ち出した。
 銃声はピシッと鋭い音を立て、陽射しに脆い亀裂を生じさせた。それだけだ。煙すら立たなかった。私は再び立ちどまり、にやりと笑いかけた。
 カーメンは立て続けにもう二発撃った。どの弾も的を外したとは思わない。小さな銃には五発入っていた。撃ったのは四発だ。私は突進した。
 最後の一発を顔にもらいたくなかったので、片方に身をかわした。カーメンは細心の注意を払って、私にそれをくれた。気遣いは全然なかった。火薬の熱い吐息をわずかに感じたような気がする。
 私は上体を起こした。「やれやれ、しかし君はキュートだな」私は言った。
 空になった銃を握った手がぶるぶると震えはじめた。銃が手から滑り落ちた。口も震えだした。顔全体が統制を欠いていた。それから頭が左耳の方に捻れ、唇に泡が浮かんだ。呼吸がひゅうひゅうと音を立てた。体が大きく揺れた。
 倒れかけたところを抱きとめた。すでに意識がなかった。私は両手を使って歯をこじ開け、口の中に丸めたハンカチを詰め込んだ。それだけするのに力を使い果たした。娘を抱き上げて車の中に入れた。それから銃を取りに戻り、ポケットに落とし込んだ。運転席に上がって車をバックさせ、轍のついた小径を引き返し、木戸を出て丘を上り、屋敷に戻った。
 カーメンは車の隅でぐったりして動かなかった。ドライブウェイを家に向かって半分ほど来たところで動きはじめた。突然目が大きく狂おしく開いた。座席に座り直した。
「何があったの?」彼女は喘いだ。
「何も。どうして?」
「何かあったはず」彼女はくすくす笑った。「私漏らしてるもの」
「誰でもするさ」私は言った。
 カーメンは急にくよくよと思い悩むように私を見、うめきはじめた。》

「小径に毛が生えたような狭い未舗装路で」は<It was narrow dirt road, not much more than a track>。双葉氏は「せまい埃っぽい道路だった。(丘のふもとの牧場への入口みたいな)小径だった」と訳している。<dirt>には、「塵、ほこり」の意味はあるが、<dirt road>は「未舗装の道路」の意味で、「埃っぽい」なら、この後にも出てくる<dusty>を使う。村上氏は「狭い未舗装の道だった。踏み分け道と言ってもいいくらいだ」と訳している。もう一つ、双葉氏は<not much more than>(~とあまり変わらない、~に過ぎない)を訳していない。

「五本の横木を渡した幅の広い木戸」は<A wide five-barred gate>。<five-barred gate>とは、横長の木枠に細長い板を隙間を開けて打ちつけた簡便な木戸のこと。牧場だけでなく、いろいろな場所の仕切りに使われている。普通は、斜交いにもう一枚板を打ちつけている。向こうでは<five-barred gate>で通用するが、それを表す日本語が見つからない。双葉氏はこれを「広い鉄柵のついた門」と訳しているが、そんなたいそうな代物ではない。村上氏は「横木を五本並べた幅広いゲート」と訳している。西部劇小説なんかにいい訳語があるかもしれない。

「古い汚水溜めの澱んだ水の上に浮いた油が陽を受けて玉蟲色に光っていた」は<There was the stagnant, oil-scummed water of an old sump iridescent in the sunlight.>。双葉氏は「古い溜桶には玉虫色に油を浮かしたよどんだ水が、日に光っていた」と訳している。村上氏は「石油の浮いた淀んだ水が、行き場のないまま古い沼を作り、太陽に照らされて虹色に光っていた」と訳している。<sump>には「沼」の意味もあるが、通常は「地面を掘って汚水をためるようにしたところ、汚水だめ」のことだ。「沼」と思い込んだために無理な作文になってしまっている。「古い沼を作り」のおかしさに気づかなかったのだろうか。

「あの汚水溜めの臭いは山羊の群にとっては毒だ」は<The smell of that sump would poison a herd of goats.>。双葉氏は「あの溜桶の臭気(におい)をかいだら羊どもは中毒するよ」と「山羊」を「羊」に変えているが、わざとだろうか。村上氏は「この沼のにおいじゃ、山羊の群れが全滅してしまいそうだ」と、相変わらず「沼」にこだわっている。脳内変換で<sump>が<swamp>に置き換えられているのかもしれない。

「平たいがさがさした葉が水の中にぶら下がっていた」は<the flat leathery leaves dangled in the water.>。双葉氏は「ひらたい皮みたいな葉がいくつか水に浮いていた」と訳している。村上氏も「革のような扁平な葉が水に垂れていた」と訳している。<leathery>は「革のような」という意味だが、「がさがさの、ひどく硬い」という意味もある。両氏がなぜ皮革にこだわるのかよく分からないが、折れた枝についた葉なら、水気を失い干からびているだろう。「がさがさ」の意味を採りたいところだ。

「しかし、カーメンはそれに当てるつもりさえなかったは」<However, she wasn't going to hit even that.>。双葉氏は「が、彼女はその車輪さえ射たなかった」と訳している。<be going to>を訳さない理由が分からない。村上氏は「とはいっても、実際に弾丸が撃ち込まれるわけではないのだが」と、踏み込んだ訳にしている。意図的にこう訳したのだとすれば、訳者としては出過ぎた真似だ。これは翻訳ではない。

「私漏らしてるもの」は<I wet myself.>。双葉氏は「私、びしょびしょだもの」と訳しているが、<wet oneself>は「もらす、失禁する」の意味だ。村上氏も「だって、私お漏らししてるんだもの」と訳している。

『大いなる眠り』註解 第三十一章(1)

《執事が私の帽子を持って出てきた。私はそれを被りながら言った。
「将軍のことをどう思うね?」
「見かけより弱っておられません」
「もし見かけ通りなら、もう埋められる覚悟ができていそうだ。リーガンという男の何があんなに将軍の気を引いたのだろう?」
 執事はしらけた、そのくせ奇妙に表情を欠いた顔で私を見た。「若さでしょうか」彼は言った。「それと、兵士の目です」
「君のように」私は言った。
「こう申しては何ですが、あなた様の目も似ていなくもない」
「ありがとう。お嬢さんたちは今朝はどうしてる?」
執事は礼儀正しく肩をすくめた。
「だと思ってた」私は言った。執事がドアを開けてくれた。
 私は外に出て階段の上に立ち、目の前の風景を見下ろした。段丘になった芝生と手入れの行き届いた樹木と花壇からなる庭園の基部には背の高い金属柵が巡らされていた。斜面の途中に両手で頭を抱えたカーメンがひとり、しょんぼりと石のベンチに腰掛けていた。
 私は段丘と段丘をつなぐ赤い煉瓦の階段を下りた。私は足音に気づかれる前に近づいた。カーメンは飛び上がって振り返った。猫のように。初めて会ったときと同じ淡青色のスラックスをはいていた。金髪も同じように緩く黄褐色に波打っていた。顔は白かった。私を見たとたん頬に赤みが差した。瞳は灰色だった。
「退屈かい?」
 カーメンはゆっくり、どちらかといえば恥ずかしそうに微笑んだ。そして素早く頷いた。それから囁いた。「私のこと、怒っていない?」
「君の方が怒っていると思っていた」
 カーメンは親指を上げ、くすくす笑いながら言った。「怒っていない」。そのくすくす笑いが私の気を引くことは最早なかった。私はあたりを見回した。三十フィートばかり向こうの木に吊るされた的に、ダーツが何本か刺さっていた。さっきまで座っていた石のベンチにももう三、四本あった。
「金持ちにしては、君も姉さんもたいして面白くもなさそうだな」私は言った。
 カーメンは長い睫の下から私に視線をくれた。本来なら私は仰向けに寝転がっていなければならないはずの視線だった。私は言った。「ダーツを投げるのが好きなのかい?」
「うん」
「それで思い出した」私は屋敷の方を振り返った。三フィートばかり動いて木の陰に身を隠し、ポケットから真珠貝の握りのついた小さな銃を取り出した。「君に返そうと飛び道具を持ってきてたんだ。掃除して弾も入れておいた。忠告しておくが──もう少し腕前をあげない限り、人を撃ってはいけない。分かったかい?」
 顔が青ざめ、扁平な親指が落ちた。私を見ていた視線が私の握っている銃に落ちた。うっとりするような眼だった。「分かった」彼女は言って、頷いた。それから突然言った。「撃ち方を教えて」
「何だって?」
「どうやって撃つのか教えて。やってみたいの」
「ここでかい? それは違法行為だ」
 カーメンは近寄ってきて私の手から銃をとり、床尾を愛おしそうに抱きしめた。それからまるでいけないことでもするみたいに急いでスラックスの中に押し込むと周りを見回した。
「いいところを知ってる」彼女は内緒話をするような声で囁いた。「古い油井が並んでるあたり」そう言うと、丘の麓を指さした。
「教えてくれる?」
 私は灰青色の瞳をのぞき込んだ。二つの瓶の口を見ているようだった。「いいだろう。銃を返してくれ。その場所が相応しいところだと私が決めるまで」
 カーメンは微笑み、顔をしかめ、こっそりと悪戯でもしているような様子で銃を返した。まるで自分の部屋の鍵を手渡すみたいに。我々は階段を上り、私の車のところまで歩いた。庭園は取り残されたように見えた。陽光は給仕長の笑顔のように空虚だった。二人は車に乗り込み、掘り下げられた私道を下り、ゲートを抜けて外に出た。
「ヴィヴィアンはどこにいる?」私は訊いた。
「まだ起きてこない」彼女はくすくす笑った。
 車は丘を下り、雨に洗われ静かで華やかな街路を通り抜けた。ラ・ブレアまで東に進み、そこで南に折れた。十分ほどで話に出た場所に着いた。》

「あなた様の目も似ていなくもない」は<not unlike yours.>。双葉氏は「あなた様のとはだいぶ違いますようで」とやってしまっている。<unlike>を<not>で否定しているわけだから、いわゆる二重否定だ。単なる肯定ではなく、そこに何らかの含意があると見なくてはならない。村上氏は「あなた様の目にもそういうところがなくはありません」と訳している。執事の言葉として丁寧語を使いたいのだろうが、「なくはありません」という日本語はおかしくはないだろうか。

「私は外に出て階段の上に立ち、目の前の風景を見下ろした」は<I stood outside on the step and looked down the vistas>。本当は、この後にどんな風景かを説明する長い文が続くのだが、一度ここで切った。双葉氏は「私は階段の上に立って、草のしげったテラスから庭の奥にある鉄柵のほうにつづいている刈りこんだ木々と、夜の遠近感にあふれた風景を見わたした」と訳している。

「夜の遠近感にあふれた」は原文のどこにも該当する部分が見当たらない。第一、マーロウが屋敷を訪れたのは朝である。どこからこんな訳が出てくるのか、想像することすらできない。村上訳は「私は外に出て階段の上に立ち、段丘になった芝生と、きれいに刈り込まれた樹々と、花壇が連なる風景を見下ろした」と、やはり途中で文を切っている。ただし、この切り方には問題が残る。

村上訳の続きを見てみよう。「庭園のいちばん下には、金属製の高い手すりが巡らされている。その斜面の中腹あたりに、カーメンの姿が見えた」がその部分。途中で文を切ったために、視線は庭園のいちばん下にあるはずなのに、「その斜面の中腹あたりに」と急に視線が動いている。ここは眺めた風景全体を描写しておいて、斜面全体の中程にいるカーメンを見つけたように訳す必要があるだろう。

「くすくす笑いながら」は<giggled>。双葉氏は「げらげら笑った」と訳しているが、<giggle>は忍び笑いのことで、「げらげら」とはちがう。「そのくすくす笑いが私の気を引くことは最早なかった」は<When she giggled I didn’t like her any more.>。双葉氏は「笑ったとたんに、私は彼女が好きでなくなった」と、ずいぶんストレートな訳だ。村上氏は「彼女がくすくす笑い出すと、私はもうあまり好意が持てなくなる」と、訳している。

「本来なら私は仰向けに寝転がっていなければならないはずの視線だった」は<This was the look that supposed to make me roll over on my back.>。双葉氏は「私をノックアウトするねらいを持った一瞥(いちべつ)だ」と訳している。村上氏は「それはどうやら、私を狂おしく身悶えさせることを目的とした表情であるらしかった」だ。<roll over on my back>自体は「仰向けに寝転がる」の意味だが、犬が甘えるときに腹を見せる格好を思い出してもらえればその意は通ずるだろう。

「うっとりするような眼だった。「分かった」彼女は言って、頷いた」は<There was a fascination in her eyes. “ Yes,” she said, and dodded.>。双葉氏はここをカットしている。拳銃を見つめるカーメンの目の奥に潜む狂気のようなものを表現している部分なのに、ここを抜くのは惜しい。村上氏は、その部分を「その目には魅せられたような表情が浮かんだ」と訳している。

『大いなる眠り』註解 第三十章(4)

《「ところで、私に何の落ち度があるというんです? 一切を任されているノリスはガイガーが殺されてこの件は終わった、と考えたらしい。私はそう思わない。ガイガーの接触の仕方には首をひねったし、今でも考えている。私はシャーロック・ホームズでもファイロ・ヴァンスでもない。警察がすっかり調べあげたところへ行って壊れたペン先か何かを拾い上げ、そこから事件を解決できるなんて思わないでほしい。もし、そんなやり方で生計を立てている者が探偵業界にいるとお考えなら、あなたは警官というものを全く分かっていない。もし警官が見落とすとしたら、そんなものではない。警官が本気で仕事をしているとき、そうそう見落としたりはしないものだ。もし警官が見落とすことがあるとしたら、もっと散漫で曖昧な何かだろう。たとえばガイガーのようなタイプの男だ。あなたに負債の証拠を送りつけ紳士らしく支払うことを要求している──ガイガーは後ろ暗い稼業に手を出して脛に傷を持つ身だ、ギャングの保護をうけ、少なくとも警察の一部から控え目な保護も受けている。そんな手合いが何故そんな真似をしたのか?ガイガーはあなたにつけ込む隙がないか知りたかった。隙があればあなたは金を払わなければならない。そんなものがなければ、あなたは無視し、向こうの次の動きを待てばいい。しかし、あなたには一つだけ隙があった。リーガンだ。あなたは見損なっていたのでは、と心配だった。リーガンがあなたの前に姿を現し、家に留まって親切にふるまっていたのは、あなたの銀行口座に手が出せるようになる機会を狙っていたのではないか、と」
 将軍は何か言いかけたが私は遮った。
「だとしても、あなたにとって金のことなどどうでもいい。娘たちのことさえどうでもよくなっていた。多分、とっくに見放している。ただ、相手にカモにされることをあなたの自尊心が許せなかっただけだ──それに、あなたはリーガンのことが心底気に入っていた」
 沈黙がおりた。それから将軍は静かに言った。
「口が過ぎるぞ、マーロウ。君はまだパズルを解こうとしていると理解していいのかな?」
「いや、やめました。警告を受けたので。警察は私のやり方が荒っぽすぎると考えている。お金は返すべきだと考えた理由はそれです──私の基準では仕事はまだ終わっちゃいない」
 将軍は微笑んだ。「やめることはない」彼は言った。「あらためて千ドル払おう。ラスティを探してくれ。戻ってくる必要はない。どこにいるのかを知りたいとも思わない。男には自分自身の人生を生きる権利がある。娘を捨てたことも、抜き打ちだった事も責めていない。おそらくものの弾みだったのだろう。知りたいのは、あれがどこにいようが元気でいることだ。それを直接本人から聞きたい。金の要るようなことが起きたのなら出してもやりたい。これでいいかな?」
 私は言った。「はい、将軍」
 しばらくの間、将軍は気を抜き、ベッドの上で緊張を解いていた。目は暗い目蓋に被われ、固く閉じた口には血の気がなかった。疲れ果てていた。持てる力をほぼ使い果たしていた。再び目を開けると、にやりと笑おうとした。
「私はたぶん感傷的な意地悪爺なんだろう」彼は言った。「そして兵はひとりもいない。あれのことは気に入ってた。清廉な男に見えたんだ。私は自分の人を見る目に自惚れ過ぎていたにちがいない。私のためにあれを見つけてくれ、マーロウ。見つけるだけでいいんだ」
「やってみます」私は言った。「今は休まれた方がいい。しゃべり過ぎてあなたを疲れさせたようだ」
 私はさっと立ち上がり、広いフロアを横切って外に出た。将軍は私が扉を開ける前に再び目を閉じた。両手はシーツの上に力なく横たえていた。たいていの死人よりもずっと死人のように見えた。私は静かに扉を閉め、二階廊下を歩いて、階段を下りた。》 

この章に関しては、双葉氏の訳を翻訳だとは思えない。マーロの長広舌に飽きたのか、「もし、そんなやり方で生計を」から「口が過ぎるぞ、マーロウ」までのこのテクストで十九行もの分量を全部すっ飛ばしている。次の「警告を受けたので。警察は私のやり方が荒っぽすぎると考えている」もカットしている。それ以外にも少しずつ訳さずにすませているところもあるが、これだけカットされていると、小さいことに思えてくる。

「私はたぶん感傷的な意地悪爺なんだろう」は<I guess I’m a sentimental old goat.>。双葉氏は「わしは感傷的な老いぼれ山羊じゃ」と、そのまま訳している。村上氏は「私はセンチメンタルな老いぼれなのだろう」と訳している。<old goat>には「意地悪老人、口うるさい年輩者」と「助平じじい、狒々(ひひ)おやじ」の二種類の意味がある。洋の東西を問わず、ヤギには好色漢のイメージがつきまとうが、まさかこちらの意味ではない。口うるさい老人の意味を採った。

「そして兵はひとりもいない」は<And no soldier at all.>。双葉氏はここもカット。村上氏は「もう兵士とは言えん」と訳している。老いたりとは言え、スターンウッドは将軍だ。将校には下士官がつきもの。リーガンを気に入っていたのは、同じ元軍人として彼を相手にすれば心を開いて話すことができたからだ。有能には違いないが、執事であるノリスにその役は務まらない。主人が使用人に胸襟を開くことはないからだ。リーガンを失ったスターンウッドは将軍の矜持も捨て、自分のことを<a sentimental old goat>と自嘲しているのだ。

それにしても、終わりも近づいてきたというのに、ここに至って、これほど訳し残すというのは、双葉氏に何があったのだろう。締め切り間に合わなかったのだろうか。ここまで、少々のカットはあってもこれほど長文を割愛することはなかった。正直わけが分からない。

『大いなる眠り』註解 第三十章(3)

《髭を剃り、服を着替え、ドアに向かった。それから引き返してカーメンの真珠貝の銃把ががついた小さなリヴォルヴァーをつかんでポケットに滑り込ませた。陽光は踊っているみたいに明るかった。二十分でスターンウッド邸に着き、通用門のアーチの下に車をとめた。十一時十五分だった。観賞用の樹木の枝では雨上がりに浮かれた小鳥が鳴き騒ぎ、段になった芝生はアイルランド国旗に負けないほどの緑で、敷地内のすべてがまるで十分前に作られたばかりのようだった。私は呼び鈴を鳴らした。はじめて鳴らしたのは五日前だが、一年も前のように思えた。
 メイドがドアを開け、脇廊下を抜けて玄関ホールに案内し、ミスタ・ノリスがすぐ参ります、と言って消えた。玄関ホールは前と変わりなかった。マントルピース上の肖像画はあの熱く黒い瞳をし、窓のステンドグラスの騎士は囚われの裸の姫君を縛る縄を木から解くのに手を焼いていた。
 しばらくしてノリスがやってきた。やはり何の変りもなかった。青い瞳はよそよそしく、灰色がかったピンク色の肌は健康で休養がとれていた。動くときは本当の年より二十歳は若く見える。歳月の重みを感じているのはこっちの方だ。
 我々はタイル敷きの階段を上がってヴィヴィアンの部屋の反対側に折れた。ひと足ごとに家はより広くより静かになるようだった。教会から抜け出てきたかのように頑丈で古びた大扉の前に来た。ノリスがそっと開けて中を見、それからその脇に立った。私はその前を通って中に入った。四分の一マイルはあろうかという絨毯の向こうに、ヘンリー八世の崩御を思わせる巨大な天蓋付き寝台があった。
 スターンウッド将軍は枕を支えに上半身を起こしていた。血の気のない両手は握られてシーツの上に置かれ、灰色が際立って見えた。黒い両眼はまだ闘争心に溢れていたが、顔の残りの部分はまだ死体の顔のようだった。
「かけなさい、ミスタ・マーロウ」彼の声は弱弱しく、少し堅苦しく聞こえた。
 私は椅子を近くに引き寄せ、腰を下ろした。窓は全部ぴっしり閉められていた。その時間にしては薄暗かった。日除けが空から来る眩しい光を遮っているのかもしれない。空気にはかすかに甘い老人の匂いがした。
 将軍はしばらくの間黙って私を見つめていた。それから片手を動かした。まるでまだ動かすことができることを自分に証明してみせるかのように。そしてもう一方の手の上に折り重ねた。彼は生気のない声で言った。
「義理の息子を探せと頼んだ覚えはない、ミスタ・マーロウ」
「でも、あなたはそうしてほしかったはず」
「頼んだ覚えはない。思い込みが過ぎる。私はして欲しいことを頼むことにしている」
 私は何も言わなかった。
「支払いはすんでいる」彼は冷やかに続けた。「いずれにせよ、金のことはどうでもいい。ただ、おそらく意図してではあるまいが君は信頼を裏切った、と私が感じているだけだ」
 それだけ言うと将軍は目を閉じた。私は言った。「それが言いたくて私を呼んだのですか?」
 将軍は再び目を開けた。ひどくゆっくりと、まるで瞼が鉛でできてでもいるかのように。「今の言葉に腹を立てているようだな」
 私は首を振った。「あなたは私より有利な立場にある、将軍。その有利な立場をあなたから奪おうなどとは兎の毛ほども願ってもいない。あなたが耐えなければならないことを考えれば小さなことだ。言いたいことは何でも言えばいい。私は腹を立てようなどとは思っていない。ただ、金は返した方がよさそうだ。あなたには意味のないことだが、私にとってはなにがしかの意味がある」
「君にはどんな意味があるというんだ?」
「納得がいかない仕事に対する支払いを拒否するという意味。それだけです」
「君は納得がいかない仕事をよくするのか?」
「ほんの少し。誰もがするように」
「どうしてグレゴリー警部に会いに行ったりしたんだ?」
 私は後ろに凭れて片腕を椅子の背にかけた。私は相手の顔をよく見た。その顔は何も語ってはいなかった。質問に対する答えが見つからなかった──納得のいく答えが。
 私は言った。「あのガイガーの借用書の一件は私をテストするのが主な狙いだったと確信しています。あなたはリーガンが強請りの企てに巻き込まれているのではないかと少し心配していた。私はリーガンのことを何も知らなかった。グレゴリー警部と話をしてみて分かったのです。リーガンがおよそそんなことをしそうな男ではないと」
「ほとんど質問に対する答えになっていない」
 私はうなずいた。「その通り、ほとんど質問に対する答えになっていない。どうやら私は直感で動いたことを認めたくないようだ。私がここに来た朝、あなたを残して蘭の部屋を出た後、リーガン夫人に呼ばれた。夫人は私が夫を探すために雇われたものと決めてかかっていて、それが気に入らないようだった。そしてうっかり口を滑らせた。<彼ら>が夫の車を車庫で見つけたらしい、と。<彼ら>というのは警察に決まっている。したがって、警察はこの件について何かつかんでいるに違いない。もしそうなら、その手の事件を担当するのは失踪人課だ。あなたが報告したのかどうかは知らなかった。勿論他の誰かかも知れない。それに、彼らが誰の報告を通じて車庫に乗り捨ててあった車を見つけたのかも。しかし、私は警官をよく知っている。彼らがそれだけのことを見つけたなら、今少しつかんでいると──特にお抱え運転手に前科があるような場合には。警察が何をつかんでいるのかはそれ以上知らなかった。失踪人課のことを考えたのはそれがきっかけだ。私に確信させたのはワイルド検事の態度だ。ガイガーの一件やその他もろもろのことで彼の家で話し合った夜、我々はしばらくの間二人だけになった。そのとき検事は、あなたがリーガンを探していることを話したかと訊かれた。私はあなたが、リーガンがどこにいるのか元気でやっているのかを知りたがっていると言った。ワイルドは唇を引いておかしな顔をした。それは端的に法的機関を通じて『リーガンを探している』と告げているように私には思えた。それでもグレゴリー警部にあたってみることにした。相手がまだ知らないことは何も話さないというやり方でね」
「そして君はグレゴリー警部に私がラスティ探しに君を雇ったと思わせておいたのか?」
「そうしました──警部が事件を担当していると確信した時に」
 将軍はまた目を開けた。目蓋がぴくぴく動いた。眼を閉じたまま彼は話した。「君はそれを倫理的だと考えるわけか?」
「はい」私は言った。「そう思います」
 突き刺すような黒い視線がびっくりするほど突然に死者の顔から外に出てきた。「たぶん私には理解できないだろう」彼は言った。
「あなたには分らないでしょう。失踪人課の課長は口の軽いほうではなかった。口が軽くてはあの部署は務まらない。こいつが実に抜け目のない口の堅い男で、自分を仕事に疲れた中年の木偶の坊だと見せようとしていて、もう少しで騙されるところだった。私がやってるのは山崩しの遊びじゃない。いつでもはったりが大きな要素になる。私が何を言おうが、警官は疑ぐってかかろうとする。ましてや老練な警官は私のいうことなど気にもしない。私のような業種で人を雇うのは、窓ふきを雇うのとは訳がちがう。八枚の窓を見せて「これを全部やったら終わりだ」と言うような訳にはいかない。あなたという人は、私があなたのために仕事をし終えるまで、何に耐え、何をしなければならなかったか、何も分かっていない。私は私のやり方でやる。あなたを守るためになら少々ルールも破るだろうが、それはあなたを思ってのことだ。依頼者の利益を一番に考える。相手が不正な場合を除いてだが、その場合でも私にできるのは仕事を断って口を閉ざしているだけだ。何よりも、あなたは私にグレゴリー警部に会いに行くな、とは言わなかった」
「事を難しくするよりは言わない方がましだ」彼はかすかな笑みを浮かべながら言った。》

真珠貝の銃把」は<pearl-handled>。双葉氏は文字通り「真珠柄」と訳している。村上氏は「真珠の握りのついた」と訳している。弾倉がそこに入るオートマティックとちがって、リヴォルヴァーの銃把はデザインに自由がきく。滑り止めに刻みを入れた象牙やら木やら様々な素材が使用される。ここで使われているのは真珠ではなく、貝の方だろう。

この部分では、双葉氏の訳さなかったところが異様に多い。新訳が出なかったら、マーロウがどう考えてこういう行動をとったか日本の読者は知らなかっただろう。以下に双葉氏がカットした部分を抜き出してみる。

「灰色が際立って見えた」「日除けが空から来る眩しい光を遮っているのかもしれない」「老人の」「それから片手を動かした。まるでまだ動かすことができることを自分に証明してみせるかのように。そしてもう一方の手の上に折り重ねた」「将軍は再び目を開けた。ひどくゆっくりと、まるで瞼が鉛でできてでもいるかのように」

「そしてうっかり口を滑らせた。<彼ら>が夫の車を車庫で見つけたらしい、と。<彼ら>というのは警察に決まっている。したがって、警察はこの件について何かつかんでいるに違いない。もしそうなら、その手の事件を担当するのは失踪人課だ。あなたが報告したのかどうかは知らなかった。勿論他の誰かかも知れない。それに、彼らが誰の報告を通じて車庫に乗り捨ててあった車を見つけたのかも。しかし、私は警官をよく知っている。彼らがそれだけのことを見つけたなら、今少しつかんでいると──特にお抱え運転手に前科があるような場合には。警察が何をつかんでいるのかはそれ以上知らなかった。失踪人課のことを考えたのはそれがきっかけだ。私に確信させたのはワイルド検事の態度だ。ガイガーの一件やその他もろもろのことで彼の家で話し合った夜、我々はしばらくの間二人だけになった。」のところは「お話を総合して」の一言でまとめている。

「それは端的に法的機関を通じて『リーガンを探している』と告げているように私には思えた。それでもグレゴリー警部にあたってみることにした。相手がまだ知らないことは何も話さないというやり方でね」「将軍はまた目を開けた。目蓋がぴくぴく動いた。眼を閉じたまま彼は話した」「突き刺すような黒い視線がびっくりするほど突然に死者の顔から外に出てきた」

「こいつが実に抜け目のない口の堅い男で、自分を仕事に疲れた中年の木偶の坊だと見せようとしていて、もう少しで騙されるところだった。私がやってるのは山崩しの遊びじゃない。いつでもはったりが大きな要素になる。私が何を言おうが、警官は疑ぐってかかろうとする。ましてや老練な警官は私のいうことなど気にもしない。私のような業種で人を雇うのは、窓ふきを雇うのとは訳がちがう。八枚の窓を見せて「これを全部やったら終わりだ」と言うような訳にはいかない。あなたという人は、私があなたのために仕事をし終えるまで、何に耐え、何をしなければならなかったか、何も分かっていない。私は私のやり方でやる。あなたを守るためになら少々ルールも破るだろうが、それはあなたを思ってのことだ。依頼者の利益を一番に考える。相手が不正な場合を除いてだが、その場合でも私にできるのは仕事を断って口を閉ざしているだけだ」

上の部分は「こいつにしゃべらせるんですから、こちらにもいろいろなて(傍点一字)がいります。あなたは窓拭き人夫を雇ったのじゃない。多少の機転もきかせるわけです」と、ずいぶん好き勝手に訳している。こうなると、もう訳とはいえない。「超訳」とでもいうしかない。

双葉氏の訳のいい加減さに驚いて、村上氏の訳について触れる場がなかったので、一例だけ引いておく。「山崩しの遊び」は<spillikins>。村上氏は「単純な積み木抜き取りゲーム」と訳している。<spillikins>は別名<jack straw>。昔は藁でやったのだろうが、今では専用の棒があって、それを適当に積んで、他の棒を動かさずに抜きとれば成功、という遊び。「将棋崩し」に似た遊びだ。「積み木抜き取りゲーム」だと「ジェンガ」と勘違いする人が出るのではないだろうか。

 

『大いなる眠り』註解 第三十章(2)

《グレゴリー警部はため息をついてねずみ色の髪をくしゃくしゃにした。
「もう一つ言っておきたいことがある」彼はほぼ穏やかと言っていい声で言った。
「君はいい男のようだ。だが、やり方が荒っぽ過ぎる。もし本当にスターンウッド家を助けたいと思っているのなら──放っておくことだ」
「その通りだろうな、警部」
「どんな気分だ?」
「最高だ」私は言った。「ほとんど一晩中、怒鳴られるためにあちこち引き回されていた。その前は濡れ鼠になって叩きのめされたんだ。体調は完璧だ」
「一体全体、何を期待していたんだ、君は?」
「他には何も」私は立ったまま、にやりと笑い、ドアのほうに歩きはじめた。あと一歩というところで、突然咳払いが聞こえ、厳しい声が飛んだ。「聞く耳は持たない、というわけか。君はまだリーガンを見つけられると思っているのか?」
私は振り返ってその目をまっすぐ見据えた。
「いや、リーガンを見つけられるとは思っていない。探すつもりもない。それでいいんだろう?」
 警部はゆっくり頷いた。それから肩をすくめた。「何でそんなことを言ったのかまったくもって分からない。幸運を祈る、マーロウ。いつでも寄ってくれ」
「ありがとう、警部」
 私は市庁舎を出て駐車場から車を出し、ホバート・アームズの自宅に帰った。コートを脱いでベッドに横になり、天井を見つめ、通りを行き交う車の音を聞きながら、太陽がゆっくり天井の隅を横切るのを見つめた。眠ろうとしたが眠れなかった。起きて、そぐわない時間だが一杯飲み、また横になった。それでもまだ眠れなかった。頭が時計のようにチクタク鳴った。ベッドに座り直し、パイプに煙草を詰めながら大声を出した。
「あの爺、何かつかんでるな」
 パイプは灰汁のように苦い味がした。脇に置いてまた横になった。心は偽りの記憶の波の上を漂った。同じことを何度もやり、同じ場所へ行き、同じ人々に会い、同じことを何度も言った。その度に現実のように感じた。何か現実の事件に、初めてぶつかるように。私は激しい雨をついてハイウェイに車を駆り立てていた。車の隅にはシルヴァー・ウィグが乗っていたが、一言も口を利かないので、ロスアンジェルスに着くまでに我々はもとの赤の他人に戻っていた。終夜営業のドラッグ・ストアで車を下り、バーニー・オールズに電話をかけた。リアリトで一人の男を殺した。これからエディ・マーズ夫人を連れてワイルドの家に向かう。夫人は私が殺すところを見ていた、と言った。私は雨に洗われて静まり返った通りをラファイエット・パークまで車を急がせ、ワイルドの大きな木造家屋の屋根のついた車寄せの下にとめた。玄関灯はすでに点っていた。私が来ることをオールズが話しておいたのだ。私はワイルドの書斎にいた。地方検事は花模様のドレッシング・ガウンを着て机に向かい、硬く厳しい顔つきで斑入りの葉巻を指の間で動かし、唇には苦い笑みを浮かべていた。オールズもいた。保安官事務所から来た痩せて白髪交じりの学者風の男は、警官というよりも経済学の教授のように見えたし、そういう話し方をした。私はあったことを話し、男たちは黙って聴いていた。シルバー・ウィグは陰に座って、誰を見るでもなく手を膝の上に置いていた。たくさんの電話が掛けられた。殺人課から来た二人の男は、まるで巡業中のサーカス一座から逃げてきた見慣れない動物か何かのように私を見た。私はもう一度車に乗り、そのうちの一人を隣に乗せてフルワイダー・ビルディングに向かった。我々はその部屋にいた。ハリー・ジョーンズはまだ机の向こうの椅子に腰かけていた。死に顔は歪んだまま硬直し、部屋には甘く饐えた匂いがしていた。検死官はひどく若い頑丈な男で首には赤い剛毛が生えていた。指紋係が徒に騒ぎ立てるので、採光窓の掛け金を忘れるな、と言ってやった(カニーノの親指の指紋がそこに残っていた。私の話を裏付ける、茶色の男が残した唯一の指紋だった)。
 またワイルドの家に戻り、秘書が別室でタイプした陳述書に署名した。それからドアを開けてエディ・マーズが入ってきた。シルバー・ウィグを見つけたときその顔に急に微笑みが閃いた。そして彼は言った。「やあ、シュガー」女は見向きもせず、返事もしなかった。エディ・マーズは生き生きして元気だった。黒いビジネス・スーツを着て、ツィードのコートから縁飾りのついた白いスカーフを覗かせていた。それからみんな出て行った。ワイルドと私だけを部屋に残して。ワイルドが怒りのこもった声で冷やかに言った。「これが最後だ、マーロウ。次にこんな人を出し抜くような真似をしてみろ、ライオンの檻に放り込んでやる。誰かが心を痛めようと知ったことか」
 その繰り返しだった。ベッドに横たわってじっと見続けている裡に、光の斑点が壁の隅を滑り落ちていった。そのとき電話が鳴った。ノリスだった。スターンウッド家の執事のいつも通り非の打ちどころのない声だ。
「マーロウ様? オフィスにお電話したのですが、不首尾に終わりまして、失礼をも省みずご自宅にお電話を差し上げた次第です」
「一晩中外出していたのでね」私は言った。「寝ていないんだ」
「さようでございましたか。もし、お差支えなかったら、将軍が今朝お目にかかりたいとのことです。マーロウ様」
「半時間かそれくらいで行ける」私は言った。「将軍の具合はどうだい?」
「横になっておられます。でも、具合は悪くありません」
「私に会うまではそうだろうね」そう言って電話を切った。》

「ねずみ色の髪をくしゃくしゃにした」は<rumpled his mousy hair.>。双葉氏は「くしゃくしゃな頭をかいた」と訳している。村上氏は「くすんだ色合いの髪をくしゃくしゃにした」だ。<mousy>は「(色、匂いなどが)ねずみのような」という意味。そういえば、最近はあまり「ねずみ色」という言葉を目にしなくなった。村上氏はそれで「くすんだ色合いの」としたのだろう。だが、わざわざ<mousy>と書いているのだから、使えばいい。「ねずみ色」は「灰色」と同様に扱われているが厳密には「やや青みがかった灰色」のこと。

「彼はほぼ穏やかと言っていい声で言った」は<he said almost gently.>。双葉氏はここをカットしている。村上氏は「と彼は優しいと言えなくもない声で言った」だ。普通なら<he said>で済ますところを、わざわざ挿入しているのだ。何とか工夫して警部の心理を表そうとするのも訳する者の務め。<almost>は「九部通り、ほとんど」を表す。村上氏の「と言えなくもない」では、優しさの量が足りていないようにも思えるが、どうだろう。

「ほとんど一晩中、怒鳴られるためにあちこち引き回されていた」は<I was standing on various carpet most of the night, being balled out.>。双葉氏は「一晩じゅういろいろなところで、寝たり、起きたり」と意訳している。おそらく<ball out>のいい訳が思いつかなかったので<standing>を使って「寝たり、起きたり」と作文したのだろう。

村上氏は「昨夜はほとんど一晩中、あっちこっち引き回された。へとへとになるまで」と訳している。<ball out>を「ものすごい」という意味の俗語と考えたか、ゴルフでバンカーにボールを出すこと、ととったのか。しかし、その場合<ball>は<balled>と動詞のようには変化しない。<ball out>は「ひどく叱られる」という意味の<bawl out>の言い換えだろう。検事や刑事に譴責されるためにワイルドの家や殺人現場に引き回されたことを言っているのだろう。

「これからエディ・マーズ夫人を連れてワイルドの家に向かう。夫人は私が殺すところを見ていた、と言った」は<and was on my way over to Wilde’s house with Eddie Mars’ wife, who had seen me do it.>。双葉氏はここを「それから、エディ・マーズの妻をつれてワイルドの家へ行った」と訳している。<on my way>は「行く途中」で、これはオールズに電話で話した内容である。村上氏も「エディ・マーズの女房と一緒にこれからワイルド検事の家に行く。彼女は私がその男を殺すところを目撃した、と言った」と訳している。

「頑丈な男で首には赤い剛毛が生えていた」は<husky, with red bristles on his neck.>。双葉氏はここをカットしている。村上氏は「頑丈そうな男で、首筋に赤い剛毛がはえていた」だ。

「私の話を裏付ける、茶色の男が残した唯一の指紋だった」は<the only print the brown man had left to back up my story.>。双葉氏は「私の話を裏づけする唯一の指紋だった」と訳し、「茶色の男」に言及していない。村上氏は「茶色ずくめの男が残した唯一の指紋として、私の話を裏付けてくれた」と訳している。

「次にこんな人を出し抜くような真似をしてみろ」は<The next fast one you pull>。双葉氏は「このつぎはでなことをやらかしたら」と訳している。村上氏は「次にこんな小賢しい真似をしたら」と訳している。<pull a fast one>は「人を騙す」という意味なので、双葉氏の訳は説明不足。村上氏の「小賢しい」は原義にかなっている。

<pull a fast one>が何故「人を騙す」の意味になるのか。一説によると、銃を早く抜いた方が卑怯者で、後から抜いた者は正当防衛で罪にならないという西部の掟からきているのだという。つまり、<one>は「銃」のことを指している。マーロウはカニーノに撃てるだけ撃たせてから撃っている。ワイルドが指弾しているのはそのことだ。

「私に会うまではそうだろうね」は<Wait till he see me.>。双葉氏は「会ったとき話そう」と訳している。マーロウはノリスに「(具合が悪くないというのは)将軍が私に会うまで待ってくれ」つまり、「会えば具合が悪くなる(かもしれないから)」という意味を言外に含ませている。村上氏は「私に会ったらどうなることか」と一歩踏み込んで訳している。

 

『大いなる眠り』註解 第三十章(1)

《次の日はまた太陽が輝いていた。
 失踪人課のグレゴリー警部はオフィスの窓から裁判所の縞になった最上階を物憂げに眺めていた。雨のあとで裁判所は白く清潔だった。それからのっそりと回転椅子を回し、火傷痕のある親指でパイプに煙草を詰めながら浮かぬ顔でこちらを見た。
「それで、また厄介ごとに巻き込まれたとか」
「もうあなたの耳に入ってるのか」
「やれやれ、一日中ここに尻をつけてるだけで、まるで頭に脳があるように見えないのだろうが、私が何を聞いているか知ったら君は驚くだろうよ。カニーノとかいうのを撃ったことに問題はないだろう。とは言え、殺人課の連中は君に勲章はくれないと思うね」
「私の周りで人がたくさん殺されているんだ」私は言った。「自分の取り分がまだだったものでね」
 警部はしたたかな笑みを浮かべた。「そこにいる女がエディ・マーズの女房だと誰に聞いたんだ?」
私は話した。警部は耳を傾け、そして欠伸した。窪めた掌で金歯の入った口を軽く叩いた。
「私が見つけるべきだったと考えているんだろう」
「そう考えるのが当然だ」
「知っていたかもしれない」彼は言った。「考えたかもしれない。エディと女がちょっとしたゲームをしたがってるのなら、上手くやれていると思わせておくのは気が利いてる──私にしては気が利いているとね。それとも、君はこう考えるかもしれない。私が専ら個人的な理由からエディが罪を免れるようにしたのだと」警部は大きな手を突き出し、親指を人差し指と中指にくっつけて回した。
「いや」私は言った。「そんなこと思いもしなかった。この間エディと会った時、我々のここでの話をすべて知っていたように思ったとしてもだ」
 警部は眉を上げようと骨を折っているようだったが、その芸当は練習不足で腕が落ちていた。額一面に皺が寄ったがすぐに消え、白い線のすべてが見る見るうちに赤みを帯びた。
「私は警官だ」彼は言った。「ただの平凡な普通の警官だ。適度に正直だ。流行遅れの世界で人が期待する程度には正直だ。今朝君に来てもらったのはそれが主な理由だ。信じてほしい。警官の身としては法が勝つところを見たい。派手な身なりをしたエディ・マーズのようなごろつきが、フォルサム刑務所の石切り場でマニキュアを台無しにするところが見たい。初めの仕事でドジを踏んで以来休みなしの哀れなスラム育ちの物騒な連中と並んでな。それが私の望みだ。君も私も、そんな望みがかなうと思えなくなるほど長くここに住んでいる。この街では無理だ、ここの半分くらいの街でも無理、この広々として緑萌える美しい合衆国中のどこでも無理だ。我々はこの国をそのように動かしていない」
 私は何も言わなかった。警部は頭を後ろにぐいと引いて煙を吐き、パイプの吸い口を見ながら続けた。
「しかし、それは私がエディ・マーズがリーガンを殺したと考えていることを意味しない。殺す理由が思いつかないし、もし理由があったにせよ殺したとは思えない。もしかしたら何かつかんでいるのでは、と考えている。遅かれ早かれそれは明るみに出る。女房をリアリトに隠すなどというのは子どもっぽい。しかし、それは賢い猿が自分の賢さを見せつける類の子どもっぽさだ。あいつは昨夜ここにいた。地方検事の取り調べの後だ。すべて認めたよ。カニーノは頼りになる用心棒で、それが雇った理由だと言っていた。ただ、カニーノの趣味は知らないし、知りたいとも思っていない。ハリー・ジョーンズも知らないし、ジョー・ブロディも知らない。ガイガーのことは勿論知っていたが、裏の稼業については知らなかったと主張した。みんな聞いたんだろう」
「聞いた」
「リアリトではうまく立ち回ったな。小細工などせずに。近頃、我々は出所不明の銃弾のファイルを残している。いつか再びその銃を使うようなことがあれば、窮地に陥るだろう」
「私はうまく立ち回ったわけだ」私はそう言って流し目をくれた。彼は叩いて中身を捨てたパイプを、物憂げに見つめた。「女はどうなった?」彼は顔を上げずに訊いた。
「よくは知らない。警察は拘留しなかった。我々は三通の陳述書を書いた。ワイルド、郡保安官事務所、殺人課に宛てて。女は放免され、その後は見ていない。会えるとも思えない」
「どちらかといえば、いい女だそうじゃないか。悪事などしそうにない」
「どちらかといえば、いい女だ」私は言った。》

「その芸当は練習不足で腕が落ちていた」は<a trick he was out of practice on.>。双葉氏は「何かをごまかそうとするときのて(傍点一字)だ」と訳している。村上氏は「それは苦労して身につけた芸のようだ」と訳している。<out of practice>は「練習不足で腕がなまる」の意味。それがどうして、このような訳になるのかが分からない。

「君も私も、そんな望みがかなうと思えなくなるほど長くここに住んでいる」は<You and me both lived too long to think I'm likely to see it happen.>。双葉氏は「君も私もずいぶん長生きしている。私がそういう場面を見たがっている気持ちはわかるだろう」と訳しているが、<too long to think>を正しく訳していない。村上氏は「ただし、そんな展開が望めそうにないことは、俺もあんたも長年の経験から承知している」と訳している。

双葉氏はこう訳したことで、それに続く以下の部分を完全に誤解してしまう。<Not in this town, not in any town half this size, in any part of this wide, green and beautiful U.S.A. We just don’t run our country that way.>を「この町でも、もっと小さい半分くらいの町でも、この広い青々とした美しい合衆国のどんな土地でも、奴らにのさばらせてはならん。私たちはそんなふうにこの国をまかなっておらんのだ」と。

村上氏は「この都市においても、またこの広大にして緑なす美しきアメリカ合衆国の、ここの半分くらいのサイズの都市ならどこといわず、そんなことはまず起こらんだろう。俺たちの国はそういう具合には運営されてないんだ」と訳している。意味としては合っているが、<not>を先頭に立てて、畳みかける原文の強い否定の意志が弱められている。それは、最後の文の主語が<we>から<our country>に代わっていることからも分かる。日本人なら国が誰かによって「運営されて」いると思うのかもしれないが、アメリカ人であるグレゴリー警部はちがう。法を守る立場にある人のこの苦々しさを薄めてはいけないと思う。

『大いなる眠り』註解 第二十九章(2)

《しばらく沈黙が下りた。聞こえるのは雨と静かに響くエンジン音だけだった。それから家のドアがゆっくり開き、闇夜の中により深い闇ができた。人影が用心深く現れた。首の周りが白い。服の襟だ。女がポーチに出てきた。体を強張らせて、木彫りの女のようだ。銀色の鬘が青白く光っている。カニーノは念入りに女の後ろから腰をかがめて出て来た。その様子が必死過ぎて吹き出してしまうところだった。
 女は階段を下りてきた。その顔が白くこわばっているのが見えた。車の方に歩きはじめた。私がまだ目に唾を吐けるかもしれないと用心してカニーノが盾にしているのだ。雨音をついて話し声が聞こえてきた。ゆっくりとした話しぶりで、声はまったく調子というものを欠いていた。「何も見えない、ラッシュ、ガラスが曇ってる」
 カニーノが何かぶつぶつ言い、女は体をぴくんとさせた。まるで背中に銃を押しつけられたように。女はまた前に進み、明かりの消えた車に近づいた。その後ろに今はカニーノが見えた。帽子と横顔、広い肩が。女が凍りついたように立ち止まり、叫んだ。美しい薄衣を裂くような悲鳴は私を揺さぶった。まるで左フックを喰らったみたいに。
「見える!」彼女は叫んだ。「ガラス越しに、ハンドルの向こう側、ラッシュ!」
 カニーノはそれに飛びついた。女を荒っぽく脇に突き飛ばし、銃を構えて前に飛び出した。また三発、炎が暗闇を切り裂いた。ガラスの弾痕がまた増えた。銃弾が一発、車を突き抜け、私のそばの木にぶつかった。跳弾が遠くで唸った。それでも、エンジンは変わりなく動き続けていた。
 男は闇を背に、這うように身を低くした。形のない灰色の顔が、銃撃でぎらついた後ゆっくりもとに戻っていくかのようだった。もし手にしているのがリヴォルヴァーなら弾倉は空かもしれず、ちがうかもしれない。六発撃っていた。が、家の中で装填したかもしれない。それなら好都合だ。弾のない銃を手にした相手と撃ち合いたくない。ただ、オートマティックということもある。
 私は言った。「終わったのか?」
 カニーノはさっと振り向いた。たぶん古き良き時代の紳士なら、相手があと一発か二発撃つのを待っただろう。が、銃はまだこちらを狙っていて、長くは待てなかった。古き良き時代の紳士になるには時間が足りなかった。私は四発撃った。コルトは肋骨に食い込んだ。まるで蹴られたかのように男の手から銃が飛び出した。カニーノは両手で腹を押さえていた。私は銃弾が体にまともに当たる音を聞いていた。彼は大きな両手で自分を抱くようにして真っ直ぐ前に倒れた。濡れた砂利の上に顔から落ちた。その後は何も聞こえなかった。
 銀色の鬘の女も何も言わなかった。纏わりつく雨の中、固まったように突っ立っていた。私はカニーノの方に歩いて行き、当てもなく銃を蹴った。それからさらに歩いて横に身をよじって銃を拾い上げた。それが私を女に近づかせることになった。女は憂鬱そうに語りかけた。まるで独り言でも言うように。
「私──私、心配してた。あなたが戻ってくるんじゃないかと」
 私は言った。「デートだよ。言ったはずだ、すべて台本通りだと」私は気が狂ったように笑い出した。
 それから女はカニーノの上に身をかがめ、体に触れた。少しして立ち上がった時、手には細い鎖のついた小さな鍵があった。
 彼女は苦々しく言った。「殺す必要があった?」
 私は始めたのと同じくらい突然に笑うのをやめた。女は私の背中に回って手錠を外した。
「そうね」彼女は優しく言った。「あなたはそうしなければならなかった」》

カニーノは念入りに女の後ろから腰をかがめて出て来た」は<Canino came crouched methodically behind her.>。双葉氏は「キャニノはぴたりと彼女の背後について、彼女が歩くとおりに歩いた」と訳しているが、これでは<crouch>が訳せていない。村上氏は「彼女の背後からカニーノが、いかにも念入りに身を伏せてやってきた」と訳している。

「その様子が必死過ぎて吹き出してしまうところだった」は<It was so deadly it was almost funny.>。簡単な文だが、<deadly>が曲者だ。双葉氏は「あまり不気味なのがかえってこっけいだった」と訳している。村上氏は「その様子があまりにも真剣だったので、見ていて吹き出したくなるほどだった」としている。それまで、マーロウはカニーノに圧倒されていた。しかし、カニーノも人の子、ということがここで分かる。ここから一気に攻勢に転じるのだ。「不気味」と訳してはまずいだろう。

「私がまだ目に唾を吐けるかもしれないと用心して」は<in case I could still spit in his eye.>。双葉氏はここをカットしている。<in case>は「~の場合の用心に、~するといけないから」の意味。村上氏は「まだ私が健在で、彼の目に唾を吐きかけるかもしれないので」と訳している。女を盾にとる時点で、カニーノという男の値打ちが下がっている。

「銃弾が一発、車を突き抜け、私のそばの木にぶつかった。跳弾が遠くで唸った」は<One bullet went on through and smacked into a tree on my side. A ricochet whined off into the distance.>。双葉氏は「弾丸の一発は私のそばの立木にぶっつかった」と二つ目の文をカットしている。村上氏は「一発の弾丸は車を突き抜け、私のそばの樹木にめり込んだ。跳弾が遠くで唸りを立てた」と訳している。

三発のうちの一発<one bullet>だけが車の外に飛んできたのだ。村上氏の訳では、その一発は樹木にめり込んでいるはず。それでは遠くで唸りを立てた「跳弾」は誰が撃った弾だろう?問題は、村上氏がおそらく辞書など引かずに<into>を「(外から)~の中に(入り込んで)」という通常の意味に解釈したことにある。しかし、辞書には衝突を表す「ぶつかる」という意味がちゃんと記されている。そう解釈しないと<ricochet>という、石の「水切り」や、跳ね返った弾を表す「跳弾」が、どこから出てきたのかが分からなくなる。

「私は銃弾が体にまともに当たる音を聞いていた」は<I could hear them smack hard against his body.>。双葉氏はここもカット。村上氏は「銃弾が彼の身体にきつくめり込む音を耳にすることができた」と訳している。「身体にきつくめり込む音」という訳はどうだろうか。<smack>には「強く叩く」という意味はあっても「めり込む」という意味はない。ひとつ前の<smacked into>を「めり込んだ」と訳したのを引きずっているのではないだろうか。

双葉氏がカットした部分を村上氏が復元していることは高く評価しているが、双葉氏の訳していないところで、村上氏の勇み足が目立つような気がする。双葉氏が訳していないのは、これが正解というぴったりくる訳が見つからず、それでいて、カットしても不都合にならない箇所であることが多い。もともと新訳は旧訳に負うところが多いものだ。それだけに、旧訳にない部分はよほど気を引き締めて訳す必要がある。