HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第二章(3)

《「どこへ行ったんだ?」ムース・マロイが訊ねた。
 バーテンダーは思案の挙句、やっとのことで用心棒がよろめきながら通り抜けたドアに視線を向けた。
「あ、あっちは、モンゴメリさんのオフィスでさあ。ここのボスで。あの奥がオフィスになってます」
「そいつが知ってるかもしれん」大男が言った。彼はごくりと酒を飲み込んだ。「そいつも利いた風な口を利かないといいが。同じのを、もう二杯だ」
 大男はゆっくり部屋を横切った。軽い足どりで、何の悩みもなさそうに。大きな背中でドアが隠れた。ドアには鍵がかかっていた。ノブを揺すぶると、鏡板が一枚、片側に飛んでいった。大男は中に入り、ドアを閉めた。
 沈黙が落ちた。私はバーテンダーを見た。バーテンダーは私を見た。何かを考えている眼だった。カウンターを拭きながら、ため息をつき、右手を下に伸ばした。
 私はカウンター越しにその腕をつかんだ。細くて脆そうな腕だ。私は腕をつかんだまま笑いかけた。
「なあ、そこに何があるんだ?」
バーテンダーは唇をなめた。私の腕に体を預けたまま何も言わなかった。輝きを帯びた顔に灰色の翳がさした。
「あいつはタフだ」私は言った。「そして、何をしでかすか分からない。酒がさせるんだ。あの男は昔の女を探してる。当時ここは白人の店だった。ここまではいいか?」
 バーテンダーは唇をなめた。「あいつは長い間ここに来なかった」 私は言った。「八年間もだ。見たところ、それがどれだけ長いのかも分かっちゃいない。私としてはそれが一生分の長さだと悟ってほしかったんだが。ここの者なら女の居所を知っているとあいつは思い込んでるのさ。事情は飲みこめたか?」
 バーテンダーはゆっくり言った。「私はあなたがあの人の連れだと思ってたんで」
「どうしようもなかったんだ。下でものを尋ねられてそのまま上へ連れてこられた。あいつとは初対面だ。しかし、投げ飛ばされるのは気が進まなかった。そこに何があるんだ?」
「ソードオフです」バーテンダーは言った。
「おっと、それは違法のはずだ」私は耳打ちした。「いいか、君は私と組むんだ。ほかには何がある?」
「拳銃があります」バーテンダーは言った。「葉巻入れの中に。腕を放してくださいよ」
「そいつはいい」私は言った。「ちょっと動いてもらおうか、気を楽に、横にだ。今は銃の出る幕じゃない」
「そうは問屋が卸すもんか」バーテンダーは鼻で笑った。私の腕にくたびれた体重をかけながら言った。「そうは問屋が─」
 バーテンダーは口をつぐんだ。眼をぎょろつかせ、頭をぐいと引いた。
 背後で鈍く低い音がした。クラップス・テーブルの向こうの閉まったドアの後ろだ。ドアが急に閉まった音かも知れなかった。私はそうは思わなかった。バーテンダーもそうは思わなかった。
 バーテンダーは凍りついた。口からよだれが垂れていた。私は耳を澄ました。それっきり音はしなかった。私は急いでカウンターの端に向かった。長く耳を澄ませすぎていた。
 大きな音とともに後ろのドアが開き、ムース・マロイがするりと猛烈な突進で通り抜け、急に立ち止まった。足は床に根を生やし、顔には悪賢い薄ら笑いがぼんやり浮かんでいた。
 四五口径のコルト軍用拳銃も彼の手の中にあると玩具にしか見えなかった。
「気取った真似をするんじゃねえ」彼はなれ合い口調で言った。「カウンターの上に両手を置くんだ」
 バーテンダーと私はカウンターの上に両手を置いた。
 ムース・マロイはかき集めるような眼で部屋中を見回した。ぴんと張りつめた薄笑いが顔に釘付けされていた。脚の重心を移動し、黙って部屋を横切った。たしかに一人で銀行強盗をやってのけそうな男に見えた──あんな服装をしていてさえ。
 大男はバーまでやってきた。「手を挙げな、黒いの」彼は静かに言った。バーテンダーは手を高く宙に挙げた。大男は私の背後にまわりこみ、左手を使って注意深く体を探った。熱い息が首にかかった。そして離れた。 
モンゴメリさんもヴェルマがどこにいるか知らなかった」彼は言った。「これに物を言わせようとしたんだ」頑丈な手で拳銃を軽く叩いた。私は振り返って大男を見た。「なあ、おい」彼は言った。「分かってるとは思うが、おれのこと、忘れるんじゃないぜ。警察の連中にはうかつなまねをするな、と言っておいてくれ」彼は銃をぶらぶらさせた。「じゃあな、若造。おれは電車をつかまえなきゃいけない」
 大男は階段の方に歩きはじめた。
「酒代がまだだ」私は言った。
大男は足を止め、注意深く私を見た。
「そこに何があるか知らないが」彼は言った。「あまり、手荒な真似をしたくないんだ」
 大男は立ち去った。滑るように両開きの扉を抜けて。階段を下りる足音が次第に遠ざかって行った。
 バーテンダーが前にかがんだ。私はカウンターの後ろに飛び込んで、男を外へ追い出した。カウンター下の棚の上にタオルをかぶせて銃身を切り詰めたショットガンが置いてあった。横に葉巻入れがあった。葉巻入れの中には三八口径のオートマティックがあった。私は両方取り上げた。バーテンダーはグラスの並んだ棚に体を押しつけていた。
 私はカウンターの端を回って部屋を横切り、クラップス・テーブルの後ろの開いているドアまで行った。その向こうに鍵の手になった廊下があり、ほとんど明かりが見えなかった。用心棒が気を失って床にのびていた。手にはナイフがあった。私はかがみ込んでナイフを引き抜き、裏階段へ投げ捨てた。用心棒はぜいぜいと荒い息をし、手はぐにゃりとしていた。
 私は男をまたぎ「オフィス」と記す黒い塗料の剥げたドアを開けた。
 一部を板で塞いだ窓の近くに疵だらけの小さな机があった。男の上半身が椅子の上で硬直していた。椅子の背凭れは高く、ちょうど男の首筋まであった。頭が椅子の背のところで後ろに折れ曲がり、そのせいで鼻が板で塞がれた窓の方を向いていた。まるで、ハンカチか蝶番をただ折り曲げたように。
 机の右手の抽斗が開いていた。中には真ん中に油の臭いが滲みついた新聞紙があった。そこに拳銃が入っていたのだろう。その時は名案に思えたのだろうが、モンゴメリ氏の頭の位置を見れば、思いちがえてたことが分かる。
 机の上に電話機があった。私はソードオフ・ショットガンを下に置き、警察に電話する前にドアに鍵をかけた。用心のためだったが、モンゴメリ氏は気にする様子もなかった。
 巡回パトロールの警官たちが足音を響かせて階段を上ってきた時、用心棒もバーテンダーも姿を消していて、そこにいたのは私だけだった。》 

バーテンダーは思案の挙句、やっとのことで用心棒がよろめきながら通り抜けたドアに視線を向けた」は<The barman's eyes floated in his head, focused with difficulty on the door through which the bouncer had stumbled.>。清水氏は「バーテンダーの眼は彼の頭の中に浮び上り、用心棒がよろけて出て行ったドアにやっと焦点を合わせた」と訳している。後半はいいが、「バーテンダーの眼は彼の頭の中に浮び上り」は変だ。

村上氏は「バーテンダーの目は顔の中でふらふらしていた。用心棒がよろめきながら消えたドアに焦点を合わせるのが一苦労みたいだった」と訳している。どうやら意味は通じているが、頭を顔に代える訳に無理がある。まず<one's eyes>は「目」ではなく「視線」のことだ。それに<float in>は「(心中に)浮かぶ」という意味で、その後には<face>ではなく<head>とあるからには「頭に浮かぶ」の意味と採らないとおかしい。 

「そいつも利いた風な口を利かないといいが」は<He better not crack wise neither>。清水氏は「こいつもきいたふうなことはいわねえ方がいい」と訳している。<crack wise>は「気のきいたことを言う」という意味。村上氏は「洒落た真似をしないでくれると助かるんだが」と訳している。後で拳銃を取り出すことの仄めかしだろうが、<crack wise>は生意気な口をきくことを意味しているのであって、愚かな行動をとることの意味はない。

「鏡板が一枚、片側に飛んでいった」は<a piece of the panel flew off to one side>。清水氏は「金具がはずれて、とんだ」と訳している。<panel>とは「天井、窓などの一仕切り」を意味するもので、「鏡板、羽目板」と訳されることが多い。どの辞書を見ても「金具」という意味はない。村上氏は「化粧板が片方にはじけ飛んだ」と訳している。「化粧板」というのは「表面が鉋掛けされたきれいな板」というほどの意味で、「鏡板」のように複数の部材<“Maybe you got something there,” he said, “but I wouldn't squeeze it too hard.”>で、ドアのような建具を構成するといった意味はない。

「何かを考えている眼だった」は<His eyes became thoughtful>。清水氏は「彼の眼が異様に輝いた」と意訳しているが、果たしてその必要があるだろうか。原文の簡潔さが消えて、かえってあいまいな印象を与えてしまっている。村上氏は「その目は何かを考えているように見えた」と訳しているが、これでもくどいくらいだ。

バーテンダーはゆっくり言った」は<The barman said slowly>。清水氏は「バーテンダーは蚊のなくような声で言った」と訳している。村上氏は「バーテンダーは言葉を選んで言った」だ。<slowly>に、そんな意味はない。いつもいつも<slowly>を「ゆっくり」と訳してばかりでは芸がない、とでも考えたのだろうか。余計なお世話だ、と思う。作者でもない翻訳者が自分の読みをつけ加えることには賛成できない。<The barman said slowly>くらい普通の読者なら理解できる。

「口からよだれが垂れていた」は<His mouth drooled.>。清水氏は「口をあけたまま(、身動きをしなかった)」と訳している。<drool>には「よだれを垂らす」の意味がある。なぜよだれについて触れていないのか理由が分からない。村上氏は「彼は口からよだれを垂らしていた」と訳している。

「酒代がまだだ」と言ったマーロウに対するマロイの返事が、新旧訳で全く異なっている。原文の<“Maybe you got something there,” he said, “but I wouldn't squeeze it too hard.”>を、清水氏は「お前えが持ってるだろう。なにも、そっくり捲き上げようとはいわねえよ」と訳している。村上氏はそれとはちがって<「そこに何があるのかは知らんが」と彼は言った。「おれなら余計な真似はしねえな」>と訳している。

<squeeze>は「搾り取る」の意味だから、清水訳も理解できないではないが、前半の<you got something there>は、マーロウがバーテンダーに二度繰り返した「そこに何があるんだ」<What you got down there?>を踏まえていると考えられる。そうだとすると、この<something>は金のことではなく銃のことだと思えてくる。

「クラップス・テーブルの後ろの開いているドアまで」は<to the gaping door behind the crap table>。清水氏はここを「骰子テーブルのうしろのドアを開いた」とやってしまっている。そのドアは、さっきマロイが出てきた時に開けたままになっている。文法からいってもそうは訳せない、初歩的なミスだ。村上氏は「クラップ・テーブルの奥の大きく開いているドアの前に」と訳している。

 

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第二章(2)

《我々はバーに行った。客たちは一人で、あるいは三々五々、静かな影となり、音もなくフロアを横切り、音もなく階段へと通じるドアから出て行った。芝生の上に落ちる影のようにひっそりと。スイング・ドアを揺らすことさえしなかった。
 我々はバー・カウンターに凭れた。「ウィスキー・サワー」大男が言った。「あんたは」
「ウィスキー・サワー」私は言った。
 我々はウィスキー・サワーを飲んだ。
 大男は厚手のずんぐりしたグラスの縁からつまらなそうにウィスキー・サワーをちびちびとなめた。そして、真面目くさった顔でバーテンダーを見つめた。白い上着を着た痩せた黒人で、不安気な表情を浮かべ、足の痛みを気遣うような動きをした。
「お前、ヴェルマがどこにいるか知ってるか?」
「ヴェルマって言いましたか?」バーテンダーは泣き出しそうな声で言った。「この頃この辺りじゃ、とんと見かけません。最近はさっぱりで、へえ」
「お前、ここは長いのか?」
「ええと」バーテンダーはタオルを下に置き、額に皺を寄せて指折り数え始めた。「かれこれ十カ月でさ。おおよそそれくらいになります。いやそろそろ一年か」
「はっきりしろい」大男は言った。
 バーテンダーは眼を剥き、首を落とされた鶏みたいに咽喉仏をひくつかせた。
「ここが黒人のバーになってどれくらいだ?」大男はぶっきらぼうに問いただした。
「なんておっしゃいました?」
 大男が拳を握ると、ウィスキー・サワーのグラスは眼の前から見えなくなった。
「かれこれ五年になる」私は言った。「この男はヴェルマという名の白人の女のことは何も知らない。ここの誰も知らないだろう」
 大男は私のことをまるで今卵から孵った雛のように見た。ウィスキー・サワーは大男の機嫌をよくしてはくれなかったようだ。
「誰が口をはさめと言った?」彼は訊いた。
 私は微笑んだ。寛大で心から友好的な微笑みができたと思う。「あんたがここに連れ込んだんじゃないか。忘れたのか?」
 大男はにやりと笑って見せた。のっぺりと白々しい気のない笑いだった。「ウィスキー・サワー」彼はバーテンダーに言った。「チンタラしてるんじゃねえ。とっとと作れ」
 バーテンダーはあわてて飛び回り、目を白黒させた。私は背中をカウンターに預け、部屋を見わたした。部屋は空っぽになっていた。バーテンダーを別にしたら、そこにいるのは大男と私、そして壁のところでぺしゃんこになってる用心棒だけだった。用心棒はそろりそろりと動いていた。痛みをこらえ、やっとのことで手足を動かしているように。片方の翅をもがれた蠅みたいに幅木に沿ってゆっくり這っていた。テーブルの後ろを、げんなりと、不意に歳をとり、突然正気に返った男のように。私は男の動きをじっと見ていた。バーテンダーがお代わりのウィスキー・サワーを二つ置いた。私はカウンターに向き直った。大男は這い進む用心棒をちらりと目にしたがまったく気にも留めなかった。
「この店には何も残っちゃいない」彼はこぼした。「小さなステージがあって、バンドがいて、男が楽しい時を過ごすことができる気の利いた小部屋があった。ヴェルマはそこで歌ってた。赤毛だった。レースのついた下着みたいに可愛かった。おれたちが結婚しようというとき、やつらがおれをハメたんだ」
 私は二杯目のウィスキー・サワーに手を伸ばした。私は深みにはまりかけていた。「ハメられたって、何にだ?」
「八年もの間、おれがどこで何をしてたかっていう話だ。あんたどう思うね?」
「蝶でも捕まえてたんだろう」
 大男はバナナのような人差し指で自分の胸を突っついた。「檻の中さ。マロイっていうんだ。体がでかいからって、みんなはムース(箆鹿)・マロイって呼ぶ。グレート・ベンド銀行の仕事だ。四万ドル、一人でやってのけた。凄かないか?」
「で、今からそいつを使おうっていうのか?」
 大男は私に鋭い一瞥をくれた。背後で物音がした。用心棒が再び自分の足で立ったのだ。少しよろめきながら、クラップス・テーブルの向こうの黒っぽいドアのノブに手をかけた。そして、ドアを開け、なかば倒れ込むように中に入った。ドアが音を立てて閉まった。錠がかかる音がした。》

「客たちは一人で、あるいは三々五々」は<The customers, by ones and twos and threes,>。清水氏は「客たちは二人、三人と一団になって」と「一人」を略している。村上氏は「客たちは一人で、二人連れで、あるいは三人連れで」と律儀に訳している。「芝生の上に落ちる影のように」は<as shadows on grass>。清水氏はここを「壁にうつる影のように」と訳している。「草」<grass>を「壁」と見誤りそうな単語が見つからない。

「ウィスキー・サワー」は<Whiskey sour>。ウィスキーをベースにレモンジュースと砂糖を加えたカクテルだ。清水氏はこれを全部「ウィスキー」で統一している。単なるウィスキーだったら、大男がお代わりを要求するとき、バーテンダーが目を白黒させるほど慌てるだろうか。一方で、チャンドラーはこのカクテルを注いだグラスを<the thick squat glass>と書いている。清水氏は「厚いウィスキー・グラス」と訳している。村上氏は「ずんぐりした分厚いグラス」だ。ストレートやオン・ザ・ロックスならともかく、カクテルを注ぐグラスには似つかわしくない。

バーテンダーは眼を剥き」は<The barman goggled>。清水氏は「バーテンダーは声をつまらせ」、村上氏は「バーテンダーがごくりと唾を飲むと」と訳している。<goggle>は「(びっくりして)目を丸くする、ぎょろぎょろする」の意味だ。もしかしたら清水氏は<guggle(gurgle)>「喉を鳴らす」とまちがえたのではないだろうか。村上氏は、自分で訳す前に清水訳を参考にしているようなので、それをそのまま踏襲していることが少なくない。せっかく新訳と銘打つのだから、はじめから自分で訳していたら、こんなまちがいはしないで済んだろうに。

「なんておっしゃいました?」は<Says which?>。「なんて言ったの?」と相手に聞き返す際のアメリカ英語の慣用句だ。清水氏は「誰がそういうんだ」と大男の台詞として訳している。その前の大男の質問は<How long's this coop been a dinge joint?>なので「誰がそういうんだ」という重ねての質問は意味をなさない。村上氏も「なんておっしゃいました?」と訳している。

「大男はにやりと笑って見せた。のっぺりと白々しい気のない笑いだった」は< He grinned back then, a flat white grin without meaning>。清水氏は「彼は意味をなさない薄笑いを見せた」とあっさり訳している。村上氏は「彼はにやりと笑みを返した。白い歯をむき出しにした、奥行きのない、意味を欠いた笑みだ」と訳している。<grin>にはたしかに「白い歯を見せて笑う」の意味があるが、「むき出しに」してみせるなら、そこにはなにがしかの意味が混りそうなものだ。この<white>は「何も書かれていない」の意味ではないだろうか。

「そして壁のところでぺしゃんこになってる用心棒だけだった」は<and the bouncer crushed over against the wall.>。清水氏は「そして、壁に投げつけられた用心棒だけだった」。村上氏は「壁に投げつけられた用心棒だけだった」と、ここも清水訳をそのまま使っている。ところで<crush>だが、どの辞書を見ても「押しつぶす」が主たる意味で「投げつける」という意味は見当たらない。もしかして<crash>「衝突する」と読み違えて、大男の行為と結び付けての意訳だろうか。村上氏が旧訳を下訳にしていなかったら、同じ訳をしただろうか。

「やつらがおれをハメたんだ」は<they hung the frame on me>。清水氏は「奴らが俺をぶちこみやがった」と訳している。<frame>は「ハメる、(人に)濡れ衣を着せる」の意味がある。<hang>にも「人に罪を着せる」の意味があるので、ここは「陥れられた」の意味だろう。村上氏も「俺はハメられちまった」と訳している。「ぶちこむ」と訳してしまったら、次の<Where you figure I been them eight years I said about?>という質問の意味がなくなるではないか。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第二章(1)

《階段を上りきると、また両開きのスイング・ドアが奥との間を仕切っていた。大男は親指で軽くドアを押し開け、我々は中に入った。細長い部屋で、あまり清潔とはいえず、特に明るくもなく、別に愉快なところでもなかった。部屋の隅にある円錐形の灯りが照らす、クラップス・テーブルを囲んで黒人のグループがぺちゃくちゃとしゃべっていた。右手の壁に沿ってバーがあった。そのほかには小さな丸テーブルがいくつか並べられていた。部屋には数人の客がいたが、男も女も黒人だった。クラップス・テーブルが急に静まりかえり、頭上の灯りが急に消えた。突然、浸水したボートのような重い沈黙がやってきた。いくつもの眼が我々を見た。灰色から漆黒の範囲内に収まる顔に嵌め込まれた栗色の眼だ。ゆっくり振り向いた眼はぎらつき、異人種が外敵に向けるとりつく島のない沈黙の奥から見つめていた。
 大柄で太い首をした黒人がバーの端に倚りかかっていた。シャツの両袖にピンクのガーターをつけ、広い背中でピンクと白のサスペンダーが交差していた。どこから見ても用心棒だった。男は上げていた片足をゆっくり下ろして我々を見つめ、静かに両脚を広げ、幅の広い舌を唇に這わせた。顔には虐待の痕があった。掘削機のバケット以外のあらゆるもので殴られたみたいだった。傷だらけで、ぺちゃんこになり、分厚く、まだらで、鞭の跡がついていた。怖いものなしの顔だった。人が思いつくすべてのことがやりつくされていた。
 短い縮れ毛には白いものが混じっていた。片耳の耳朶がなかった。
 黒人は重量級で肩幅も広かった。大きくてがっしりした両脚は少し湾曲していた。黒人には珍しいことだ。また唇をひと甞めし、微笑を浮かべ、体を動かした。ボクサーが体をほぐすみたいに身をかがめてこちらに向かってきた。大男は黙ってそれを待ち受けた。腕にピンク色のガーターをした黒人は、がっしりした褐色の手を大男の胸に置いた。大きな手だったが、飾りボタンのように見えた。大男は微動だにしなかった。用心棒は優しく微笑んだ。
「白人はお断りでね、ブラザー。黒人専用なんだ。すまないな」
 大男は小さな哀しい灰色の瞳を動かして部屋の中を見わたした。頬が少し赤らんだ。「黒人バーか」腹立たし気に、小さな声で言った。それから声を上げた。「ヴェルマはどこにいる?」と用心棒に訊いた。
 用心棒は笑ったわけではなかった。大男の服に見入っていたのだ。その茶色のシャツと黄色いタイ、ラフなグレイのジャケットについた白いゴルフボールを。ずんぐりした頭を注意深く動かしていろいろな角度から入念に吟味した。男は鰐革の靴を見下ろした。そして軽く含み笑いをした。おもしろがっているようだった。私は男のことがちょっと気の毒になった。男はまたおだやかに話しかけた。
「ヴェルマと言ったかね? ヴェルマなんて女はいねえ、ブラザー。酒もねえ、女もいねえ、何にもねえ。さっさと帰んな、白いの、出て行くんだ」
「ヴェルマはここで働いてたんだ」大男は言った。ほとんど夢見ているように話していた。たった一人で、森の中で菫でも摘んでいるように。私はハンカチを取り出して首の後ろを拭った。
 用心棒が突然笑い出した。「そうかい」彼は言った。肩越しにちらりと後ろを振り返って仲間を見た。「ヴェルマはここで働いてた、けどな、ヴェルマはここではもう働いてねえ。引退したってよ。あっはっは」
「その小汚い手をおれのシャツからどけるんだ」大男が言った。
 用心棒は眉をひそめた。そういう口の利き方に慣れていなかったのだ。手をシャツから放すと、拳を固めた。大きさといい色といい、大きな茄子そっくりだった。男には仕事があり、タフで通っていた。ここで男を下げるわけにはいかない。それがちらりと頭をよぎり、過失を犯した。いきなり肘が外に引かれ、拳はくっきりと小さな弧を描いて大男の顎の脇を打った。低いため息が部屋の中に流れた。
 いいパンチだった。肩が落ち、その後で体が揺れた。パンチには充分体重がのっていたし、それを見舞った男も多くの練習を積んでいた。大男は頭を一インチほど動かせただけだった。パンチを防ごうともしなかった。まともに食らって、わずかに体を震わせると、静かに喉を鳴らして用心棒の喉をつかんだ。
 用心棒は膝で相手の股間を蹴ろうとした。大男は用心棒を空中に持ち上げ、床を覆っている汚いリノリウムの上に派手な靴を滑らせ、両脚を開いた。用心棒をのけぞらせ、右手を用心棒のベルトに移した。ベルトはまるで肉屋の糸のようにはじけ飛んだ。大男は巨大な両手を用心棒の背骨にぴたりと当てて持ち上げた。大男は体を旋回させ、よろめきながら、両腕を振り回して部屋の向こうまで投げ飛ばした。三人の男がそれを避けて飛びのいた。用心棒は、デンバーまで聞こえたにちがいない派手な音を立てて、テーブルといっしょに幅木に衝突した。男の足は引きつっていた。それからずっと寝たままだった。
「いるんだよ」大男は言った。「タフになる時と場合をまちがうやつが」彼は私に向き直った。「なあ」彼は言った。「一杯つきあえよ」》

「また両開きのスイング・ドア」は<Two more swing doors>。清水氏は「また、二重ドアがあった」と訳している。どこにも<double>とは書いてないが、<two>で、そう思ってしまったのだろうか。当然、村上氏は「また両開きのスイング・ドア」と訳している。この場合の<two>は一対の意味だろう。<doors>と複数になっているので、<one more>とは書けないのだろうか。ちょっと首をひねってしまった。

「円錐形の灯りが照らすクラップス・テーブルを囲んで黒人のグループがぺちゃくちゃとしゃべっていた」は<a group of Negroes chanted and chattered in the cone of light over a crap table.>。清水氏は「黒人の一団が電灯の下で、骰子(さいころ)のテーブルをかこんでいた」と簡略に訳している。村上氏は「一群の黒人が集まって、クラップ・ゲームのテーブルを照らす円錐形の明かりの下で、歓声を上げたり、おしゃべりをしたりしていた」と、ほぼ逐語訳だ。二個の骰子を使って遊ぶゲームは、通常<craps>と呼ばれているので、クラップス・テーブルとしておいた。

「ゆっくり振り向いた眼はぎらつき、異人種が外敵に向けるとりつく島のない沈黙の奥から見つめていた」は<Heads turned slowly and the eyes in them glistened and stared in the dead alien silence of another race.>。清水氏は<Heads turned slowly>をカットし「その眼は、異人種の侵入に敵意を見せて、輝いていた」と訳している。村上氏は「首がゆっくりと曲げられ,、瞳がきらりと光り、こちらを凝視した。異なった人種に対する反感がもたらす、痛いほどの沈黙がそこにあった」と、相変わらず文学的な訳だ。

「掘削機のバケット以外の」は<but the bucket of a dragline>。清水氏はここをカット。そのまま訳しても読者には伝わらないと考えたのだろう。村上氏は拙訳と同じ。たしかに、こうしか訳しようがないし、訳してみても具体的なイメージは湧かない。ただ、とてつもない大きな機械であることは何とか分かる。それでいいのだ。チャンドラーお得意の修辞技法における単なる誇張法なのだから。

「大きな手だったが、飾りボタンのように見えた」は<Large as it was, the hand looked like a stud.>。清水氏は「形容ができないほどの大きな手だった」と訳しているが、これはどうだろう。村上氏は「それはずいぶん大きな手だったが、飾りボタンのようにしか見えなかった」と、解釈を入れて訳している。無論、カンマの後に「大男の胸に置かれると」という条件節が入っていると考えなければならない。村上氏の訳はそれを踏まえている。清水氏は<stud>を何かと読みちがえたのだろうか。

「小さな声で」は<under hi's breath>。清水氏は「低い声で」と訳している。村上氏は「はき捨てるように言った」と訳している。<under one's breath>は「小さな声で、ひそひそと、ささやいて」の意味。おそらく、辞書を引かずに訳したのだろう。その前に<angrily>とあるので、引きずられたのかもしれない。まちがいとは言えないが、慎重な村上氏にしては踏み込んだ訳である。その後、大男は声を上げているので、ここは小声と採っておくのが無難ではないか。

「用心棒は笑ったわけではなかった」は<The bouncer didn't quite laugh.>。清水氏は「用心棒はかたい表情を見せて」と訳している。村上氏は「用心棒はあからさまに笑ったわけではなかった」だ。<not quite>には「~ほどでもない」の意味なので、清水氏がなぜこういう表現にしたのか真意が分からない。「かたい表情」どころではない。ここで用心棒はかなり興味深そうな、ほとんど笑いに近い表情を浮かべているはずなのだ。何しろ大男の服装が眼を引くものだったから。

「ベルトはまるで肉屋の糸のようにはじけ飛んだ」は<The belt broke like a piece of butcher's string.>。清水氏は「金具は音をたてて、砕けた」と、ベルト本体ではなく金具がこわれたと訳している。村上氏は「ベルトはまるで肉屋の使う糸みたいにはじけて切れた」だ。<butcher's string>はロースト・ビーフを縛るタコ糸のようなもののことだと思う。

「大男は体を旋回させ、よろめきながら、両腕を振り回して部屋の向こうまで投げ飛ばした」は<He threw him clear across the room, spinning and staggering and flailing with his arms.>。清水氏はここを「用心棒はぐるぐるまわり、よろめき、両腕をふりまわしながら、部屋を横切ってとんでいった」と訳しているが、村上氏は「そして身体をくるりと回転させ、よろめきながらも、両腕を大きく振って、部屋の向こうまで相手を放り投げた」と訳している。

<spinning and staggering and flailing with his arms.>の<his>は大男なのか、用心棒なのか。原文では<He>の前に<;>(セミコロン)が使われている。つまり「独立した2つの文が何らかの関係があるためつなげて書くとき、間に(最初の文の終止符のかわりに)セミコロンを置く」という使われ方をしているわけだ。だから、ここで急に「彼」が用心棒になることは文法的に言ってあり得ない。それにしても二人の男がどちらも一文の中で一様に<he、his、him>で扱われるのは確かに厄介だ。それにしても、宙をとんでいく男が「よろめく」のはさすがに不可能ではないだろうか。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第一章

「チャンドラーの長篇全冊読み比べ」は、チャンドラーの長篇を原書と新旧訳を読み比べる企画。今回は第三弾。「『さらば愛しき女よ』を読み比べる」。定評のあった清水俊二氏の旧訳に対し、村上春樹氏が新訳を発表した時、賛否両論の声が湧きあがった。それは単に旧訳に慣れたオールド・ファンの反発という性格のものでもなかった。英語の翻訳についての批判もかなり含まれていたように覚えている。

それまで翻訳を通じてしか知らなかったチャンドラーの世界について、もっと直に触れたいという気持が生まれたのは、村上氏がこれを機会に読み比べる読者が増えることを望んでいる、というような意味の言葉をあとがきに書いていたからだ。海外のペーパーバックが簡単に手に入るようになったことも大きかった。

それでは、とまず手にとったのが『長いお別れ』。この時は新旧訳の比較が主だった。次に『大いなる眠り』を読みかけたとき、自分でも訳してみたいという欲が出た。逐語訳でいいから、できる限り原書に近い翻訳というか、英文和訳のようなものを書きはじめた。そのうちに翻訳について書かれた本を読むようになり、いつまでも英文和訳ではいけないような気がし始め、翻訳に近づきたいと考えるようになった。

そして今回の『さらば愛しき女よ』に至る。《 》で挿まれている部分が拙訳である。その後に三冊を読み比べての感想が続く。素人のやることなので誤りも多いと思う。気がつかれたら教えていただきたいと思っています。よろしくお付き合いください。

《そこはセントラル・アヴェニューの混合ブロックの一つで、まだ黒人だけが住む地区にはなっていなかった。私は椅子が三つしかない床屋から出てきたところだった。ディミトリアス・アレイディスという名の理髪師がそこで臨時雇いで働いているかもしれないというのが紹介所の考えだった。些細な件だった。夫を家に連れ戻してくれたら礼金を払うと妻が言ったのだ。私は男を見つけ出せなかった。が、アレイディス夫人も一銭も払わずにすんだ。
 三月も終わろうかという暖かい日で、私は床屋の外に立って二階から突き出したネオンサインを見上げていた。<フロリアンズ>という名の食事と骰子博打を売りにした店だ。一人の男が同じようにネオンサインを見上げていた。男は顔にうっとりしたような表情を浮かべ、埃まみれの窓を見上げていた。まるで初めて自由の女神像を目にしたヨーロッパからの移民のように。大男だが背丈はせいぜい六フィート五インチ、肩幅もビール・トラックより広くなかった。男と私は十フィートくらい離れていた。頼みの綱の両腕はだらりと垂れ、大きな指の後ろで忘れられた葉巻から煙が上がっていた。
 通りを行き来する痩せて黙りこくった黒人たちは横目でちらりと男を見やった。男には一見の価値があった。毛羽立ったボルサリーノ帽をかぶり、ボタン代わりに白いゴルフボールのついたラフなグレイのスポーツジャケット、茶色のシャツに黄色いネクタイ、タック入りのグレイ・フランネルのスラックスに、爪先が真っ白な鰐革の靴。胸ポケットからはネクタイと揃いの鮮やかな黄色のハンカチが滝のようになだれ落ちていた。帽子の帯には色鮮やかな羽根を二本挿んでいたが、実のところそれは余分だった。セントラル・アヴェニューは世界でいちばん地味な服装で知られた場所ではないが、男はまるでエンジェル・フード・ケーキの一切れの上に乗ったタランチュラと同じくらい人目を引かなかった。
 肌の色は青白く、無精髭が伸びていた。すぐに伸びる質らしい。髪は黒い巻き毛で濃い眉はもう少しで肉厚の鼻の上で繋がりそうだった。体に似合わず小ぢんまりとした耳で、眼には涙で潤んだような輝きがあった。灰色の眼にはしばしば見受けられるものだ。男は彫像のように立っていたが、しばらくすると微笑みを浮かべた。
 男は舗道をゆっくり横切って、二階へ続く階段を隔てる両開きのスウィング・ドアまで行った。ドアを押し開け、冷たく無表情に往来を一瞥して、中に入った。男が小柄で、もっと目立たない服を着ていたら、強盗でもやるところかと思ったことだろう。しかし、あんな服装で、あの帽子をかぶって、あの体格では考えられない。
 ドアは反動で外に揺れて、あと少しで止まりそうだった。完全に静止する寸前、再び乱暴に外に開かれ、何かが舗道の上を飛び越し、駐車していた二台の車の間の溝に落ちた。それは地面に這いつくばり、追いつめられた鼠のような声をあげた。やがてゆっくり起き上がり、帽子を拾い上げ、後じさりして舗道に上った。痩せて肩幅の狭い褐色の顔の若者でライラック色のスーツにカーネーションを差していた。黒い髪を撫でつけ、口を開けてしばらく情けない声を出していた。人々はぼんやりとそれを眺めていた。それから男は帽子を斜にかぶり直し、こそこそと壁際に寄り、ぎこちない足取りで音もなくブロックを歩いて行った。
 静寂。往来が戻ってきた。私は両開きのドアに向かって歩き、その前に立った。ドアはもう動いていなかった。私とは何のかかわりもなかった。かくして、私はドアを押し開けて中を覗いた。
 暗がりから、腰掛けられそうなほど大きな手が伸びてきて私の肩をつかみ、粉々に握りつぶそうとした。それからその手がドア越しに私を引っ張り込み、苦もなく階段を一段ぶん持ち上げた。大きな顔が私を見た。深く柔らかな声が静かに私に言った。
「ここにどうして黒人がいるんだ? なあ、教えてくれよ、おい」
 そこは暗かった。人気がなかった。階上には人の立てる物音が聞こえてきたが、階段にいるのは我々だけだった。大男は真面目くさった顔で私をじっと見つめ、その手は私の肩を壊し続けていた。
「黒いのだ」彼は言った。「一人追い出してやったよ。放り出すところを見たろう?」
 男は私の肩をやっと放した。骨は折れていないようだが、腕はしびれていた。
「ここはそういう店なんだ」私は肩をさすりながら言った。「どうしろっていうんだ?」
「それを言っちゃ、おしまいだ」大男は正餐後の四匹の虎のようにそっと喉を鳴らした。「ヴェルマがここで働いてたんだ。かわいいヴェルマが」
 男は再び私の肩に手を伸ばした。避けようとしたが、相手は猫より素早かった。鉄の指が私の筋肉をさらに砕きはじめた。
「そうさ」彼は言った。「かわいいヴェルマだ。おれはもう八年も会えずにいたんだ。あんた、ここは黒いのの店になったと言うのか?」
 私はしわがれ声で、そうだと言った。
 男は私をもう二段ぶん持ち上げた。私は身をよじって肘が自由に動く余地を作ろうとした。銃を持ってきてなかった。ディミトリアス・アレイディス捜しにそんな物が要りそうだとは思わなかったのだ。銃を持ってきた方がよかったかどうかは疑わしかった。おそらく大男は私から取り上げて食べてしまうだろう。
「上に行って自分で見てみるんだな」苦しそうに聞こえないような声で、私は言った。
 男はまた私を放した。私を見る灰色の眼には悲しみのようなものがあった。「おれは気分がいいんだ」彼は言った。「誰とも喧嘩なんかしたくない。二人で上に行ってちびちびやろうじゃないか」
「あいつらが飲ませるものか。ここは黒人の店だと言ったはずだ」
「ヴェルマに八年会ってないんだ」深い悲しみを湛えた声で彼は言った。「さよならを言ってから八年もたってる。六年前から手紙も来なくなった。訳があるにちがいない。昔はここで働いていた。かわいいい娘だった。いっしょに上に行こう。なあ」
「分かった」私は叫んだ。「いっしょに行くよ。ただ運ばれるのは願い下げだ。歩かせてくれ。どこも悪くない。大人だし、便所にも一人で行ける。運ぶのだけはやめてくれ」
「かわいいヴェルマがここで働いてたんだ」彼は優しく言った。私の言うことなど聞いていなかった。
 我々は階段を上がった。自分の足で歩いた。肩はずきずきした。首の後ろがじっとり湿っていた。》

まず冒頭の「そこはセントラル・アヴェニューの混合ブロックの一つで、まだ黒人だけが住む地区にはなっていなかった」。原文は<It was one of the mixed blocks over on Central Avenue, the blocks that are not yet all Negro.>。清水氏は「セントラル街には、黒人だけが住んでいるわけではなかった。白人もまだ住んでいた」と、訳している。こなれた訳だが、黄色人種を忘れている。村上氏は如才なく「そこはセントラル・アヴェニューの混合ブロックのひとつだった。つまり黒人以外の人間も、まだ少しは住んでいるということだ」と無難に訳している。

「ディミトリアス・アレイディスという名の理髪師がそこで臨時雇いで働いているかもしれないというのが紹介所の考えだった」は<where an agency thought a relief barber named Dimitrios Aleidis might be working..>。問題はこの<agency>をどう採るかだ。清水氏は「職業紹介所からまわされたディミトリアス・アレイディスという理髪職人がそこで働いているはずなのだった」と訳している。つまり「職業紹介所」という理解である。

村上氏は「ディミトリアス・アレイディスという理髪職人がその店で臨時雇いとして働いているかも知れないという情報を、調査エージェンシーから得ていたのだ」と訳している。つまり探偵業者が頼りにする「調査エージェンシー」と考えている。マーロウは、たしかに、他の機関に調査を依頼することがある。大手の方が広く情報を収集できるからだ。しかし、職業が分かっているなら「職業紹介所」に電話するという手もある。原文からは、どちらとも判別するのは難しい。こういうときは原文通りに訳すことにしている。

「私は男を見つけ出せなかった。が、アレイディス夫人も一銭も払わずにすんだ」は<I never found him, but Mrs. Aleidis never paid me any money either.>。<never>を繰り返すことで対比の効果を狙うチャンドラーらしい文だ。前後をつなぐ<but>をどう処理するか。清水氏は「男はその店にいなかった。結局、私はアレイディス夫人から一門も金をもらえなかった」と、あっさり訳している。

村上氏はというと「結局その男は見つからなかった。でもそんなことを言えば、ミセス・アレイディスにしたって、一銭の報酬も払ってくれなかった」と一応<but>を意識した訳にしている。ただ、「私」と「夫人」を対比して<never>を使っている作家の意図は生かされていない。「私は夫人の意に沿うことができなかったが、夫人もまた私の意に沿うこと(金を出す)ことはしなかった」。これで痛み分け、ということではないのだろうか。

「頼みの綱の両腕はだらりと垂れ」は<His arms hung loose at his aides>。清水氏は「腕をぶらりと下げて」。村上氏は「両腕はだらんと脇に垂れ」と訳している。<aide>は「副官、助手」の意味だが、両氏ともこれについては無視を決め込んでいる。状態としてはその通りなのだが、何か気になる。その後大活躍することになる両腕だ。敬意を表して意訳してみたが、自信はない。

大男の奇抜な服装も要注意だ。「毛羽立ったボルサリーノ帽」は<a shaggy borsalino hat,
>。映画『ボルサリーノ』以来、知られるようになったが、もともと「ボルサリーノ」はブランド名。この店が開発したソフトな帽子が出るまでは、男性用の帽子は硬い生地で固められた物ばかりだった。問題は<shaggy>だ。「毛羽立った」の意味が主だが、「だらしない」といった意味もある。清水氏は「形のくずれたやわらかいソフト帽」と訳している。村上氏は「けばだったボルサリーノ帽」だ。材質がフェルトということで「毛羽立った」としたが、清水訳も捨てがたい。

もう一つ「タック入りのグレイ・フランネルのスラックス」<pleated gray flannel slacks>がある。清水氏は「よれよれになった灰色のフランネルのズボン」と訳す。どうやら清水氏はこの大男に、伊達ではなく落魄の気配を感じている様子が見て取れる。村上氏は「プリーツのついたグレイのフランネルのズボン」と、こちらはパリッとした印象を受けている様子。正反対だが「pleated」の「プリーツ」とは、折り目というよりは「襞」のことで、男物のズボンなら「タック」の入ったものを意味する。1940年代、ギャング・スターならズート・スーツできめていたはず。だぶだぶのズボンはツータックだったかもしれない。

「男はまるでエンジェル・フード・ケーキの一切れの上に乗ったタランチュラと同じくらい人目を引かなかった」は<he looked about as inconspicuous as a tarantula on a slice of angel food.>。清水氏は「この男はエンジェル・ケーキの上の一匹の毒蜘蛛のように人眼をひいた」。村上氏は「それでも彼はエンジェル・ケーキに乗ったタランチュラみたいに人目をひいた」だ。

<inconspicuous>は<conspicuous>「目立つ、人目を引く」の前に<not>の意味を表す接頭辞<in>がついていることで、「目立たない、人目を引かない」の意味になる。わざわざ、この語を用いているのだから、ここは逆説の用法と考えるべきではないか。それを両氏のように訳したのでは、作者の意志を裏切るような気がする。事程左様にチャンドラーの文章は素直ではない。訳者にすれば、分かりよく訳したいのはやまやまだが、そうすると原文からは外れることになる。痛しかゆしというところか。

「すぐに伸びる質らしい」は<He would always need a shave.>。清水氏は「いつでも、ひげ(傍点二字)のあとが眼につく男にちがいない」。村上氏は「いついかなるときにも髭剃りが必要に見えるタイプなのだろう」。村上氏の訳にまちがいはないのだろうが、必要以上に勿体ぶっている気がする。こういうところが評価の分かれるところだろう。

「両開きのスウィング・ドア」は<double swinging doors>。西部劇に出てくる酒場の入口を思い出してもらえればイメージしやすいのだが、近頃、西部劇自体を目にすることがないので難しいかも知れない。両側の柱に蝶番で止められた二枚のルーバーのドアだ。清水氏は「二重ドア」と訳している。これは『長いお別れ』のときにも書いたので、詳しくはそちらを。村上氏は「両開きのスイング・ドア」としている。

「ぎこちない足取り」と訳したところは<splay-footed>。清水氏は「びっこをひきながら」。村上氏は「偏平足みたいな足取り」。<splay-footed>は辞書で引くと「偏平足」と出てくる。『大いなる眠り』では<flatfoot>を使っていて、この時も双葉氏は「偏平足みたいな歩き方」と訳していた。ただ、この時は村上氏は「はたはたとした足取り」という訳を採用していたのだが、ここでは「偏平足みたいな足取り」と訳している。アメリカ人は見ただけでその人が偏平足だと分かるのだろうか。年来の疑問の一つである。

「かくして、私はドアを押し開けて中を覗いた」は<So I pushed them open and looked in.>。清水氏は「私はドアを押しあけて、中をのぞいた」と、あっさり訳している。村上氏は「なのに私はその扉を押し開け、中をのぞき込んだ。そういう性分なのだ」と、一歩踏み込んで訳している。

「私とは何のかかわりもなかった」< It wasn't any of my business.>と< I pushed them open and looked in.>をつなぐ<so>をどう扱うかのちがいだ。清水氏の「順接」という解釈もありだが、気持ち的には村上氏の「逆接」の方が原文により近い気がする。かといって「そういう性分なのだ」までつけ加えるのはどうだろう。「かくして」前述のような訳に相成った次第。

「自分の足で歩いた」は<He let me walk.>。清水氏はここをカットしている。その前に「われわれは階段を上って行った」とあるから、わざわざ書かなくても分かると考えたのかもしれない。村上氏は「彼は私を歩かせてくれた」とそのまま訳している。その通りなのだが、かなり翻訳調に感じられる訳ではある。ただ、村上訳はすべてがこの調子の翻訳調なので別に違和感はない。そういう文体と思えばいいだけのことだ。それが鼻につくようなら自分で訳してみればいい。それはそれで結構愉しい経験になる。

『大いなる眠り』註解 第三十二章(3)

《「いいか」私は重々しく続けた。「妹を連れ出せるか? どこかここから遠く離れたところにある、君の妹のようなタイプを扱い慣れ、銃やナイフやおかしな飲物を遠ざけておいてくれるところだ。ああ、君の妹だって治るかもしれない。そういう例もある」

 ヴィヴィアンは立ち上がるとゆっくり歩いて窓のところまで行った。足もとにはずっしりした厚地の象牙色のカーテンが折り重なっていた。その襞の間に立って外を見た。目の前には静かに暮れなずむ山麓が広がっていた。身じろぎもせず、まるで襞の中に紛れるように立っていた。両手は脇にだらんと垂れ、手はぴくりとも動かなかった。それから振り返って部屋の中を戻ってきたが、私を見もしないで通り過ぎた。私を背にしたとき、はっと息を呑み、話した。

「ラスティは汚水溜めの中にいる」彼女は言った。「惨めに腐り果てて。私がやった。あなたが言ったとおりのことをした。私はエディ・マーズのところに行った。妹は家に帰ると、ありのまま話した。子どもみたいに。妹は普通じゃない。警察は妹からすべてを聞き出すと思った。妹はすぐに自慢気にしゃべり出すだろう。もし父の耳に入れば、即座に警察を呼び、すべてを話すはず。そして、その夜の裡に死んでいた。問題は父の死じゃない──死ぬ前に父が何を思うかということ。ラスティは悪い人じゃなかった。私は愛していなかったけど。立派な人だと思う。でも、死のうが生きようが、私にはどっちでもよかった。父に知られないようにすることに比べれば」

「そして君は妹を好きなようにさせている」私は言った。「また別の騒動を起こすために」

「私は時間を稼いでいた。ただの時間稼ぎ。もちろんそれは間違った態度だった。ひょっとしたら妹は自分のしたことを覚えていないのでは、と思った。発作のときに起きたことは記憶に残らないと聞いたことがある。たぶん思い出すこともないだろう、と。エディ・マーズが財産を搾り取ろうとするのは分かっていた。でも構わなかった。私は助けを必要としていて、頼れるのはエディのような人だけだった……ほとんどすべてが自分でも信じられないときがあった。また別のときはすぐ酔っぱらわなきゃならなかった──どんな時でも、恐ろしいほどの勢いで」

「妹を連れだすんだ」私は言った。「それこそ、恐ろしいほどの勢いで」

彼女はまだ私に背を向けていた。声は優しくなっていた。「あなたは?」

「なにもしない。私は引き揚げる。三日の猶予をやろう。それまでに君が消えたら──それでいい。もしそうしなければ、事件は明るみに出る。本気じゃないなどと考えないことだ」

 女は突然振り返った。「あなたに何と言ったらいいかが分からない。何から始めたらいいのかも」

「いいさ。妹をここから連れ出し、一分たりとも目を離さないことだ。約束できるかい?」

「約束する。エディには──」

「エディのことは忘れろ。少し休んだら私が会いに行く。エディの扱いは私に任せておけ」

「エディはあなたを殺そうとする」

「そうだな」私は言った。「それは一番の腕利きにもできなかった。他の連中を試してみよう。ノリスは知ってるのか?」

「ノリスは決して言わない」

「知ってると思ってたよ」

 私は女をその場に残し、急いで部屋を出た。外のタイル敷きの階段を下りて玄関に出た。家を出るとき誰一人会わなかった。今回は自分で帽子を見つけた。外に出ると、明るい庭園が幽霊でも棲みついているかのように見えた。まるで小さな血走った目が藪の陰から私を見張っているような気がした。陽光そのものが光の中に何か謎めいたものを孕んでいるように思われた。私は車に乗り込み、丘を下った。

 一旦死んでしまえば、どこに寝かされようが構いはしない。そこが不潔な汚水溜めの中だろうと、高い丘の上に建つ大理石の塔の中だろうと、何の変わりがあるだろう? 死者は大いなる眠りに就いており、そのようなことに煩わされることがない。石油も水も死者にとっては風や空気のようなものだ。死者はただ大いなる眠りの中におり、どんな死に方をし、どこへ倒れようが、その汚れを気にすることはない。私はといえば、今ではその汚れの一部だ。ラスティ・リーガン以上に、汚れの一部と化している。しかし、あの老人にその必要はない。静かに天蓋付きの寝台に横たわり、血の気の失せた両手をシーツの上に組んで、待つだけでいい。心臓は短く不確かな心雑音を立てている。思考は灰燼のごとくどんよりしている。まもなく、ラスティ・リーガンのように、大いなる眠りに入ることだろう。

 

 ダウンタウンへの帰り道、一軒のバーに車を停め、スコッチをダブルで二杯飲んだ。それは何の役にも立たなかった。シルバー・ウィグのことを思い出させただけだった。その女とは二度と会うことはなかった。》<完>

 

「そういう例もある」は<It’s been done.>。双葉氏はこれをカット。村上氏は「そういう例もある」。「足もとにはずっしりした厚地の象牙色のカーテンが折り重なっていた。その襞の間に立って」は<The drapes lay in heavy ivory forlds beside her feet.She stood among the fords>。双葉氏はここもカット。ただ、さすがに「ついたて」はやめて「窓掛けに溶けこむようだった」と訳している。村上氏は「象牙色の厚いカーテンの裾が、彼女の足下に折り重なっていた。彼女はその布の堆積の脇に立って」と訳している。

 

「手はぴくりとも動かなかった。それから振り返って部屋の中を戻ってきたが、私を見もしないで通り過ぎた。私を背にしたとき」は<Utterly motionless hands. She turned and came back along the room and walked past me blindly. When she was behind me>。双葉氏はこれだけの部分を「私のほうへ帰ってくると」と大胆に省略して訳している。村上氏は「手は完全にぴくりとも動かなかった。彼女は振り向き、部屋を横切り、私の前を、私など眼中にないような顔で通り過ぎた。私の背後にまわったとき」と訳している。

 

「惨めに腐り果てて」は<A horrible decayed thing.>。双葉氏はこれもカット。最後だというのにやけにカット部分が多いのが気になる。村上氏は「もうぼろぼろに朽ち果てているわ」だ。「警察は妹からすべてを聞き出すと思った。妹はすぐに自慢気にしゃべり出すだろう」も双葉氏は「警察に知られればおしまいだと思った」と簡単に訳す。原文は<I kew the police would get it all out of her. In a little while she would even brag about it.>。村上氏は「もし警察に連絡したら、彼らは妹が撃ったことを即座に見破ったでしょう。そのうちに妹は、自分がやったことをみんなに吹聴するようにさえなったでしょう」と訳している。

 

「問題は父の死じゃない──死ぬ前に父が何を思うかということ」も双葉氏はカット。原文は<It’s not his dying──it’s what he would be thinking just before he died.>。ヴィヴィアンが何故そんなことをしたのか、その理由を語った重要な台詞なのに、なぜここをカットするのだろう。村上氏は「死ぬこと自体は仕方ない。問題は、父がどんな気持ちで死んでいくかよ」と、さすがに手馴れた訳だ。村上氏の方は最後ということもあって、いつも以上に力が入っている。

 

「私は時間を稼いでいた。ただの時間稼ぎ。もちろんそれは間違った態度だった。ひょっとしたら妹は自分のしたことを覚えていないのでは、と思った。発作のときに起きたことは記憶に残らないと聞いたことがある。たぶん思い出すこともないだろう、と」のところで、例のごとく<forget>が三度繰り返されている。原文を見てみよう。

 

<I was playing for time, just for time. I played the wrong way, of course. I thought she might even forget it herself. I’ve heard they do forget what happens in those fits. Maybe she has forgotten it.>。ここを双葉氏は「私、時間が解決してくれると思っていたの。妹は自でも事件を忘れると思ったの。発作のときは覚えていないという話ですものね」と、大胆に省略して訳している。

 

村上氏は「時間を稼いでいるのよ。ただの時間稼ぎよ。もちろんそれは正しいやり方じゃない。妹はそのことを、覚えてもいないんじゃないかと思う。そういう発作のあいだに起こったことは、記憶に残らないんだって聞いたことがある。たぶんすっかり忘れているんでしょう」と、訳している。<forget>を「覚えている」「記憶に残る」「忘れる」の三つを使い分けることで、重複の煩わしさを避けているところは上手いものだ。

 

マーロウが妹に撃たれかけたことを聞いて、ヴィヴィアンは自分のしたことを後悔しているのだろう。この部分はその言い訳である。それを村上氏のように現在形の時制で訳したのでは、開き直りに聞こえてしまう。英文の過去の時制をそのまま訳すと「…した。…した」となるので、訳文に現在形を使うことはある。しかし、それはあくまでも日本語の文として調子を整えるためであって、原文の意味が変わることがあってはならない。

 

双葉氏がカットした箇所があと二つある。「本気じゃないなどと考えないことだ」と「何から始めたらいいのかも」。前者は<And don’t think I don’t mean that.>。後者は<I don’t know how to begin.>。どうして、ここに来てわずかな手間を惜しんだのか、その理由が分からない。村上訳は「私が本気じゃないと思わない方がいいぜ」、「どこから始めればいいのか、私には分からない」と、最後まで手を抜かない。

 

「死者は大いなる眠りに就いており、そのようなことに煩わされることがない」は<You were dead, you were sleeping the big sleep, you were not bothered by thngs like that.>。この<you>は「人は(誰でも)」の意味だと思うが、双葉氏は「君は死んでしまった。大いなる眠りをむさぼっているのだ。そんなことでわずらわされるわけがない」と、訳している。ラスティへの語りかけ、ととったのだろう。まちがってはいないが、リーガンはすでに死者の仲間入りを果たしている。ここはラスティ・リーガン個人ではなく、すべての死者と取る方が意味深くなるように思う。村上氏も「死者は」と訳している。

 

末尾の「その女とは二度と会うことはなかった」は<and I never saw her again>。ハード・ボイルドらしい余韻の残る言葉だ。双葉氏は「その彼女にも、もう二度と会わないだろう」と訳しているが、<and>以下はこの話を語ってきた話者としての締めくくりの一文と考えたい。その時間の隔たりが余韻を生む。村上氏は「そのあと彼女には一度も会っていない」と訳している。

 

足かけ四年がかりで読んできた『大いなる眠り』も、これでようやく終えることができた。村上氏の真似をして午前中はこれにかかりきりだった(午後は読書にあてた)。はじめはBGMを聴く方も真似してみたが、集中できなくなるので、これはやめた。原書と新旧二冊の翻訳を読み比べる作業はおもしろかった。

 

途中で翻訳に関する参考書を何冊か読んだことで、後半は翻訳の文章が変わってきたと思う。会話を繋ぐところ以外では「彼女、彼」を使うことを極力避けた。また、女性の会話の最後に「よ、ね、わ」をつけることもやめた。どちらも、無意識にやっていたので、あらためて意識すると、それまでのようにはいかなくなった。生硬な文のように感じられたかもしれない。しかし、原書には女性と男性の間に特に違いはない。厳密にやり過ぎるのはよくないが、しばらくはこの方法でやってみたい、と考えている。

 

次回からは『さらば愛しき女よ』を三冊読み比べてみたい。清水氏の訳した文庫本が見つからないので、古本屋を漁りに行く必要がある。近頃、近くの古書店が相次いで店を閉めた。うまく見つからなければ、密林をあたるしかない。できたら地元の本屋で買いたいものだ。

 

長い間のお付き合い、ありがとうございました。

『大いなる眠り』註解 第三十二章(2)

《私は煙草を渡し、マッチに火をつけて差し出した。ヴィヴィアンは肺一杯に煙を吸い込むと乱暴に吐き出した。それからは煙草は指の間で忘れられたようで、二度と吸われることはなかった。
「さてと、失踪人課はラスティを見つけられないでいる」私は言った。「そんなに簡単なことじゃない。警察にできないことが私にできるはずもない」
「そう」その声には安心したような気分が感じられた。
「それが理由の一つ。失踪人課の連中は故意の失踪だと考えている。連中の言う、幕を引く、というやつだ。警察はエディー・マーズが殺したとは考えていない」
「誰がラスティは殺された、と言ったの?」
「その話をしようとしている」私は言った。
 束の間、彼女の顔がばらばらになったようだった。顔立ちはまとまりのない単なる造作の集まりになりかけた。口は今にも叫び声を上げそうになった。しかし、それはほんの一瞬だった。スターンウッド家の血には、黒い瞳や無謀さより役に立つ何かがあるのだろう。
 私は立ち上がり、女の指の間で煙を上げている煙草をとって灰皿で揉み消した。それからカーメンの小さな銃をポケットから取り出し、大げさなくらい気を配り、入念に白いサテン地の膝の上に置いた。収まりよく載せると、一歩下がって首を傾げた。ショウウインドウを飾り付ける職人がマネキンの首に巻いたスカーフの新しい捻りの効果を確かめるように。
 私は再び腰を下ろした。ヴィヴィアンは動かなかった。視線がじりじりと落ちて行き、やがて銃を見た。
「危険はない」私は言った。「薬室は五つとも空っぽだ。全部カーメンが撃った。五発とも私に向けて撃った」女の喉の血管が激しく脈打った。何か言おうとしたが声にならなかった。唾を飲み込んだ。
「五、六フィート距離があった」私は言った。「しゃれたまねをする。そうだろう? 気の毒だったが、銃には空包を詰めておいた」私はにやりと意地悪く笑った。「虫の知らせがあったんだ。カーメンはやるだろうと──機会さえあればね」
 声が戻るまでしばらくかかった。「あなたはぞっとするくらい嫌なやつ」彼女は言った。「身の毛がよだつ」
「そうだな。君は姉だ。この一件をどうするつもりだ?」
「あなたは言ったことを証明できない」
「何を証明するんだ?」
「妹があなたを撃ったこと。油井にいたのは二人きりだと言った。あなたは自分の言ったことを証明できない」
「ああ、そのことか」私は言った。「証言なんて考えてもいない。考えてたのは別の時のことさ──小さな銃の薬莢に実弾が入っていた時のことだ」
 ヴィヴィアンの目に闇が澱んだ。暗闇よりも虚ろだった。
「私はリーガンが消えた日のことを考えていた」私は言った。「その日の午後遅く、銃の撃ち方を教えようとカーメンを連れてあの古い油井まで行った時のことだ。リーガンは空き缶をどこかに置き、これを撃つんだと言って、君の妹が撃つ間近くに立っていた。カーメンは缶を撃たなかった。カーメンは銃をリーガンに向けて撃ったんだ。まさに今日私を撃ったやり方で。その理由も同じだ」
 ヴィヴィアンが少し動いて銃が膝から床に滑り落ちた。私がかつて聞いた中で最も大きな音の一つだった。ヴィヴィアンの目は私の顔に釘付けされていた。囁き声は苦悶に満ちて後を引いた。「カーメン…神よ、カーメンにお慈悲を…どうして?」
「カーメンが何故私を撃ったか本当に聞きたいのか?」
「ええ」目にはまだぞっとするものがあった。「聞く──しかないようね」
「一昨日の夜、家に帰るとカーメンがアパートメントにいた。私が待つように言った、と管理人を騙して入れてもらったんだ。ベッドに入っていた──裸でね。私は怒って部屋から放り出した。多分リーガンも同じようにしたんだろう。しかし、カーメンにそんなことをしてはいけないんだ」
 ヴィヴィアンは唇を引き寄せ、うわの空で舐めた。一瞬、怯えた子どものような顔になった。両頬が削げ、片手がゆっくり上がっていった。まるで糸で操られている人形の手のように。そして、その指が襟元の白い毛皮をおもむろに握りしめた。指は毛皮をきつく喉元に引き寄せた。そのあとは、座ってただじっと見つめた。
「お金」しわがれ声だった。「あなたは、お金が欲しいんでしょう」
「いくらだ?」冷笑的にならないように気をつけた。
「一万五千ドルでどう?」
 私はうなずいた。「そんなものだろう。それがお定まりの金額らしい。カーメンに撃たれた時リーガンのポケットにあった金額だ。君がエディー・マーズに助力を請うた時、カニーノ氏が死体を始末して得たのもその金額だろう。だが、エディー・マーズがそのうち手に入れようと目論んでいる金と比べれば、はした金だ。そうじゃないか?」
「ろくでなし」彼女は言った。
「そうさ。私は頗るつきの切れ者だ。感情や良心の咎めなど一切持たない。持ってるのは金に対する執心だけ。強欲すぎて一日二十五ドルの報酬以外に必要経費をとる。ほとんどはガソリンとウィスキー代だ。私は自分の考えで動く。大したことではない。危険を顧みず、警官やエディ・マーズとその仲間に憎まれ、銃弾をひらりとかわし、こん棒で殴られ、有難うございましたと礼を言う。名刺を一枚置いていくので、また問題が起きたら、私を思い出してくれると嬉しい。私はこういうことを一日二十五ドルでやる──その中には、病み衰えた老人の血に残されたわずかな誇りを守ることも、少し入っているかも知れない。考えたんだ。将軍の血は毒ではない。たとえ二人の娘が少々手に負えなくても、良家の子女は当節そんなものだ、変質者でも殺人鬼でもない。その挙句が、ろくでなし呼ばわりだ。いいさ。そんなこと気にしちゃいない。君の妹をはじめ、多種多様な人々からそう呼ばれてきた。君の妹にはもっと酷い言葉で呼ばれたよ。ベッドに入らなかったせいで。私は父上から五百ドル受け取った。請求したわけではないが、将軍にとっちゃはした金だ。もしラスティ・リーガン氏を探し出せたらもう千ドル貰える。今、君から一万五千ドルのオファーがあった。大物になったものだ。一万五千ドルあれば自宅を買い、新車とスーツが四着買える。仕事にあぶれる心配をせずに休暇がとれるかもしれない。結構なことだ。その金で私にどうしてほしいんだ? 私はろくでなしのままでもいいのか? それとも、紳士にならなきゃいけないのか? この間の夜、自分の車の中でのびていたあの飲んだくれのような」
 女は石像のように黙っていた。》

「顔立ちはまとまりのない単なる造作の集まりになりかけた」は<to become merely a set of features without form or control.>。双葉氏はこれをカットしている。村上氏は「それは形態や統制を欠いた、ただの部分の集まりのように見えた」と訳している。<set of features>は「目鼻立ち、顔立ち」のこと。人は無意識に表情を作っているものだ。驚きのあまり、彼女はそれを忘れたのだろう。

「スターンウッド家の血には、黒い瞳や無謀さより役に立つ何かがあるのだろう」は<The Sternwood blood had to be good for something more than her black eyes and her recklessness.>。双葉氏は「スターンウッドの血統は彼女の黒い目や無軌道さよりもはるかに強いものだった」。村上氏は「スターンウッド家の血は、黒い目と無謀さの他にも、彼女に何かしらの強い資質を与えているのだろう」と訳している。<(be) good for something>は「何かの役に立つ」の意味だ。両氏に訳に出てくる「強い」の意味はない。

「収まりよく載せると」は<I baranced in there>。双葉氏はここもカット。村上氏は「落ちないようにバランスをとって載せてから」と訳している。

「視線がじりじりと落ちて行き、やがて銃を見た」は<Her eyes came down millimeter by millimeter and looked at the gun.>。双葉氏は「じっと拳銃を見つめたまま動かなかった」と前の文とまとめて訳している。村上氏は「彼女の視線はミリ単位で下に降りていった。そして拳銃を見た」と訳している。

「薬室は五つとも空っぽだ」は<All five chambers empty.>。双葉氏は「五発ともからだ」。村上氏は「弾倉は五つとも空っぽになっている」。細かいことを言うと<chamber>は「薬室」。「弾倉」は<magazine>。弾倉が着脱式になっているオートマチックとちがって、リヴォルヴァーの場合、弾倉とは、蓮根状の形をした「回転弾倉」<cylinder>そのものを指す。したがって複数の形をとらない。

「声が戻るまでしばらくかかった」は<She brought her voice back from a long way off.>。双葉氏は「彼女はやっと声を出した」と訳している。村上氏は<a long way off>を距離的な意味にとって「彼女は遠くの方から声をかき集めてきた」と訳しているが、日本語として通じるだろうか。この場合、時間的な意味にとる方が分かりよいのではないか。

「証言なんて考えてもいない。考えてたのは別の時のことさ──小さな銃の薬莢に実弾が入っていた時のことだ」<I wasn’t thinking of trying, I was thinking of another time──when the shells in the little gun had bullets in them.>。双葉氏は「そりゃそうだ。いずれ実弾をいれてためしてみるか」と訳しているが、時制から見ても、これはまちがい。村上氏は「そんなことを誰かに話そうなんて思っちゃいないよ。私は前回のことを考えていたんだ。あの小さな拳銃にしっかり実弾が入っていたときのことをね」と訳している。

「目にはまだぞっとするものがあった」は<Her eyes were still terrible.>。双葉氏はここをカットして二つの会話をつなげて「ええ。きかせて……」と訳している。村上氏は「彼女はまだすさまじい目をしていた」と訳している。

「しかし、カーメンにそんなことをしてはいけないんだ」は<But you can’t do that to Carmen.>。双葉氏はここを「もっとも、君は妹さんにそんなまねはできまいが」と訳している。<you>をヴィヴィアンととったのだろう。しかし、この<you>は「人は(誰でも)」の意味でとらないと意味が通じない。村上氏は「しかしカーメンを相手にそんなことをしちゃいけないんだ」と訳している。

「君の妹にはもっと酷い言葉で呼ばれたよ。ベッドに入らなかったせいで」は<She called me worse than that for not getting into bed with her.>。双葉氏はここもカットしている。この長広舌は、マーロウのいわば決め台詞だ。しっかり訳してほしいところ。村上氏は「彼女はもっと凄まじい言葉を使ったな。彼女と一緒のベッドに入らなかったという理由でね」としっかり訳している。

『大いなる眠り』註解 第三十二章(1)

《優しい目をした馬面のメイドが二階の居間に案内してくれた。灰色と白の細長い部屋には象牙色の厚地のカーテンの裾が贅沢に床に崩れ落ち、床一面に白い絨毯が敷きつめられていた。映画スターの閨房みたいな魅惑と誘惑の場所は義足のように人工的だった。今のところは誰もいない。私の背後でドアが閉じた。病院のドアのように不自然なほどそっと。車輪付きの朝食用テーブルが寝椅子の傍に置かれ、銀器が輝いていた。コーヒー茶碗には煙草の灰。私は腰を下ろして待った。
 ドアが再び開いてヴィヴィアンが入ってくるまでが長く感じられた。部屋着代わりの灰色がかった白のパジャマは白い毛皮で縁取られていた。どこかの上流階級が占有する小島のビーチに打ち寄せる夏の波の泡に負けない流麗な仕立てだった。
 大股で滑らかな足取りで私の前を通り、寝椅子の端に腰を下ろした。唇の端に煙草を咥えていた。今日の爪は銅のような赤で塗られていた。つけ根から爪先まで半月部分も残らず。
「結局あなたは、ねっからの人でなし」彼女は私を見つめ、静かに言った。「正真正銘の血も涙もない人でなし。あなたは昨夜人を殺した。誰から聞いたかは気にしないで。そう聞いた。ところで、今日は今日でここに来て、妹を気絶するほど脅かさなきゃならなかった」
 私は何も言わなかった。ヴィヴィアンはそわそわし始めた。小振りの椅子に移動して頭をそらせ、壁際の椅子に置かれた白いクッションに凭せかけた。青みがかった灰色の煙を上の方に吹いて、天井の方に漂いながら切れ切れになるのを見ていた。それは少しの間見分けがついたが、やがて空気の中に消えてなくなった。それから、とてもゆっくり視線を下ろし、冷たく刺々しい一瞥を私にくれた。
「私にはあなたが理解できない」彼女は言った。「感謝はしてる。一昨日の夜、私たちのうちの一人が平静を保てたことに。酷い目はもう充分。酒の密売人との過去だけで。お願い、何とか言って」
「妹はどうだ?」
「あの子なら大丈夫。熟睡してる。いつもすぐ寝てしまう。あの子に何をしたの?」
「何も。父上に会った後、あの子が家の前にいた。木に吊るした的にダーツを投げていたんだ。下りて行って話しかけた。預かり物があったのでね。かつて、オーウェン・テイラーが買い与えた小さなリヴォルヴァーだ。この間の晩、カーメンはそいつを手にブロディのところに現れた。ブロディが殺された晩だ。私はそれを取り上げなければならなかった。そのことは話さなかったから、君は多分知らなかったんだろう」
 スターンウッド家の黒い瞳がうつろに見開かれた。今度はヴィヴィアンが口を閉ざす番だった。
「カーメンは銃を返してもらって喜び、私に撃ち方を教えて欲しがった。そして、丘を下ったところにある古い油井を見せたがった。君の一家が一財産を作った場所だ。それで、我々はそこに行った。気味の悪い場所だった。錆びた金属、古い木材、黙した油井、浮き糟の浮いた汚水溜め。それがカーメンを混乱させたのかもしれない。君も行ったことがあるだろう。薄気味の悪い所だ」
「ええ──行ったことがある」今では息を殺した声になっていた。
「そこへ行って、私はあの子が撃てるように回転輪の中に空き缶を突っ込んだ。カーメンはひきつけを起こした。軽い癲癇による発作のように見えた」
「そうね」同じ息を殺した声だった。「妹は時々それをやるの。私に会いたかったのはそれについてだけ?」
「エディー・マーズが握っている君の弱みについては、まだ話したくないんだろう」
「話すことなんかない。その質問にはうんざりしかけているところ」彼女は冷たく言った。
カニーノっていう名の男を知ってるか?」
ヴィヴィアンは考え込むように美しい黒い眉根を寄せた。
「ぼんやりと。名前に聞き覚えがあるみたい」
「エディー・マーズの用心棒だ。タフなやつだと聞いてはいたが、実際そうだった。ある女性のちょっとした助けがなかったら、あいつのいるところに私がいる羽目になっていた──死体公示所に」
「女性たちはどうも──」彼女はそう言いかけ、蒼ざめた。「それについて冗談は言えない」とだけ、彼女は言った。
「冗談は言ってない。仮に私の話が堂々巡りに見えたとしても、偶々そう見えるだけのことだ。すべては結びついている──何もかもだ。ガイガーとその気の利いたちゃちな脅迫のトリック、ブロディと例の写真、エディー・マーズと奴のルーレット・テーブル、ラスティ・リーガンと駆け落ちしなかった女とカニーノ、すべてが結びついている」
「悪いんだけど、あなたが何の話をしてるのか私には分からない」
「分かってるはず──差し詰めこのようなことだ。ガイガーは君の妹を物にした。造作もないことだ。そして、借用書を何枚か手に入れて君の父上を脅迫しようとした。遠回しにね。ガイガーの背後にはエディー・マーズが控えていた。奴を保護して手先に使っていたんだ。父上は金を支払う代わりに私を呼んだ。それは父上が何も怖れていないことを示している。エディー・マーズはそれを知りたかった。あいつは君の弱みを握っていて、それが将軍にも使えるかどうかを知りたかったからだ。もし、使えそうなら大金を容易に手に入れられる。使えなければ、君が家族の財産の分け前を得るまで待たなければならない。それまでは、ルーレット・テーブル越しに君から余財を奪い取ることで満足せざるを得ない。ガイガーを殺したのはオーウェン・テイラーだ。君のばかな妹に惚れていて、ガイガーが彼女を弄ぶゲームを嫌っていた。エディにはどうでもいいことだ。エディはもっと大博打を打っていた。ガイガーも、ブロディもしらない、君とエディー・マーズとカニーノという名のタフガイの他は誰も知らないことだ。君のご亭主が失踪すると、誰もが知るようにリーガンとの間にひびが入っていたエディは、女房をリアリトに隠し、カニーノを見張りにつけた。女がリーガンと逃げたように見せかけるためだ。さらに、リーガンの車をモナ・マーズが以前住んでいた場所のガレージの中に運ばせた。単にエディが君の亭主を殺したか、殺させたのではないかという疑惑をそらそうとしたのなら、少し考えが足りないように思えるが、実のところ、それほど浅慮でもない。別の動機があったからだ。百万ドルがかかっていた。あいつはリーガンがどこにどうした消えたかを知っていた。そして、警察にそれを発見されたくなかった。満足できる失踪の説明がほしかったんだ。退屈させてるかい?」
「あなたにはうんざりよ」彼女は疲れきった声で言った。「どれだけ退屈させたら気が済むの!」
「すまないね。私はただ賢ぶりたいために無駄口を叩いているわけじゃない。今朝、君の父上から、リーガンを見つけたら千ドル出そうという申し出があった。私にとっては大金だが、私にはできない」
 ヴィヴィアンの口がぱっと開いた。息が急に激しく荒くなった。「煙草をちょうだい」しわがれた声で彼女は言った。「どうして?」喉の血管が脈打ちはじめた。》

象牙色の厚地のカーテン」は<ivory drapes>。双葉氏は第三章と同じく「床にころがった象牙色のついたて」と訳している。執事もメイドもいる大邸宅に、いつまでもついたてが転がっているはずもないだろうに。「義足のように人工的だった」の部分も双葉氏はカットしている。原文は<artficial as a wooden leg>。村上訳は「義足顔負けに人工的だ」。

「今日の爪は銅のような赤で塗られていた。つけ根から爪先まで半月部分も残らず」は<Her nails today were copper red from quick to tip, without half moons.>。双葉氏は「今日の彼女の爪は急いで切ったとみえ、銅赤色で白い半月形がなかった」と訳している。これは<quick>を「急いで」と訳したことから来る誤り。この<quick>は名詞で「爪のつけ根」の意味だ。村上氏は「今日の手の爪は銅のような赤だ。根元から先っぽまで、半月も残さずしっかり塗られている」と訳している。

「酷い目はもう充分。酒の密売人との過去だけで」は<It’s bad enough to have a bootlegger in my past.>。双葉氏は「私の過去に闇屋がいたのはおもしろくないことね」と訳している。これでは、ヴィヴィアンがマーロウの気を引いているようにも読める。この文の意味するところは、もう男はこりごりだという意味だろう。村上訳は「過去に一人の酒の密売人と関わっただけで、もう十分大変な目にあっている」と訳している。

「錆びた金属、古い木材、黙した油井、浮き糟の浮いた汚水溜め」は<all rusted metal and old wood and silent wells and greasy scummy sumps>。双葉氏は「腐った金具だの材木だのがころがっていて」と、略している。村上訳は「錆びた金属、古い材木、ひっそりした油井、油が混じったどろどろの沼」と訳している。<scummy>は「浮きかす」のことで、汚水の上に浮いた油膜のことだろう。水と油はふつう混ざらない。「油が混じったどろどろの沼」という訳はどうだろう。

「カーメンはひきつけを起こした。軽い癲癇による発作のように見えた」は<She threw a wingding. Looked like a mild epileptic fit to me.>。双葉氏は「ところが彼女はとたんに発作が起こったまねをはじめた」と訳している。<wingding>には「どんちゃん騒ぎ」の意味があるので、双葉氏はそれに引っ張られたのだろう。しかし、アメリカやカナダでは「ひきつけ、発作」の意味もある。<epileptic>は「癲癇」。村上訳は「そのとたんに発作が始まった。それが私の目には穏やかなてんかん(傍点四字)の発作のように見えた」と訳しているが、「穏やかなてんかん」は変だ。この<mild>は「軽度の」という意味だろう。

「仮に私の話が堂々巡りに見えたとしても、偶々そう見えるだけのことだ」は<and if I seem to talk in circles, it just seems that way.>。双葉氏はここをカットしている。<talk in circles>は「堂々巡りの論議をする」という意味。村上氏は「そしてもし私の話が堂々巡りのように見えたとしても、それはただ見かけに過ぎない」と訳している。

「遠回しにね」は<in a nice way>。双葉氏はこれもカット。村上氏は「あくまでもにこやかにね」と訳している。「それは父上が何も怖れていないことを示している」は<which showed he wasn’t scared about anything>。双葉氏は「ほかのことは何も心配していなかった」と訳しているが、これはおかしい。村上氏は「それは彼が何も恐れていないということを意味している」と訳している。

「それまでは、ルーレット・テーブル越しに君から余財を奪い取ることで満足せざるを得ない」は<in the meantime be satisfied with whatever spare cash he could take away from you across the roulette table>。双葉氏は「それまで君がルーレットでもうけるのをがまんして見ていようという寸法だった」と訳しているが、反対の意味にとっている。村上氏は「そして当分の間は、君がルーレットですってくれる(傍点六字)はした金で満足しなくてはならない」だ。<spare cash>は「余分な現金、余財」のことで、遺産が手に入るまで、父から与えられている金のことだ。

「私はただ賢ぶりたいために無駄口を叩いているわけじゃない」は<I’m not just fooling around trying to be clever.>。双葉氏は「僕はりこうになろうと思ってうろつきまわっていたんじゃない」と訳している。<fool around>にはたしかに「ぶらつく」の意味があるが、ここでは、その前の長広舌を指している。村上氏は「私は何も自分を賢く見せかけるために、もったいぶって話をしているわけじゃないんだ」と訳している。