HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第21章(2)

指輪がフィンガー・ブレスレットを連想させた、その理由

【訳文】

《艶やかな巻き毛の、浅黒く痩せ細ったアジア風の顔をした女だ。耳には毒々しい色の宝石、指にいくつも大きな指輪をしていた。月長石や銀の台に嵌めたエメラルドは本物かもしれないが、どういうわけか十セント・ストアのフィンガー・ブレスレットのような安物に見せようとしていた。手はかさかさして黒く、若さもなく、指輪に似つかわしくなかった。
 女が話し出した。聞き覚えのある声だった。「ああ、ミースタ・マーロウ、よおこそいらっしゃいました。アムサーがとっても喜ぶでしょう」
 私はインディアンがくれた百ドル札を机の上に置いた。後ろを振り返ると、インディアンはもうエレベーターで下に降りていた。
「ご厚意は有難いのだが、こいつは受け取れない」
「アムサー、彼はあなたを雇いたがっている、ちがいますか?」彼女はまた微笑んだ。唇がティッシュペーパーのような音を立てた。
「まず、その仕事がどんな仕事かを知る必要がある」
 彼女は肯き、ゆっくり席から立ち上がった。人魚の皮膚のようにタイトなドレスが私の前で衣擦れの音を立てた。いいスタイルをしていた。腰から下が上より四サイズ大きいのが好みなら。
「ご案内します」彼女は言った。
 彼女が鏡板についたボタンを押すと、ドアが音もなく開いた。その向こうは乳白色に輝いていた。私は通り抜ける前に彼女の笑顔を振り返った。今やそれは古代エジプトより年古りていた。私の背後でドアが静かにしまった。
 部屋には誰もいなかった。
 床から天井まで黒いヴェルヴェットで覆われた八角形の部屋だった。高く離れた黒い天井も、ヴェルヴェットかもしれない。真っ黒な光沢のない絨毯の中央に、二人が肘を載せるのに程よい大きさの八角形の白いテーブル。その真ん中に黒い台の上に載せられた乳白色の球体が置かれている。光はそこから漏れていた。仕掛けは分からない。テーブルの両側にテーブルを小さくした八角形の白いスツールがあった。壁の向こうに、もう一つ同じようなスツールがある。窓はなかった。部屋には他に何もない。壁には照明器具さえついていなかった。どこかに別のドアがあるとしても見つけることができなかった。振り返ってみても、自分の入ってきたドアも見つけられなかった。
 おそらく十五分ほど突っ立っていた。誰かに見られているような気がしていた。どこだか分からないが、たぶん、どこかに覗き穴があるはずだ。私は探してみようともしなかった。自分の息遣いが聞こえた。部屋があまりに静かで、鼻を通る息の音さえ、小さなカーテンがそよぐ音のように優し気に聞こえた。
 見えないドアが部屋の奥に開き、一人の男が入ってきた。ドアが後ろで閉まった。その男はうつむいたまま真っ直ぐテーブルまで歩き、八角形のストゥールに腰を下ろし、手をさっと動かした。初めて目にするような美しい手だった。
「どうぞおかけください。私の真向かいに。煙草を吸ったり、そわそわしたりしないで。リラックスするよう心がけてください。さて、どういうご用向きでしょう?」
 私は腰を下ろし、煙草を口にくわえ、唇のあいだで転がしたが、火はつけなかった。私は男を観察した。痩せて背が高く、背筋は鉄の棒でも入れたように真っすぐだった。これ以上はない白さと細さを併せ持つ白髪だった。絹のガーゼで漉したようだ。皮膚は薔薇の花弁のようだった。三十五歳、もしかしたら六十五歳かもしれない。年齢不詳だ。髪は、往時のバリモアを思わせる端正な横顔から、真っすぐ後ろに撫でつけられていた。眉毛は壁や天井、床と同じように漆黒だった。眼はあまりに深過ぎ、底が知れなかった。薬づけにされた夢遊病者の眼だ。前に読んだ井戸の話を思い出す。古い城にある、九百年前の井戸。そこに石を落として待つ。耳を澄ませ、待ちくたびるほど待ち、やがてあきらめて笑いながら立ち去ろうとしたとき、井戸の底から、微かな水音が帰ってくる。信じられないほど、小さく、遥か彼方から。
 男の眼はそれくらい深かった。また、およそ感情や魂を欠いていた。ライオンが人を食いちぎるのを見ても動じず、体の自由を奪われた男がまぶたを切り裂かれ、熱い太陽の下で叫び声を上げていても見続けていられる眼だった。
 ダブル・ブレストの黒いビジネス・スーツから職人の腕の良さが見て取れた。虚ろな目は私の指先を眺めていた。
「どうか、落ち着いて」彼は言った。「波動が壊れ、集中力を妨げるので」
「氷を溶かし、バターを溶かし、猫を鳴かせる」私は言った。
 彼は世界一微かな微笑を浮かべた。「減らず口をきくために来たわけじゃないだろう」
「なぜ私がここに来たのか、お忘れのようだ。それはともかく、百ドルは秘書に返しておいた。私が来たのは、覚えているかもしれないが、煙草の件だ。マリファナが詰まったロシア風煙草で、吸い口に君の名刺が丸めて詰められていた」》

【解説】

「艶やかな巻き毛の、浅黒く痩せこけたアジア風の顔をした女だ」は<She had sleek coiled hair and a dark, thin, wasted Asiatic face>。カーラーで巻いたカーリー・ヘアだと思うのだが、両氏とも、全く異なる訳になっている。清水氏は「彼女は髪をぐるぐる頭にまいて、アジア人種らしい浅ぐろい顔をしていた」と訳している。<coiled hair>を「ぐるぐる巻き」と解釈したわけだ。村上訳は「彼女の髪は艶やかにウェイブしていた。顔立ちはアジア風で、浅黒くこけて、やつれた趣きがあった」だが、コイル状にした髪をウェイブとは言わないだろう。

「耳には毒々しい色の宝石、指にいくつも大きな指輪をしていた」は<There were heavy colored stones in her ears and heavy rings on her fingers>。清水氏は「耳には毒々しい色彩の大きな宝石をたらし、指には大きな指輪をいくつもはめていた」と訳している。村上氏は「耳には派手に彩色した飾りがつき、手の指には重い指輪がはまっていた」と訳している。<colored stone>は「ダイヤモンド以外の天然宝石」のことだが、村上氏はそうはとっていないようだ。また、いつもは単数、複数にこだわる村上氏が、二つの<s>を無視しているのも訳が分からない。

「どういうわけか十セント・ストアのフィンガー・ブレスレットのような安物に見せようとしていた」は<but somehow managed to look as phony as a dime store slave bracelet>。清水氏は「どういうわけか、十セント・ストアのまがいものののように見えた」と訳している。村上訳は「それをわざと量販店で売られる安物の腕輪に見せかけているみたいにも見える」だ。清水氏は知らぬ顔を決め込んでいるが、<slave bracelet>というのは、ベリー・ダンスのダンサーがつけているような、指から手の甲にかけてチェーンでつないだブレスレットのことをいう。「腕輪」にはちがいないが、単なるブレスレットとは形状が異なる。

「手はかさかさして黒く、若さもなく、指輪に似つかわしくなかった」は<And her hands were dry and dark and not young and not fit for rings>。清水氏は「手は黒く、かさかさした感じで、指環にそぐわなかった」と、語順を入れ替えることで<not young>をカットしつつ、感じは伝えようとしている。それに対し、村上氏は「手はかさかさして浅黒く、若さがうかがえず、指輪はサイズが合っていなかった」と訳している。

主語は<her hands>であって、指輪ではない。指輪に手のサイズが合わないというのは本末転倒だが、チャンドラーはそう書いている。貧相な手の方が本物の宝石に負けている、と言いたいのだ。訳者が勝手に変えるべきではない。これは想像だが、潤いのない痩せた指にはまった大き目の指輪が<slave bracelet>を連想させたのではないだろうか。指輪が何故フィンガー・ブレスレットに繋がるのか、それで分かったような気がする。もしかしたら、村上氏は<slave bracelet>の形状をご存じなかったのかもしれない。

「いいスタイルをしていた。腰から下が上より四サイズ大きいのが好みなら」は<and showed that she had a good figure if you like them four sizes bigger below the waist>。清水氏は「美しい線を見せていた。腰から下の線が特に魅力的だった」と訳している。訳者の好みを主人公に押しつけてはいけない。村上訳は「彼女がとても素晴らしい身体をしていることが見て取れた。腰から下が、上より四サイズばかり大きいところがお気に召せばだが」。

「今やそれは古代エジプトより年古りていた」は<It was older than Egypt now>。初対面の時の彼女の印象に触れた「手が触れたら粉々になってしまいそうな、からからに干からび、こわばった微笑」を踏まえた、いわば駄目押しである。清水氏はここをカットして「私は彼女の微笑をもう一度見なおしてから、中に入った」と書いている。これでは、マーロウが女の微笑を、どう受け止めたのか分からない。村上氏は「今ではそれは古代エジプトよりも過去のものになっていた」と訳している。「過去のもの」という訳では、女がもう笑っていなかったようにも読める。そうではない。エジプトのミイラのように干からびた微笑の乾燥度がより強まった、と言っているのだ。

「ダブル・ブレストの黒いビジネス・スーツから職人の腕の良さが見て取れた」は<He wore a double-breasted black business suit that had been cut by an artist>。清水訳は「ダブル・ブレストの地味な服を着ていたが、画家がデザインをしたようにからだに合っていた」。村上訳は「ダブルの黒いビジネス・スーツを着ていた。芸術的なまでに美しくカットされたスーツだ」。<artist>ときたら、画家・芸術家という訳は考えものだ。その道の名人・達人という意味もある。一流のテイラーなら立派な<artist>である。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第21章(1)

サンセット・ブルヴァードを、「素早く通り抜け」られるはずがない

【訳文】

《車はダーク・ブルーの七人乗りのセダンだった。最新型のパッカード、特注品。真珠の首飾りをつけたときに乗るような車だ。消火栓の脇に停められていて、木彫のような顔をした浅黒い異国風の運転手がハンドルを握っていた。革張りの内装は、グレイのシャニール糸によるキルト仕上げだ。インディアンが私を後ろの席に押し込んだ。一人でそこに座っていると、葬儀屋がたっぷりと手をかけて上品に仕上げたハイクラスの死体になった気分だった。
 インディアンが運転手の隣に乗り込み、車はブロックの真ん中で方向を転じた。通りの向こう側で警官が「おい」と半端な声をかけた。本気ではないみたいに。それからそそくさと屈んで靴ひもを締めた。
 我々は西に向かい、サンセットに立ち寄り、音もなく急いでそこを通り過ぎた。インディアンは身じろぎもせず運転手の傍に坐っていた。その個性的な匂いがときどき私のところまで漂ってきた。運転手は半ば眠っているように見えたが、コンヴァーティブル・セダンに乗った走り屋の車が牽引されているように見えるほど軽々と抜き去った。ある種の運転手がそうであるように、彼が通ると信号は必ず青に変わった。ひとつの例外もなかった。
 一マイルか二マイルほどカーブが続く、きらびやかなサンセット・ストリップを通り抜けた。映画俳優の名前がついた骨董屋、手編みレースと古い白目でいっぱいのウィンドウ、禁酒法時代を潜り抜けたギャング上がりが経営する、評判のシェフと評判の賭博場を擁した今を時めくナイトクラブ、今となっては流行遅れのジョージ王朝風のコロニアル建築、ハリウッドの人買いどもが金の話を止めない、堂々たる近代的ビルディング、女の子が白い絹のブラウスに前立てのついた筒形軍帽をかぶり、尻から下は黒光りする仔山羊革の長靴しか履いていない、どうにも場違いなドライブイン・レストランを通り過ぎた。あれやこれやを通り過ぎ、ベヴァリーヒルズの乗馬道へと続く広くなだらかなカーブを下りた。霧の出ていない夜で、南の灯りのスペクトルが全色くっきり見えた。丘の上に影を宿す邸宅群の前を北に向かい、ベヴァリーヒルズを抜け切ると、曲がりくねった丘陵地帯の並木道を上った。突然、ひんやりとした夕暮れと海からの風が流れ込んできた。
 あたたかな午後だったが、既に熱気は去っていた。遥かなビルの遠灯りや、通りから離れたところに無数の灯りが連なる邸宅群が、眼の前を慌ただしく通り過ぎた。芝生の敷かれた大きなポロ競技場と、隣接するやはり大きな練習場を迂回するために坂を下り、また丘の上に上り、山の方へ道をとると、きれいに舗装されたコンクリートの急な坂道がオレンジの木立の中を抜けていた。ここはオレンジの産地ではない。どうせ金持ちの道楽だろう。一つまた一つと億万長者の邸の窓明りは消えていき、道が狭くなると、そこがスティルウッド・ハイツだった。
 セージの匂いが渓谷から立ち上ってきて、死んだ男と月のない空を思い出させた。スタッコ壁の家がぽつぽつと丘の斜面に浅浮き彫りのように嵌め込まれていた。やがて家というものが見えなくなった。暗い山麓の丘の上には一番星、二番星が瞬き出し、コンクリートのリボンめいた道の片側は急な崖で、スクラブオークとマンザニータの灌木が絡み合っていて、立ち止まってじっと待っていたら鶉の鳴き声が聞こえてきそうだった。道の反対側は粘土の土手になっていて、端には選りすぐりの野生の花がベッドに行きたくない悪戯っ子のようにぶら下がっていた。
 やがて、急なヘアピン・カーブに突入した。大きなタイヤが小石をはじきとばし、車はエンジン音を響かせ、野生のゼラニウムが続く長いドライブウェイを驀進した。丘を上りつめたところに、灯台のようにぽつんと、かすかに灯りがともる、山塞か、鷲の巣みたいに聳える、スタッコ壁とガラス煉瓦の無骨な建物があった。飾リ気のない今風の建物だったが、見苦しくはなかった。いかにも心霊顧問医が看板を掲げるに相応しい場所だった。ここならどんな叫び声も聞かれる恐れはない。
 家の横に車が停まると、厚い壁の中にはめ込まれた黒いドアの上に灯りがついた。インディアンがぶつぶつ言いながら車を降り、後ろのドアを開けた。運転手が電子ライターで煙草に火をつけ、強い香りが夜気の中、仄かに後部席まで漂ってきた。私は車を降りた。
 我々は黒いドアまで歩いた。それは虚仮威しのように、ひとりでにゆっくりと開いた。その向こうに狭い廊下が探りを入れるように家の奥へと続いていた。ガラス煉瓦の壁を通して灯りが漏れていた。
 インディアンは唸った。「ふん、入るんだ、大物」
「君が先だ、ミスタ・プランティング」
 彼はしかめっ面をして中に入った。我々が入るとドアは閉まった。開いた時と同じように音もなく、ミステリアスに。狭い廊下の突き当たりで、小さなエレベーターに二人が身を押し込むと、インディアンはドアを閉めてボタンを押した。エレベーターは音もなく静かに上がった。それまでのインディアンの臭いなど、今と比べたら予兆に過ぎなかった。
 エレベーターが止まり、ドアが開いた。灯りのともる塔屋の部屋に足を踏み入れた。日はまだ微かに名残りをとどめていた。窓だらけの部屋で、遠くに海が揺らめいていた。宵闇がゆっくりと丘を上りつつあった。窓のないところはパネル張りの壁だった。床には淡い色合いの古ぼけたペルシャ絨毯が敷かれていた。古い教会から盗んできた木彫が施されたように見える受付用の机があった。机の向こう側に女が一人腰かけてこちらを見て微笑んでいた。手が触れたら粉々になってしまいそうな、からからに干からび、こわばった微笑だ。》

【解説】

「木彫のような顔をした浅黒い異国風の運転手」は<a dark foreign-looking chauffeur with a face of carved wood>。清水氏はここを「外国人らしい運転手」とさらりと流している。村上訳は「木彫りみたいな顔つきの、肌の浅黒い外国人風の運転手」。

「革張りの内装は、グレイのシャニール糸によるキルト仕上げだ」は<The interior was upholstered in quilted gray chenille>。清水氏はこの一文をまるまるカットしている。村上訳は「内装は革張りで、グレーの高級糸でキルト縫いされていた」だ。 <chenille>は「毛虫糸」と呼ばれる、ビロード状に毛を立てた飾り糸のこと。欧米の棺桶の内装を思い出させる一文で、この文がないと、マーロウがなぜ自分を死体のように思うのか説明がつかない。

「我々は西に向かい、サンセットに立ち寄り、音もなく急いでそこを通り過ぎた」は<We went west, dropped over to Sunset and slid fast and noiselessly along that>。この<Sunset>が厄介だ。清水氏は「私たちはサンセット・ブールヴァードを西に向かって進んだ」と訳している。大意はこれでまちがっていない、と思う。村上氏はそこを「我々は西に向かった。サンセット大通りに入り、無音のうちに素早くそこを通り抜けた」と訳している。

<dropp over>とは「(予告なしに)ひょっこり訪ねる、ちょっと立ち寄る」ことで、清水氏はカットしているが、村上氏はここを「サンセット大通りに入り」と解釈したのだろう。問題は、サンセット・ブルヴァード(大通り)が「素早くそこを通り抜け」られるほど短くないことだ。L.Aのダウンタウンから太平洋に出るまで35キロも続く長い道だからだ。

もしかしたら、この「サンセット」は「サンセット・ストリップ」を指しているのではないだろうか。我々の年代には、TV番組『サンセット77』のテーマ曲として何度も口にした懐かしい響きだ。村上氏も「目抜き通り(ザ・ストリップ)」と訳しているように、レストランや賭博のできるクラブの犇めく観光名所である。後で、本文にもその<Strip>が出てくるので、多分まちがいない。

つまり、この一文は後で詳しく描写する情景が何なのかを読者に紹介している部分。本筋は、この後で訪れる心霊顧問医の家の場面であって、サンセット・ストリップの猥雑な通りや、その後の山麓のドライブは、いわば添え物。ただし、チャンドラーは他のハード・ボルド作家に比べ、情景描写を大切に扱う作家だ。情景描写には話者の感情が反映する。読者は知らず知らずのうちにマーロウに共感して物語世界に分け入ってゆくことになる。

「手編みレースと古い白目でいっぱいのウィンドウ、禁酒法時代を潜り抜けたギャング上がりが経営する、評判のシェフと評判の賭博場を擁した今を時めくナイトクラブ」は<past the windows full of point lace and ancient pewter, past the gleaming new nightclubs with famous chefs and equally famous gambling rooms, run by polished graduates of the Purple Gang>。

ここを清水氏は「有名な料理人頭と高級賭博場で知られているナイト・クラブ」で済ませてしまっている。村上訳だと「アンティック・レースと、年代物の白磁がいっぱいにならんだウィンドウ、評判のシェフと評判の賭博部屋を備えた新しいきらびやかなナイト・クラブ(経営するのはギャング上がりの曰くありげな連中だ)」。因みに<pewter>は「白目、白鑞(しろめ)」のことで、スズを主成分とする古くからある低融点合金のことで、多くは装飾品に用いられている。白磁は文字通り、磁器のことで全くの別物である。

「芝生の敷かれた大きなポロ競技場と、隣接するやはり大きな練習場を迂回するために坂を下り」は<We dipped down to skirt a huge green polo field with another equally huge practice field beside it>。清水氏は「大きなポロ競技場をひとまわりすると」、と高低差も練習場も省略して訳している。村上氏は「一段低くなったところに、緑の芝生を敷いた大きなポロ競技場と、それに負けない大きさを持つ隣接した練習場があった。その周りを迂回し」と訳している。

「セージの匂いが渓谷から立ち上ってきて」は<The smell of sage drifted up from a canyon>。清水氏は「谷あいからやまよもぎ(傍点五字)の匂いがただよってきて」と訳し、村上氏は「サルビアの匂いが谷間から風に乗って上ってきて」と訳している。これについては第十章で言及済みなので省略する。

「コンクリートのリボンめいた道の片側は急な崖で、スクラブオークとマンザニータの灌木が絡み合っていて」は<the concrete ribbon of road and a sheer drop on one side into a tangle of scrub oak and manzanita>。清水氏は「コンクリートのリボンのような道路の片側には、灌木がしげっていて」と、ここもあっさり訳している。村上訳は「コンクリート舗装の道路がリボンのように連なり、その片側は切り立った崖になっていた。崖の下はヒイラギガシとウラシマツツジのもつれあった茂みだ」。

植物の名前を辞書の通りに訳せばヒイラギガシもウラシマツツジもアリだろうが、カリフォルニアの山地に生える灌木の名としては、スクラブオークとマンザニータとする方が親切ではないだろうか。和名を図鑑で調べても、日本の在来種の説明が出てくるばかりで、山火事の後に萌え出るスクラブオークの写真も、幸運の飾りとして使われるマンザニータの木の枝の写真も出てこない。近頃ではその気になればネットで写真が見られる。下手に和訳するより、原語の音を残す方が調べやすいと思う。

「それまでのインディアンの臭いなど、今と比べたら前触れに過ぎなかった」は<Such smelling as the Indian had done before was a mooncast shadow to what he was doing now>。狭いエレベーターに二人して閉じ込められた災難をぼやいているのだが、清水氏はここを「インディアンのすることがますます不可解になってきた」と訳している。<cast shadow>は「前兆」を意味する。村上訳だと「私がそれより前に嗅がされたインディアンの体臭など、そのときのものに比べたら。慎み深い前触れに過ぎなかった」になる。

「窓のないところはパネル張りの壁だった」は<There were paneled walls where there were no windows>。清水氏はここを「窓がないところはガラスをはめこんだ壁で」と訳しているが「ガラスをはめこんだ」ら、窓になってしまわないか。村上訳は「窓のないところはパネル張りの壁になっている」だ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第20章

―帽子のリボンと汗どめバンドの取り違えが命取り―

【訳文】

《インディアンは臭った。ブザーが鳴ったとき、小さな待合室の向こう側にはっきりと臭いがしていた。私は誰だろうと思ってドアを開けた。廊下のドアを入ったところに、まるで青銅で鋳造されたみたいに男が立っていた。腰から上の大きな男で、胸が分厚かった。浮浪者のように見えた。
 茶色のスーツを着ていたが、その上着は男の肩幅には小さすぎ、ズボンはおそらく腰回りが少々きつかったろう。帽子は少なくとも二サイズは小さく、サイズに合った誰かがかいた大量の汗の痕があった。家に風向計を取り付けたみたいなかぶり方だった。襟は馬の首輪のようにぴったりしていて、首輪とほぼ同じ色合いの汚れた茶色だった。黒いネクタイがボタンをはめた上着の外にぶら下がっていた。プライヤでも使って締め上げたのか結び目が豆粒大になっていた。汚れた襟の上の、むき出しになった立派な喉のまわりには、老いを隠そうとする老嬢のように、幅広の黒いリボンを巻いていた。
 大きくて扁平な顔つきで、肉づきのよい高い鼻は巡洋艦の船首のように頑丈そうだ。瞼のない眼、垂れ下がった顎、鍛冶屋のような肩、そして短くてチンパンジーのように不様な脚をしていた。後になってわかったが、ただ短いだけだった。
 もう少し小奇麗にして白いナイトガウンでも着せたら、ひどく性悪なローマの元老院議員のように見えただろう。
 彼の匂いは未開人の土臭さだった。都会のいやらしい汚泥のそれではなかった。
「ふん」彼は言った。「早く来い。すぐ来い」
 私はオフィスに戻り、彼に向かって指をくいっと動かした。彼は壁の上を蠅が這うような音を立てて私に従った。私は自分の机を前にして座り、専門家らしく回転椅子を軌らせ、反対側にある客用の椅子を指さした。彼は座らなかった。小さな黒い眼には敵意が見えた。
「どこへ行くんだ?」私は言った。
「ふん、わたし、セカンド・プランティング。わたし、ハリウッド・インディアン」
「座ったらどうだ、ミスタ・プランティング」
 男は鼻を鳴らし、穴が大きく開いた。最初から鼠穴くらいはあったが。
「名前、セカンド・プランティング。ミスタ・プランティング、ちがう」
「それで、ご用件は?」
 彼は声を張り上げ、厚い胸を響かせ朗々たる音吐で詠唱し始めた。「彼は言う、すぐ来い。偉大な白人の父は言う、すぐ来い。彼は言う、炎の戦車に乗せて連れて来い。彼は言う―」
「わかったから、ラテン語遊びはよしてくれ」私は言った。「私はスネークダンスを見に来た女教師じゃないんだ」
「くそくらえ」インディアンは言った。
 我々は机をはさんで暫く互いをあざ笑った。あざ笑いは相手の方がうまかった。それからさも嫌気が差したという風に帽子を脱いでひっくり返した。汗どめバンドの下に指を入れてぐるりと回した。それで汗どめバンドが視野に入ったが、その名に恥じない仕事ぶりだった。彼は端からペーパークリップを外し、折り畳んだティッシュペーパーを机の上に投げると、噛み痕のある指の爪で腹立たし気に指さした。きつすぎる帽子のせいで真っ直ぐな髪の高いところに段がついていた。
 ティッシュペーパーを広げると、中にカードが入っていた。目新しいものではない。三本のロシア風煙草の吸い口からそれと全く同じものが三つ見つかっている。
 パイプを弄びながらインディアンを睨みつけ、揺さぶりをかけようとしたのだが、相手の神経は煉瓦塀並みだった。
「オーケイ。彼の望みは何だ?」
「彼の望み、あなたすぐ来る。今来る。炎の戦車に乗って―」
「くそくらえ」私は言った。
インディアンはそれが気に入った。彼は口をゆっくり閉じ、片目で厳かにウィンクした。それから薄笑いを浮かべさえした。
「それには依頼金として百ドル用意してもらわないと」私はつけ加えた。それが五セント玉でもあるかのように。
「ふん?」疑り深そうな顔に帰って、基礎英語を守った。
「百ドル」私は言った。「一ドル銀貨。一ドル紙幣。ドルの数が百だ。金ない、私行かない、分かる?」私は両手で百まで数え始めた。
「ふん、大物ぶって」インディアンはあざ笑った。
 彼は脂ぎった帽子のリボンの下を探り、もう一つのティッシュペーパーを机の上に放った。開いてみると、手が切れるような百ドル札だった。
 インディアンはリボンを元の位置に戻そうともせず帽子をかぶった。その方がほんの少しだけ滑稽に見えた。私は座ったままぽかんと口を開け、百ドル札に見入った。
「まさに霊能力だ」私はやっと言った。「おそろしいほどの賢さだ」
「日が暮れちまう」インディアンがくだけた調子で言った。私は机の抽斗からコルト三八口径オートマチックを取り出した。スーパー・マッチの呼び名で知られているタイプだ。ミセス・ルーウィン・ロックリッジ・グレイルを訪ねたときには身に帯びることはしなかった。私は上着を脱ぎ、革製のハーネスを身につけ、中にオートマチックを落とし込み、下のストラップを締め、上着を羽織った。
 インディアンにとって、それは私が首を掻いたくらいの意味しかなかった。
「車ある」彼は言った。「大きな車」
「大きな車はもう二度と御免だ」私は言った。「私、自分の車ある」
「あなた、わたしの車、来る」インディアンが脅すように言った。
「わたし、あなたの車、行く」私は言った。
 私は机とオフィスに鍵をかけ、ブザーのスイッチを切って外に出た。出て行くとき、いつもどおり待合室の鍵は掛けなかった。
 我々は廊下を歩いてエレベーターで下りた。インディアンは臭った。エレベーター係でさえそれに気づいた。》

【解説】

「浮浪者のように見えた」は<He looked like a bum>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「なり(傍点二字)は浮浪者みたいだった」。

「襟は馬の首輪のようにぴったりしていて」は<His collar had the snug fit of a horse-collar>。清水氏は「カラーは馬の首輪のようにゆるく」と訳している。村上訳は「シャツの襟もとは、馬の首輪並みに心地よさそうで」だ。<snug>は「(衣類などが)体にぴったりの、ぴっちりした」という意味だが、「(場所などが)くつろげる、心がなごむ」の意味もある。村上訳はそちらを採ったのだろう。しかし、後にも出てくるように立派な咽喉の持ち主である。上着が窮屈なのに、シャツだけ心地よさそうなのは変だろう。

「黒いネクタイがボタンをはめた上着の外にぶら下がっていた」は<A tie dangled outside his buttoned jacket>。清水氏は「黒いネクタイがボタンをはめられたチョッキの上にぶらさがっていた」と訳している。<jacket>はライフ・ジャケットの場合のように「胴着」の意味もあるが、普通は背広の上着を意味する。村上訳は「ネクタイはボタンがかかった上着の外に、だらんとはみ出ていた」だ。

「プライヤでも使って締め上げたのか結び目が豆粒大になっていた」は<a black tie which had been tied with a pair of pliers in a knot the size of a pea>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「黒いネクタイはペンチでも使って締め上げられたのか、結び目が豆くらいの大きさになっている」だ。英米では、ペンチを含む挟み工具全般をプライヤと呼ぶらしいので、村上氏はペンチとしたのだろう。

「汚れた襟の上の、むき出しになった立派な喉のまわりには」は<Around his bare and magnificent throat, above the dirty collar>。清水氏は「汚いネクタイのたくましいのど(傍点二字)のまわりに」と訳している。これは誤り。ネクタイは黒で、汚れているのは襟だ。村上訳は「汚れた襟の上の、むき出しになった見事なばかりののど元には」。

「早く来い。すぐ来い」と訳したところは<Come quick. Come now>。清水氏は「すぐ来るある。今来るある」と、まるで、中国人をまねた手品師のような言葉遣いだ。村上訳は「早く来い。すぐに来い」だ。

ラテン語遊び」と訳したところは<pig Latin>。清水訳は「まずいラテン語」、村上訳は「おちゃらか語」だ。<pig Latin>というのは、子どもがふざけて使う言葉づかいで、語の最初の子音を最後に移し、さらにei(音)を付加したもの。例えば<dictionary>なら<ictionaryday>になる。

「「ふん、大物ぶって」インディアンはあざ笑った」は<“Huh. Big shot,” the Indian sneered>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「「ハア、大物だな」とインディアンはあざ笑った」だ。

「彼は脂ぎった帽子のリボンの下を探り」は<He worked under his greasy hatband>。清水氏は「彼は帽子の汗バンドから」と訳している。そう思っても仕方がないところだ。村上氏は、少し気になるのか「彼は脂ぎった帽子のバンドの下を探り」と<hatband>を少し前に出てきた「スエットバンド」とは訳し分けている。もちろん<hatband>は、帽子の上についている飾りのリボンのことだ。

「インディアンはリボンを元の位置に戻そうともせず帽子をかぶった」は<The Indian put his hat back on his head without bothering to tuck the hatband back in place>。清水氏は「インディアンは帽子をかぶった。ハットバンドをもとに直そうともしないでかぶった」と、今度は「ハットバンド」と訳している。

村上訳を見てみよう。「インディアンはバンドを内側に折り込みもせずに、帽子を頭の上に戻した」となっている。これは単なる推量だが、村上氏は清水氏が「ハットバンド」と訳したものを自身が訳した「スエットバンド」だと思い込んでいたのではないだろうか。清水氏は、最初は「汗バンド」と訳しておきながら、二度目は「ハットバンド」と正しく訳している。だから<without bothering to tuck>を「もとに直そうともしないで」と訳すことで、誤訳を回避することができた。

ところが、村上氏は二度目の<hatband>を単に「バンド」と訳してしまったことで<sweatband>と同一視し、<without bothering to tuck>を「内側に折り込みもせずに」と訳してしまったのだろう。まず、ひっかかったのは、インディアンは汗どめバンドからティッシュペーパーを取り出す際、指でぐるっと一回しして探っている。同じ汗どめバンドに二つ入っていたら、どちらが名刺でどちらが紙幣か判断がつかないはずだ。

だから、はじめから二つの包みは帽子の内側と外側のバンドに分けて入れたのだと想像することができる。チャンドラーは<sweatband>と<hatband>を正しく使い分けている。訳者たるもの、作者がそこまで配慮した言葉を安易に読み飛ばすことなどあってはならないと思う。第一、辞書にもその違いは記載されている。あまりに簡単な言葉であることと、同じ場面に続いて使われたことがまちがいを生んだと思われる。他山の石としたい。

次の「その方がほんの少しだけ滑稽に見えた」は<It looked only slightly more comic that way>。清水氏はここもカットしている。村上氏はここを「しかし、それによってみかけのおかしさがことさら増加したというわけでもなかった」と訳している。確かにもともと滑稽に見えていたのだから、殊更におかしさが増したわけではなかろう。しかし、ほんのわずか<more comic>に見えたのだ。ストレートに訳してはいけないものだろうか。

「ブザーのスイッチを切って」は<switched the buzzer off>。清水氏はここをカットしている。これくらいどうでもいい、と思うのだろうか。映画の字幕なら映像で分かるが、本の場合には書かなければわからない。逆に書いてあるなら訳してもらいたいと思う。村上訳は「ブザーを切り」だ。たいした手間もとらない。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第19章

口紅は落ちているのか、いないのか

 

【訳文】

《曲がりくねった私道を歩き、高く刈り込まれた生垣の陰で迷子になりながら門に出た。新顔の門番は私服を着た大男で、どこから見てもボディガードだ。うなずいて私を通した。
 ホーンが鳴った。ミス・リオーダンのクーペが私の車の後ろにとまっていた。私はそこまで行き、中をのぞき込んだ。冷やかで皮肉っぽい顔が待っていた。
 手袋をした細い手をハンドルに添えて座っていた。彼女は微笑んだ。
「待ってたの。私の知った事じゃないけど、あなたは彼女のこと、どう思った?」
「ガーターを外すのに手間取ってるだろう」
「どうしていつもそんな言い方しかできないの?」彼女はひどく顔を赤らめた。「ときどき男の人が嫌いになる。年寄り、若者、フットボール選手、オペラのテナー歌手、賢い億万長者、ジゴロの色男、私立探偵をやるようなろくでなし」
 私は悲しそうに笑ってみせた。「口が過ぎるのは知っている。近頃じゃ噂になっているからね。ジゴロだと誰に聞いた?」
「誰のこと?」
「しらばっくれるなよ。マリオットのことさ」
「ああ、それくらい誰にでも想像がつく。ごめんなさい。意地悪で言ったわけじゃない。あなたならいつでも好きな時に彼女のガーターを苦もなく外せるでしょう。でもひとつだけ確かなのは、あなたはショーに遅れたってこと」
 曲がりくねった広い通りは陽を浴びて安らかに微睡んでいた。きれいに塗装されたパネル・トラックが通りの反対側の家の前に音もなく滑りこんできて、止まった。それから少しバックして通用口に続く私道を上がっていった。パネル・トラックの側面には「ベイ・シティ・インファント・サービス」と記されていた。
 アン・リオーダンが私の方に身を乗り出した。灰色がかった青い瞳に傷ついたような翳りが見えた。わずかに長すぎる上唇を尖らせ、それから歯に押しつけた。息をのむような鋭い小さな音を立てた。
「余計な口出しをするなと言いたいんでしょうね。自分が思いつかないことを私に指摘されたくないのよ。これでも少しは役に立ってきたつもりなんだけど」
「私に手助けは要らない。警察も私に応援を求めちゃいない。ミセス・グレイルのために私ができることは何もない。彼女はビアホールから車がつけてきた作り話をしていたが、それに何の意味がある。サンタモニカのいかがわしい酒場じゃないか。これはハイクラスの犯罪集団だ。その中には翡翠を一目で言い当てることのできる者がいたんだ」
「もし前もって聞いてなかったらね」
「それもありだ」私は言った。そして、箱の中から煙草を一本探り出した。「いずれにせよ私にできることは何もない」
「霊能力者についても?」
 私は幾分無表情に見つめた。「霊能力者?」
「おやまあ」彼女は優しく言った。「あなたは探偵じゃなかったかしら」
「口を噤んでるふしがある」私は言った。「用心してかかる必要があるんだ。グレイルのズボンには現ナマがうなるほど詰まってる。そして、法律が金で買えるのがこの街だ。警察の動きが妙だと思わないか。広告もなし、新聞発表もなしときては、無辜の市民がもちこんだ小さな手がかりが事件解決の糸口となる機会もない。あるのは沈黙と手を引けという私への警告だけだ。すべてが気に入らない」
「口紅はほとんど落ちてる」アン・リオーダンは言った。「霊能力者のことは伝えた。それでは、さようなら。会えてよかった―ある意味で」
 彼女はスターター・ボタンを押してギアを突っ込み、舞い上がる土煙の中に消えた。
 私は彼女を見送った。彼女がいなくなり、通りの向こうを見た。ベイ・シティ・インファント・サービスと書かれたパネル・トラックの男が、邸の通用口のドアから出てきた。輝くばかりに真っ白で糊が効いた制服を着ていたので、見ているだけですっきりした気分になった。男は何かの段ボール箱を抱えていた。そしてパネル・トラックに乗って走り去った。
 おしめを取り替えたんだ、と思った。
 自分の車に乗り、エンジンをかける前に時計を見た。五時になろうとしていた。
 さすがに上物のスコッチだけのことはある、ハリウッドに帰る道中ずっと一緒にいてくれた。赤信号のたびに停まらざるを得なかった。
「可愛い娘がいる」私は車の中で独り言を言った。「可愛い娘が好きな男向きだ」誰も何も言わなかった。「でも私はちがう」私は言った。それにも誰も何も言わなかった。「十時にベルヴェディア・クラブで」私は言った。誰かが言った。「ふーん」
 私の声のようだった。
 六時十五分前、オフィスに戻ってきた。ビルディングは静まりかえっていた。仕切り壁の向こうのタイプライターは止まっていた。私はパイプに火をつけ、腰を下ろして待った。》

【解説】

「ミス・リオーダンのクーペが私の車の後ろにとまっていた」は<Miss Riordan's coupe was drawn up behind my car>。清水氏は「ミス・リオーダンのクーペが私の自動車のすぐうしろに駐(とま)っていた」と訳している。ところが、村上訳は「ミス・リオーダンのクーペが私の車の背後にやってきた」となっている。<draw up>は「(車などが)止まる」という意味だ。第一、車が動いてきたら音もするし目にも止まる。ホーンを鳴らす必要はない。

「手袋をした細い手をハンドルに添えて座っていた。彼女は微笑んだ」は<She sat there with her hands on the wheel, gloved and slim. She smiled>。めずらしいことに村上氏はここをまるまる抜かしている。わざとではないだろう。読み落としたにちがいない。柴田元幸氏の翻訳チェックが入らないチャンドラーの翻訳ならでは、である。清水訳は「彼女は手袋をはめた細い手をハンドルにおいて、坐っていた。彼女は微笑した」。

「ガーターを外すのに手間取ってるだろう」は<I bet she snaps a mean garter>。清水氏は「すぐスカートを脱ぐ女だな」と、思い切った訳にしているが、マーロウは夫に見られたときに露出していた夫人の脚を思い出している。村上訳は「あのガーターを外すのは一苦労だ」。<a mean>には「意地悪な」という意味がある。この場合のガーターは、リング状のものではなく、ガーター・ベルトを指すのだろう。ストッキングが落ちるのを防ぐためにクリップで留めるタイプの下着の一種だ。

「口が過ぎるのは知っている。近頃じゃ噂になっているからね」は<I know I talk too smart. It's in the air nowadays>。清水氏は「ぼくが口がわるいことはわかっているが」と、後半はトバしている。村上氏は「もう少し当たり前のしゃべり方ができるといいんだが、きっと時代がそうさせてくれないのさ」と訳している。<in the air>は「(ニュースや噂などが)広まっている」という意味だ。主語の<it>は<I talk too smart>を受けている。つまり、自分の話し方が生意気なことは、近頃じゃ噂になっているから、知っている、ということだ。

「それから少しバックして通用口に続く私道を上がっていった」は<then backed a little and went up the driveway to a side entrance>。清水氏はここをカットしているため、トラックは停まったままのように読めてしまう。村上氏は「それから少しバックして、サイド・エントランスへのドライブウェイに入っていった」と訳している。少し片仮名が目立ちすぎはしないだろうか。

「自分が思いつかないことを私に指摘されたくないのよ」は<And not have ideas you don't have first>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「自分に思いつかなかったことを、私に思いついてほしくないと考えている」だ。

「口を噤んでるふしがある」は<There's a hush on part of this>。清水氏はここをカットして「うっかり手が出せないんだ」と、訳している。村上訳は「どうしてこんなにひっそりしているんだろう」となっている。

「広告もなし、新聞発表もなしときては、無辜の市民がもちこんだ小さな手がかりが事件解決の糸口となる機会もない」は<No build-up, no newspaper handout, no chance for the innocent stranger to step in with the trifling clue that turns out to be all important>。清水訳は<No build-up>を端折って「新聞にも記事を出させない。重要な手がかりを持っているかもしれないものも、協力する道がない」。

村上訳は「担当者が名前を売り込もうという気配もないし、プレス・リリースもない。従ってささやかな情報を持っている罪のない市民が名乗り出て、それが大きな手がかりにつながるという道も閉ざされている」だ。<build-up>を事件を担当する刑事一個人の「売り込み」ととるのは、ずいぶん突っ込んだ読みである。

「口紅はほとんど落ちてる」は<You got most of the lipstick off>。清水訳では「口紅はもう落ちているわ」だ。本当に落ちているなら、そんなことをわざわざ指摘する必要はないし、指摘できるはずがない。<most of>とあるから「その大半は」ということだろう。上手い訳だと思うが、村上訳では「口紅はすっかり落ちてはいない」になっている。アン・リオーダンという女性の性格設定の差だろう。清水訳だと揶揄う調子になるし、村上訳だときまじめさが強く出る。

「ベイ・シティ・インファント・サービスと書かれたパネル・トラックの男が、邸の通用口のドアから出てきた」は<The man from the panel truck that said Bay City Infant Service came out of the side door of the house>。清水氏は「ベイ・シティ幼児サービス会社としるされたトラックの男が純白の制服を光らせながら、邸の脇のドアから出てきて」と訳している。村上氏は「「ベイ・シティ幼児サービス」と横に書かれたパネルトラックから降りてきた男は」と訳している。男は「家の側部扉から出てきた」<came out of the side door of the house>のであって、「トラックから降りてきた」のではない。氏にしては珍しいミス。

「赤信号のたびに停まらざるを得なかった」は<I took the red lights as they came>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「赤信号があればそのたびにしっかり停まった」。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第18章(6)

フィネガンの足のような寒気、というのは

【訳文】

《女は私の膝の上にしなだれかかった。私は顔の上に屈み込んで眼で舐めまわした。彼女は私の頬に蝶がキスするように睫を震わせた。唇を合わせたとき、彼女の唇は半開きで燃えていた。歯の間から舌が蛇のように飛び出してきた。
 ドアが開いて、ミスタ・グレイルが静かに部屋に入ってきた。私は彼女を抱いており、身を振りほどく暇はなかった。私は顔を上げて彼を見た。私は寒気がした。フィネガンの足のようだった、埋められたその日の。
 私の腕の中でブロンドはじっとしていた。唇を閉じようとさえしなかった。半ば夢見るような、半ば嘲るような表情を浮かべて。
 ミスタ・グレイルは、軽く咳払いをして言った。「これは失礼した」それから、静かに部屋を出て行った。彼の目にはかりしれないほどの悲しみが浮かんでいた。
 私は彼女を押しのけて立ち上がり、ハンカチを取り出して顔を拭った。
 彼女はそのままダヴェンポートに半ば横向きに横たわっていたが、片脚のストッキングの上の肌が気前よくむき出しになっていた。
「誰だったの?」彼女は嗄れ声で訊いた。
「ミスタ・グレイル」
「だったら気にしないで」
 私は彼女から離れ、この部屋に初めて入ったとき座った椅子に腰を下ろした。
 しばらくして、彼女は居ずまいを正し、しっかりと私を見た。
「大丈夫。彼は理解してる。あの人に口出しなんかできゃしない」
「彼は気づいてるよ」
「だから、平気だって言ったじゃない。それで充分でしょう。彼は病人なの。どうしたっていうのよ―」
「金切り声を上げるんじゃない。金切り声を上げる女は嫌いだ」
 彼女は傍に置いてあったバッグを開けて小さなハンカチを取り出し唇を拭いた。それから鏡で自分の顔を見た。「あなたの言うとおりね」彼女は言った。「スコッチが過ぎたわ。今夜ベルヴェデア・クラブで、十時に」彼女は私を見ていなかった。息遣いが速かった。
「いいところなのかい?」
「レアード・ブルネットの店。彼とは親しい仲なの」
「分かった」私は言った。私はまだ寒気を感じていた。自分が汚らしく思えた。まるで貧乏人から財布を掏ったみたいな気がした。
 彼女は口紅を取り出し、唇にそっと当てた。そして私の方を見た。鏡を放ってよこした。私は鏡をつかんで顔を映した。私はハンカチに一仕事させて立ち上がり、鏡を返した。
 彼女は後ろに仰け反り、喉をあらわにして、物憂げに私を見下ろした。
「まだ、何か?」
「何も。十時にベルヴェデア・クラブ。派手な格好は願い下げだ。こっちはディナー・スーツしか持ち合わせがない。バーでいいか?」
 彼女はうなずいた。眼は物憂げなままだった。
 私は部屋の中を通って外に出た。一度も振り返らなかった。フットマンが廊下で待っていて、私の帽子を手渡した。「大いなる岩の顔」に似ていた。》

【解説】

「彼女は私の頬に蝶がキスするように睫を震わせた」は<She worked her eyelashes and made butterfly kisses on my cheeks>。「バタフライ・キス」というのは、睫を動かしてかすかに相手に触れることをいう。まるで蝶の羽が触れたようなタッチであることからその名がついた。清水氏は「彼女はまつ毛をふるわせて、私の頬に接吻した」と訳しているが、これだと本当にキスしたようにも読める。村上訳は「彼女はまつげを微妙に動かし、私の頬をくすぐった」だ。事実上の動きはその通りだが、バタフライ・キスという言葉が響いてこない憾みが残る。

「私は寒気がした。フィネガンの足のようだった、埋められたその日の」は<I felt as cold as Finnegan's feet, the day they buried him>。清水氏は「全身が冷たくなったようだった」と訳している。これでいいと思うのだが、唐突にフィネガンという固有名詞が出てくるのがひっかかる。ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』が出版されたのが一九三九年。『さらば愛しき女よ』の出版がその翌年であることから見て、チャンドラーがそれを意識していたことは明らかだ。村上氏は「通夜の翌日のフィネガンの脚に負けないくらい背筋がひやり(傍点三字)とした」と「通夜(ウェイク)」を訳の中に盛り込んでいる。

「彼女は嗄れ声で訊いた」は<she asked thickly>。清水氏はここをカットしている。村上氏は「と濃密な声で彼女は尋ねた」と訳している。「濃密な声」とは、どんな声なのだろう。たしかに<thickly>には「濃密な」の意味があるが声に使われる場合は「かすれ声、だみ声」という意味になる。

「私はまだ寒気を感じていた」は<I was still cold>。さっき感じた寒気だ。清水氏はここもカットしている。村上訳は「まだ身体に冷気が残っていた」だ。

「『大いなる岩の顔』に似ていた」は<looking like the Great Stone Face>。清水氏はカットしているが<the Great Stone Face>はナサニエル・ホーソーンの短篇のタイトルで、ニュー・ハンプシャーにある人間の顔のように見える巨大な岩山のことでもある。村上氏は「彼はニューハンプシャーの巨大人面岩みたいに見えた」と訳している。

『さらば愛しき女よ』を読み比べる―第18章(5)

ドレスが首のあたりまでめくれ上がったのには理由があった

【訳文】

《「男はリンの座っている側に近づくとすぐに、スカーフを鼻の上まで引っ張り上げ、銃をこちらに向け『手を挙げろ』と言った。『おとなしくしてればすぐに済む』。それからもう一人の男が反対側にやってきた」
「ベヴァリ・ヒルズは」私は言った。「カリフォルニアで最も治安が行き届いた四平方マイルですよ」
 彼女は肩をすくめた。「言った通りのことが起きたの。宝石とバッグを寄こせとスカーフの男が言った。もう一人、私の側にいた男は一言もしゃべらなかった。リンの前に手を伸ばして渡すと、男がバッグと指輪をひとつ返してくれた。男は、警察や保険屋への連絡は少し待つように言った。その方がことがうまく運ぶだろう。物ではなく歩合で支払ってもらう方が手間が省けると言った。まったく焦った様子を見せなかった。是非にと言うなら、保険屋を通すこともできるが、弁護士が取り分を減らすから、乗り気ではないとも。教養のある人のように思えた」
「まるでドレスアップ・エディのようだ」私は言った。「シカゴで消されていなかったなら、ということですが」
 彼女は肩をすくめた。我々は飲んだ。彼女は続けた。
「連中は去り、私たちは帰った。私はこのことをリンに口止めした。次の日、電話があった。電話は二つあって、ひとつは内線つき、もうひとつは私の寝室にある内線なしのもの。電話はそちらにかかってきた。もちろん電話帳には載ってない」
 私はうなずいた。「二、三ドル出せば番号は買える。よくあることだ。映画俳優の中には毎月番号を変える者もいる」
 我々は飲んだ。
「私は電話してきた男に、私の代理のリンと話をするように、適切な価格だったら取引に応じるかもしれない、と言った。彼は了解した。それ以降進展はなかった。こちらの様子を見てたんだと思う。結果的に、知っての通り、八千ドルで手を打った」
「どっちかの顔を覚えていませんか?」
「そんなの、無理」
「ランドールはこのことを知っていますか?」
「もちろん。もっと話す必要があるかしら? うんざりなの」彼女は素敵に微笑んだ。
「彼は何か言ってましたか?」
 彼女は欠伸した。「多分ね。でも忘れた」
 私は空のグラスを手に腰を下ろして考えた。彼女はグラスを取り上げ、また注ぎ始めた。
 私は彼女の手からお代わりのグラスをとり、それを私の左に移し、自分の右手で彼女の左手をつかんだ。滑らかで柔らかな手だった。温さが心地よかった。彼女は強く握り返した。手の筋肉が強かった。しっかりした体つきで、ペーパー・フラワーではなかった。
「彼には何か考えがあるみたい」彼女は言った。「でも、それが何かは言わなかった」
「話を最後まで聴けば、誰だってひとつの考えが思い浮かぶ」私は言った。
 彼女はゆっくり振り返ってこちらを向いた。そうして、うなずいた。「すぐ分かることよね?」
「いつからマリオットのことを知ってるんです?」
「何年になるかしら。彼は夫が持ってた放送局でアナウンサーをしていた。KFDK。そこで出会った。夫ともそこで出会った」
「知っていました。しかし、マリオットは贅沢な暮らしをしてた。金持ちでなくても、金に不自由はしてなかった」
「お金が入ったので、ラジオ局をやめたの」
「金が入ったことを事実として知っていましたか、それとも彼がそう言っただけですか?」
 彼女は肩をすくめた。私の手を握りしめた。
「あるいは、それほどの金額ではなかったかもしれないし、すぐに使い切ったのかもしれない」私は彼女の手を握り返した。「彼はあなたから金を借りてましたか?」
「あなたって、けっこう昔気質なのね?」彼女は私が握ったままの手を見下ろした。
「まだ仕事中です。それにあなたのスコッチは酔っぱらうには惜しいほどの上物です。別に酔っ払わなくても―」
「そうね」彼女は自分の手を引き抜き、擦った。「最大のヤマ場を迎えてるはず―空き時間だったら。リン・マリオットは、もちろんハイクラスの強請り屋だった。それは確か。彼は女にすがって生きていた」
「あなたも強請られていたのですか?」
「教えてあげましょうか?」
「それは賢明ではないでしょう」
 彼女は笑った。「どうせそうなるのよね。一度、彼の家でひどく酔っぱらって気を失ったことがある。めったにないことだけど。彼は写真を何枚か撮った―服を首までめくって」
「卑劣なやつだ」私は言った。「それは今手もとにありますか?」
 彼女は私の手首をぴしゃりと叩いて、そっと言った。
「お名前は?」
「フィル。あなたの名は?」
「ヘレン。キスして」》

【解説】

前半部分に大したちがいは見つからない。

「話を最後まで聴けば、誰だってひとつの考えが思い浮かぶ」は<Anybody would have an idea out of all that>。清水氏は「おそらく、ぼくが考えていることと同じだろう」と訳している。意訳だろう。村上氏は「その話を聞けば、誰だっていくらかの考えは浮かぶはずだ」と訳している。

その後の夫人の「すぐ分かることよね?」だが、原文は<You can't miss it, can you?>。清水氏はここを「私、あなたを信頼していいわね」とこれもまたかなり大胆な意訳だ。村上氏は「わかりきった話だというわけね」と訳している。<miss>は「見逃す」という意味だから、マーロウならランドールの考えに気づかないはずはない、というくらいの意味だ。清水氏はそれを理解したうえで夫人の気持ちとして訳したということだろうか。

「最大のヤマ場を迎えてるはず―空き時間だったら」は<You must have quite a clutch-in your spare time>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「あなたは一筋縄ではいかない男らしいー余暇には(傍点四字)、ということだけど」。<clutch>は「手などをしっかり握る」ことだが、くだけた言い方として「最大のヤマ場、ピンチ」のような意味で使われる。この場合、二人の手を握りあう行為に掛けているのだろう。

「彼は写真を何枚か撮った―服を首までめくって」は<He took some photos of me-with my clothes up to my neck>。清水氏は「そのときに、裸の写真を撮られたわ」とあっさり訳している。映画の字幕ならこれでいいと思う。村上訳は「そのとき彼は写真を何枚か撮った。衣服が首のあたりまでめくれ上がったやつを」となっている。

前回の夫人の「ほんとにこれって、放っておくと首のあたりまでずり上がっちゃうんだから」という村上訳の意味がこれで分かった。このことを匂わせていた、と村上氏は考えたにちがいない。

「卑劣なやつだ」は<The dirty dog>。清水氏は「ひどい奴だ」とマリオットのこととして訳しているが、村上氏は「ポルノっぽいやつだ」と写真のことと解している。スラング等を調べても「人をだますやつ」のような意味はあるが卑猥な物を表す使用例は見つからなかった。村上氏は次にくる言葉に引きずられて、そう訳したのだろうか。それよりも、マリオットを「卑劣なやつ」と蔑みながら、写真を見たがるマーロウを夫人がいなしたと考える方が気が利いてるのではないか。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第18章(4)

どんなドレスを着たら、裾が首のあたりまでまくれ上がるものだろう。


【訳文】

《「ニュートンはいいでしょう」私は言った。「ギャングとつるむようなタイプじゃない。当て推量に過ぎませんが。フットマンについてはどうですか?」
 彼女は考え、記憶を探った。それから、首を振った。「彼は私を見ていない」
翡翠を身につけてほしい、と誰か言いませんでしたか?」
 彼女の眼は瞬く間に用心深くなった。「そんな手に引っかかると思う」彼女は言った。
 彼女はおかわりを注ごうと私のグラスに手を伸ばした。まだ残っていたが、したいようにさせておいて、その美しい頸の線を研究した。
 彼女が二つのグラスを満たし、二人がまた手にしたとき、私は言った。「記録をはっきりさせてから、あなたに話したいことがある。あの晩のことを詳しく聞かせてください」
 彼女は腕時計を見ようとして長い袖を手繰り寄せた。「そろそろ、行かないと―」
「彼なら、待たせておけばいい」
 彼女の眼が光った。私はその眼が気に入った。
「あけすけに言えないこともあるものよ」彼女は言った。
「この稼業でそれは通用しません。あの晩のことを話すか、私を叩き出すか、どっちか決めるんですね」
「私の隣に来て座ったら」
「長い間考えてたんです」私は言った。「正確には、あなたが脚を組みだしてからずっと」
 彼女はドレスの裾を引っ張り下ろした。「つまらないことを気にするのね」
 私は黄色い革張りのチェスターフィールドに行き、彼女の隣に腰を下ろした。「あなた、手が早いんじゃないの?」彼女はそっと訊いた。
 私は答えなかった。
「こういうことをよくするの?」彼女は横目で訊いた。
「ほとんどありません。暇な時の私はチベットの僧です」
「暇な時がないだけよね」
「本題に入りましょう」私は言った。「我々の―或いは私の―心にひっかかっている問題について。いくら払うつもりです?」
「ああ、それは問題ね。あなたは私のネックレスを取り戻すだろうと思ってたんだけど。少なくともやってはみる、と」
「仕事は自分の流儀でやることに決めてます。このように」私は一息で酒を飲み干し、倒れそうになった。空気も少し飲み込んだ。
「そして、殺人犯を挙げる」私は言った。
「そんなの関係ない。警察の仕事でしょう?」
「その通り。ただ哀れな男が百ドル出して護衛を頼んだのに、護ってやれなかった。気が咎める。泣きたいくらいだ。泣きましょうか?」
「飲みましょう」彼女は二人のグラスにまたスコッチを注いだ。酒は彼女に少しも影響を与えないようだった。ボールダー・ダムに水を注ぐようなものだ
「さてと、どこまでだったかな?」グラスのウィスキーをこぼさないように気遣いながら私は言った。「メイド抜き、運転手抜き、執事抜き、フットマンも抜き。次は洗濯も自分たちですることになりそうだ。ホールドアップはどのようにして起きたか? あなたのヴァージョンにはマリオットが与えてくれなかった細部があるかもしれない」
 彼女は前屈みになり、頬杖をついた。真面目くさって見えたが、見かけほどの真剣さはなかった。
「私たちはブレントウッド・ハイツのパーティーに行った。その後でリンが、<トロカデロ>で少し飲んでダンスでもどうか、と言った。それでそうした。帰りのサンセット・ブルヴァードは工事中でひどい埃だった。それで、リンはサンタモニカ・ブルヴァードへ引き返した。うらぶれたホテルの前を通り過ぎた。つまらないことを覚えているようだけど、ホテル・インディオという名。通りの反対側にビアホールがあって、前に車が一台停まってた」
「たった一台、ビアホールの前に?」
「そうよ、たった一台。薄汚れた店。その車が動き出して私たちの後をついてきた。もちろん、私は何も気にしなかった。気にする理由もないし。その後、サンタモニカ・ブルヴァードからアルゲロ・ブルヴァードに入ろうというところで、リンが、他の道から行こう 、と言って、道が曲がりくねった住宅街に入った。すると突然、後ろの車が突進してきて追い抜きざまにフェンダーをかすめ、路肩に寄せて停車した。コート姿にスカーフ、帽子を目深にかぶった男が謝罪のために引き返してきた。白いスカーフが盛り上がっているのが私の目を引いた。それがあの男に関する印象のすべて。背が高くて痩せてたことの他には。男は近づくとすぐに―今思えば、こっちの車のヘッドライトを避けて歩いていた―」
「当然だ。ライトを浴びたいやつがいるわけがない。一杯やろう、今度は私がつくる」
 彼女は前屈みになって、細い眉をひそめて考えていた。眉は描かれたものではなかった。私は飲み物をふたつつくった。彼女は続けた。》

【解説】

「彼は私を見ていない」は<He didn't see me>。そのままだが、清水氏は「きっと、頸飾りを見ていないわ」と訳している。清水氏は「下男」、村上氏は「召使い」と訳しているが、フットマンというのは、ただの下男や召使いとは異なり、仕事が決まっている。制服を着て食事や酒の給仕などをする職種だ。当然、その仕事以外で主人に会うことはない。外出用の服に着替えた夫人を見る機会はない。村上訳は「彼は私の姿を見なかった」だ。

「あけすけに言えないこともあるものよ」は<There's such a thing as being just a little too frank>。清水訳では「ずいぶん遠慮がないのね」とマーロウの物言いに対する非難のように訳されている。村上訳は「率直には話せない種類のものごともあるわ」と自分自身の態度についての言い訳になっている。この解釈をとることで、次のマーロウの<Not in my business>という決め科白が引き出される仕掛けだ。清水氏は「ぼくの稼業(しょうばい)は、遠慮をしていてはできない」と訳すことで話を繋げている。

「つまらないことを気にするのね」は<These damn things are always up around your neck>。清水氏の訳は「すぐ、まくれてしまうので……」。村上氏の訳は「ほんとにこれって、放っておくと首のあたりまでずり上がっちゃうんだから」だ。いったい、どんなドレスを着たら、ドレスの裾が首のあたりまでまくれ上がるものだろうか。ここに限らず、村上氏は清水氏の訳を土台にして自分流に訳文を作っている。それがまちがいのもとだ。

<around one's neck>には、「重荷(足手まとい)になる」という意味がある。マーロウは二度、夫人の脚の組み方に言及している。しどけなく投げ出された脚が気になって近くに座ることをためらっていた。夫人は、そんなつまらないことを気にして、そばに来ることを躊躇していたなんて、という意味でドレスの裾を引っ張ったのだ。

「我々の―或いは私の―心にひっかかっている問題について」は<Let's get what's left of our minds- or mine-on the problem>。清水氏は「われわれの……とにかく、ぼくの心を問題からそらさないで」と訳している。その前の<Let’s focus>を「話をそらさないで」と訳したことからくる流れだろう。村上訳は「お互い残っている正気をかきあつめて、その問題について考えてみましょう。少なくとも私はがんばってかきあつめる必要がありそうだ」。村上氏ならではの解きほぐす訳なのだろう。でも、シンプル極まる原文を、こんなに持って回った訳文にする必要があるのだろうか。

「私は一息で酒を飲み干し、倒れそうになった」は<I took a long drink and it nearly stood me on my head>。清水氏は「私はグラスを一気に飲みほした」と、後半部分をカットして、あっさり訳している。<stand on my head>は「逆立ちをする」という意味。村上訳は「私は息も継がずに一口でぐいと酒を飲んだ。頭にずん(傍点二字)とこたえるきつい一杯だった」と「頭」を使って訳している。

「彼女は前屈みになり、頬杖をついた」は<She leaned forward and cupped her chin in her hand>。清水氏は「彼女は両手を顎にあてて、からだを前にかがめた」と訳しているが、手は<hands>ではない。村上氏は「彼女は前屈みになり、顎に片手をやった」と訳している。前屈みになったのは肘をつく必要があるからだ。<cup one's chin in one's hand>は「頬杖をつく」という意味。ここは頬杖をついたと考えるべきだ。

「真面目くさって見えたが、見かけほどの真剣さはなかった」は<She looked serious without looking silly-serious>。清水氏は後半をカットして「真剣な顔つきだった」と訳している。これだと微妙なニュアンスを欠いている。村上訳は「真剣な顔に見えたが、それはほどほど(傍点四字)という程度の真剣さだった」。