HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第38章(1)

<chew out>は「厳しく叱りつける」という意味

【訳文】

 冷たい空気が換気口から勢いよく流れ込んできた。天辺までは遠いようだった。一時間にも思える三分間が過ぎ、喇叭のように開いた口からおそるおそる頭を突き出した。近くの帆布を張った救命ボートが灰色のぼやけた物のように見えた。低い声が闇の中で何かつぶやいた。サーチライトの灯りがゆっくりと円を描いた。光はずっと上から来た。おそらく途中で切られたマストに据えられた手すり付きの台座の上だろう。そこにはトミーガン片手の若い者もいるにちがいない。軽いブローニングも持ってるかもしれない。ぞっとする仕事だ。誰かが親切心で搬入口を開けっ放しにしておいてくれても、何の慰めにもならない。
 かすかに聞こえる音楽は、安物のラジオのようなわざとらしい低音が耳についた。頭上には檣頭のライト。そして高い霧の層を通して、冷たい星が幾つか睨みをきかせていた。
 私は換気口から這い出し、肩のホルスターから三八口径を抜き、肋骨に巻きつけるようにして袖で隠した。忍び足で三歩歩いて耳を澄ました。何も起きなかった。ぶつぶつという話し声は止んだが、私のせいではなかった。今では判っていた。声がしたのは二隻の救命ボートの間だ。そして不思議なことに、夜や霧の中から、要るだけの光が集まってきて焦点を一つに絞り、高い三脚に据えられて手すりの上からぶら下がった機関銃の暗く硬い筒先を照らした。傍らに立つ二人の男は、身じろぎもせず、煙草も吸わず、またぶつぶつと話しだした。言葉になることのない静かなささやき声だった。
 そのささやき声に耳を傾けすぎた。背後から別の声がはっきり聞こえた。
「申し訳ありません。お客様はボート・デッキには出られないことになっています」
 急ぐ素振りを見せず振り返り、相手の手を見た。ぼんやり浮かんだ両手は空っぽだった。
 頷きながら脇に身を寄せると、ボートの端が我々を隠した。男は静かに私の後についてきた。湿った甲板に靴音は立たなかった。
「どうやら、迷ったようだ」私は言った。
「そのようですね」若々しい声で、厳しく叱責する声ではなかった。「しかし、甲板昇降口の階段にはドアがあります。ばね錠がついていて、よくできた錠前です。以前は階段は開放されていて、真鍮の看板をかけた鎖が張られていました。それでは元気のいい客なら跨ぎ越えるだろうと気づきましてね」
 彼は長いあいだしゃべっていた。客あしらいなのか、何かを待っているのか、どちらか分からなかった。私は言った。「誰かがドアを閉め忘れたようだ」
 陰になった頭が頷いた。私より背が低かった。
「とはいえ、こちらの立場も察してください。もし誰かの閉め忘れだったら、ボスは放って置かないでしょう。誰かの閉め忘れでないなら、どうやってここに来られたのか知りたい。あなたならご存知のはずだ」
「いい考えがある。下に行ってボスと話そう」
「お友だちと一緒に来られたのですか?」
「とても愉快な連中だ」
「お友だちと一緒にいるべきでしたね」
「言わずもがなだが―振り返ったら他の男が彼女に飲み物をおごってるんだ」
 彼はくすくす笑った。それから顎をかすかに上げ下げした。
 私は身を低くして横っ飛びに飛んだ。静まり返った空気の中をブラックジャックが長い溜め息をついた。そばにあるブラックジャックはみんな自動的に私に向かって振り下ろされることになっているみたいだ。
 背の高いのが悪態をついた。
 私は言った。「かかってこいよ。ヒーローになれ」
 私はカチリと派手な音を立てて安全装置を外した。
 つまらない芝居でも時には大当たりをとることがある。背の高い方は根を生やしたみたいに立ちすくんだ。手首にブラックジャックが揺れているのが見えた。さっきまで話していた方の男は慌てることなく何やらじっと考えていた。
「その手には乗らないよ」彼は重々しく言った。「あなたが船を降りることはないだろう」
「それについても考えたが、君は気にしてないだろうと思ってたよ」
 あいかわらずのさえない芝居だ。
「望みは何だ?」彼はおだやかに訊いた。
「私は派手な音のする銃を持っている」私は言った。「だが、騒ぎ立てたいわけじゃない。ブルネットと話がしたいだけだ」
「仕事でサンディエゴに行っている」
「彼の代役と話そう」
「たいした度胸だ」話の分かる男は言った。「下に降りよう。ドアを通る前に銃をひっこめてくれ」
「ドアを通り抜けることができたら、銃はひっ込めよう」
 彼はかすかに笑った。「持ち場に戻れ、スリム。ここは俺に任せろ」
 男は私の前でのらりくらりと動いた。背の高い男は暗がりに消えたようだ。
「それじゃあ、ついて来るがいい」

【解説】

「おそらく途中で切られたマストに据えられた手すり付きの台座の上だろう」は<probably a railed platform at the top of one of the stumpy masts>。清水訳は「おそらく、マストの頂上から照らしているのであろう」と詳しい説明を省いている。村上訳は「おそらく途中まで断ち切られたマストの上につけられた手すり付きの台座に据えられているのだろう」。

「ぞっとする仕事だ。誰かが親切心で搬入口を開けっ放しにしておいてくれても、何の慰めにもならない」は<Cold job, cold comfort when somebody left the loading port unbolted so nicely>。清水氏はこの一文をまるまるカットしている。<cold comfort>は「少しも慰めにならないもの」という意味。<cold job>との語呂合わせだろう。村上訳は「おっかない話だ。誰かさんが荷物積み入れ口を親切に開けたままにしておいてくれたところで、さして慰めにはならない」。

「かすかに聞こえる音楽は、安物のラジオのようなわざとらしい低音が耳についた」は<Distantly music throbbed like the phony bass of a cheap radio>。清水訳は「音楽が安っぽいラジオの音楽のようにかすかに聞こえていた」と<throbbed like the phony bass>をきちんと訳していない。村上訳は「遠くから流れてくる音楽は、安物のラジオの低音みたいにぼそぼそと聞こえた」。<throb>は「鼓動する」の意味で、どきどき、ずきんずきん、と規則的に響いてくる動きのこと。「ぼそぼそと」というのとは違う。

「冷たい星が幾つか睨みをきかせていた」は<a few bitter stars stared down>。清水訳は「心細い星がいくつか光っていた」。村上訳は「いくつかの星が凍てつくように光っているのが見えた」。<bitter>には「苦い、つらい、厳しい、冷酷な」のような意味があるが「心細い」というのはない。文末の<stare down>は「見下ろす」という自動詞の他に、「にらみ倒す、おとなしくさせる」という他動詞としての用法がある。「心細い」のは星ではなく、誰の助けも得られないマーロウの方だ。

「そして不思議なことに、夜や霧の中から、要るだけの光が集まってきて焦点を一つに絞り、高い三脚に据えられて手すりの上からぶら下がった機関銃の暗く硬い筒先を照らした」は<And out of the night and the fog, as it mysteriously does, enough light gathered into one focus to shine on the dark hardness of a machine gun mounted on a high tripod and swung down over the rail>。

清水訳は「そして夜が暗く、霧が立ちこめていたにもかかわらず、そこに一台の機関銃が据えられ、銃口を海面に向けているのが見えた」。実にあっさりしたものだ。村上訳は「そして夜の霧の中で、何かしら神秘的な成り行きによって、光がほどよく集まってひとつに焦点を結び、機関銃の黒々とした硬い銃身をぎらりと光らせた。機関銃は高い三脚の上に据えられ、手すりの上から周囲を睥睨(へいげい)していた」。いくら「神秘的な成り行き」にせよ、夜霧の中で銃身が「ぎらりと」光ったりするものだろうか。

「若々しい声で、厳しく叱責する声ではなかった」は<He had a youngish voice, not chewed out of marble>。清水訳は「彼は若々しい声でいった」と、後半をトバしている。村上訳は「若々しい声だった。大理石から切り出したようないかつい声ではない」。これは誤訳だろう。<chew out>は「厳しく叱りつける」という意味の俗語だ。<marble>には「冷たい」という意味がある。

「そばにあるブラックジャックはみんな自動的に私に向かって振り下ろされることになっているみたいだ」は<It was getting to be that every blackjack in the neighborhood swung at me automatically. The tall one swore>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「手近にあるブラックジャックはすべて、自動的に私に向かって振り下ろされるように設定されているのかもしれない」。

「つまらない芝居でも時には大当たりをとることがある」は<Sometimes even a bad scene will rock the house>。清水訳は「まずい演出の場合でも、観客にうけることがある」。村上訳は「ときには月並みな台詞が馬鹿にできない力を発揮することもある」だ。村上氏は<scene>を「台詞」と解しているが、<scene>には安全装置を外した音を聞かせることも含めているのではないか。

「その手には乗らないよ」は<This won't buy you a thing>。清水訳は「騒いでも、何にもならない」。村上訳は「よく考えた方がいい」だ。<won't buy ~>は「~に騙されない」という意味だ。この男はマーロウに対して何かを命じているわけではない。こちらとしてはあなたを信じる気はない、と言っているのだ。

「それについても考えたが、君は気にしてないだろうと思ってたよ」は<I thought of that. Then I thought how little you'd care>。清水訳は「それは、わかってる。だが、どう出て来るか、試してみたかったんだ」。村上訳は「考えても詮ないことは考えないようにしているのさ」。両氏の訳が全く異なる。村上氏は一つ前の「よく考えた方がいい」を受けた訳になっているのだろう。しかし、原文とはかなり異なる訳になっている。

「男は私の前でのらりくらりと動いた」は<He moved lazily in front of me and the tall one appeared to fade into the dark>。清水氏はこの部分を「ついて来たまえ」の後に動かし「優しい声の小男はそういって歩き出した」と訳している。村上氏は「彼が私の前であきらめたように身体の向きを変えると」と訳している。<move lazily>は「のろのろと動く」の意味だ。「歩き出」したり「身体の向きを変え」たりはしていない。スリムと呼ばれた男が自分の言う通りに動くかどうか確かめるため時間を稼いでいたのだろう。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第37章(2)

<Sometimes a guy has to>は「男はつらいよ

【訳文】

 彼は奇妙な表情を浮かべながら目を背けたが、そこの光では読み取れなかった。私は彼の後について、箱や樽の間を抜け、ドアについた高い鉄の敷居を乗り越え、船の臭いのする長く薄暗い通路へと入っていった。そこを抜けると鉄格子の足場に出て、油でつるつるになり、つかまりにくい鉄梯子を降りた。オイル・バーナーのゆっくりしたシューッという音が今やあたりを満たし、他のあらゆる音を覆い隠していた。我々は物言わぬ鉄の山間を縫って音のする方に向かった。
 角を回ると、紫色のシルクのシャツを着た薄汚れたイタリア系の小男が見えた。針金で補強した事務用椅子に座り、天井からぶら下がった裸電球の下で、黒い人差し指と、おそらく彼の祖父のものだったろう金属縁の眼鏡の助けを借りて夕刊を読んでいた。
 レッドは忍び足で背後に回り、そっと声をかけた。
「やあ、ショーティ、子どもたちは元気にしてるか?」
 イタリア人はカクンと口を開け、紫のシャツの開口部に手を伸ばした。レッドは男の顎の角を殴り、倒れようとするところを支えた。その体をそっと床に寝かし、紫のシャツを引き裂きにかかった。
「これは間違いなくこいつを拳骨より痛い目に合わせるだろう」レッドは優しく言った。「だが、換気口の梯子を上ろうとすれば下に派手な音を立てる。上には何も聞こえない」
 彼は手際よくイタリア人を縛り、猿ぐつわをかませると、眼鏡を畳んで安全な場所に置いた。それから我々は格子のはまっていない換気口に歩を進めた。私は上を見上げたが、暗くて何も見えなかった。
「じゃあな」私は言った。
「もしかしたら、少し助けが必要なんじゃないか」
 私は濡れた犬のように身震いした。「本当は海兵隊一個中隊を必要としている。しかし、一人でやるか、やらないでおくかのどちらかだ。それじゃ」
「どれくらいいるつもりだ?」彼の声はまだ心配そうだった。
「一時間以内だ」
 彼はじっと私を見て唇を噛んだ。それから頷いた。「男はつらいよ」彼は言った。「暇ができたら、ビンゴ・パーラーに顔を出してくれ」
 彼はそっと歩き去った。四歩歩いたところで戻ってきて「あの開けっ放しの搬入口」彼は言った。「何かの時の役に立つかもしれん。使うといい」そう言うと、さっさと行ってしまった。

【解説】

「彼は奇妙な表情を浮かべながら目を背けたが、そこの光では読み取れなかった」は<He turned away from me with a curious look I couldn't read in that light>。清水訳は「レッドは不思議な眼つきを見せて、私からはなれていった。光線が暗く、私は彼の眼を読むことができなかった」。村上訳は「レッドはわけありげな顔をしてあちらを向いたが、貧弱な明かりの下では、細かい表情までは読めなかった」。原文のどこにも暗さについての新たな言及はない。

「そこを抜けると鉄格子の足場に出て、油でつるつるになり、つかまりにくい鉄梯子を降りた」は<We came out of this on to a grilled steel platform, slick with oil, and went down a steel ladder that was hard to hold on to>。清水訳は「通路を出たところは、油でツルツルすべる鋼鉄の床で、私たちはそこから、鉄梯子を降りた」。床が「格子状」であること、梯子がつかみにくいことがが抜け落ちている。

村上訳は「通路を出ると、格子状の鉄でできた床になっていた。オイルでつるつるしている。そこから下に降りる鉄の梯子は、手でしっかりつかんでいるのが難しかった」。新旧訳ともに<slick with oil>を<platform>を修飾するものと解釈しているが<hard to hold on>とあるので、同じ鉄製の梯子も油で滑りやすくなっている、と取るべきだろう。

「オイル・バーナーのゆっくりしたシューッという音が今やあたりを満たし、他のあらゆる音を覆い隠していた」は<The slow hiss of the oil burners filled the air now and blanketed all other sound>。清水訳は「重油の燃える音が、その他のすべての音を消していた」。村上訳は「オイル・バーナーのしゅうっという緩やかな鋭い音が今ではあたりに満ちて、他のすべての音を圧倒していた」。

「オイル・バーナー」というのは「水蒸気の力で油を霧状にし,空気流中に噴射して燃焼させる」装置なので、意味としては清水訳の通りなのだが、残念ながら、どんな音かが分からない。<hiss>は村上訳の通り<しゅうっという>音なのだが、「緩やかな鋭い音」というのは、一体どんな音なのだろう。「ヒス音」からの連想でつい「鋭い」と入れたのだと思うが、かえってどんな音か分からなくしてしまっている。

「我々は物言わぬ鉄の山間を縫って音のする方に向かった」は<We turned towards the hiss through mountains of silent iron>。清水訳は「私たちは鋼鉄の林のあいだを抜けて、その音のする方へ歩いて行った」と、「山」を「林」に替えている。村上訳は「むっつりとそびえ立つ鉄の塊のあいだを抜けて、我々はその鋭い音に向けて進んだ」と「塊」に替えている。何分にも比喩なので、目くじらを立てるところではないが、参考までに。

「角を回ると、紫色のシルクのシャツを着た薄汚れたイタリア系の小男が見えた」は<Around a corner we looked at a short dirty wop in a purple silk shirt >。清水訳は「角をまがると、紫色のシャツを着た薄汚い小男」。村上訳は「角をまがったところに、紫色のシャツを着たすすけた(傍点四字)イタリア系の小男がいた」と、両氏とも<silk>を忘れている。清水氏が訳していない<wop>はラテン系、特にイタリア人を指す蔑称。<short dirty wop>と続けたところに差別意識が強く出ている。

「天井からぶら下がった裸電球の下で、黒い人差し指と、おそらく彼の祖父のものだったろう金属縁の眼鏡の助けを借りて夕刊を読んでいた」は<under a naked hanging light, and read the evening paper with the aid of a black forefinger and steel-rimmed spectacles that had probably belonged to his grandfather>。清水訳は「裸の電灯の下で、祖父の代から伝わっているような鉄ぶちの眼鏡をかけて夕刊を読んでいた」。

村上訳は「真っ黒な人差し指と、金属縁の眼鏡の助けを借りて、裸電球の下で夕刊を読んでいた。その眼鏡はおそらく彼の祖父がかつて使っていたものだろう」。清水訳は<with the aid of a black forefinger>が抜けている。また両氏とも<hanging>を訳し忘れている。頭上近くにぶら下がった裸電球の光で、指で文字をたどりながら新聞を読む男のイメージは絵に描いたようではないか。

「やあ、ショーティ、子どもたちは元気にしてるか?」は<Hi, Shorty. How's all the bambinos?>。<shorty>は「背が低い」ことを意味する。日本語なら「ちび」だ。清水訳はここもそれを使わず「こんばんは。どうだい、今日のレースは?」。新聞を見ていることから<bambinos>.(赤ん坊)を馬と解したのだろう。村上訳は「よう、ショーティー。子供たちは元気かね?」。

「これは間違いなくこいつを拳骨より痛い目に合わせるだろう」は<This is going to hurt him more than the poke on the button>。清水訳は「頭を殴りつけるより、この方がきくんだ」。村上訳は「こんなことをされるのは、顎に一発食らうよりも、こいつにとってはこたえるはずだ」。<poke>は俗語で「殴る」の意味。<on the button>は「(言ったことが)まったく正しい」という意味だ。清水氏は頭より顎を殴ったことが男にとって効いた、と取っているようだが、この場合の<this>は、シルクのシャツを裂かれることだろう。

男はつらいよ」と訳したのは<Sometimes a guy has to>。意味としては「時には男は(したくなくても)しなければならない(ことがある)」。清水氏はここをカットしている。いい文句なのに。村上訳は「男であるというのは時としてきついものだ」。マーロウのセリフなら、このきざったらしい文句もありだろうが、レッドの口から出るとしたら、もっとくだけた文句にしたい。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第37章(1)

<to make a splash>は「水しぶきを上げる」ではなく「大評判をとる」

【訳文】

回転するサーチライトは 霧を纏った青白い指で、船の百フィートかそこら先の波をかろうじて掠めていた。体裁だけのことだろう。とりわけ宵の口のこの時刻とあっては。賭博船のいずれか一方の売り上げ金強奪を企むとしたら大勢の人数が必要だ。襲撃は朝の四時頃になる。その頃なら客も諦めの悪い賭博師数人に間引かれ、乗組員も疲れでぐったりしている。それでも金儲けの手段としては悪手だ。一度試した者がいる。
 水上タクシーが旋回して浮き桟橋に横づけし、客を降ろして岸の方へ戻っていった。レッドはサーチライトの光の届かない位置で、快速艇をアイドリングさせていた。もし面白半分に数フィートばかり持ち上げられたら―しかしそんなことは起きなかった。光は気怠げに単調な水を照らして通り過ぎた。快速艇は光の通り道を横切り、船尾から伸びる二本の太い錨綱をすり抜けて、張り出し部分の下にすばやく潜り込んだ。そして、船体についた油塗れの鉄板におずおずと躙り寄った。まるでロビーにいる売春婦にお引き取りを願おうとしているホテルの探偵のように。
 両開きの鉄の扉が頭上高くにぬっとのしかかった。それは手が届かないほど高く、もし手が届いたとしても、開けるには重すぎるように見えた。快速艇はモンテシートの古ぼけた側面をこすり、足の下ではうねる波がひたひたと船底を叩いていた。傍らの暗闇に大きな影が浮かび上がり、巻かれたロープが滑るように空中を上がっていき、何かに引っかかり、端が落ちて水しぶきを上げた。レッドは鍵竿で釣り上げ、しっかりと引っ張って、端をエンジンのカウリングのどこかに固定した。霧が立ち込めて、何もかもが非現実的に思えた。湿った空気は愛の燃え殻のように冷たかった。
 レッドが私の方に屈みこみ、息が私の耳をくすぐった。「船体が高く上がり過ぎている。強い波が一撃すればスクリューがまる見えだ。それでもこの鉄板を上っていくしかない」
「待ち切れないな」身震いしながら、私は言った。
 彼は私の両手を舵輪に置き、望む通りの位置まで回し、スロットルを調節し、ボートを今の状態で保つように言った。鉄板の近くに鉄の梯子がボルト留めされていた。船体に沿ってカーブし、横桟は油塗れの棒のように滑りやすいだろう。
 そいつを上るのはビルディングの軒蛇腹を乗り越えるのと同じくらいそそられた。レッドは、ズボンに手を強くこすりつけてタールをつけた。それから梯子に手を伸ばし、静かに体を引っ張り上げた。うなり声一つ立てなかった。スニーカーが金属の横桟に引っかかった。そして体をほとんど直角にして踏ん張った。もっと牽引力を得るためだ。
 サーチライトの光は今では我々から遠く離れた場所を掃照していた。光が水に跳ね返り、私の顔を炎のように揺らめかせたが、何も起きなかった。頭上で蝶番が軋む重く鈍い音がした。黄味を帯びた光がほんの僅か霧の中に漏れ出てやがて消えた。搬入口の輪郭が半分見えた。内側から掛け金がかけられていなかったらしい。どうしてなのか、訳が分からない。
 囁き声が聞こえた。意味をなさないただの音だった。私は舵輪から手を離して上り始めた。それは今までやった中で最も辛い旅だった。息を切らし、喘ぎながら着いたのは、饐えた臭いのする船倉で、荷造り用の箱や樽、巻かれたロープ、錆びた鎖の塊などが散乱していた。隅の暗がりで鼠が甲高い声を上げた。黄色い光は向こう側の狭いドアから漏れていた。
 レッドが私の耳に唇を近づけた。「ここをまっすぐ行くと、ボイラー室の狭い通路に出る。補助動力の一つに蒸気を焚いてるんだ。このおんぼろ船にはディーゼルがないからな。船倉にいるのは多分一人だけだ。乗組員は甲板に上がって一人何役もこなしている。胴元、監視人、ウェイター等々。誰もが船の乗組員らしく見えなきゃならない、そういう契約なんだ。ボイラー室からは格子の嵌っていない通風孔にご案内だ。そこからボート・デッキに行ける。ボート・デッキは立入禁止になってるが、気儘にやってくれ―息のあるうちに」
「船に親戚でも乗ってるみたいだな」私は言った。
「もっと妙なことがいくらでも起きてるよ。すぐに戻ってくるかい?」
「ボート・デッキからは、好印象を与えるようにしないと」と言って、私は財布を取り出した。「割増料金がいるだろう。取ってくれ。死体の取り扱いは自分と同じように丁重にな」
「あんたはもうこれ以上俺に借りはない」
「帰りの運賃を払っておこうというのさ。たとえ使うことがなくてもな。泣き出して君のシャツを濡らす前に取ってくれ」
「上で手助けはいるか?」
「必要なのは、滑らかに動く舌なんだが、蜥蜴の背中みたいな代物しか持ち合わせがない」
「金はしまっておけ」レッドは言った。「帰りの料金は支払い済みだ。怖いんだろう」彼は私の手を取って握った。その手は強く、硬く、温かくて、少しべとついていた。「怖いのは分かる」彼は囁いた。
「乗り越えてみせるさ」私は言った。「何とかして」

【解説】

「賭博船のいずれか一方の」は<one of these gambling boats>。清水訳は単に「賭博船」。村上訳は「この二隻の賭博船の」だ。<one of these>は「どちらか一つ」の意味なので、両氏の訳は正しくない。

「その頃なら客も諦めの悪い賭博師数人に間引かれ」は<when the crowd was thinned down to a few bitter gamblers>。清水訳は「客が減り」と<a few bitter gamblers>はスルーしている。村上訳は「その時刻には客の数も減って、せいぜい数人の負けっぷりの悪い連中だけになっている」と訳している。<bitter>を「負けっぷりの悪い」と噛みくだいてみせるところはさすがだが<gambler>はプロの賭博師のことだ。一般客と同じように扱うのはどうだろう。

「船体についた油塗れの鉄板におずおずと躙り寄った。まるでロビーにいる売春婦にお引き取りを願おうとしているホテルの探偵のように」は<We sidled up to the greasy plates of the hull as coyly.as a hotel dick getting set to ease a hustler out of his lobby>。清水氏は「船体の油だらけの鉄板が、ホテルの探偵がゆすり(傍点三字)に来た男をロビイに入れまいとするように、私たちのすぐ眼の前にあった」と訳している。

村上訳は「そしてまるでホテルの探偵がロビーから売春婦にお引き取り願おうとするときのように、船体についた油だらけの何段かの平板(ひらいた)にさりげなくにじりよった」。<hustler>には「やり手、詐欺師、街娼」などの意味がある。ここは<coyly>(はにかんで、恥ずかしそうに)が鍵になる。強請りに来た男を追い払うのに「恥ずかしそうに」する探偵はいない。清水氏は<We sidled up>を読み飛ばしたのだろう。<sidle up>は「にじり寄る」という意味だ。

「両開きの鉄の扉が頭上高くにぬっとのしかかった」は<Double iron doors loomed high above us>。清水氏は例によって「眼をあげると、二重の鉄の扉が見えた」とやっている。開いてもいないのに二重だと分かるわけがない。村上訳は「両開きの鉄扉が頭上に見えた」。<loom>は「(闇などから)ぬっと現れる,ぼんやりと大きく見えてくる」という意味だ。この場合は霧の中から、突然現れたのだろう。

「そいつを上るのはビルディングの軒蛇腹を乗り越えるのと同じくらいそそられた」は<Going up it looked as tempting as climbing over the cornice of an office building>。清水訳は「ビルディングの壁を登るのと同じようなものだ」。「軒蛇腹」(cornice)というのは、雨仕舞のためにつけられた古典建築の建物の最上部に突出した庇状の部分のこと。壁の一部ではあるが、壁ではない。村上訳は「その梯子を上っていくことは、高層ビルについたでっぱりを越えるのと同じくらい心をそそった」。

「それは今までやった中で最も辛い旅だった」は<It was the hardest journey I ever made>。清水訳は「一時間もかかったような努力だった」。どうしてこういう訳にしたのか、その意図が分からない。村上訳は「それは私がこれまで辿った道のりの中で、最も困難をきわめた代物だった」。洒落た言い回しだが、原文はもっと直截的だ。

「このおんぼろ船にはディーゼルがないからな」は<because they don't have no Diesels on this piece of cheese>。清水訳は「ディーゼル・エンジンはないんだ」と<on this piece of cheese>をスルーしている。村上訳も「この船にはディーゼル・エンジンがついていないからね」とチーズについては知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいる。

<like a piece of Swiss cheese>という例文がある。「スイスチーズのように(穴だらけ)」から転じて「(激しい銃撃を受けて)ハチの巣状態に、ボコボコにされて」という意味。貨物船のおんぼろ具合を揶揄っているのだろう。

「ボート・デッキは立入禁止になってるが、気儘にやってくれ―息のあるうちに」は<the boat deck is out of bounds. But it's all yours-while you live>。清水訳は「ボート・デッキは立入禁止になっているんだが、そこまで出られれば何とかなるだろう。それまで生命(いのち)があればだが……」。<it's all yours>も<while one lives>も、よく使われる言い方だ。前者は「すべては君のものだ」つまり「どうぞご自由に」という意味。後者は「息のあるうちに、目の黒いうちに」の意味。

村上訳は「(パイプは船の甲板に通じていて、)そこは客には立入り禁止になっている。しかしあんたはそこを自由に歩くことができる。つまり生きているあいだは、ということだがな」。村上氏は「ボート・デッキ」(端艇甲板)をただの「甲板」と訳している。その前の<play decks>も同じく「甲板」だ。船にはいくつもの甲板がある。きちんと訳し分けないと、客の立入り禁止になっている場所で賭け事が行われていることになる。さすがにそれはまずいだろう。

「ボート・デッキからは、好印象を与えるようにしないと」は<I ought to make a good splash from the boat deck>。清水訳は「ボート甲板(デッキ)から先がうまくゆけば……」。村上氏はここにいたっても「ボート・デッキ」を無視し「海に放り込まれたら耳に届くはずだ」と訳している。<to make a splash>は「水しぶきを上げる」ではなく「あっと言わせる、大評判をとる」など、多くの人々に注目されたり、強い印象を与えたりすることを意味するイディオムだ。

「割増料金がいるだろう。取ってくれ。死体の取り扱いは自分と同じように丁重にな」は<I ought to make a good splash from the boat deck, I think this rates a little more money. Here. Handle the body as if it was your own>。清水訳は「約束の料金では安すぎる。この中の要るだけ取ってくれ」と、後半をカットしている。村上訳は「そうなると、余分の手間賃が必要だろう。受け取ってくれ。自分の死体だと思って丁重に扱ってくれよな」

「必要なのは、滑らかに動く舌なんだが、蜥蜴の背中みたいな代物しか持ち合わせがない」
は<All I need is a silver tongue and the one I have is like lizard's back>。清水訳は「舌さえあればいいんだ。しかし、自信はないね」。<silver tongue>というのは「弁舌の立つこと、雄弁」の意味。銀食器のような滑らかさをいうのだろう。村上訳は「必要としているのは、銀の滑らかな舌なんだが、あいにく、持ち合わせているのはトカゲの背中みたいな代物だ」。

「その手は強く、硬く、温かくて、少しべとついていた」は<His was strong, hard, warm and slightly sticky>。清水訳は語順を入れ替え「かたくて、温かくて、強そうな手だった」とし、コールタールのべたつきを訳していない。こういう細かなところに神経を使うのがチャンドラーという作家なのだが。村上訳は「彼の手は強くて、硬くて、温かくて、僅かにべたべたしていた」。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第36章(2)

<get done with>は「(仕事等を)片付ける」という意味。

【訳文】

「連中の思惑は分かる」レッドは言った。「警官の問題は、頭が足りないとか、腐りきってるとか、荒っぽいとか、そんなことじゃない。警官になれば今まで手にしたことがない何かが手に入ると考えるところだ。昔はそんなこともあったかもしれないが、今はちがう。上には頭の切れるやつが腐るほどいるんだ。そこで、ブルネットの話になる。彼が市政を動かしてるわけじゃない。彼は煩わされたくないんだ。市長選の資金を提供したのは自分の水上タクシーに口出しされたくなかったからだ。もし、彼が特別に便宜を図ってほしいと思ったら、その通りになる。以前、彼の友人弁護士が飲酒運転で逮捕されたことがある。飲酒運転は重罪だ。ブルネットは容疑を無謀運転に引き下げさせた。警察はそのために事件記録簿を改竄したが、それもまた重罪だ。一事が万事この調子だ。やつの生業は賭博だが、この頃じゃいろんな稼業が結びついている。そうなると、マリファナも扱ってるかも知れないし、誰かにやらせてあがりを取っているかもしれない。ソンダーボーグを知っていたかどうか、たしかなことは言えない。しかし、宝石強盗はハズレだ。連中の儲けが八千ドルだったとしよう。そんな仕事にブルネットが関係してるというのはお笑い草だ」
「そうだな」私は言った。「人が一人殺されてるんだ。覚えているか?」
「それも彼はやってない。やらせてもいない。もし、ブルネットがやったなら死体は見つからなかったろう。服に何が縫い込まれているか分かったもんじゃない。そんな危ない橋を渡るもんか。なあ、俺は二十五ドルであんたのために動いている。ブルネットはその金で何をするんだ?」
「人を殺させることはないのか?」
 レッドはしばらく考えていた。「あるかもな。おそらくあるだろう。しかし、彼は強面じゃない。あの手のギャングは新種なんだ。彼らのことを考えるとき、つい一昔前の強盗やヤク中のチンピラのように思いがちだ。警察本部長は、やつらはみんな臆病者だとラジオで大口を叩いている。女や赤ん坊を殺し、警官の制服を見たら、命乞いをするってな。たわごとを世間に広めるような馬鹿な真似はやめるべきだ。臆病な警官もいれば、気の弱い殺し屋もいるだろうが、どちらもごく少数だ。それに、ブルネットのようなトップにいる連中は、人を殺してその地位に就いたわけじゃない。知恵と度胸でのし上がったんだ。彼らにないのは警察の持つ一致団結した勇気だ。しかし、何よりもまず彼らはビジネスマンだ。金のために動く。他のビジネスマンと同じさ。時には邪魔になる男が出てくる。オーケイ、消しちまおう。しかし、それをやる前にじっくり考える。やれやれ、俺は何のためにこんな講釈を垂れてるんだ?」
「ブルネットのような男はマロイを匿ったりしない」私は言った。「人二人殺した後では」
「しないね。金以外にこれといった理由がない限り。引き返したくなったか?」
「いや」
 レッドは舵輪に置いた手を動かした。ボートは速度を上げた。「勘違いするな。俺が連中寄りだなどと」彼は言った。「奴らの根性が嫌いなんだ」

【解説】

「市長選の資金を提供したのは自分の水上タクシーに口出しされたくなかったからだ」は<He put up big money to elect a mayor so his water taxis wouldn't be bothered>。清水訳は「市長の選挙に大金を使っているからだ」と、水上タクシーを端折っている。村上訳は「彼は市長選に多額の金を出した。運営している水上タクシーについてうるさいことを言われないようにね」。

「ブルネットは容疑を無謀運転に引き下げさせた。警察はそのために事件記録簿を改竄したが、それもまた重罪だ」は<They changed the blotter to do it, and that's a felony too>。清水氏はここを「ブルネットが口ぞえしたんで、ただのスピード違反ですんじゃった」としている。村上訳は「ブルネットはもっと軽い違反に変更させた。逮捕記録を改竄させたんだ。こいつもまた重罪だ」としている。<They>という主語がなくなることで、ブルネットだけが悪いように読める。この<too>は警察のやったことも「重罪」だと言っているのに。

「ブルネットはその金で何をするんだ?」は<What would Brunette get done with the money he has to spend?>。<get done with>は「(仕事などを)済ませる、終わらせる、やり終える、片付ける」という意味。清水訳は「ブルネットが金を使えば、どんなことをさせられると思う?」。村上訳は「ブルーネットが金を積めばどれほどのことができると思う?」。ほぼ旧訳のままだ。

レッドは、わずか二十五ドルで危険を冒している。それでは、もしブルネットが大金を払ってまで処理しなければならないことがあるとしたら、それはどういうトラブルなんだ、という、レッドの反語的な問いかけと、ここはとるべきではないのだろうか? だからマーロウは、人を使って殺しをやらせることはないのか、と聞いているのだ。

「彼らのことを考えるとき、つい一昔前の強盗やヤク中のチンピラのように思いがちだ」は<We think about them the way we think about old time yeggs or needle-up punks>。清水訳は「ブルネットにかぎらないが、彼らを昔のギャングのように考えるのがまちがいなんだ」と<needle-up punks>をカットしている。村上訳は「俺たちはやつらについて考えるとき、どうしても昔ながらの強盗やら、薬物中毒のちんぴらを思い浮かべる」。

「警察本部長は、やつらはみんな臆病者だとラジオで大口を叩いている。女や赤ん坊を殺し、警官の制服を見たら、命乞いをするってな。たわごとを世間に広めるような馬鹿な真似はやめるべきだ」は<Big-mouthed police commissioners on the radio yell that they're all yellow rats, that they'll kill women and babies and howl for mercy if they see a police uniform. They ought to know better than to try to sell the public that stuff>。

清水氏は「彼らはみんな卑怯もので、女でも子供でも殺すし、警官の姿を見ると、ちぢみ上がって命乞いをすると思っている。警察が国民にそう思わせているんだ」と、かなり原文と異なる。村上訳は「でかい口をきく警察のコミッショナー連中はラジオに出演して、やくざなんてみんな臆病な連中で、女や子供ばかり殺し、制服の警官が現れたら泣いて慈悲を乞うみたいなことを威勢よく言い立てている。そんな与太話を大衆に売り込むよりもっと大事なことがあるだろうにな」。<ought to know better than to>は「もっと分別をもってしかるべき」といういみ。

「奴らの根性が嫌いなんだ」は<I hate their guts>。清水訳は「俺は彼奴らの度胸が嫌いなんだ」と、原文通りに訳している。ところが、めずらしいことに村上氏は「あいつらは許せん」と勝手な言葉に替えている」。ここは何度も出てくる<guts>をきちんと訳すべきところではないのだろうか。清水氏は「度胸」と訳しているが、嫌うなら「根性」の方が座りがいい、と思う。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第36章(1)

波に、親しい波と「よそよそしい波」があるものだろうか?

【訳文】

街灯の列が遠ざかり、小さな遊覧車の立てる音や警笛が遠くなり、揚げ油とポップコーンの匂いが消え、子どもの甲高い声と覗きショーの呼び声も聞こえなくなると、その先には海の匂い、突然顕わになった海岸線、小石を巻き上げる波が泡立ち騒ぐ他に何もなかった。あたりに人影はなく、背後の騒音は消えていた。どぎつくいかがわしい街灯りは手探りするほどの光になりつつあった。やがて、灯りひとつない暗い桟橋が沖合いの闇に指を突き出しているのが見えた。これがそれだろう。私はそちらに歩き出した。
 桟橋の先頭の杭を背にした空き箱からレッドが立ち上がり、上にいる私に声をかけた。「ここだ」彼は言った。「先に行くと乗船用階段がある。俺は彼女を迎えに行ってウォームアップさせておく」
「河岸の刑事が尾けてきた。ビンゴ・パーラーにいた男だ。足止めを食った」
「スリ係のオルソン。腕利きだ。ときどき財布を掏っては別人のポケットに滑り込ませる癖さえなけりゃな。自分の逮捕記録を維持するためさ。いささか腕利きすぎるのかもな?」
「ベイ・シティなら上出来な部類だ。行こう。風が出てきた。霧が晴れてほしくない。大したことはなさそうだが助けにはなる」
「サーチライトを誤魔化すには充分だ」レッドは言った。「甲板の上にはトミー・ガンが待ってる。先に桟橋に行っててくれ。俺は後から行く」
 彼は闇の中に溶けた。私は魚脂でぬめる板張りの床を滑るようにして、暗い桟橋を歩いた。桟橋の先端に汚い低い手すりがあった。一組の男女が片隅に倚りかかっていた。男の方が悪態をついて、二人はどこかに行った。
 十分間、水が杭を叩く音を聞いていた。夜鳥が暗闇の中を旋回し、微かな灰色の翼が視界を横切り、そして消えた。上空を行く飛行機の爆音がした。それから遥か遠くでモーターが雄叫びを上げた。それは吠えたて、咆哮し続けた。半ダースのトラックのエンジンが立てるような音だ。しばらくすると音は和らいで小さくなった。それからぱたりと止んだ。
 また何分かが過ぎた。私は階段まで戻り、濡れた床を行く猫のように注意して下りた。暗い影が夜を抜けだし、ごつんと何かがあたる音がした。声が聞こえた。「用意ができた、乗れよ」
 私はボートに乗り込み、彼の隣の風防の下に座った。ボートは水の上を滑るように走った。今は排気音はしなかったが、船体の両横から激しく泡立つ音が聞こえた。再び、ベイ・シティの街灯りは、外洋の波のうねりに見え隠れする微かな光となった。再び<ロイヤル・クラウン>のけばけばしい明りが片側に消え、船は回るお立ち台上のファッションモデルのように得意気に見えた。そして再び、あの恵み深きモンテシート号の乗船口が漆黒の太平洋から姿を現し、サーチライトがゆっくりとむらなくその周りを灯台の光のように掃照した。
「怖いんだ」私は突然言った。「震えあがるほど」
 レッドが出力を落とし、ボートはうねりに揺られるままになった。まるで同じ場所に留まりながら、その下を水だけが動いているようだった。彼は振り返って私を見つめた。
「死と絶望が怖い」私は言った。「昏い水と溺死者の顔、眼窩が空いた頭蓋骨が怖い。死ぬのが怖い、無駄働きが、ブルネットという名の男を見つけられずに終わるのが怖い。
 彼はくっくと笑った。「うっかり間に受けるところだった。あんたは自分に活を入れてるだけなんだな。ブルネットがどこにいるかは分からない。どちらかの船、自分の所有するクラブ、東部か、リノか、自宅でくつろいでいるか。ブルネットに会えれば気は済むのか?」
「マロイという名の男を見つけたい。巨漢の荒くれ者だ。銀行強盗で八年間オレゴン州立刑務所に食らい込んでいて、最近出所した。 そいつがベイ・シティに隠れていたんだ」私はその話をした。 言わずもがなのことまで話した。 彼の眼がそうさせたに違いない。
 聞き終わると、ひとしきり考えてから、彼はゆっくり口を開いた、彼の言葉には霧の名残りが纏わりついていた。口髭についた滴のように。 それで、いかにも分別臭く聞こえたのかもしれない。そうでないかもしれない。
「筋の通っているところもある」彼は言った。「通らないところもある。俺の知らないこともあるし、分かることもある。もし、このソンダーボーグが犯罪者用の隠れ家を経営し、マリファナ煙草を売り捌いていて、野性的な眼つきの金持ち女から宝石を奪うためにギャングを送り込んでいたとしたら、市のお偉方と通じていたと考えるのは筋が通っている。しかし、それはお偉方が彼の行動をすべて知っていたことを意味しないし、すべての警官が彼が内部と通じていたことを知っていたわけでもない。ブレインは承知していて、あんたがヘミングウェイと呼ぶ男は知らないのかもしれない。ブレインはワルだが、もう一人の男はただのタフな警官で、良くも悪くもない。正直でもないが腹黒くもない。度胸はあるが、目端が利かない。俺と同じで、警官でいることは食うための方便と割り切ってるのさ。霊能者の男はどちらでもない。彼は自分を護る手立てを、それにうってつけの市場、ベイ・シティで購い、必要な時に使用した。そんなやつが何を企んでいるのか分かりっこない。何を気にかけているのか、何を怖れているのか、分かったものじゃない。彼もまた人の子で、時に客に惚れることもあったかもしれない。リッチな年増は、紙人形より細工しやすい。ソンダーボーグ屋敷滞在の件だが、俺の勘ではこうだ。ブレインは、あんたの素性が知れたらソンダーボーグが怖気づくことが分かってた。おそらく、ソンダーボーグにはあんたに話したのと同じことを話してる。意識混濁でふらついていたので連れてきた、とかなんとか。出て行かせるか、始末するか、ソンダーボーグはさぞかし不安だったろう。ブレインはそのうちふらっと立ち寄って賭け金を吊り上げるつもりだった。それだけのことだ。たまたまあんたを利用することができ、やつらはそうした。ブレインはマロイのことも知っていたかも知れない。あいつならそれくらいのことはやりかねない」
 私は話に耳を傾けながら、ゆっくり辺りを掃くように照らしだすサーチライトと、遥か右手を行き来する水上タクシーを見ていた。

【解説】

「街灯の列が遠ざかり」は<Beyond the electroliers>。清水氏はこの冒頭部分をカットし「小さな遊覧電車の終点を過ぎると」と書き出している。それまでのところでも<electrolier>を「色電球」と訳していて、「電気シャンデリア」とは訳していない。意味不詳だったのだろう。村上訳は「やがて街灯の列が終わり」。

「突然顕わになった海岸線」は<the suddenly clear line of the shore>。清水氏はここもカットしている。村上氏は「突然現れたまっすぐな岸辺」と訳しているが、<clear>に「まっすぐな」という意味はない。ここは「はっきり、くっきり」見える、という意味だろう。

「これがそれだろう」は<This would be the one>。清水氏はここもカットしている。村上訳は「それが大男の話していた桟橋らしい」と、噛みくだいている。

「半ダースのトラックのエンジンが立てるような音だ」は<like half a dozen truck engines>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「まるで半ダースのトラックが一斉にエンジンをかけているような音だ」。

「今は排気音はしなかったが、船体の両横から激しく泡立つ音が聞こえた」は<There was no sound from its exhaust now but an angry bubbling along both sides of the shell>。清水氏は「エンジンは規則的に小さな音を立てているだけだった」と書いているが、正しくない。村上訳は「今はもう排気音は聞こえなかったが、船体の両側からは怒ったようなぶくぶくという音が上がっていた」。

「再び、ベイ・シティの街灯りは、外洋の波のうねりに見え隠れする微かな光となった」は<Once more the lights of Bay City became something distantly luminous beyond the rise and fall of alien waves>。清水訳は「再び、ベイ・シティの灯火が遠ざかっていった」だが、ずいぶんとお手軽な訳しぶりだ。村上訳は「ベイ・シティ―の灯火は再び、よそよそしい波間に見え隠れする遠い、仄かなきらめきになった」。読点の打ち方もおかしいが「よそよそしい波間」というのがわからない。波に親しい波とよそよそしい波があるだろうか。二隻の船が領海内にいないことを踏まえて「外洋」と訳してみた。

「船は回るお立ち台上のファッションモデルのように得意気に見えた」は<the ship seeming to preen itself like a fashion model on a revolving platform>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「その船は、まるで回転するプラットフォームに立ったファッションモデルみたいに、きれいにしな(傍点二字)を作っていた」。<preen oneself>は「おしゃれをする、めかす、着飾る、得意になる」の意。村上氏はよく、カタカナ表記で英語をそのまま外来語扱いするが「プラットフォーム」という言葉はファッション業界で日常的に使用されているのだろうか。

「野性的な眼つきの金持ち女から宝石を奪うためにギャングを送り込んでいたとしたら」は<sending boys out to heist jewels off rich ladies with a wild look in their eyes>。清水訳は「金持ちの女たちの宝石を狙っていたとすれば」。<with a wild look in their eyes>はどこへ行ったのだろう。村上訳は「ギャングを使って身持ちの良くない金持ち女から宝石を奪う段取りをしていたとしたら」だが、どういうところから「身持ちの良くない」という訳が出てくるのか。

「リッチな年増は、紙人形より細工しやすい」は<Them rich dames are easier to make than paper dolls>。清水訳は「金持ちの女を自由にするのは、紙人形を作るよりも易しいんだ」。村上訳は「金持ちの女なんて落とすのは簡単だからな」。<make>には俗語で「異性をものにする」という意味がある。それと紙人形を「作る」ことをかけている。<dame>は「年配女性」のこと。

「あいつならそれくらいのことはやりかねない」は<I wouldn't put it past him>。清水氏はここをカットしている。<I wouldn't put it past him to do>は「あの人なら~しかねない」という意味。村上訳は「それくらいのことはやりかねないやつだ」。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第35章(3)

<One way?>と尋ねたのは、レッドか、マーロウか?

【訳文】

 微かな微笑みは顔に留まっていた。立て続けに三回ビンゴが出た。この店のサクラは仕事が速かった。男は背が高く、鷲鼻で土気色の頬はこけ、皺の寄ったスーツを着ていた。私たちのそばに歩み寄り、壁に寄りかかった。こちらを見ようとはしなかった。レッドはそっとそちらに身を屈めて訊いた。「俺たちに何か用かい、相棒?」
 長身で鷲鼻の男はにやりと笑い、歩き去った。レッドはにやりと笑い、建物を震わせるようにどすんと壁にもたれかかった。
「君を倒せる男に会ったことがある」私は言った。
「そんな奴がもっといるといいな」彼はいかめしく言った。「大男は何をするにも金がかかる。物事が身の丈に合っていない。食い物も、着る物も。寝るときもベッドから足が出る。話をするのにいい場所だと思えないかもしれないが、それはちがう。説明しよう。サツのタレコミ屋なら顔は見知ってるし、他の連中は数字以外は目に入らない。俺は水中排気できるボートを持ってる。まあ、借りられるってことだ。ここを真っ直ぐ行ったところに明かりがついていない桟橋がある。俺はモンティの荷役口を知っているし、開けることができる。時々そこへ荷物を運んでるからな。甲板の下には人があまりいない」
「サーチライトがあるし、見張りがいる」私は言った。
「何とかなるさ」
 私は財布から二十ドル札と五ドル札を抜き出し、腹の上で小さく折り畳んだ。紫の瞳が理解できないというように私を見た。
「片道なのか?」
「十五と言ったはずだったが」
「相場が急騰したのさ」
 タールで汚れた手が札を呑み込んだ。男は静かに歩み去った。そして、ドアの外の熱い暗闇の中に消えた。鷲鼻の男が私の左側に現れてそっと言った。
「あの船員服の男は友達かい? どこかで見た気がするんだが」
 私は壁から身を離して立ち、何もいわずに傍を離れてドアの外に出た。それから相手をそこに残し、百フィート先を電気シャンデリアの街灯から街灯へと歩いて行く飛び抜けて高い頭の後を追った。二分ばかりして、私は二つの売店売店の間を折れて空き地に入った。鷲鼻の男が、地面を見ながらぶらぶら歩いて姿を見せた。私は進み出て彼の横に立った。
「こんばんは」私は言った。「二十五セントで君の体重をあてて見せようか?」私は彼の方に身を傾けた。皺の寄った上着の下に銃があった。
 彼の眼は私を見ても何の感情もなかった。「しょっぴかれたいのか? 私は法と秩序を維持するためにこの区間に配置されている」
「今まさに誰がそれを破ってるというんだ?」
「あんたの友だちの顔に見覚えがある」
「そのはずさ。あいつは警官だ」
「ふん」鷲鼻の男は辛抱強く言った。
「じゃあ、そこで見かけたんだろう。お休み」
 彼は踵を返してもと来た方へぶらぶら歩いて行った。長身の男は視界から消えていた。私は心配しなかった。あの男のことを気遣う必要はなかった
 私はゆっくり歩き続けた。

【解説】

「立て続けに三回ビンゴが出た。この店のサクラは仕事が速かった」は<Three bingoes were made in a row. They worked fast in there>。清水訳は「つづけざまに三回、ビンゴがやられた。彼らがやることはすばやかった」。村上訳は「三つのビンゴが一列に並んだ。ここの店はなかなか段取りが早い」だ。<in a row>は、「一列に」という意味もあるが、「連続的に」の意味もある。村上氏はビンゴを知っているのだろうか。また、<They>だが、「彼ら」や「この店」では、何のことかわからない。これは前述の<the house players>を指している。

<「片道なのか?」「十五と言ったはずだが」「相場が急騰したのさ」>は<“One way?” “Fifteen was the word.” “The market took a spurt.”>。清水氏はここを<「片道かね?」私はうなずいた」としている。とんでもない改変だ。村上訳は「片道料金のつもりだったのか?」と私は尋ねた。「十五ドルでいいって言ったぜ」「相場が上がったのさ」>と、初めの台詞をマーロウの言葉だと解している。

<he said>も<I said>も省かれているので、誰が言ったかは前後から見当をつけるしかない。一つめの台詞の前にあるのは<The purple eyes watched me without seeming to>。<without seeming to>は「~していると見えない(分からない)ように」という意味だ。<The purple eyes>は当然レッドのことだから、次の台詞は二十五ドルの意味を計りかねているレッドの言葉だと取るのが普通だ。

レッドは十五ドルの仕事と考えていたから、二十五ドルに驚いたのだろう。もし、相手が往復料金と考えていたなら三十ドル出すはずだ。そこで初めて片道料金と気づいて、帰りはどうするつもりなのかを計りかねて訊ねたのだ。もし、村上氏の訳が正しいなら、マーロウはこの危険な仕事にレッドを巻き込むことを当然視していることになる。私の知ってるマーロウは決してそんな真似をしない。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第35章(2)

<I wouldn't be surprised>が「楽しそうだ」になるのが村上流。

【訳文】

 いかつい赤毛の大男が、凭れていた手すりから身を起こし、無雑作に体をぶつけてきた。汚れたスニーカーに、タールまみれのズボン、破れた青い船員用ジャージの残骸に身を包み、頬には黒い筋があった。
 私は足をとめた。相手にするには大き過ぎた。私より三インチは背が高く、三十ポンドは重かった。しかし、私としては、そろそろ誰かの歯に一発お見舞いする頃合いだった。たとえそのせいで腕が義手になったとしても。
 灯りは暗く、ほとんど男の背後にあった。
「どうかしたかい、相棒?」彼は物憂げに言った。「地獄船に乗り損ねたのか?」
「シャツを繕った方がいい」私は言った。「腹が見えている」
「もっと酷い目に遭ってたかもしれない」彼は言った。「そのふくらみはハジキだ。おまけにそんな細身のスーツときてる」
「いらぬ詮索だ。何か思うところでもあるのか?」
「とんでもない。ただの好奇心さ、気を悪くしないでくれ」
「いいから、人の邪魔をするな」
「いいとも。俺はここでひと休みしているだけさ」
 彼は微笑んだ。生気のない疲れた微笑みだ。夢でも見ているようにソフトな声で、大男にしては驚くほど繊細だった。それは私に、何故か好意を感じている、もう一人のソフトな声の大男を思い起こさせた。
「あんたはアプローチの仕方を間違ったのさ」彼は悲しげに言った。「俺のことはレッドと呼んでくれ」
「そこをどいてくれ、レッド。優秀な人間にも間違いはある。そいつが背中を這い上がるのを感じる」
 彼は用心深くあたりを見回し、浮桟橋の待合所の隅に私を連れて行った。我々の他には誰もいないようだった。
「あんたはモンティに乗りたいんだろう? 力になるぜ。何か理由があるのか?」
 派手な服を着て陽気な顔をした人々が我々を通り抜けてタクシーに乗り込んだ。私は彼らが行ってしまうまで待った。
「その理由はいくらだ?」
「五十ドル。ボートに血を流したら、あと十ドル」
 私は男を避けて歩き出した。
「二十五」彼はそっと言った。「十五でいい。もし友達を連れてきてくれたら」
「友達などいない」私はそう言って歩き去った。彼は止めようとしなかった。 
 私はセメントの歩道を右に曲がった。小さな電気自動車が、妊婦でも驚かないような小さな警笛を鳴らしながら、がたごとと行き交っていた。最初の桟橋のたもとには、すでに人でいっぱいの派手なビンゴ・パーラーがあった。私は中に入り、賭けをする人々の後ろの壁にもたれて立った。そこには大勢の客が立って、席が空くのを待っていた。
 私はいくつかの数が電光掲示板に表示されるのを眺め、進行係がそれを読み上げるのを聞き、店のサクラを見つけようとしたが、無理だった。それで店を出ようと振り向いた。 
 タールの匂いがする大きな青みが私の傍に形をとった。「金がないのか―単にケチなだけか?」静かな声が私の耳に囁いた。
 私はもう一度男を見た。何かで読んだことはあるが、このような眼を見るのは初めてだった。菫色の眼だ。ほとんど紫と言っていい。少女のような眼だ、それも美少女の。皮膚は絹のように柔らかく、軽く赤みを帯びていたが、日灼けはしない。繊細過ぎるのだ。彼はヘミングウェイより大きく、かなり若かった。ムース・マロイほどには大きくなかったが、足は速そうだった。髪は金色にきらめく赤の色合いを帯びていた。しかし、眼を除けば、地味な農夫のような顔で、芝居がかった美貌の持ち主ではなかった。
「仕事は何だ?」彼は訊ねた。「私立探偵か?」
「答える義理はない」私は声を荒げた。
「そうじゃないかと踏んだんだ」彼は言った。「二十五では高すぎるか? 必要経費で落ちるんだろう?」
「いや」
 彼は溜め息をついた。「どうせ思いついたのはひどい代物だった」彼は言った。「あんたはずたぼろにされてしまうだろう」
「そう聞いても驚かないね。何で食ってるんだ?」
「こちらで一ドル、あちらで一ドルさ。警官だったこともある。追い出されたんだ」
「なぜそんなことまで打ち明けるんだ?」
 彼は驚いたようだった。「事実だからさ」
「きっと、相手構わず、ため口をきいていたんだろう」
 彼はかすかに微笑んだ。
「ブルネットという名の男を知っているか?」

【解説】

「いかつい赤毛の大男」は<A big redheaded roughneck>。清水訳は「赤い髪の人相がよくない男」。村上訳は「見るからにタフそうな赤毛の大男」。<roughneck>は石油採掘用の井戸を掘る掘削リグで働く労働者のことを指す言葉だが、転じて「乱暴者、荒くれ者」の意味となる。いずれにせよ「人相」は関係しない。現に後の方で清水氏はこの男のことを「平凡な百姓の容貌(かお)だった」と訳している。

「汚れたスニーカーに、タールまみれのズボン、破れた青い船員用ジャージの残骸に身を包み」は<in dirty sneakers and tarry pants and what was left of a torn blue sailor's jersey>。清水訳は「薄いゴム底の靴を履きよれよれのズボンにみすぼらしい船員の青い制服を着た」。「スニーカー」という言葉が一般的になる前の、時代を感じさせる訳である。<tarry>は「タールで汚れた」という意味で、「よれよれの」というのとは違う。村上訳は「汚れたスニーカーに、タールのシミの付いたズボン、船乗り用の青いジャージー服の残骸のようなものを身にまとい」。

「しかし、私としては、そろそろ誰かの歯に一発お見舞いする頃合いだった。たとえそのせいで腕が義手になったとしても」は<But it was getting to be time for me to put my fist into somebody's teeth even if all I got for it was a wooden arm>。清水訳は「しかし、たとえ、腕がしびれるような目にあおうとも、黙ってはいられない気持だった」。村上訳は「しかし私としては、もしたとえそのおかげで義手をつける境遇になったとしても、誰かの口元に一発食らわせずにおくものかという気分だった」。

「灯りは暗く、ほとんど男の背後にあった」は<The light was dim and mostly behind him>。村上氏は「明かりは暗く、おおむね私の背後にあった」と訳している。単純なミスだ。校閲係は何をしてたのか。清水訳は「灯火はうすぐらく、ほとんど彼の背後にあった」。

<「シャツを繕った方がいい」私は言った。「腹が見えている」>は<“Go darn your shirt,” I told him. “Your belly is sticking out.”>。清水氏はここを<「止してくれ!」と私はいった。「お前の知ったことじゃなかろう」>と作文している。村上訳は<「シャツをつくろってこいよ」と私は言った。「腹が丸見えだぜ」>。

「そのふくらみはハジキだ。おまけにそんな細身のスーツときてる」は<The gat's kind of bulgy under the light suit at that>。清水氏はここをカットしている。前に銃に関する言及をカットしたからだろう。ずいぶん後を引いている。村上訳は「そんなぴたりとしたスーツじゃ、ハジキをつけてるのは丸わかりだ」。

「あんたはアプローチの仕方を間違ったのさ」は<You got the wrong approach>。清水氏はここを「誤解しないでくれ」と訳しているが、ここは船に乗るやり方を言っているので、自分に対する接触の仕方ではない。村上訳は「あんた、やり方が間違っていたんだ」。

「浮桟橋の待合所の隅に私を連れて行った」は<He had me into a corner of the shelter on the float>。清水氏はここを「そして、私の前に立ちはだかった」と訳している。あまり調子がよくなかったのかもしれない。真剣に訳す気が感じられない。村上訳は「そして、浮き桟橋の端に私を追い込んでいった」。こちらは<the shelter>をトバシている。

「芝居がかった美貌の持ち主ではなかった」は<with no stagy kind of handsomeness>。清水氏は「芝居に出てくるような親しみのある容貌(かお)ではなかった」と訳している。<stagy>は「芝居がかった、わざとらしい」の意味で「親しみのある」というのとは違うと思うのだが。村上訳は「派手さはないが、顔立ちは整っている」と、「素朴な農夫の顔」という割に、ずいぶん好意的な見解である。

「どうせ思いついたのはひどい代物だった」は<It was a bum idea I had anyway>。清水訳は「余計なお世話かも知れないが」。これも決まり文句を流用しているだけで訳とはいえない。村上訳は「いずれにせよ、無謀な試みだ」。<It was>と単数扱いされている<a bum idea>を「いずれにせよ」というのはおかしい。この<a bum idea>は、レッド自身の考えを意味している。<It was a bum idea that I had anyway>と、省略されている<that>を補えば意味がはっきりする。

「そう聞いても驚かないね」は<I wouldn't be surprised>。清水訳は「そんなことはわかってる」。これなら分かる。村上訳は「楽しそうだ」。これはやり過ぎというものだろう。翻訳の域を越えて、マーロウに好き勝手をしゃべらせる権利は訳者にはないはずだ。

「きっと、相手構わず、ため口をきいていたんだろう」は<You must have been leveling>。清水氏はここと、その後の<He smiled faintly>をカットしている。村上訳は「きっと本当のことを言い過ぎたんだろう」。<leveling>は「高さを均すこと」。上の気に入らないことまで、平気で口に出していたことをいうのだろう。