HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第35章(3)

<One way?>と尋ねたのは、レッドか、マーロウか?

【訳文】

 微かな微笑みは顔に留まっていた。立て続けに三回ビンゴが出た。この店のサクラは仕事が速かった。男は背が高く、鷲鼻で土気色の頬はこけ、皺の寄ったスーツを着ていた。私たちのそばに歩み寄り、壁に寄りかかった。こちらを見ようとはしなかった。レッドはそっとそちらに身を屈めて訊いた。「俺たちに何か用かい、相棒?」
 長身で鷲鼻の男はにやりと笑い、歩き去った。レッドはにやりと笑い、建物を震わせるようにどすんと壁にもたれかかった。
「君を倒せる男に会ったことがある」私は言った。
「そんな奴がもっといるといいな」彼はいかめしく言った。「大男は何をするにも金がかかる。物事が身の丈に合っていない。食い物も、着る物も。寝るときもベッドから足が出る。話をするのにいい場所だと思えないかもしれないが、それはちがう。説明しよう。サツのタレコミ屋なら顔は見知ってるし、他の連中は数字以外は目に入らない。俺は水中排気できるボートを持ってる。まあ、借りられるってことだ。ここを真っ直ぐ行ったところに明かりがついていない桟橋がある。俺はモンティの荷役口を知っているし、開けることができる。時々そこへ荷物を運んでるからな。甲板の下には人があまりいない」
「サーチライトがあるし、見張りがいる」私は言った。
「何とかなるさ」
 私は財布から二十ドル札と五ドル札を抜き出し、腹の上で小さく折り畳んだ。紫の瞳が理解できないというように私を見た。
「片道なのか?」
「十五と言ったはずだったが」
「相場が急騰したのさ」
 タールで汚れた手が札を呑み込んだ。男は静かに歩み去った。そして、ドアの外の熱い暗闇の中に消えた。鷲鼻の男が私の左側に現れてそっと言った。
「あの船員服の男は友達かい? どこかで見た気がするんだが」
 私は壁から身を離して立ち、何もいわずに傍を離れてドアの外に出た。それから相手をそこに残し、百フィート先を電気シャンデリアの街灯から街灯へと歩いて行く飛び抜けて高い頭の後を追った。二分ばかりして、私は二つの売店売店の間を折れて空き地に入った。鷲鼻の男が、地面を見ながらぶらぶら歩いて姿を見せた。私は進み出て彼の横に立った。
「こんばんは」私は言った。「二十五セントで君の体重をあてて見せようか?」私は彼の方に身を傾けた。皺の寄った上着の下に銃があった。
 彼の眼は私を見ても何の感情もなかった。「しょっぴかれたいのか? 私は法と秩序を維持するためにこの区間に配置されている」
「今まさに誰がそれを破ってるというんだ?」
「あんたの友だちの顔に見覚えがある」
「そのはずさ。あいつは警官だ」
「ふん」鷲鼻の男は辛抱強く言った。
「じゃあ、そこで見かけたんだろう。お休み」
 彼は踵を返してもと来た方へぶらぶら歩いて行った。長身の男は視界から消えていた。私は心配しなかった。あの男のことを気遣う必要はなかった
 私はゆっくり歩き続けた。

【解説】

「立て続けに三回ビンゴが出た。この店のサクラは仕事が速かった」は<Three bingoes were made in a row. They worked fast in there>。清水訳は「つづけざまに三回、ビンゴがやられた。彼らがやることはすばやかった」。村上訳は「三つのビンゴが一列に並んだ。ここの店はなかなか段取りが早い」だ。<in a row>は、「一列に」という意味もあるが、「連続的に」の意味もある。村上氏はビンゴを知っているのだろうか。また、<They>だが、「彼ら」や「この店」では、何のことかわからない。これは前述の<the house players>を指している。

<「片道なのか?」「十五と言ったはずだが」「相場が急騰したのさ」>は<“One way?” “Fifteen was the word.” “The market took a spurt.”>。清水氏はここを<「片道かね?」私はうなずいた」としている。とんでもない改変だ。村上訳は「片道料金のつもりだったのか?」と私は尋ねた。「十五ドルでいいって言ったぜ」「相場が上がったのさ」>と、初めの台詞をマーロウの言葉だと解している。

<he said>も<I said>も省かれているので、誰が言ったかは前後から見当をつけるしかない。一つめの台詞の前にあるのは<The purple eyes watched me without seeming to>。<without seeming to>は「~していると見えない(分からない)ように」という意味だ。<The purple eyes>は当然レッドのことだから、次の台詞は二十五ドルの意味を計りかねているレッドの言葉だと取るのが普通だ。

レッドは十五ドルの仕事と考えていたから、二十五ドルに驚いたのだろう。もし、相手が往復料金と考えていたなら三十ドル出すはずだ。そこで初めて片道料金と気づいて、帰りはどうするつもりなのかを計りかねて訊ねたのだ。もし、村上氏の訳が正しいなら、マーロウはこの危険な仕事にレッドを巻き込むことを当然視していることになる。私の知ってるマーロウは決してそんな真似をしない。