HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『湖中の女を訳す』第六章(1)

<brighten up>は「~を明るくする」から「機嫌を直す、元気づける」

【訳文】

我々は湖岸へと続く斜面を下り、狭い堰堤の上に出た。ビル・チェスは、鉄の支柱に取り付けられた手すりのロープをつかみながら、強張った足を振るようにして私の前を歩いた。ひとところで水がゆっくり渦を巻いてコンクリートの上を越えていた。
「朝になったら、水車から少し水を落とすことにしよう」彼は肩越しに言った。「あれはそれくらいの役にしか立たない。どこかの映画の撮影班が三年前に建てて、ここで映画を撮ったんだ。反対側の端にあるあの小さな桟橋も連中の仕事の一部だよ。ほとんど壊して持ち去ったんだが、あの桟橋と水車はキングズリーが残させた。風景に色を添えるとかで」
 私は彼の後についてキングズリーの小屋のポーチに通じる、がっしりした木の階段を上がった。彼がドアの鍵を開け、我々はしんとして暖かな室内に入った。閉め切った部屋は暑いくらいだ。ブラインドの羽板を洩れる光が床に狭い横縞を描いていた。居間は細長く、居心地がよさそうで、インディアン風の敷物が敷かれていた。詰め物を入れ、継ぎ目を金具で留めた山小屋風の椅子、更紗のカーテン、堅木張りの白木の床、たくさんのランプ、部屋の一隅に円いストゥールを並べた小さな作りつけのバーがある。部屋はこざっぱりしていて、住人が急に出て行ったようには見えなかった。
 我々は寝室に入った。二つある寝室のうち、ひとつはトゥィン・ベッド、もうひとつはダブル・ベッドで、クリーム色の掛布には暗紫色の毛糸で模様が縫いつけてあった。これが主寝室だ、とビル・チェスが言った。ニスを塗った木のドレッサーの上には、翡翠色の琺瑯細工とステンレス・スティール製の化粧道具と付属品、化粧品の雑多な取り合わせがひと揃え置かれていた。一組のコールド・クリームの瓶にはギラ―レン社の波打つ黄金のブランドが冠されていた。部屋の片側全面がスライディング・ドアのついたクローゼットになっていた。私はドアを開け、中を覗いた。中はリゾート向きの婦人服でいっぱいのようだった。ビル・チェスは、私がそれらを詮索している間、苦々しげに私を見ていた。私はドアを閉め、下の奥行きのある靴用の抽斗を開けた。新品同様の靴が少なくとも半ダースは揃っている。私は抽斗を閉めて、立ち上がった。
 ビル・チェスが、顎を突き出し、固く握った両の拳を腰にあてて私の前に立ちはだかった。「何のために、夫人の服が見たかったのかね?」彼は怒気を孕んだ声で尋ねた。
「理由はいくつもある」私は言った。「たとえば、ミセス・キングズリーはここを出た切り家に帰っていない。夫はそれから彼女に会っていない。居所さえ分からないんだ」
 彼は両拳を下ろし、脇でゆっくり捻った。「探偵なんだな」彼はうなった。「いつだって第一印象が正しいんだ。俺は自分でそう言ってたのに。膝を抱えて泣く女みたいに、何もかもあんたに打ち明けちまった。やれやれ、俺は何てとんまな男なんだ」
「信用を大事にすることにかけては、私は誰にも負けない」私は言った。そして彼の横を通ってキッチンに入った。
 緑と白の大きなコンビネーション・レンジ、ラッカーを塗った松材のシンク、サービス・ポーチには自動給湯器があった。キッチンの反対側は気持ちのいい朝食室に通じていて、多くの窓と高価なプラスチックの朝食セットがあった。棚には色とりどりの皿やグラス、白目の盛り皿のセットが賑やかに並んでいた。
 すべてが整然としていた。流し台に汚れたカップや皿はなく、使った痕跡のあるグラスや酒の空き瓶も転がっていなかった。蟻も蠅もいない。どんなにふしだらな暮らしぶりだったにせよ、ミセス・ ドレイス・キングズリーはいつものグリニッチ・ビレッジめいた汚れを残すことなくなんとかやってのけていた。
 居間に戻り、また正面のポーチに出てビル・チェスが鍵をかけるのを待った。鍵をかけ終え、しかめっ面をして私を見たときこう言った。
「私はあんたに、思いのたけを吐き出してくれと頼みはしなかった。しかし、あんたがそうするのを止めようともしなかった。夫人があんたに言い寄ったことを キングズリーは知らなくていい。これ以上に裏に何かあるのでなければね」
「勝手にしろ」彼は言った。まだしかめっ面はそのままだった。
「ああ、勝手にするさ。奥さんとキングズリーの奥さんが一緒に出て行った可能性はないのか?」
「それはない」彼は言った。
「あんたが憂さ晴らしに出かけた後、二人が喧嘩し、それから仲直りして互いの首にかじりついて涙を流したってことはないだろうか。それから、ミセス・キングズリーが奥さんを連れて山を下りた。何かに乗らなきゃ山を下れないだろう?」
 馬鹿げた話だが、彼は真剣に受けとめた。
「いや。ミュリエルは人にすがって泣いたりしない。ミュリエルに涙はそぐわない。万が一泣きたくなったとしても、あの尻軽女の肩を借りたりはしないだろう。乗り物なら、あいつには自分のフォードがあった。俺のは曲がらない足で運転できるように改造してあって、運転が難しいんだ」
「ちょっと思いついたまでさ」私は言った。
「また似たようなことを思いついても、そのままにしておくことだ」彼は言った。
「赤の他人の前で、何でも吐き出してしまう男にしちゃ、やけに神経質だな」私は言った。
 彼は私の方に一歩踏み出した。「喧嘩を売ろうってのか?」
「なあ」私は言った。「あんたは、根はいい男だと思おうとしているんだ。ちょっとはそっちも手を貸してくれないか?」
 彼は少しの間、息を荒げていたが、救いようがないとでも言いたげに、両手を下ろして広げてみせた。
「機嫌を直すには遅すぎるかもしれんが」彼は溜め息をついた。「湖を回って帰る気はあるか?」
「いいね、あんたの足に負担がかからないなら」
「今まで何度もやってきていることさ」

【解説】

「強張った足を振るようにして私の前を歩いた」は<swung his stiff leg in front of me>。清水訳は「固くなった脚を私の目の前で振り動かした」。田中訳は「わるい足をまわすようにして、おれの前をすすんでゆく」。村上訳だけが「義足を振るようにして私の前を歩いた」と<stiff leg>を「義足」と訳している。<stiff>は「曲がらない、硬い」の意味。「義足」と決めつけるのはどうだろうか。

「朝になったら、水車から少し水を落とすことにしよう」は<I'll let some out through the wheel in the morning>。清水訳は「朝になるといつも水車に水を流してやるんです」。村上訳は「朝のうちに水車のところから、少し水を落としておこう」。その前の水が堰堤を越えて溢れていたことについての言及だ。田中訳は「明日の朝は、どうしてもあのボロ水車をぶっこわしてやろう」と物騒なことを言っている。自在な訳が小実昌訳の特徴だが、さすがにこれはやり過ぎだ。雇い主が気に入っているものを使用人が壊すことなどできはしない。

「ニスを塗った木のドレッサー」は<a dresser of varnished wood>。清水訳は「ワニスをかけた木製の化粧テーブル」。田中訳は「ニスでみがいた木のタンス」。ところが、村上訳だけが「艶消し木材でできたドレッサー」となっている。<varnish>は「ワニス(ニス)」。動詞の場合は「ワニスを塗る、磨く、艶を出す」の意味で、「艶消し」では逆の意味になってしまう。勘違いしたのだろうか。

翡翠色の琺瑯細工とステンレス・スティール製の化粧道具と付属品、化粧品の雑多な取り合わせがひと揃え置かれていた」は<there were toilet articles and accessories in jade green enamel and stainless steel, and an assortment of cosmetic oddments>。前半部分の解釈が訳者によって異なっている。<oddments>とは「残り物、半端物」の意。<assortment of ~>は「~の取り合わせ、盛り合わせ」。

清水訳は「琥珀(こはく)グリーンのエナメルとステンレス・スチールの洗面道具のかずかず(傍点四字)とさまざまの化粧品がおかれてあった」。清水氏はこの<in>を「(道具、材料、表現様式を表す)~で作った」の意味と解している。そのうえで<accessories>を「付属品」と読んで「(洗面道具)のかずかず」と訳したのだろう。

田中訳は「グリーンがかった硬玉色のエナメルをぬった容器やステンレスのケースにはいった洗面道具、そのほかこまごましたものがあり、また、化粧道具もみえた」。氏は「(場所を表す)~の中に」と解して、「容器や(ステンレスの)ケース」を訳の中につけ加えたのだろう。<accessories>は、やはり「そのほかこまごましたもの」の中に含まれていると考えられる。

村上訳は「化粧道具やアクセサリーが置かれていた。アクセサリーは翡翠色(ひすいいろ)のエナメルとステンレス・スティールでできていた。そして様々な化粧品が並んでいた」と両氏とは異なり、<accessories>を文字通り「アクセサリー(装身具)」と解釈したうえで「アクセサリーは翡翠色(ひすいいろ)のエナメルとステンレス・スティールでできていた」と<in jade green enamel and stainless steel>を「アクセサリー」だけにかかるものという解釈だ。

ただ、社長夫人のアクセサリーが「エナメルとステンレス・スティールでできてい」るというのは、いささか突飛過ぎないか。村上氏は、いったいどんなアクセサリーを想像していたのだろう。まさかネックレスにステンレス・スティールを使うはずもないし、イヤリングだと考えるとモダンすぎる。これが化粧道具なら、ステンレス・スティール製の物もありそうだし、エナメル加工された物もあるだろう。また、田中氏のように容器と考えるなら、琺瑯引きやステンレスのトレイはいかにもありそうだ。しかし、容器に入っていたなら、マーロウなら、そのことを一言添えるはずだ。

「膝を抱えて泣く女みたいに、何もかもあんたに打ち明けちまった」は<Boy, did I open up to you. Nellie with her hair in her lap>。<Nellie>の再登場だ。清水訳は「うっかり何もかもしゃべっちまった。へまなことをやったもんだ」と、二つ目の文は作文している。田中訳も「おれは、ペラペラ、くだらないことまでしゃべって――。なにもかも、こっちからもうしあげてしまった。ウィスキーをくれて、話をきいてくれるご親切なお方だとおもったら、こんなことだ」。これは、それだけでは意味が分からない文を解きほぐしているのだろう。村上訳は「なのにおれは秘密をそっくり打ち明けちまった」と後半はカットしている。

「ラッカーを塗った松材のシンク」は<a sink of lacquered yellow pine>。清水訳は「黄いろいラッカーを塗った松材の流し台」。田中訳は「松色のラッカーをぬった流し」。村上訳は「シンクはラッカーを塗られた黄色松材でできていた」。<yellow pine>は、「北米産の松の総称」。堅く黄色がかった木質なのでそう呼ばれる。黄色いラッカーを塗ってしまったら、松かどうかなんて分からないだろうに。「松色」というのもかなり怪しい。「イエローパイン」材はソフトな色調からカントリー調の家具に用いられることが多い。ここで塗られているのはもちろん透明なクリアラッカーである。

「勝手にしろ」は<The hell with you>。「勝手にするさ」は<the hell with me>。清水訳は「何をいいやがる」。「べつに何もいっていない」。田中訳は「あんたなんかに用はない」。「おれに用はないかもしれん」。村上訳は「糞野郎め」。「私はたしかに糞野郎だ」。<The hell with ~>は「どうなっても構わない、まっぴらだ、うんざりだ」という気持ちを表すイディオムだ。「これ以上~と一緒にい(し)たくない」という意味で、単なる罵り言葉ではない。

「機嫌を直すには遅すぎるかもしれんが」は<Boy, can I brighten up anybody's afternoon>。清水訳は「俺が誰かの役に立つなんてことがあるのかね」。田中訳は「なんだって、おれは、ひとにくってかかってばかりいるんだろう」。村上訳は「まったくもう、おれのやることなすことすべてとんちんかん(傍点六字)だな」。<brighten up>は「~を明るくする」から「機嫌を直す、元気づける」という意味になる。<brighten up someone's day>は「(人の)一日を明るくする」という意味で使われるイディオムだ。マーロウがやってきたのが午後だったから、<day>のところを<afternoon>と洒落たのだろう。

『湖中の女を訳す』第五章(4)

三度繰り返される<get away with>をどう扱うか?

【訳文】

話が途切れた。言葉は宙を漂い、やがてゆっくり落ちて、あとには沈黙が残った。彼は身を屈めて岩の上の瓶を手に取り、じっと凝視めた。心の中で瓶と戦っているようだった。ウィスキーが勝った。いつものように。彼は瓶の口から直にごくごく飲んで、キャップをきつく閉めた。まるで、そうすることに何か意味でもあるかのように。そして、石を拾って水の中に放り込んだ。
「俺はダムを横切って帰ってきた」彼はゆっくり言った。すでに酔いが回った声だった。「新品のピストン・ヘッドみたいに調子がいい。何でもしたい放題さ。俺たち男ってのは、ちょっとしたことで勘違いすることがあるよな? 好き放題しておいてバレずに済む訳がない。とんでもない話だ。ミュリエルが話すのを聞いていると、声を荒げもしない。だが、俺自身が思いもよらないことを俺について言ってのける。ああ、そうだ。俺は見事に好き放題やってるよ」
「それで奥さんは出て行ったんだ」彼が黙り込んだので、私は言った。
「その晩。俺はここにいもしなかった。気がすさんで、生酔いではいられなかった。フォードに飛び乗って湖の北側に行って、俺みたいなろくでなし二人を引きとめて散々酔っぱらった。だが気は晴れなかった。朝の四時頃、家に帰ってきたら、ミュリエルはいなかった。荷物をまとめて出て行ったんだ。跡形もなかった。箪笥の上の書き置きと枕の上のコールドクリームだか何だかを別にして。
 彼はくたびれた古財布から端が折れた紙片をとり出して私に渡した。ノートを破った、青い罫線の入った紙に、鉛筆でこう書かれていた。
「ごめんね、ビル。でも、これ以上あなたと一緒に暮らすより死んだほうがまし。ミュリエル」
 私はそれを返した。「あちらはどうなった?」私は湖の向こうを目で示して尋ねた。
 ビル・チェスは平たい石を拾い上げ、水切りを試みたが、石は跳ねるのを嫌がった。
「どうもこうもない」彼は言った。「あの女も荷造りして山を下りた。同じ晩のことだ。その後は顔を見ていない。二度と会いたくないね。ひと月経ってもミュリエルは何も言ってこない。一言たりとも。女房がどこにいるのか俺には見当もつかない。誰か他の男と一緒かもな。そいつが俺より優しくしてくれるように願ってるよ」
 彼は立ち上がり、ポケットから鍵束を取り出して振って見せた。「向こうに行って、キングズリーの小屋を見たいのなら、案内するよ。昼メロにつき合わせちまってすまなかった。それに酒をありがとうよ。ほれ」彼はいくらか酒の残った瓶を取り上げ、私に渡した。

【解説】

「俺は新品のピストン・ヘッドみたいに絶好調だ」は<I'm as smooth as a new piston head>。清水訳では「私はものごとにあまりこだわらない。何とかなると思ってる」になっている。ふだんのものの考え方と取っている。田中訳は「しらばつくれた顔をしてね」とそのときの態度という解釈だ。村上訳は「まるで新品のピストン・ヘッドみたいに滑らかな気分さ」と、その時の気持ちと捉えている。

これは次にくる<I'm getting away with something>について説明していると考えられる。<get away with>は、「(よくないこと)を罰せられないで(見つからずに)やりおおす.」の意味。清水訳は「何とかなると思ってる」。田中訳は「女房のミューリエルなんかにはわかるはずがないと思いこんで」。村上訳は「よしよし、うまいことやった、みたいな気分になってね」。

チャンドラーは一つの言い回しを同センテンスの中でニュアンスを変えて使うのが上手い。ここでも、<I'm getting away with something>、< I'm not getting away with anything at all>、<I'm getting away with it lovely>と、三度繰り返している。すべて現在進行形になっていることに注目したい。たった一度きりのことを言っているわけではなく、これが「習慣的な行動」であることを表している。だから、ミセス・キングズリーとの一度きりの浮気ととるのはおかしい。そういう意味では清水訳が当を得ている。

「俺は見事に好き放題やってるよ」は<I'm getting away with it lovely>。清水訳は「まったくうまくないんだ」。田中訳は「まったく、よくできてますよ」。村上訳は「うまいことやったなんてとんでもない」。<lovely>は反語だろう。それを活かすには田中氏のように肯定的な表現にした方がいい。いろいろと考えてみたが、<get away with>を三通りに訳すのは難しかった。もっといい訳があるはずだと思う。

「昼メロにつき合わせちまってすまなかった」は<And thanks for listening to the soap opera>。<soap opera>は、平日昼間に放映しているテレビのメロ・ドラマのこと。石鹸会社が提供していることから、こう呼ばれるようになった。清水訳は「くだらない話を聞いてもらってありがとう」。田中訳は「くだらないグチをきいてくれて、ありがとう」。村上訳は「くだらない身の上話につきあってくれて、ありがとうよ」。「スペース・オペラ」は普通に使われているが、「ソープ・オペラ」はまだ日本語として市民権を得ていない。しかし、「昼メロ」なら使えるのでは。

『湖中の女を訳す』第五章(3)

<in a lance of light>(光の槍の中に)は何の比喩だろう?

【訳文】

私は瓶の金属キャップを捻り切り、相手のグラスにたっぷりと、自分のグラスには軽く注いだ。我々はグラスを合わせ、そして飲んだ。彼は酒を舌の上で転がし、微かな陽射しのようにわびし気な微笑を顔に浮かべた。
「こいつは本物だ」彼は言った。「しかし、どうしてあんなにまくしたててしまったものか。こんなとこに独りでいると気が滅入るんだろうな。話し相手も、本当の友だちも、女房もいない」彼はそこで間を置き、横目でこちらを見た。「とりわけ女房がな」
 私は小さな湖の青い水をじっと見ていた。せり出した岩の下、一条の光の中に魚が浮かび上がり、波紋がまるい輪を広げた。微風がさざ波に似た音を立て松の樹冠を揺らした。
「女房が出て行ったんだ」彼はゆっくり言った。「ひと月前のことだ。六月十二日の金曜日、忘れられない日になるだろう」
 私ははっとからだを強ばらせたが、彼の空のグラスにウィスキーを注げないほどではなかった。六月十二日の金曜日は、ミセス・クリスタル・キングズリーがパーティのために街に戻ってくるはずだった日だ。
「しかし、そんな話を聞きたくはないだろう」彼は言った。彼の色あせた青い目には、それについて語りたいという強い思いが、何よりもはっきりと見えていた。
「私には関係ないことだが」私は言った。「それで君の気が少しでも晴れるなら――」
 彼は深くうなずいた。「二人の男が公園のベンチでばったり出会う」彼は言った。「そして神について話しはじめる。そんなことってないか? 一番仲の好い友だちとも神について話したことなんかない男たちが」
「分かるよ」私は言った。
 彼は一口飲んで湖を見渡した。「女房はかわいい女だった」彼は低い声で言った。「
時々とげのあることも言うが、かわいい女だった。俺とミュリエルは一目惚れだったんだ。初めて会ったのはリバーサイドの店だ。一年と三カ月前になる。ミュリエルみたいな子と出会えるような店じゃなかった。ところが、俺たちは出会って、そして結婚した。俺はミュリエルを愛していた。俺には過ぎた女房だと思っていた。そして、あいつとうまくやっていくには、俺は鼻つまみ過ぎた」
 私はそこにいることを知らせるために少し動いたが、魔法が解けるのを恐れて何も言わなかった。口をつけてもいない酒を手に座っていた。飲むのは好きだが、人が私を日記代わりに使っているときは別だ。
 彼は悲し気に続けた。「だが、あんたも知ってるだろう、結婚というものを――どんな結婚でも、しばらく経つと、俺みたいな、どこにでもいる、くだらない男は、脚に触りたくなるんだ。他の女の脚に。ひどいかもしれんが、そういうもんだ」
 彼は私を見た。私は、よく聞く話だ、と言った。
 彼は二杯目を空けた。私は瓶を手渡した。一羽の青カケスが羽を動かさず、バランスをとるために止まることさえせず、枝から枝へと飛び跳ねて松の木を登っていった。
「そういうことさ」ビル・チェスは言った。「山育ちはみんな半分正気じゃない。俺もそうなりつつある。ここの生活は安泰だ。家賃を払うこともないし、年金も毎月届くし、ボーナスの半分は戦時国債に回している。滅多とお目にかかれない可愛いブロンドと結婚もしていた。それなのに俺の頭はいつもどうかしていて、それが分からないんだ。だからあそこに行くんだ」彼は湖の対岸にあるアメリカ杉の小屋を指さした。午後の遅い陽射しを浴びてくすんだ濃赤色に色を変えていた。「まさにあの前庭だ」彼は言った。「窓の真下で、俺にとっちゃ草の葉一枚の値打ちもない派手な尻軽女と。ちくしょう、なんて間抜けだ」
 彼は三杯目を空け、グラスを岩の上にぐらつかないように置いた。シャツから煙草を一本取り出し、親指でマッチを擦って、素早くスパスパ吹かした。私は口を開けて息をしながら、カーテンの後ろに隠れた押し込みのように静かにしていた。
「どうしても」彼はとうとう言った。「火遊びがしたいなら、家から離れたところで、せめて女房とは違うタイプを選ぶと思うだろう。だが、あそこにいる尻軽女はそうじゃない。ミュリエルに似た金髪で、サイズも目方も同じ、同じタイプで、眼の色もほとんど同じだ。違うのはそこからだ。確かにきれいだが、誰にでもって訳じゃない。俺にとっちゃ、ミュリエルの半分もきれいじゃない。それはともかく、あの朝、いつも通り自分の仕事をすまそうと、あそこでごみを燃やしてると、あの女が小屋の裏戸口から出てくるじゃないか。ピンクの乳首が透けて見えるくらい薄い生地のパジャマ姿で。そして、物憂い、良からぬ声で言う『一杯引っかけたら、ビル。こんな気持ちのいい朝にそんなに精出して働くものじゃないわ』。俺も酒には目がない方だから勝手口に行って一杯引っかける。やがて、一杯が二杯、二杯が三杯になり、気がつくと家の中に上がり込んでる。近づけば近づくほど、いよいよ女の眼が艶めいてくる」
 彼はそこで一息ついて、厳しい表情でじっと私を見た。
「あそこのベッドの寝心地は快適かと訊かれて、俺はカッとなった。あんたに他意はなかったにせよ、俺には思い出すことがたっぷりあったんだ。ああ――俺が潜り込んだベッドは快適な寝心地だったよ」

【解説】

「一条の光の中に魚が浮かび上がり」は<a fish surfaced in a lance of light>。<lance>は「槍」のことだ。「光の槍の中」が何を意味するのかが問題だ。清水訳は「魚が一尾、きらりと光って姿をあらわし」。田中訳は「魚がおどり、キラッと水面がひかって」。村上訳は「一匹の魚が光の槍のようにさっと水面に浮上し」。

清水氏は光ったのは魚、田中氏は水面、村上氏は比喩だと捉えている。実は、この前に「せり出した岩の下」<Under an overhanging rock>という部分がある。これが大事。つまり、魚が出てきたのは岩陰で、普通なら光るはずがない。そこで<in a lance of light>が問題になる。岩の間から、そこにだけ一条の光が差し込んだと考えれば「光の槍」という比喩も納得できる。

「俺には過ぎた女房だと思っていた。そして、あいつとうまくやっていくには、俺は鼻つまみ過ぎた」は<I knew I was well off. And I was too much of a skunk to play ball with her>。清水訳は「夢中でした。だが、私はあの女にはふさわしくないくだらない男でした」。田中訳は「かねにはこまらなかったが、あんな女を女房にするのは、おれにはもったいない、とそのときも思いましたよ」。村上訳は「恵まれていると思ったよ。でも俺ときたら、彼女とそのままうまくやっていくにはあまりにもろくでもない男だった」。

<well off>は「富裕な、うまくいっていて」、<skunk>はあのスカンクから「いやなやつ、鼻つまみ」、<play ball with ~>は「~と協力する」という意味。<well off>を、清水氏はその前の<I loved her>から「愛が十分ある」と考えたのだろう。田中氏はずばり「金」と取っている。しかし、ここは村上訳の「恵まれている」が正解だろう。清水、田中両氏の訳からは<too much of a skunk>という激しい自嘲が伝わらない。女の方はよき伴侶だったのに、男の方が「鼻つまみ」だった。「釣り合わぬは不仲の元」というやつである。

「脚に触りたくなるんだ。他の女の脚に」は<he wants to feel a leg. Some other leg>。清水訳は「男は女の脚にさわりたくなる。ちがう女の脚にね」。田中訳は「ほかの女に足をつかいたくなる。もう一つの足をね」。村上訳は「身体がむずむずしてくるんだ。ほかの女の脚につい目が行くようになる」。<feel one’s legs>だと、「足もとがしっかりしているのを感じる、自信がつく」の意味になるが、<leg>が単数であることが気になる。田中訳は独特の解釈だが、単数の<leg>を使った際どいスラングは確かにある。<get a leg over>というのがそれで、ずばり「(男性が女性と)ヤる」という意味らしい。田中訳に比べると、村上訳ははるかに上品だ。

「窓の真下で、俺にとっちゃ草の葉一枚の値打ちもない派手な尻軽女と。ちくしょう、なんて間抜けだ」は<right under the windows, and a showy little tart that means no more to me than a blade of grass. Jesus, what a sap a guy can be>。清水訳は「あの窓のすぐ下で、私には一枚の草っ葉とおんなじ自堕落な女がはでなかっこうをしてるんです」と後半をカットしている。田中訳は「窓のま下に、へたに芝居がかった色気狂いが腰かけてるのがどうしても気になってね、草つ葉ほどのとりえ(傍点三字)もない、あの女が――。おれは、ほんとに、どこまでバカだろう」と「腰かけてるのがどうしても気になってね」をつけ加えている。村上訳は「あの窓の下で、派手な尻軽女と。ジーザス、男というのは、どこまで愚かしくなれるものか」。

「素早くスパスパ吹かした」は<puffed rapidly>。清水訳は「たてつづけに煙を吐いた」。田中訳は「プカプカ、いそがしそうにふかした」。村上訳は「せわしなく煙を吸い込んだ」。村上氏が煙草を吸うのかどうか知らないが、マリファナ煙草でもなければ、そうは煙は吸い込むことはない。<puff>にも「ぷっと吹く」という意味はあるが「吸い込む」の意味はない。

「それはともかく、あの朝、いつも通り自分の仕事をすまそうと、あそこでごみを燃やしてると、あの女が小屋の裏戸口から出てくるじゃないか」は<Well, I'm over there burning trash that morning and minding my own business, as much as I ever mind it. And she comes to the back door of the cabin>。この回想部分はすべて現在形が使われている。しかし、三氏の訳はすべて過去形になっている。

清水訳「とにかく、私はその朝、ごみ(傍点二字)を燃しに行ったとき、いつものように仕事のことしか考えていなかった。あの女が(略)キャビンの裏に現れて」

田中訳「ま、それはともかく、あの朝、おれはゴミをやいてた。女のことなんかなにもかんがえずにね。そしたら(略)クリスタル・キングズリイが裏口からでてきて」

村上訳「それでね、おれはその朝、いつもどおりあそこに行ってゴミを燃やしていた。日々の仕事をただこなしていただけさ。そうしていると、彼女はキャビンの裏口から出てきた」

「近づけば近づくほど、いよいよ女の眼が艶めいてくる」も<And the closer I get to her the more bedroom her eyes are>と最後まで現在形で通している。清水訳は「私が女に近づけば近づくほど、女の目が寝室にいるときの目になっていった」。田中訳は「クリスタル・キングズリイはくつついてきて、とうとう寝室にひっぱりこまれてしまつたんですよ」。村上訳は「そしておれと彼女との距離が狭まるほど、彼女の目が色っぽく燃え始めた」と、やはり過去形になっている。そうまでこだわる必要はないのかもしれないが、一応現在形になっているところは、現在形で訳してみた。臨場感が増したように思う。

『湖中の女を訳す』第五章(2)

<full of knuckles>を「一発」に減らすのは、非暴力主義?

【訳文】

 私は立ち上がり、ポケットからキングズリーの紹介状を取り出して男に手渡した。男は眉根を寄せてそれを見たが、それから足音高く小屋に戻り眼鏡を鼻にのせて戻ってきた。そして注意深くそれに目を通し、もう一度読んだ。シャツのポケットに入れ、フラップのボタンをかけてから手を差し出した。
「ようこそ、ミスタ・マーロウ」
 我々は握手を交わした。やすりのような手だった。
「キングズリーの小屋が見たいんだね? 喜んで案内するよ。まさか売るつもりじゃないだろうね?」彼は私に目を留めながら、湖の方を親指でぐいと指した。
「かもしれない」私は言った。「カリフォルニアじゃ、なんでも売っている」
「嘘だろう? あれがそうだよ――アメリカ杉で組まれている。こぶのある松材を並べ、屋根は合成材、基礎とポーチは石造り、浴槽とシャワー完備、窓にはベネチアン・ブラインドが備えつけ、大きな暖炉、主寝室には石油ストーブ――春と秋には、これが必要になる――ピルグリム社製コンビネーション・レンジはガスと薪両用、すべて高級品、山小屋にかけた費用が八千ドルだ。水は専用の貯水池が山の上にある」
「電気と電話はどうなってる?」私は訊いた。話の接ぎ穂だ。
「もちろん電気は来ている。電話はない。今すぐには無理だ。電話を引くとしたら、線を引っ張ってくるのに大金がかかる」
 青い瞳がじっと私を見ていた。私も見た。風雨にさらされてきた風貌にも拘らず、酒飲みのように見える。厚い皮膚はつやつやし、静脈が目立ち過ぎ、眼がぎらぎらと輝いている。
 私は言った。「今は誰か住んでいるのかな?」
「誰もいない。数週間前にミセス・キングズリーが来ていたが、山を下りた。そのうち戻るだろう。聞いてないかい?」
 私は驚いて見せた。「どうしてだ? 小屋には彼女が付きものなのか?」
 彼は顔をしかめ、それから頭を後ろに反らせ、大笑いした。高笑いはトラクターのバックファイアのようだった。それは森林地帯の静寂を粉々に吹き飛ばした。
「畜生め、言ってくれるじゃないか」彼は息を喘がせた。「彼女が付きものとは――」彼はまた大声を出し、それから罠のようにぴたりと口を閉じた。
「ああ、最高の小屋だよ」彼は私の眼を窺いながら言った。
「ベッドの寝心地は快適かい?」私は訊いた。
 彼は身を乗り出して薄笑いした。「ひょっとして顔を拳骨の跡だらけにしたいのか?」
 私は口を開け、相手を見た。「展開が速すぎて」私は言った。「話がよく見えない」
「べッドの寝心地の良さなんて俺に分かるはずがないだろう」彼はがなり立て、うまくすれば強烈な右パンチが私に届くように、少し前に屈んだ。
「知らないはずはないんだが」私は言った。「それはまあいい。自分で見つけられる」
「ふん」彼は苦々しげに言った。「探偵ってのはな、臭うんだよ。アメリカの州という州で追いかけっこをしてきたんだ。お前もキングズリーもくそくらえだ。自分のパジャマを俺が着ていないか、探偵を雇って探りに来させたってことか? やい、探偵、俺は片足は不自由かもしれんが、女に不自由したことは――」
 私は手を差し出した。引っこ抜かれて湖に放り込まれないことを願いながら。
「少々誤解があるようだ」私は話した。「あんたの女出入りを訊くためにやってきたわけじゃない。ミセス・キングズリーには会ったことがないし、ミスタ・キングズリーにも今朝会ったばかりだ。いったいどうしたんだ?」
 彼は視線を落として手の甲で口をごしごしこすった。まるで自分を傷めつけるかのように。それから、手を目の前に持ってきて、拳を堅く握りしめ、それから、また開き、指をじっと見つめた。それは少し震えていた。
「すまなかった。ミスタ・マーロウ」彼はゆっくり言った。「昨夜は箍が外れてしまって、まるでスウェーデン人が七人いるみたいな二日酔いなんだ。ひと月もここで一人きりなんで、独り言を言うようになった。ちょっとしたことがあってね」
「一杯やるというのはどうかな?」
 彼の目の焦点が私の上で定まり、きらりと光った。
「持っているのか?」
 私はポケットからライウィスキーの一パイント瓶を引っ張り出し、キャップの上に貼られたグリーン・ラベルがよく見えるように持ち上げて見せた。
「俺にはもったいない酒だ」彼は言った。「くそっ、なんてこった。グラスを取ってくる間待っててくれるか。それとも小屋に来るか?」
「ここがいい。景色を楽しむことにするさ」
 彼は思うように動かない方の足を揺らしながら小屋の中に入っていき、小さなグラス二つを手に戻ってきた。そして私と並んで岩に腰を下ろした。乾いた汗の匂いがした。

【解説】

「こぶのある松材を並べ」は<Lined with knotty pine>。清水訳は「こぶだらけの松材がならべてあって」。村上訳は「節のある松材がわたされ」。<lined with>には「~がずらりと並ぶ」と「~で裏打ちされている」の二つの意味がある。田中訳は「内張りには、松材の節がおおいところが使ってあります」。稲葉訳は「節(ふし)のおおい松材をつかって内装してある」。

ログ・キャビン(丸太小屋)は皮をはいだ太いログ(丸太)を井桁に組んで建てられている。丸太そのものが構造体であり、内装を兼ねている。その上にわざわざ松材を張って内装したりしたら、せっかくの丸太小屋が台無しになってしまう。この<Lined with knotty pine>は、屋根になる部分だろう。普通、ログ・キャビンに天井は張らない。屋根の裏がそのまま見えることになるので「こぶ」の多い松材を装飾代わりにしているのだと思う。

「ひょっとして顔を拳骨の跡だらけにしたいのか?」は<Maybe you'd like a face full of knuckles>。清水訳は「その顔に一発、食らわせてもらいたいのかね」。村上訳は「あんたどうやら、げんこつを一発食らいたがっているみたいだな」。ここも<full of knuckles>が、たった一発になってしまっている。田中訳は「あんたは、顔中コブだらけにされたいのかい?」と複数扱いになっている。

<「展開が速すぎて」私は言った。「話がよく見えない」>は<"That one went by me too fast," I said, "I never laid an eye on it.">。清水訳は<「いまの一発はあまり早かったので」と私はいった。「私の目には見えなかったよ」>と<That one>を「一発」と捉えている。村上訳は<「なあ、いったい何を言ってるんだ。私にはさっぱり見当もつかないね」と私は言った>。田中訳は「いやに気をまわすひとだなあ。そこまでは、こっちは考えなかったよ」。原文の<fast>と<lay eye on>(注意して見る)を活かして訳してみた。

「昨夜は箍が外れてしまって、まるでスウェーデン人が七人いるみたいな二日酔いなんだ」は<I was out on the roof last night and I've got a hangover like seven Swedes.>。清水訳は「ゆうべ、だいぶ飲みすぎたんでね。けさは頭がふらふらしている」。田中訳は「昨夜、山のほうに飲みにいってね。ひどい二日酔なんですよ」。村上訳は「ゆうべちょっと飲み過ぎてな。七人のスウェーデン人が集まったくらいの二日酔いを抱えていたんだ」。<aut on the roof>は<out on the tiles>と同じで「(屋根の上の猫のように)派手に遊び回る」こと。スウェーデン人についてはよく分からない。

『湖中の女』を訳す 第五章(1)

どうして<a high granite outcrop>を複数扱いしたのだろう

 

【訳文】

 

 サン・バーナディーノは午後の熱気で焼かれ、ぎらぎらと揺らめいていた。空気は舌に火ぶくれができそうなほど熱かった。喘ぎながらそこを通り抜ける途中、一パイント瓶を買う間だけ車を停めた。山に着く前に気絶したときの気つけ薬だ。そして、またクレストラインまでの長い坂道を上り出した。十五マイルで、五千フィート上っても、涼しいというにはほど遠かった。山道を三十マイル走り、高い松が聳えるバブリング・スプリングというところに着いた。下見板張りの店とガソリン・ポンプがひとつあるだけだが、まるで楽園のように思えた。そこからはずっと涼しかった。

 ピューマ湖のダムの両端と中央に武装した歩哨がいた。最初に出遭った歩哨は、ダムを渡る前に車の窓を全部閉めさせた。ダムから百ヤードほど離れたところにコルクの浮きがついたロープがあり、遊覧船はそれ以上近づくことができなかった。そういった些細なことを除けば、戦争はピューマ湖に大した影響を与えていないようだ。

 カヌーのパドルが青い水を漕ぎ、ボートにとりつけた船外機がのどかな音を立てるなか、若さを見せつけるようにスピードボートが派手な水しぶきを立てて急旋回し、中にいる女の子たちが手で水を掻きながら歓声を上げている。スピードボートが立てた余波に揺られながら、入漁許可証に二ドル払った人たちは、少しでも元を取ろうと、くたびれた味の魚を釣るのに躍起だった。

  道は、大きな花崗岩の露頭をかすめるようにして、雑草が目につく草地に下りていった。常緑菖蒲(ワイルド・アイリス)、白と紫の昇り藤(ルピナス)、白根(ビューグル・フラワー)、苧環(コロンバイン)、目草薄荷(ペニーロイヤル)、胡麻の葉草(デザート・ペイントブラッシュ)といった草花が咲き残っていた。高い松の木立ちは澄んだ青空を探るように枝を伸ばしていた。道はまた湖の高さに下り始め、あたりの風景は派手なスラックス、袋型ヘアネット、農夫風ハンカチーフ、入れ毛でふくらませた巻き髪、厚底サンダルと白く太い腿の娘たちでいっぱいになり始めた。自転車乗りはハイウェイを慎重によろよろと進み、時折り、不安気な顔の若者がスクーターの音を響かせて通り過ぎた。

 ハイウェイを村から一マイル走ったあたりで、曲がりくねって山に戻って行く細い分かれ道を見つけた。ハイウェイの標識の下に粗削りな木製の看板があり「リトル・フォーン湖、一マイル四分の三」とあった。その道に入った。はじめの一マイルは斜面に沿って小屋が散らばっていたが、その後見かけなくなった。やがて、また道が分かれ、一段と狭くなった道の方に、これも粗雑な木の看板があり、「 リトル・フォーン湖。私道につき、立ち入り禁止」と書いてあった。

 そちらにクライスラーを乗り入れ、地表に露出した大きな花崗岩の間を縫ってそろそろ進み、小さな滝を過ぎ、黒樫の木、アイアンウッド、マンザニータの静まり返った迷路を通り抜けた。枝の上で青カケスが鳴き騒ぎ、栗鼠は闖入者を叱りつけ、腹立ちまぎれに抱かえていた松ぼっくりを前肢で叩いた。頭に緋を頂いたキツツキが、きらきら輝く目で私を見ようと、暗闇の中を突っつくのを止め、それから木の幹の後ろに隠れ、もう一方の目で私を見た。五本の横木を組んだゲートまで来ると、また看板が立っていた。

 ゲートを抜けると、曲がりくねった道が木々の間を縫って二百ヤードほど続き、突然、眼下に、木々や岩、野草に囲まれた小さな楕円形の湖が現れた。まるでくるっとまるまった葉の上に落ちた露の滴のようだった。湖の端近くに、きめの粗いコンクリート製のダムがあり、上にロープを張った手すりがついていて、傍に古い水車があった。近くに、樹皮のついた松の自然木で組んだ小さな丸太小屋があった。

 岸伝いなら遠回りになり、ダムを渡れば近いあたりの対岸に、大きなアメリカ杉を組んだ丸太小屋が水の上に迫り出している。その先にはそれぞれ充分に距離を置いた別の小屋が二棟建っていた。三棟とも戸締りされ、カーテンが引かれ、ひっそりしていた。大きな一棟は梔子色のベネチアン・ブラインドがついた十二枚のガラスを嵌めた窓が湖に面している。

 ダムから見て湖の最も遠い端に、小さな桟橋とバンド用のパビリオンのようなものがあった。反り返った木の看板には大きな白い字で「キャンプ・キルケア」と記されていた。こんなところにそんなものがある理由が思いつかなかったので、車を降りて一番近い小屋に向かって下り始めた。小屋の裏手の方で斧を振るう音がした。

 小屋の扉をノックすると斧の音がやんだ。どこかで男の怒鳴り声がした。私は岩の上に腰かけ、煙草に火をつけた。小屋の角を曲がってくる足音がした。不揃いな足音だ。いかつい顔をした浅黒い男が、両刃の斧を手にしているのが目に入った。

 がっしりした体格で、 背はさほど高くなく、 足を引きずって歩いた 。一歩歩くごとに 右足を少し蹴り出して 浅い弧を描くように足を振った。無精ひげで黒い顎、落ち着いた青い瞳、大いに散髪を要する灰色の髪は耳にかぶさってカールしていた。ブルーのデニムのズボンを穿き、襟元をはだけた青いシャツから褐色の逞しい首がのぞいていた。口の端に煙草をぶら下げ、堅くて隙のない都会者の声で言った。

「何の用だ?」

「ミスタ・ビル・チェス?」

「そうだが」

 

【解説】

 

「スピードボートが立てた余波に揺られながら、入漁許可証に二ドル払った人たちは、少しでも元を取ろうと、くたびれた味の魚を釣るのに躍起だった」は<Jounced around in the wake of the speedboats people who had paid two dollars for a fishing license were trying to get a dime of it back in tired-tasting fish>。 

 

清水訳は「スピードボートが起こした波の中で、釣りをするのに二ドル払った連中がいくらかでも取り戻そうと仕切りに手を動かしていた」と<tired-tasting fish>をスルーしている。田中訳は「モーターボートのあおりをくらうダムのふちには、二ドルはらって釣りの許可をとった連中が、十セントもしないぐらいの、くたびれた魚をつりあげようとやっきだ」。村上訳は「そのスピードボートの航跡のまわりで、ニドル払って釣りの許可をとった人々がゆらゆらと揺れながら、少しでも元を取ろうと、くたびれた味のする魚を釣り上げるべく精を出していた」。

 

<tired-tasting fish>は、スピードボートの立てる波に揺られながら、二ドルを取り戻そうと釣りをする釣り人達の奮闘ぶりをからかったのだろう。そこまで苦労して釣った魚にはきっと釣り人の疲れが乗り移って、くたびれた味がするだろう、と言っているのだ。田中訳のように「ダムのふち」と取ると、何が<jounce>(ガタガタ揺れる)のかが分からない。「くたびれた魚」と<tasting>をトバしていることから考えると、田中氏は波に揺れて魚がくたびれたと考えたのかもしれない。

 

「道は、大きな花崗岩の露頭をかすめるようにして、雑草が目につく草地に下りていった」は<The road skimmed along a high granite outcrop and dropped to meadows of coarse grass>。清水訳は「道路は高い岩だらけの崖にそってつづいていて、雑草が生いしげる草原にくだって(傍点四字)行った」。田中訳は「道は、あちこちに露出した花崗岩の大きな岩のあいだをぬってのぼり、やがて、野草がいっぱいはえた平地にくだった」。

村上訳は「切り立った花崗岩の露頭のあいだを縫うように道路は続いていた。それからぼさぼさした草の繁った野原へと降りていった」。

 

どうして揃いも揃って三人とも<a high granite outcrop>を複数扱いで訳しているのだろう。単数で書かれている以上、この大きな花崗岩の露頭は一つきりで、要は、その大岩を境に道が下りはじめた、ということだ。<skim>は「すれすれに通る」という意味。狭い山道に大きな岩が迫り出すように露出していれば、それを「かすめるようにして」通るほかないではないか。多分初訳の誤りに気づかず、他の二氏が踏襲したのだろう。

 

「常緑菖蒲(ワイルド・アイリス)、白と紫の昇り藤(ルピナス)、白根(ビューグル・フラワー)、苧環(コロンバイン)、目草薄荷(ペニーロイヤル)、胡麻の葉草(デザート・ペイントブラッシュ)」は<the wild irises and white and purple lupine and bugle flowers and columbine and penny-royal and desert paint brush>。

 

清水訳は「野生のアイリス、白と紫のルピナス、ラッパ草、オダマキ、メグサハッカ、ゴマノハグサ」。田中訳は「山あやめ、白や深紅の花を咲かせているルーピン、ラッパ草、おだまき、はっか、それに砂漠によくあるごまのはぐさ(傍点六字)」。村上訳は「野生のアヤメと、白と紫のルピナスキランソウオダマキ、メグサハッカ、カステラソウ」。

 

<wild iris>は「野生のアイリス」ではなく「ディエテス・イリディオイデス」(常緑アヤメ)のこと。<bugle>は「ラッパ」なので「ラッパ草」と訳したのだろうが、<bugleweed>は「キランソウ」か「シロネ」。<desert paint brush>は「カスティーリャ・クロモサ」のことで、厳密には「ゴマノハグサ」でも「カステラソウ」でもない。その土地固有の植物にぴったりの和名はめったに見つかるものではない。カナにカナのルビは変だが、漢字にしてルビを振れば、調べることもできる。

 

「袋型ヘアネット、農夫風ハンカチーフ、入れ毛でふくらませた巻き髪」は<snoods and peasant handkerchiefs and rat rolls>。清水訳は「袋型のヘアネットと農民風ハンカチーフとラット・ロール」。田中訳は「れいのはちまき(傍点四字)のようなリボンをして、田舎風のスカーフをかけ、髪をいれ(傍点二字)毛でふくらした」。村上訳は「大きなリボン、農夫風のハンカチーフ、丸い巻き髪」。

 

<snood>には「ヘアネット」と「昔、スコットランドで処女のしるしとされた鉢巻状のリボン」の意味がある。野外に遊びに来た女性が髪をまとめておくための物が羅列されているのだと考えれば、長い髪をまとめるためのネットととるのが自然だが、どうだろうか。清水氏がさじを投げた格好の<rat rolls>だが、<rat>には「かもじ、入れ毛」の意味がある。長めの髪を外巻きにロールしてアップの巻き髪にするため、中に入れ毛を入れたのだろう。

 

「五本の横木を組んだゲート」は<a five-barred gate>。板を間を開けて五枚渡し、両端と対角線上に同様に板を張ることで、簀の子状の開き戸ができる。柵などで仕切った土地の入り口に設けることが多い。清水訳は「棒が横に五本わたしてあるゲート」、村上訳は「木材を五本わたしたゲート」。田中訳の「鉄棒が五本ついた鉄門」はおかしい。因みに、『マーロウ最後の事件』(1975年晶文社刊)所収の中篇「湖中の女」(稲葉明雄訳)では「五本の丸太ん棒を横たえた門柵」になっている。

 

「三棟とも戸締りされ、カーテンが引かれ、ひっそりしていた。大きな一棟は梔子色のベネチアン・ブラインドがついた十二枚のガラスを嵌めた窓が湖に面している」は<All three were shut up and quiet, with drawn curtains. The big one had orange-yellow venetian blinds and a twelve-paned window facing on the lake>だが、何故か田中訳はこの部分が欠落している。.



『湖中の女』を訳す 第四章(2)

<Nervous Nellie>を「ビビリのビリー」と訳してみた

【訳文】

私はアルモア医師に注意を戻した。今は電話に出ていたが、口は動かさず、受話器を耳にあて、煙草を吸いながら、待っていた。それから、相手の声が戻ってきたとき誰もがするように、身を乗り出して耳を傾け、受話器を置き、目の前のメモ用紙に何か書きとめた。すると、ページが黄色い厚手の本が机の上に現れ、彼はそのまん中あたりを開いた。その間、窓の外のクライスラーにちらっと目を走らせた。
 探していた箇所を本の中に見つけ、そこに身を屈めた。ページの上の空中にぷかぷかと煙が出てきた。また何か書いてから、本を脇に押しやり、もう一度受話器をつかんだ。ダイアルを回し、相手が出るのを待って、早口でしゃべり出した。頭を押し下げ、手にした煙草で空中に身ぶり手ぶりしながら。
 電話を終えて、受話器を置いた。椅子の背に凭れて沈み込み、机をじっと見つめていたが、三十秒ごとに窓の外を見ることは忘れなかった。彼は待っていた。何の理由もなかったが、一緒に待つことにした。医者は多くの人に電話し、多くの人と話をする。窓から外を眺め、眉をひそめ、神経質な一面をのぞかせ、悩み事を抱え、気分が外に出る。医者だってただの人間だ。哀しむために生まれてきて、我々と同じように長く厳しい闘いをしている。
 しかし、この男の振舞いには何かそそられるものがあった。私は腕時計を見て、そろそろ食事の時間だと思いながら、新しい煙草に火をつけ、じっとしていた。
 五分ほどが過ぎた。やがて、グリーンのセダンが一台、さっとコーナーを曲がり、通りを突き進んできた。車はアルモア医師の家の前でとまり、長いアンテナを震わせた。くすんだ金髪の大男が車から降り、アルモア医師の玄関に向かった。呼鈴を鳴らし、マッチを擦ろうと玄関前で身をかがめた。顔がこちらを向き、通りを隔てて、まさに私が座っている場所をじっと見た。
 ドアが開き、男は中に入った。見えない手がアルモア医師の書斎の窓のカーテンを閉め、部屋の中が見えなくなった。私はそこに座って、日にやけたカーテンの裏地を見つめた。時間がどんどん過ぎていった。
 玄関のドアが再び開き、大男はぶらぶらと階段を下り、門をくぐった。煙草の吸い殻を遠くにはじきとばし、髪をくしゃくしゃにした。一度肩をすくめ、あごの先をつねって、通りを斜めに横切った。静けさの中、その足取りは悠揚迫らず、はっきり聞こえた。男の後ろで、アルモア医師のカーテンがまた開いた。アルモア医師が窓辺に立って見ていた。
 雀斑の浮いた大きな手が車のドアの下枠に現れた。その上に深い皺が刻まれた大きな顔がぶら下がっていた。
 瞳の色はメタリック・ブルーだ。じっと私を見つめ、太く耳障りな声で話しかけた。
「誰かを待ってるのか?」彼は尋ねた。
「どうかな」私は言った。「誰か来るのか?」
「訊いたことに答えるんだ」
「おやおや」私は言った。「それがあのパントマイムへの返答か」
「パントマイムがどうした?」彼はやけに青い眼に敵意をぎらつかせて私を睨んだ。
 私は煙草で通りの向こう側を指した。
「ビビリのビリーは電話好きだ。オート・クラブから私の名前を聞き出し、それから電話帳で調べて警察にかけたんだろう。どういうことになってるんだ」
「運転免許証が見たい」
 私は相手を睨み返した。「警察のバッジを見せることはあるのか。それとも、タフぶって見せるだけで身分証明になるとでも?」
「タフに出なきゃならない時は、そうするさ」
 私は前に屈み、イグニッション・キーを回し、スターターを押した。エンジンがかかり、アイドリング状態になった。
「エンジンを切れ」彼は怒鳴って、ランニングボードに足をかけた。
 私はエンジンを切り、シートに凭れて男を見た。
「なんてやつだ」彼は言った。「引きずり出して舗道の上に放り出されたいのか?」
 私は札入れを取り出して渡した。彼はセルロイドのケースを抜き出して運転免許証を調べ、それからケースを裏返し、裏側に入っている私のもう一つの免許証の複写写真を見た。そして、さも馬鹿にしたように、札入れに押し込んで返して寄こした。私は札入れをしまった。彼の手が一度引っ込み、また出たときには青と金の警察のバッジをつかんでいた。
「デガーモ、警部補だ」彼は重く荒々しい声で言った。
「お会いできて光栄だ。警部補」
「挨拶は抜きだ。アルモアの家を下調べしていた理由を言え」
「そいつはとんだご挨拶だな、警部補。アルモアの家など調べちゃいない。アルモア医師の名も聞いたことはないし、家を下調べする理由もない」
 彼は唾を吐くために頸をひねった。今日は、唾を吐くやつにやたらと出会う。
「なら、狙いは何だ? ここでは覗き屋は嫌われている。この街に探偵は一人もいない」
「そうなのか?」
「ああ、そうだ。さっさと吐くんだ。署まで行って 強い光の下で汗を流したいなら別だがな」
 私は何も答えなかった。
「女の身内に雇われたのか?」彼は突然訊ねた。
 私は首を振った。
「なあ、この前それをやろうとした男は、今じゃ鎖に繋がれて道路工事をしてるんだぜ」
「そいつはいい」私は言った。「何のことだか分かればな。で、何をやろうとしたんだ?」
「アルモアから金をせびりとろうとしたのさ」彼はかすかな声で言った。
「惜しいことにネタを知らない」私は言った。「強請にはもってこいの相手なのに」
「そんな話をしても何の得にもならん」彼は言った。
「分かったよ」私は言った。「じゃあ、こう言おうか。私はアルモア医師を知らない。聞いたこともない。それに興味もない。ここには友人を訪ねてきて、景色を眺めてただけだ。仮に私が他に何をしていようが、あんたには何の関係もないことだ。それが気に入らないなら、署に帰って警部に報告するのが最善の策だ」
 彼はランニングボードに載せた足に体重をかけながら、疑わしそうに見た。「本当なんだな?」彼はゆっくり訊いた。
「本当だ」
「なんてこった。あの男は頭がおかしい」彼はそう言って、肩越しに振り返って家を見た。「医者に診せなきゃな」彼は笑った。ちっとも面白そうじゃなかった。ランニングボードに載せた足を下ろし、針金のような髪をくしゃくしゃにした。
「とっとと行っちまいな」彼は言った。「俺たちの居留地(リザヴェイション)には近づかないことだ。そうすりゃ敵に回すこともない」
 私はまたスターターを押した。エンジンが静かにアイドリングを始めたとき、私は言った。「近頃、アル・ノルガードはどうしてる?」
 彼は私を見つめた。「アルを知ってるのか?」
「まあな。二年ほど前にここで一緒に働いたことがある。ワックスが署長をしてた頃だ」
「アルはMPをしている。俺もそうしたいよ」彼は苦々しげに言った。彼は歩き出したが、急に踵を返すと、吐き捨てるように言った。「早く行け。俺の気が変わらないうちに」
 彼はのろのろと通りを横ぎってまたアルモア医師の門をくぐった。
 私はクラッチをつないで走り去った。街に帰る途中、自分の思いに耳を澄ませた。アルモア医師の細い神経質な手がカーテンの端を引っ張るように、思いは途切れがちに出入りした。
 ロサンジェルスに戻ってランチを食べ、郵便物が来ていないか見るためにカフェンガ・ビルディングのオフィスに行った。そこからキングズリーに電話した。
「レイヴァリーに会いました」私は話した。「隠し事などしていないという口ぶりでした。ちょっと突っついてみましたが、何も出てこなかった。私はまだ二人が喧嘩別れしたという線が捨てきれません。あの男はよりを戻したがってる」
「なら、彼女がどこにいるかも知っているはずだ」キングズリーは言った。
「そうかもしれませんが、話に乗ってきません。ところで、レイヴァリーの家の通りでちょっと奇妙なことが起きました。家は二軒だけで、もう一軒はアルモア医師の家です」私は簡単にその奇妙なことを話した。
 彼はしばらく黙って聴いていたが、最後に言った。「アルバート・アルモア医師か?」
「そうですが」
「いっときクリスタルのかかりつけ医だった。何度か家に来たことがある――ちょっと、飲み過ぎた時などに。いささか安易に注射するきらいがあった。彼の奥さんは――ええと、何かあったんだが、そうだ、自殺したんだった」
私は言った。「いつのことです?」
「覚えていない。ずっと昔のことだ。それほど親しくなかったのでね。君はこれからどうするつもりだ?」
 今からでは遅すぎるかもしれないがピューマ湖に向かう、と、私は言った。
 山では一時間くらい日の落ちるのが遅いから十分間に合うだろう、と彼は言った。
 私は、それは好都合だ、と言った。それで通話を終えた。

【解説】

「ページが黄色い厚手の本が机の上に現れ」は<a heavy book with yellow sides appeared on his desk>。清水氏は「縁が黄色の分厚い本がデスクの上に現れ」。田中訳は「きいろい紙の大きな本を机の上にもつてくると」。村上訳は「側面の黄色い分厚い本がデスクの上に現れた」。<side>には「(本、ノートの)片面、ページ」という意味があるが、三氏ともそれを採用していないのが不思議だ。

「ページの上の空中にぷかぷかと煙が出てきた」は<quick puffs of smoke appeared in the air over the pages>。清水氏は「タバコの煙をそのページの上にただよわせた」。田中訳は「ひらいた頁の上に、タバコの煙がただよった」。これだと、何か落ち着いた様子が伝わってくる。実際は<quick puffs of smoke>なので、村上訳の「ページの上の空間に短く吐かれた煙草の煙が漂った」がより正確だ。ただ、<appeared>(出現する、現れる)を三氏のように「漂う」と訳すのはどうか。医師は気が急いている。煙草の煙は、医師の頭上の空中に次から次へと立ち上っているのだ。

「顔がこちらを向き、通りを隔てて、まさに私が座っている場所をじっと見た」は<His head came around and he stared across the street exactly at where I was sitting>。清水訳は「頭が私の方に向けられ、道路をへだてて車に座っている私と視線があった」。田中訳は「それからくるっとふりかえり、おれのほうをまともに見た」。村上訳は「彼は首を曲げ、通りのこちら側をじっと睨んだ。ちょうど私の座っているあたりを」。話者の視線が対象に接近しているのは、関心の高まりを表現している。ここは<His head came around >を原文通りに訳すべきだろう。

「日にやけたカーテンの裏地を見つめた」は<stared at the sundarkened lining of the curtains>。清水訳は「陽にやけたカーテンを見つめていた」。田中訳は「カーテンの日にやけたふちをみていた」。村上訳は「陽光で黒くなったカーテンのライニングを眺めていた」。清水訳は<lining>をカット。田中訳は「ふち」としている。村上氏は例によってカタカナのままで済ませている。まあ、外来語になっているから、それはそれでいいが、カーテンの裏地が日にやけて、黒くなるだろうか? ヒトはメラニンのせいで黒くなるが、布地は濃色だった場合、むしろ白茶けるのでは。

「静けさの中、その足取りは悠揚迫らず、はっきり聞こえた」は<His steps in the quiet were leisurely and distinct>。清水訳は「あたりが静まり返っている中を一歩一歩ゆっくり歩いた」。田中訳は「しずかな歩き方で、のんびりしてるようだったが、目的ははっきりしていた」。村上訳は「その物静かな足取りはさりげなく、しかし、きっぱりしたものだった」。さて、どうだろう。

清水氏は<distinct>を「一歩一歩」と訳している。これはあたりが静かであることからくる聴覚を強調した訳だ。それに対して、田中、村上両氏は、<in the quiet>を足取りを修飾するものととらえ、足取りに秘められた男の意志のようなものと取っているようだ。そのために、両氏は順接の接続詞<and>で結ばれている部分を逆接であるかのように訳している。ここはマーロウが、だんだん近づいてくる足音に耳を澄ましている、ととらえた方が表現として優れていると思う。

「アルモア医師が窓辺に立って見ていた」は<Dr. Almore stood in his window and watched>。どうということのない文だが、「アルモア医師は窓の前に立って、外を見守っていた」(村上訳)と書かれると、妙に落ち着かない。視点が逆なのだ。マーロウから見て近いのは窓であって医師ではない。だから、「アルモア医師は窓の向こうに立って、見つめていた」(清水訳)とするか、「ドクター・アルモアは窓ぎわにたち、こちらを見ている」(田中訳)とするのが普通だ。村上訳には時々こうした視点の不一致が見られる。

「ビビリのビリーは電話好きだ」は<Nervous Nellie and the telephone>。<Nervous Nellie>を辞書で引くと「臆病者」。名前を使った言葉遊びで<Simple Simon><Even Steven>のように、頭韻や脚韻を踏むのがお約束。日本なら「小言幸兵衛」みたいなもの。清水訳は「おちつかない様子で電話をかけた」。田中訳は「ドクター・アルモアが電話をかけた結果さ」。村上訳は「あの神経質なお方と、電話の一幕だよ」。どれも、遊び心を欠いている。

「タフに出なきゃならない時は、そうするさ」は<If I have to get tough, fellow, you'll know it>。清水訳は「俺がこわもて(傍点四字)に出れば、こんなことじゃすまないよ」。村上訳は「もしおれがタフにならなくちゃいけないとなれば、おまえさんにもそれが一目でわかるはずだ」。田中訳は「しかたがなければ、うるさくもなる」。ここはマーロウが<acting tough>(空威張り、強がり)が警察のバッジ代わりになるのか、と聞いたことへの返事だ。<get tough>は「厳しい態度をとる」の意味。<you know it>は「~でしょ」くらいの挨拶に最後につける常套句。

「なあ、この前それをやろうとした男は、今じゃ鎖に繋がれて道路工事をしてるんだぜ」は<The last boy that tried it ended up on the road gang, sweetheart>。清水訳は「この前君と同じことをやったやつはハイウェイでくたばったよ」。田中訳は「このことに、最後に首をつつこんだあの私立探偵は、とうとう街にいられなくなったんだぞ。知ってるのかい、スイートハート?」。<end up>は「最後には~になる」という意味。<road gang>は「(道路補修に特派された)囚人道路工夫団」(米俗)のことだ。というわけで、両氏の訳は誤訳。村上訳は「なあ、探偵さん。この前それを試したやつはパクられて、道路工事に精を出す羽目になったぜ」。

「アルモアから金をせびりとろうとしたのさ」は<Tried to put the bite on him>。清水訳は「彼に咬みつこうとしたのさ」。田中訳は「ドクター・アルモアからうまい汁をすおうとしたんだよ」。村上訳は「あの男から金をせびり取ろうってことさ」。<put the bite on~>は「~に金をせがむ」という意味。

「隠し事などしていないという口ぶりでした」は<He told me just enough dirt to sound frank>。清水訳はここをカットしている。田中訳は「やつは、あまりしゃべらなかったので、きょうのところはまだ尻尾をだしていません」。村上訳は「正直に話すふりをしていたが、口にしたのはいい加減な話です」。<just enough dirt to sound frank>というのは、自分の話を信じさせるに足る程度は真実(dirt=ゴシップ)を述べた(が、まだ充分ではない)ということだろう。

『湖中の女』を訳す 第四章(1)

屋根の<tiles>は「タイル」じゃなくて「瓦」だろう。

【訳文】

 横長の、奥行きのない家で、薔薇色の化粧漆喰仕上げの壁がほどよくパステル調に色褪せ、窓枠はくすんだ緑色で縁どられていた。屋根は緑の瓦葺きで、肌理の粗い丸瓦だ。正面壁を刳った奥に、色とりどりのタイル片のモザイクに取り囲まれた玄関のドアがあり、前は小さな花壇になっている。家の周りは低い化粧漆喰の塀に囲まれ、塀の上の鉄柵は海辺の湿気で錆かけていた。塀の外、左手に車を三台収容できるガレージがあり、庭に通じる戸口がついていて、そこからコンクリートの通路が家の通用口に続いていた。
 門柱に埋め込んだ青銅製の銘板には「アルバート・S・アルモア、医学博士」とあった。
 そこに立って通りの向こうを眺めていたら、さっき見かけた黒いキャデラックがエンジン音を響かせて角をまがり、すぐそこまでやってきた。スピードを落とし、ガレージに入るために方向転換するスペースを確保しようと外にふくらみかけ、私の車が邪魔になると見て、道の端まで行き、装飾のついた鉄柵の前にある少し広くなったところで車を回した。車はゆっくり戻ってきて、通りの向こうのガレージの三つ目の空きスペースにおさまった。
 サングラスをかけた痩せた男は持ち手が二重になったドクターズ・バッグを手に、歩道を歩いて家に向かった。半分ほど行ったところで歩をゆるめ、通り越しにこちらを見た。私は車の方に歩いて行った。家に着いてドアの鍵を開けているとき、男はもう一度私を見た。
 クライスラーに乗り込んで一服しつつ、誰かを雇ってレイヴァリーの後をつけさせる必要性を考えた。今までのところその必要はないと見た。
 アルモア博士が入っていった通用口近くの低い窓のカーテンが動いた。細い手がカーテンを脇に寄せ、眼鏡がきらっと光るのが目にとまった。両側のカーテンがまた閉じられるまで、しばらくのあいだ、脇に寄せられていた。
 通り伝いに、レイヴァリーの家に目をやった。この角度からだと、家の通用口からペンキ塗りの木の階段で、表通りから下ってきたコンクリートの小径に出て、その先はやはりコンクリートの階段で下の通りに出られることが見て取れた。
 もう一度、向かいに建つアルモア医師の家に目をやり、彼はレイヴァリーのことを知っているのか、知っているならどれくらい知っているのだろう、とぼんやり考えていた。恐らく知っているだろう。このブロックにはたった二軒しか建っていないのだ。だが、医師である限り、彼のことを私に話そうとはしないだろう。見ると、さっきまで隙間が見えていたカーテンが今ではすっかり閉じられていた。
 三枚窓の真ん中の部分には網戸が嵌っていなかった。その奥に、アルモア医師は立ち、痩せた顔に険しい表情を浮かべ、通り越しに私の方をじっと見ていた。私が煙草の灰を窓の外に振り落とすと、彼は急に背を向けて机の前に坐った。目の前には持ち手が二重になった鞄がある。しゃっちょこばって座り、鞄の横の机の天板を指でコツコツ叩いていた。電話に手を伸ばし、受話器にさわったが、また手を引っ込めた。煙草に火をつけ、乱暴に手を振ってマッチの火を消した。それから大股で窓に近寄り、私の方をじっと見つめた。
 面白かった。というのも、彼が医者だからだ。医者はふつう、ほとんど人間に好奇心を抱かない。まだインターンのころから一生間に合うくらい、他人の秘密を聞かされるからだ。アルモア医師はどうやら私に興味があるらしい。興味があるどころではない。私のことが気に障るのだ。
 イグニッション・キーを回そうと手を伸ばしたとき、レイヴァリーの家の玄関扉が開いた。手を引っ込め、もとのようにシートの背に凭れた。レイヴァリーはすたすたと私邸の小径を上ってきて、通りをちらっと見てから、ガレージに入るために向き直った。さっき見かけたのと同じ格好だった。腕にラフなタオルと膝掛けを抱えていた。ガレージの扉が持ち上がる音がし、次いで車のドアが開いて閉じられ、やがてエンジンをかけるキュルキュル、カタカタという音が聞こえた。急勾配の坂道をバックで通りに出てきて、リア・エンドからもうもうと白いエグゾーストを吐き出した。かわいらしいブルーのコンヴァーチブルで、折り畳んだトップの上に、レイヴァリーの艶のある黒髪の頭が突き出ていた。ごく幅の広い白いテンプルの、粋なサングラスをかけていた。コンヴァーチブルは滑るようにブロックを走り抜け、踊るようにコーナーをまがった。
 どうでもいいことだった。ミスタ・クリストファー・レイヴァリーが広い太平洋の端に行き、太陽の下で横になるところを女の子に見せたからといって、見た者が必ずしも行方不明になる必要はない。

【解説】

「横長の、奥行きのない家で」は<It was a wide shallow house>。清水訳は「その家は横に長く、屋根が低く」。田中訳は「ひくい、横にひろい家で」。<shallow>は「浅い」の意味だが、対義語は<deep>なので、ここは「奥行きがない」という意味。村上訳は「横幅が広く、奥行きの狭い家屋だった」。「奥行きが狭い」という言い方もないとは言わないが、「横幅が広く」の後に続けるなら「奥行きが浅く」の方がよかったのでは。

「屋根は緑の瓦葺きで、肌理の粗い丸瓦だ」は<The roof was of green tiles, round rough ones>。簡単な文なので、辞書を引かずともわかると考えたのだろう。田中訳は「屋根は粗(あら)く削(けず)られた緑色のタイルだった」。田中訳は「屋根は、まるい、ラフな感じのタイルだ」。村上訳は「屋根は緑のタイルで葺(ふ)かれていた。粗い材質の丸いタイルだ」。問題は<tile>だ。辞書で引けば「タイル」と「瓦」の両語が併記されている。丸いタイルで屋根を葺いたら隙間ができるし、重ねて葺いたら鱗状に見えるので「まるい」とは言えないだろう。

「正面壁を刳った奥に、色とりどりのタイル片のモザイクに取り囲まれた玄関のドアがあり」は<There was a deeply inset front door framed in a mosaic of multi-colored pieces of tiling>。清水訳では「正面のドアのまわりはさまざまな色のタイルを組み合わせたモザイク模様になっていて」と<deeply inset>が抜け落ちている。田中訳は「家の正面からうんとひっこんだところに、まわりを色とりどりのちいさなタイルでかざった、玄関のドアがあり」。村上訳は「玄関のドアは奥に深くはめ込まれ、様々な色彩の小さなタイルをモザイクのようにあしらった枠で囲まれていた」。

田中氏にはこの家が立体的に見えていた様子がうかがえるが、後の二人はそうでもないようだ。陽光溢れるカリフォルニアのことだ。雨仕舞いの心配はなさそうだが、玄関の日除けに庇を設けるか、壁の一部を入隅状に刳って玄関部分をひっこめる必要がある。<deeply inset>とはそれを言っている。村上訳ではそれがうまく伝わらない。「枠」という語を持ち出したのは、何の「奥に深くはめ込まれ」ているのかがよく分からなかったからだろう。

「庭に通じる戸口がついていて」は<(garage,) with a door opening inside the yard>。清水訳は「庭の内がわにドアが開き」。村上訳も「庭の内側に向かってドアがついていて」となっている。「庭の内側」というのは何のことを言うのだろうか? 田中訳は「奥に、庭のほうにむかってひらくドアがあり」。要するにガレージ内から庭に入れる開口部があるということだ。<inside the yard>は「庭の内側」ではなく「庭に通じる」の意味。<door opening>を「開口部、戸口」の意味と採れば「庭に通じる戸口がついた(ガレージ)」のことだと分かる。

「さっき見かけた黒いキャデラックがエンジン音を響かせて角をまがり、すぐそこまでやってきた」は<the black Cadillac I had already seen came purring around the corner and then down the block>。清水訳は「さきほどの黒色のキャディラックが角をまがってきた」。田中訳は「さつき見かけた黒のキャディラックが角をまがり、通りをやってきた」。両氏とも<purring>を見て見ぬふりだ。<purring>は「(猫などが)喉をゴロゴロ鳴らすこと」だが「車のエンジン音」にも使う。村上訳は「先刻見かけた黒いキャディラックがエンジン音を響かせながら、角を曲がってこちらにやってきた」。<down the block>は「同ブロックの少し先」の意味。

「ガレージに入るために方向転換するスペースを確保しようと外にふくらみかけ」は<started to sweep outwards to get turning space to go into the garage>。清水訳はこの部分をカットしている。田中訳は「ガレージにはいるために、大きくターンしようとして」。村上訳は「ガレージに入るために外に向けて大きく方向転換しようとしたが」。両氏の訳からは<to get turning space>のニュアンスがあまり伝わってこない。これは内輪差により後輪部が何かに接触するのを恐れて、道路の外側にふくらむ運転動作のことだ。

「家の通用口からペンキ塗りの木の階段で、表通りから下ってきたコンクリートの小径に出て」は<his service porch gave on a flight of painted wooden stepssteps to a sloping concrete walk>。清水訳は「ポーチから彩色した木製の階段を降りるとコンクリートのゆるやかな勾配の歩道になっていて」。村上訳は「彼の家の屋根のポーチから、彩色された板張りの階段が、坂になったコンクリートの通路まで降りている」。両氏とも<service porch>を、ただ「ポーチ」と訳しているが、これは勝手口についている小屋根のこと。村上訳の「屋根のポーチ」は「屋根付きポーチ」が一般的。田中訳は「勝手口と、そのペンキぬりの木の上り段が、通りからさがってきたコンクリートの小径にわたしてあり」。

「見ると、さっきまで隙間が見えていたカーテンが今ではすっかり閉じられていた」は<As I looked, the curtains which had been lifted apart were now completely drawn aside>。清水訳は「私が見ているあいだに、なかば開かれていたカーテンがこんどはすっかりわきによせられた」。田中訳は「さっき、アルモアがのぞいていた窓のカーテンは、すっかりあけてあった」。村上訳は「私が眺めているあいだ、さっき隙間が見えていたカーテンはずっと閉じられたままだった」。<draw>はカーテンを「引く」ことで、開閉どちらにも使われるが、隙間が開いていたものが完全に引かれたというなら「閉じる」ととるのが普通だ。

「三枚窓の真ん中の部分には網戸が嵌っていなかった」は<The middle segment of the triple window they had masked had no screen>。清水訳は「三段になっている窓のまん中の部分はよろい(傍点三字)戸がなかった」。田中訳は「三段になった窓のまんなかの部分には、金網ははつてなかった」。村上訳は「三つの部分からなる窓には覆いがかかっていたが、真ん中のところだけはカーテンがかかっていなかった」。

村上氏は他の作品に出てくる<screen>は「網戸」と訳しているのだが、なぜかここだけは「カーテン」扱いをしている。<triple window>を「三段になった窓」というのも無理がある。「三連窓」としようかと思ったが、<window>と単数なので、一つの窓の中に三枚のガラスが使われた窓、という意味の「三枚窓」とした。日本のように引き戸ではないのでまんなかの窓は「嵌め殺し」になる。それで網戸が不要なのだろう。

「どうでもいいことだった。ミスタ・クリストファー・レイヴァリーが広い太平洋の端に行き、太陽の下で横になるところを女の子に見せたからといって、見た者が必ずしも行方不明になる必要はない」は<There was nothing in that for me. Mr. Christopher Lavery was bound for the edge of the broad Pacific, to lie in the sun and let the girls see what they didn't necessarily have to go on missing>。直訳すれば「私にとって何の関係もないことだ。クリストファー・レイヴァリー氏は、太陽の下で寝そべって、必ずしも行方不明にならなくてもいいものを少女たちに見てもらうために、広い太平洋の端へと向かっていた」だ。

清水訳は「私の仕事に役に立つものは何もなかった。クリストファー・レイバリー氏は広い太平洋の縁(ふち)まで行き、太陽を浴びて横たわり、、女の子たちに自慢のからだを見せるのだろう」。田中訳は「別に、おれには用はない。ミスター・クリストファー・レヴリーは太平洋をのぞむ砂浜にいき、日光浴をしながら、女どもにいいからだを見せてやるつもりなのだろう。せつかくだから、レディたちもたつぷりおがませてもらうといい」。村上訳は「そこには私の関心をそそるものはなかった。クリストファー・レイヴァリー氏は広大な太平洋のどこかの端っこに向かっており、そこで太陽の下に寝転んで、見逃したところでとくに不自由はないものを、娘たちの目にさらすのだ」。

<they didn't necessarily have to go on missing>を清水氏はカット。田中訳は「(見たからといって、必ずしも行方不明になる必要はない)から、レディたちもたつぷりおがませてもらうといい」という意味なのだろう。村上訳は「見逃したところでとくに不自由はないものを」と訳しているが、現にレイヴァリーといっしょに水着姿で写真に写っていたクリスタル・キングズリーは行方不明になっている。これは、それを仄めかしていると取るべきで、それには「行方不明」という言葉をちゃんと訳す必要がある。