テリー・レノックスはメキシコで整形手術を受けていた。北方系の特徴である高い鼻を削ることまでして全く別人のように見せていたが、眼の色だけは変えられなかった。正体を現したレノックスはすっかりくつろいだ様子で経緯を語り始める。マーロウの推理は当たっていたのだろうか。
“ I was told to do certain things and to leave a clear trail.”
清水訳「いわれたとおりのことをしただけなんだ」
村上訳「とるべき行動を指示され、足取りがたどれるようになるべく目立つ振舞いをしろと言われた」
メンディの指示がどのようなものだったのか、村上氏は丁寧に訳している。アメリカの官憲の目をメキシコの田舎町まで誘導しなければならないのだ。的確な指示である。
誰がシルヴィアを殺したのか知っていたのか、という問いに直接には答えず、レノックスは言う。
“ It’s pretty tough to turn a woman in for murder ― even if she never meant much to you. ”
“ It’s tough world. Was Harlan Potter in on all this? ”
清水訳
「女を殺人犯人として警察に引き渡すことはなかなかできることじゃないからね――たとえ、どうでもいい女でも」
「この一事件にはハーラン・ポッターも関係しているのか」
村上訳
「女を殺人犯として差し出すのは寝覚めがよくない。たとえその女に対してもはや一片の思いを抱いていなかったにしてもね」
「世界は非情だ。ハーラン・ポッターはそこに絡んでいるのか?」
原文を読むと、マーロウがレノックスの言葉尻(頭か?)を捉えて、うまく言葉を返しているのがよく分かる。清水氏がここを訳していないのは、言葉遊びに類することで、たとえ訳したところでたいした意味がないと思ったのだろう。村上氏はそれでも律儀に訳出する。ただ、上手に遊ぶことは難しかったようだ。
“ Would he be likely to let anyone know that? My guess is not. My guess is he thinks I am dead. Who would tell him otherwise ― unless you did? ”
清水訳
「関係していたところで、だれにもわからせはしないよ。彼はぼくが死んだものと思っているだろう。君がいわなきゃ、彼に真相を話す人間は一人もいないんだ」
村上訳
「彼が何にどこまで絡んでいるかなんて、誰にもわかりっこないさ。でもたぶん彼は何も知るまい、というのが僕の推測だ。彼は僕のことをすでに死者の列に加えているはずだ。そして、ハーラン・ポッターの間違いをあえて指摘するような人間がこの世にいるだろうか。君を別にして」
この小説も最終章だ。ここまで、原文と二つの翻訳を見比べてくると、三者の相違がかなりはっきりしてくる。時に持ってまわった言い回しが頻出することもあるが、それ以外のチャンドラーの文章はシンプル極まりない。スラングが厄介だが、それを別にすれば分かりやすい英文といっていいだろう。清水氏の訳は、そのリズムをできるだけ生かした翻訳になっている。それに比べると、村上氏の訳は原文に忠実に訳しているが、その調子は過剰に文学的なものになっているように見える。それが訳者の意図なのだから当然である。ただ、それが分かった上で言うのだが、チャンドラーのファンだったら、やはり、原書にあたってみることをお勧めしたい。もちろん、二つの名訳というガイド付きでだ。
メンディはどうしてる、というマーロウに、警官に対する暴行が組織の不興を買ってアカプルコで逼塞中だと答えながら、レノックスはメンディをかばって言う。それに対するマーロウの言葉だ。
“ Mendy’s not as bad as you think. He has a heart. ”
“ So has a snake.”
清水訳
「メンディは君が考えているほど悪い人間じゃない。あれで神経がこまかいところもあるんだ」
「神経なら蛇にだってある」
村上訳
「メンディは君が考えているほど悪どいやつじゃない。彼にはハートがある」
「蛇にだってある」
ここも難しい。村上氏が「ハート」とそのままにしているように、今では日本語でも「ハート」といえば「心」という意味で通じる。しかし、蛇に「心」があるだろうか。蛇にあるのは臓器としての心臓だろう。チャンドラーは、“ heart ” を二つの意味で使い分けている。やくざ者を蛇蝎のごとく嫌っているマーロウは、レノックスが「心(感情)」の意味で使った「ハート」を文字通り「心臓」と故意に解釈して、それなら「蛇にだってある」と、言い捨てたのだ。厳密に言えば蛇に人間のような感情があるとは考えられない。それで、清水氏は「神経」という語をあてたのだろう。よく考えられた訳といえる。村上氏の訳では、蛇にも「心」があるように読んでしまう読者が出てくるかもしれない。どうだろうか。
このあたりから、マーロウとレノックスの会話を通じて、二人の間にある埋めようのない溝のようなものがしだいに明らかになる。所詮はバーでの顔見知りである。バーには、どんな人間だってやってくる。レノックスがほしかったのは、バーにいるその時間だけ、素のままの自分でいられ、親しく会話を交わすことのできる気のおけない友人だった。マーロウはちがった。だから、相手がどんなトラブルに巻き込まれようが、最後までとことんつき合おうとしたのだ。しきりにギムレットを飲もうと誘いかけるレノックスに、マーロウは黙って五千ドル紙幣を返す。
たいした男ではなかったが、ウェイドもまた事実を知りながら、それに耐えて生きることを選んでいた。その男を殺した犯人を放置することはマーロウにはできなった。彼の持つ倫理観や良心がそれをさせないのだ。レノックスは趣味の好い人好きのする男だが、正しい言葉が使え、テーブルマナーさえ知っていれば、相手がやくざやごろつきであっても気持ちよくつき合うことができる男だ。戦争が彼を変えたのかもともとそういう人間だったのか、それは分からない。ただ、こんなことの起きる前の彼と、偽装工作をし、殺人犯を野放しにした男とはちがう人間だ。だから前のようには飲めない。それがマーロウという男である。
“ So long, Señor Maioranos. Nice to have known you ― however briefly. ”
“ Goodbye. ”
別れを交わす二人の言葉のなかに、さりげなく置かれた表題“The Long Goodbye ”が心憎い。