HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第七章(6)

《私は雨が屋根と北側の窓を打つ音を聞いていた。その外に何の音もなかった。車の音も、サイレンもなく、ただ雨音のみ。私は長椅子のところへ行き、トレンチコートを脱ぎ、娘の服をかき集めた。淡緑色のざっくりとしたウールのドレスがあった。半袖で上からかぶる型だ。これなら何とか扱えるだろう。下着は遠慮することにした。心遣いからではない。彼女にショーツをはかせたり、ブラジャーの留め具をはめている自分が想像できなかったからだ。壇の上のチーク材の椅子までドレスを持って行った。ミス・スターンウッドもエーテル臭かった。数フィート離れていても匂った。耳障りな含み笑いがまだ漏れていて、顎に少しよだれが垂れていた。私は顔をひっぱたいた。彼女は瞬きをして含み笑いをやめた。もう一度叩いた。

「さあ」私は明るく言った。「しっかりしろ。服を着るんだ」

彼女はじっと私を見た。暗灰色の眼は仮面に開いた穴のように空っぽだった。「ググトテレル」彼女は言った。》

 

なかなか面白い場面だ。<I couldn’t see myself putting her pants on and snapping her brasseire>を、双葉氏は「まっ裸の女の子に、パンティをはかせたり乳当てのスナップをとめてやったりしている私など、自分でも想像できなかったからだ」と訳している。「乳当て」というのが時代を感じさせてくれる。たとえ名訳と呼ばれていても、時がたてば新訳が必要になるという村上氏の発言に納得がいくところだ。

 

村上訳を見てみよう。「自分が彼女に下着をはかせたり、ブラジャーのフックをとめてやったりするしているところが想像できなかったからだ」と、女性用下着の名称並びに装着法を変更している。ところで、<pants>を「下着」と訳しているが、ブラジャーは下着ではないのだろうか。そのまま「パンツ」と訳したいところだが、それだとズボンと勘違いされるし、「パンティ」というのも今となっては半分死語だ。そこで、こういう訳になったのだろう。苦肉の策といったところか。

 

<Let’s be nice. Let’s  get dressed>を。双葉氏は「いい娘(こ)になって、着物を着るんだ」と訳している。まちがってはいないが、「着物」が気になる。ガイガーのオリエンタリズムに溢れた趣味の中には「ジャパニーズ・キモノ」も混じっていそうだからだ。村上訳の「しっかりするんだ。服を着よう」というあたりでいいのでは。

 

「ググトテレル」の原文は<Gugutoterell>だ。これを両氏ともに「ググゴテレル」と表記している。元になっている原文にちがいがあるのかもしれないが、首をかしげるところだ。もともと意味をなさない呟きに過ぎないのだから、どうでもいいようなものだが、だからこそかえって気になる。よくあることだが、どうせ戯言と考えて、村上氏が原文にあたるのを怠ったのかもしれない。そうだと面白い、というと申し訳ないが、重箱の隅をつついていて食べ残しの飯粒を見つけたような気分だ。

(この「ググトテレル」について、hairanさんからコメントがあり「<Gugutoterell>は<Go to the hell!>を表している」ことを教えていただいた。いわゆる四文字言葉で、そのまま書くことができず、こう表記したものらしい。詳細についてはコメント欄のURLを参照してください)

 

 

《私は彼女をもう少し叩いた。彼女は気にも留めなかった。平手打ちでは正気は戻らなかった。私は服を着せることに取りかかった。彼女はこちらも気にしなかった。なされるがまま腕を上にあげ、指をいっぱい開いた。まるで気の利いた仕種ででもあるかのように。私は彼女の両腕を袖に通し、ドレスを背中に引っ張リ下ろし、立ち上がらせた。彼女はくすくす笑って私の腕の中に倒れこんできた。私は彼女を椅子に戻し、ストッキングと靴を履かせた。

「少し歩こう」私は言った。「楽しいお散歩だ」》

 

このパラグラフは、ほぼ問題はない。<giggling>という、声をひそめて笑う様子を双葉氏が「げらげら笑いながら」と、いささかハイテンション気味に表現しているところが目立つくらいだ。「気の利いた仕種」としたところ、原文は<cute>だ。双葉氏は「粋なこと」、村上氏は「可愛い仕草」と訳している。いっそ「キュート」のままにしておこうかと思ったが、それを訳すところに面白さを感じはじめてきているので、日本語に置き換えた。