HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『湖中の女』を訳す 第三章(2)

[<in the way of ~>は「~の点では」という条件がついている

【訳文】

 レイヴァリーは勢いよくドアを閉め、ダヴェンポートに座った。打ち出し細工を施した銀の箱から煙草を一本ひっつかんで火をつけ、いらだたし気にこちらを見た。私は向かい合って座り、相手を観察した。スナップ写真で見たとおり、美貌という点では申し分なかった。素晴らしいトルソ―と極上の腿。栗色の瞳に微かに灰白色を帯びた白眼。長めの髪はこめかみのあたりで少しカールしている。褐色の肌にはまだ放蕩の兆しは見あたらなかった。たしかにいい体つきだが、私にとってはただそれだけのことだ。ただ、女たちが彼を放っておけないのは理解できた。
「彼女がどこにいるのかをなぜ教えてくれないんだ?」私は言った。「どうせ最後には分かることだろう。今のうちに教えてくれれば、君の邪魔はしないつもりだ」
「私立探偵ごときに邪魔される俺じゃない」彼は言った。
「そういったものでもない。私立探偵というのはうるさいものだ。しつっこいし、剣突を食うのになれている。報酬をもらってるんだ。やることは他にもあるが、それと同じくらい、君の邪魔をすることに時間を使うだろう」
「いいか」彼はそう言って身を乗り出し、こちらの鼻先に煙草を突きつけた。「電報の件は知ってる。しかしそいつは戯言だ。俺はクリスタル・キングズリーとエルパソには行っていない。その電報の日づけよりずっとずっと前から彼女には会っていない。何の連絡も取っていない。キングズリーにそう言ったはずだ」
「彼には君を信じる義理はない」
「俺があいつにに嘘をつく必要がどこにある?」彼は驚いたようだ。
「どこかにあるんじゃないか?」
「いいか」彼は熱心に言った。「あんたにはそう見えるかもしれんが、それはあの女を知らないからだ。キングズリーは彼女に紐をつけていない。彼女の態度が気にくわないなら、あいつには治療法がある。独占欲に凝り固まった亭主には吐き気がする」
「もし君とエルパソに行っていないなら」私は言った。「彼女はなぜこの電報を出したんだ?」
「さっぱり見当がつかない」
「もう少しましな言い訳がありそうなもんだ」私はそう言って、暖炉の前のマンザニータの切り花を指さした。「リトルフォーン湖でとってきたのか?」
「このあたりの丘はマンザニータだらけだよ」彼は人を小馬鹿にするように言った。
「このあたりじゃ、こんなに大きく咲かない」
 彼は笑った。「五月の第三週に行ったのさ。証拠が必要なら、いくらでも見つかるよ。彼女に会ったのはそれが最後だ」
「彼女との結婚は考えもしなかったのか?」
 彼は吐いた煙の向こうから言った。「考えはしたさ。金を持ってたからな。金はいつでも役に立つ。しかし、それはとんでもない厄介を背負いこむことになる」
 私は肯いただけで何も言わなかった。彼は暖炉のマンザニータの花に目をやり、椅子にもたれて、咽喉にある強い褐色の線を見せながら煙を宙に吐いた。しばらくのあいだ私は何も言わずにいた。彼は落ち着きをなくしかけていた。さっき渡された名刺をちらっと見て言った。「スキャンダルを掘り返すのが仕事ってわけだ。順調かい?」
「自慢できるようなことは何もない。あっちで一ドル、こっちで一ドルさ」
「そして、どれもこれも汚れた金ときている」彼は言った。
「なあ、ミスタ・レイヴァリー。我々が争う必要はない。キングズリーは君が妻の居所を知っててわざと教えないと考えている。嫌がらせか、はたまた細かな心配りか知らないが」
「どちらがやつの気に入るかな?」日に灼けたハンサムな男は鼻で笑った。
「そんなこと、どっちだっていいんだ。情報さえ得られれば。君と彼女がくっつこうが、一緒にどこへ行こうが、離婚するもしないも。彼にとってはどうでもいいことだ。彼はただ、万事順調で、彼女がどんなトラブルにも巻き込まれていないことを確かめたいだけなんだ」
 レイヴァリーは興味を引かれたみたいだ。「トラブル? どんなトラブルだ?」茶色の唇の上でその言葉を舐めるように味わっていた。
「彼の考えているトラブルは君には想像もつかないだろう」
「教えてくれ」彼は皮肉っぽく懇願した。「俺の知らないトラブルがあるならぜひ聞きたいものだ」
「いうじゃないか。まともな話をする暇はなくても、気の利いた文句を言う暇はあるんだ。彼女と州境を越えたことで、我々が君をどうにかするかもしれないと思ってるのなら、その心配は無用だ」
「利いた風な口をきくな。俺が運賃を支払ったことを証明できなきゃ、何の意味もない」
「この電報には何らかの意味がある」私は頑なに言い張った。前にも何度かそう言ったような気がした。
「ただの冗談かもな。そんな悪戯ばかりしてたから。くだらないものばかりだったが、中にはたちの悪いのもあった」
「この電報のねらいとするところが分からないんだ」

【解説】

「スナップ写真で見たとおり、美貌という点では申し分なかった」は<He had everything in the way of good looks the snapshot had indicated>。清水訳は「スナップ写真が示していたとおり、ハンサムな男のあらゆる条件をそなえていた」。田中訳は「スナップ写真むきの、あらゆる肉体的好条件をそろえていた」。村上訳は「写真で見たとおりのハンサムな風貌だった」。

ここでマーロウが使っているのは、外観の美点をほめあげることで、内面との落差を際だてる、一種のレトリックだ。それを示しているのが<in the way of ~>(~の点では)という言い方だ。つまり、美貌は全て兼ね備えている(が、それ以外は見るべきものはない)ということだ。ほんとうに言いたいことは言外にあることを匂わせている。三氏の訳からは、そこがあまり伝わってこない。

「彼には君を信じる義理はない」は<He didn't have to believe you>。清水訳は「彼は君がいったことを信じていないよ」。これは<have to>をトバしている。田中訳は「キングズリイが、きみのいうことを信用するとおもうかい?」。村上訳は「彼は君の言い分を信じなくちゃならないのか?」。両氏とも疑問文にしているが、原文は平叙文だ。

「彼女の態度が気にくわないなら、あいつには治療法がある」は<If he doesn't like the way she behaves he has a remedy>。清水訳は「あの女のすることが気にいらないとなるとあの男は何をするかわからない」。<remedy>は「治療法」のことだが、この語が何を指しているのか分からない。田中訳は「クリスタルのやり方を、亭主のキングズリイが気にいらなかったら、はっきり別れりゃいい」と治療法を離婚と決めつけている。村上訳は「もし女房の素行が気に入らなければ、やつにはそれなりに打つ手があるはずだ」。

「利いた風な口をきくな」は<GO climb up your thumb, wise guy>。直訳すれば「親指を登るんだ、利口者」だが、ハードボイルド小説で、出過ぎた真似を戒めるときに使うらしい。清水訳は「きいた(傍点三字)ふうな言い方をするな」。清水訳は「だから、どうした?」。村上訳は「好きなことを思っていればいい」。