HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『湖中の女』を訳す 第二十二章

<bought myself a drink>が、「一人で一杯やる」という訳になる理由


【訳文】

 ハリウッドに戻ってきて、オフィスに上がったのは夕暮れ時だった。ビルは空っぽで、廊下もしんとしていた。各室のドアは開いていて、中では真空掃除機や乾いたモップやはたきを手にした女たちが掃除中だった。
 自室のドアの鍵を開け、郵便物投入口の前に落ちていた封筒を拾い上げ、よく見もせず机の上に放り投げた。窓を押し上げ、外に身を乗り出し、早々と輝き出したネオンサインを眺め、隣のコーヒー・ショップの換気扇から路地を立ち上ってくる、温かい食べ物の匂いを嗅いだ。
 上着を脱ぎ、ネクタイを外して、机に向かい、深い抽斗からオフィス用のボトルを取り出し、一人で一杯やった。何の役にも立たなかった。もう一杯飲んだが、結果は同じだった。
 今頃、ウェバーはキングズリーに会っているだろう。彼の妻は、すでに手配済みか、あるいは今にも手配されるだろう。警察にとっては型通りの事件に見えたはず。猥らな二人の間に起きた猥らな事件。情事に耽り、酒を飲み過ぎ、近づき過ぎたあまり、激しい憎悪と殺人衝動が生じ、やがて死に至る。
 これではいささか単純すぎるように思えた。
 私は封筒に手を伸ばし、封を切った。切手は貼ってなかった。こうあった。「マーロウ様。フローレンス・アルモアの両親はユースタス・グレイソン夫妻で、現在はロスモア・アームズに住んでいます。住所は、サウスオックスフォード・アベニュー、六四〇番地。電話帳に載っている番号に電話して確認しました。草々。エイドリアン・フロムセット」
 優雅な手書き文字だ。それを書いた手と同じように優雅だった。手紙を脇に押しやり、もう一杯飲んだ。ささくれ立った気持ちが少し落ち着いてきた。私は机の上の物を掻きまわした。手が腫れぼったく火照って、ぎごちなく感じた。机の角に指を走らせ、埃を拭き取ってできた筋を見た。指の上についた埃に目をやり、拭き取った。腕時計を見た。壁を見た。何も考えてはいなかった。
 酒瓶を片づけ、グラスを洗い流すために洗面台に向かった。すすぎ終わってから手を洗い、冷たい水で顔を洗って、鏡に見入った。左頬に残っていた赤みは消えていたが、まだ少し腫れていた。大したことはないが、また気を引き締めるには、それで十分だった。私は髪をかきあげ、白髪に目をとめた。白髪が増えてきていた。髪の下にあるのは浮かない顔だ。その顔が全くもって気に入らなかった。
 机に戻り、もう一度ミス・フロムセットの手紙を読んだ。ガラスの上で手紙のしわを伸ばして、匂いを嗅ぎ、さらにしわを伸ばして、折り畳んで上着のポケットに入れた。
 私はじっと座って、耳を澄ました。開かれた窓の外で、夕暮れが徐々に静かになっていった。そして、それとともに、きわめてゆっくりと、私も静かになっていった。

【解説】

「ハリウッドに戻ってきて、オフィスに上がったのは夕暮れ時だった」は<It was early evening when I got back to Hollywood and up to the office>。清水訳は「私がハリウッドにもどってオフィスに着いたときはもう夕方だった」。村上訳は「ハリウッドに戻り、オフィスに着いたときには既に夕方になっていた」。田中訳は「あかるいうちに、おれはハリウッドにもどり、自分のオフィスにあがつていつた」。マーロウとしては、割と早かったと思ったのか、それとも、もうこんな時間、なのか、原文からは分からない。こういう時はそのままにしておくのが無難だ。

「郵便物投入口の前に落ちていた封筒を拾い上げ」は<picked up an envelope that lay in front of the mail slot>。清水訳は「郵便物差入れ口から落とされていた封筒を拾い上げ」。田中訳は「郵便差入口のむこうにおちていた手紙をひろつて」。村上訳は「メール・スロットから床に落ちた郵便物を拾い上げ」。<mail slot>が「メール・スロット」でいいなら苦労はしない。でも、もっといい訳語はないものか。辞書には「郵便受け」というのもあるが、事実上「受け」ではないので、使用不可。

問題は三氏とも、<in front of>を訳していないこと。思うに、ドアが「内開き」か「外開き」かのちがいにあるのではないか。アメリカの場合、日本と違って玄関ドアは内開きになっている。だから、ドアを開けたら、目の前に郵便物が落ちていて、その向こうに<mail slot>が見える。だから<lay in front of the mail slot>なのだ。田中訳では「郵便差入口のむこうに」手紙があるが、それでは、ドアが邪魔して封筒が見えないはず。清水、村上両氏の場合、ドアがどこにあるのかはっきりしない。

「窓を押し上げ」は<I ran the windows up>。清水訳は「それから、窓をあけて」。村上訳は「窓を押し開け」。田中訳は「そして窓をおしあげ」。どうでもいいことのようだが、<up>とある以上、この窓は、欧米によくある、上下二枚のガラス窓の上部が固定されていて、下の窓だけを上げる「片上げ下げ窓」だろう。村上訳のように「押し開け」とすると、「両開き窓」であるかのように読める。

「早々と輝き出したネオンサインを眺め」は<looking at the early neon lights glowing>。清水訳は「早目のネオン・サインが輝き始めていて」。田中訳は「気のはやいネオンがつきはじめ」。村上訳だけが「夕暮れの空に輝くネオンサインを眺め」となっている。冒頭の<It was early evening>を引きずってしまっているのだろうか。

「机に向かい、深い抽斗からオフィス用のボトルを取り出し、一人で一杯やった」は<sat down at the desk and got the office bottle out of the deep drawer and bought myself a drink>。清水訳は「深い引出しからオフィス用のウィスキーの壜をとり出して、ひと(傍点二字)口飲んだ」。<sat down at the desk>はトバしている。田中訳は「机の上に腰をおろすと、いちばん下の引出しからオフィス用のウィスキーの壜をだして、ひとりで一杯やつた」。村上訳は「デスクに腰掛け、深い抽斗からオフィス用のボトルを取りだし、一杯飲んだ」。

問題は、マーロウはどこに座ったのか、ということだ。知らぬふりを決め込んでいる清水訳は別として、田中、村上両氏は「机の上」、「デスク」に腰掛けた、と訳している。ところで、考えてみてほしい。<deep drawer>(深い抽斗)というのは、ふつう、机の「いちばん下の引出し」のことだ。そこなら、ボトルを立ててしまうことができる。これから一番下の抽斗にあるボトルをとるのに、わざわざ机の上に腰を下ろすだろうか。<sit at a desk>は「机に向かう」という意味。机の上に座るなら、<sit on a desk>とするだろう。

<buy someone a drink>は「(人に)一杯おごる」という意味。単に「ひと口飲む」、「一杯飲む」という意味ではない。「自分に一杯おごる」という訳も考えられるが、楽しい気分や祝い事ならそれもありだが、この場面のように、憂さ晴らしに飲むときには似合わない。<buy you a drink>(一杯おごるよ)という一言には、その後二人で飲むということが暗黙の裡に了承済みだ。<bought myself a drink>はそれを踏まえている。だから「一人で一杯やる」という訳になる。

「腕時計を見た。壁を見た。何も考えてはいなかった」は<I looked at my watch. I looked at the wall. I looked at nothing>。清水訳は「腕時計を見た。壁を見た。何も目に入っていなかった」。田中訳は「腕時計を見て、壁に目をやる。だが、おれは何も見てはいなかつた」。村上訳は「腕時計に目をやった。壁を眺めた。それからあとはもう何も見なかった」。いわゆる「心ここにあらず」という状態なのだろう。<look at>は「見る、調べる」の他に「考える」という意味がある。三つ目の<look at>には一捻り利かせたという解釈だ。

「大したことはないが、また気を引き締めるには、それで十分だった」は<Not very much, but enough to make me tighten up again.>。清水訳は「たいしたことはないのだが、もう一度気をひきしめるだけのききめ(傍点三字)はあった」。田中訳は「たしかにほんのちよつとだが、充分、おれは腹がたつてきた」。村上訳は「ずいぶんましにはなっていたものの、それでも私の身は再び硬くなった」。<tighten up>は「締めつける、ピンと張る」こと。<make me>とあるからには、自分で自分にネジを巻き直すことを言うのだろう。

「私は髪をかきあげ」は<I brushed my hair>。清水訳は「髪をブラシで梳(と)きすかし」、田中訳は「髪にブラシをかけながら」、村上訳は「髪にブラシをあてていて」となっているが、これからどこかに出かけていくあてもないのに、わざわざブラシをかけたりするものだろうか? 顔を洗った後で、額にかかった髪を手で「払いのけた」と考える方が自然だ。他動詞<brush>には、そういう意味もある。

マーロウは、他の作品でも、よく窓を開けては、隣のコーヒー・ショップから漂ってくる匂いを嗅いでいる。自分のテリトリーに帰ってきたことを確かめるかのように。好いようにいたぶられ、気を昂らせたマーロウが次第に落ち着いて行くまでを、まるまる一章を使って丁寧にその心理の移ろいを追ってゆく。派手なアクションもなければ、しゃれた会話もない。権力を持たない、ただの一人の中年男のうら寂れた横顔を淡々と見つめる。他のハードボイルド小説にはあまりみられない、こういうところがチャンドラーの独擅場だ。