HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第七章(7)

《我々は少し歩いた。時には彼女のイヤリングが私の胸にぶつかったり、時にはアダージョを踊るダンサーたちのように息が合った開脚を見せたりしながら。我々はガイガーの死体のところまで行って戻ってきた。私は彼女に彼を見せた。彼女は彼が格好つけてると思ったにちがいない。くすくす笑いながらそう言おうとしたが、泡がはじけるような音がしただけだった。私は長椅子のところまで彼女を連れて行き、その上に横たえた。彼女は二度しゃっくりし、少し含み笑いをし、やがて眠りについた。私は彼女の持ち物をポケットに詰め込むと、トーテムポールのような物の背後に回り込んだ。まちがいなくカメラはその中にセットされていたが、乾板がなかった。私は床を見まわした。撃たれる前に彼がそれを外したにちがいないと思ったのだ。乾板はない。私は生気をなくして冷たくなった彼の手を取り、少し横を向かせた。乾板はない。気にくわない展開だった。》

 

<Part of the time her earrings banged against my chest and part of the time we did the splits in unison, like adagio dansers.>のところ、双葉氏は「彼女の耳飾りが私の胸にぶつかった。二人組の滑稽ダンスみたいに、何度かいっしょにからまってたおれた」と訳している。村上氏は「あるときには彼女のイヤリングが私の胸にぶつかった。あるときには我々は優雅なダンスのパートナーのように、息を合わせて開脚(スプリット)を披露した」だ。

 

<split>は、「縦に二つに割くこと」で、複数になるとバレエの開脚のポーズを意味する。薬で正体のない娘を立たせていっしょに歩いているのだから、足がついてこない時もある。娘に合わせて二人三脚のように歩いたのだろう。双葉氏の訳は明らかにまちがいだ。アダージョはゆっくりしたテンポの音楽を意味する語で滑稽とは程遠い。ただ、村上氏の訳では、ダンサーというより、社交ダンスを踊る一組のペアのように読める。スプリットは床に開いた両脚をべたっとつける「大股開き」のことである。拙訳ではバレエのパ・ド・ドゥを踊るダンサーを意識した。

 

<She thought he was cute.>のところで、また<cute>が出てきた。双葉氏も前と同じように「彼女は彼を粋だと思った」と訳している。ところが、村上氏、今回はそのまま「彼女はガイガーをキュートだと思った」と、そのまま「キュート」を使っている。さすがに、いい年をした男を「可愛い」とは言い難かったのだろう。ミス・スターンウッドがガイガーのことをどう見ていたかは、ここでは知るすべがない。何しろ相手は、アヘンチンキを飲んでハイになっている状態なのだ。

 

「キュート」には、いい意味では「可愛い」のような誉め言葉になるが、「気障」のように悪い意味もあって、チャンドラーがここでどちらを意味しているのかが問題になる。ただ、胸から腹のあたりが血に染まった死体を見て「粋」というのはいかにも無理がある。その点「キュート」は便利である。どのようにも取れるからだ。ただ、いささか逃げが感じられないでもない。少し無理をして「格好つけてる」と訳してみた。

 

時代が時代なので、カメラも古い。今のようなフィルムではなく乾板(plateholder)を用いている。<plateholder>を辞書で引くと「とり枠」と出ている。「撮り枠」だととればカメラの部品だとは思うが、「乾板」のことだとは気づかなかった。チャンドラーは、この短いパラグラフの中で、<no plateholder>を三度も繰り返している。必死で乾板を探すマーロウの焦りを感じさせるためだ。

 

最初は<but there was no plateholder>となっているが、次からは<No plateholder.>と短い文だ。切羽詰まっているのがよく分かる。ここのところを双葉氏は「が、乾板はなくなっていた」、「ない」、「そこにもない」と訳す。村上氏の場合、「しかしカメラの乾板は消えていた」、「しかし乾板はない」、「乾板はない」だ。過去形、現在形、現在形と原文に忠実に訳し分けている。見習いたいと思う。

 

「気にくわない展開だった」は<I didn’t like this development.>。双葉氏は「どうも気に入らぬ事件の展開ぶりだ」。村上氏は「その展開が私には気に入らなかった」。チャンドラーにはやたら長い文を連ねてひねった文章を繰り出す癖があるが、決め科白は、このように短いセンテンスを持ってくることが多い。こういうところはできる限り簡潔な文にしたい。主語をとってしまっても日本語ならどうということはない。

『大いなる眠り』註解 第七章(6)

《私は雨が屋根と北側の窓を打つ音を聞いていた。その外に何の音もなかった。車の音も、サイレンもなく、ただ雨音のみ。私は長椅子のところへ行き、トレンチコートを脱ぎ、娘の服をかき集めた。淡緑色のざっくりとしたウールのドレスがあった。半袖で上からかぶる型だ。これなら何とか扱えるだろう。下着は遠慮することにした。心遣いからではない。彼女にショーツをはかせたり、ブラジャーの留め具をはめている自分が想像できなかったからだ。壇の上のチーク材の椅子までドレスを持って行った。ミス・スターンウッドもエーテル臭かった。数フィート離れていても匂った。耳障りな含み笑いがまだ漏れていて、顎に少しよだれが垂れていた。私は顔をひっぱたいた。彼女は瞬きをして含み笑いをやめた。もう一度叩いた。

「さあ」私は明るく言った。「しっかりしろ。服を着るんだ」

彼女はじっと私を見た。暗灰色の眼は仮面に開いた穴のように空っぽだった。「ググトテレル」彼女は言った。》

 

なかなか面白い場面だ。<I couldn’t see myself putting her pants on and snapping her brasseire>を、双葉氏は「まっ裸の女の子に、パンティをはかせたり乳当てのスナップをとめてやったりしている私など、自分でも想像できなかったからだ」と訳している。「乳当て」というのが時代を感じさせてくれる。たとえ名訳と呼ばれていても、時がたてば新訳が必要になるという村上氏の発言に納得がいくところだ。

 

村上訳を見てみよう。「自分が彼女に下着をはかせたり、ブラジャーのフックをとめてやったりするしているところが想像できなかったからだ」と、女性用下着の名称並びに装着法を変更している。ところで、<pants>を「下着」と訳しているが、ブラジャーは下着ではないのだろうか。そのまま「パンツ」と訳したいところだが、それだとズボンと勘違いされるし、「パンティ」というのも今となっては半分死語だ。そこで、こういう訳になったのだろう。苦肉の策といったところか。

 

<Let’s be nice. Let’s  get dressed>を。双葉氏は「いい娘(こ)になって、着物を着るんだ」と訳している。まちがってはいないが、「着物」が気になる。ガイガーのオリエンタリズムに溢れた趣味の中には「ジャパニーズ・キモノ」も混じっていそうだからだ。村上訳の「しっかりするんだ。服を着よう」というあたりでいいのでは。

 

「ググトテレル」の原文は<Gugutoterell>だ。これを両氏ともに「ググゴテレル」と表記している。元になっている原文にちがいがあるのかもしれないが、首をかしげるところだ。もともと意味をなさない呟きに過ぎないのだから、どうでもいいようなものだが、だからこそかえって気になる。よくあることだが、どうせ戯言と考えて、村上氏が原文にあたるのを怠ったのかもしれない。そうだと面白い、というと申し訳ないが、重箱の隅をつついていて食べ残しの飯粒を見つけたような気分だ。

(この「ググトテレル」について、hairanさんからコメントがあり「<Gugutoterell>は<Go to the hell!>を表している」ことを教えていただいた。いわゆる四文字言葉で、そのまま書くことができず、こう表記したものらしい。詳細についてはコメント欄のURLを参照してください)

 

 

《私は彼女をもう少し叩いた。彼女は気にも留めなかった。平手打ちでは正気は戻らなかった。私は服を着せることに取りかかった。彼女はこちらも気にしなかった。なされるがまま腕を上にあげ、指をいっぱい開いた。まるで気の利いた仕種ででもあるかのように。私は彼女の両腕を袖に通し、ドレスを背中に引っ張リ下ろし、立ち上がらせた。彼女はくすくす笑って私の腕の中に倒れこんできた。私は彼女を椅子に戻し、ストッキングと靴を履かせた。

「少し歩こう」私は言った。「楽しいお散歩だ」》

 

このパラグラフは、ほぼ問題はない。<giggling>という、声をひそめて笑う様子を双葉氏が「げらげら笑いながら」と、いささかハイテンション気味に表現しているところが目立つくらいだ。「気の利いた仕種」としたところ、原文は<cute>だ。双葉氏は「粋なこと」、村上氏は「可愛い仕草」と訳している。いっそ「キュート」のままにしておこうかと思ったが、それを訳すところに面白さを感じはじめてきているので、日本語に置き換えた。

『大いなる眠り』註解 第七章(5)

《閃光電球が私の見た稲光の正体だった。狂ったような叫び声は麻薬中毒の裸娘がそれに反応したものだ。三発の銃声は事の成り行きに新しい捻りを加えようとして誰かが思いついたのだろう。裏階段を降り、乱暴に車に乗り込み、大急ぎで走り去った男の思いつきだ。考えたものではないか。》

最初の文は<The flash bulb was the sheet lightning I had seen.>。<sheet lightning>は「幕電(光)」(雲に反射して幕状に光る稲光)だそうだが、「幕電」と直訳してもそのままでは何のことやら通じない。かといって「私が見た雲に反射して幕状に光る稲光は」とくだくだしく書くわけにもいかない。双葉氏は「私が見た閃光は、フラッシュだったのだ」とあっさり訳している。村上氏は「フラッシュ・ライトが私の目にした白い稲妻だった」と、最初にその光を目にしたとき「白い」と形容した部分を、上手く流用している。

その後に叫び声の話が来ることから考えてみても、ここは雷鳴を伴わないという光だけを表す「幕電」が使われているのだろう。「幕電」は、広辞苑にも載っている言葉だが、如何せん人口に膾炙していない。前のところで「閃光電球」という聞きなれない単語を使ってしまっているので、今回も使わざるを得ない。前に「稲光」と書いているので、それを踏襲して「閃光電球が私の見た稲光の正体だった」としてみた。

「考えたものではないか」と訳したところ。原文は<I could see merit in his point of view.>。直訳すれば「彼の観点には長所があるように見えた」。これを双葉氏は「なかなか味をやるな、と私は思った」。村上氏は「たしかに一理ある物の見方だ」と訳している。さすがに両氏ともこなれた訳しぶりである。

《金の縞模様の入った華奢なグラスが二つ、黒い机の端に置かれた赤い漆のトレイ上に載っていた。その傍にたっぷりな容量の瓶があり、茶色い液体が入っていた。栓を取り、匂いを嗅いだ。エーテルと何かが混じった匂いだ。おそらくアヘンチンキだろう。私はその混ぜ物を試したことはなかったが、ガイガーの家とはかなりうまくやっていたらしい。》

<fragile gold-veined glasses>を双葉氏は「金色の筋が入った薄いグラス」、村上氏は「金の網脈のついた華奢なグラス」と訳している。こういうところが実に難しい。チャンドラーの描写は事細かで何一つゆるがせにできない。<vein>は「静脈」のことで、そこから「葉脈、翅脈」などの筋目の入った文様を意味する。「網脈」という語がそれほど認知されているようにも思えないのに、村上氏がこの語を採用した意図をはかりかねる。もしかしたら、思い当たるグラスがあるのかもしれない。

次の「赤い漆のトレイ」は<red lacquer tray>だが、双葉氏は「赤いニスびきの盆」としている。さすがに「ニスびき」は錆が浮いてきている。村上氏は「赤い漆塗りのトレイ」だ。「トレイ」は今や外来語として市民権を得ている。それに続く部分、<beside a potbellied flagon of brown liquid>も厄介だ。<potbellied flagon>を双葉氏は「丸っこいガラスの細口びん」、村上氏は「下部がぼってり膨らんだ細口瓶」と訳している。

<potbellied>は「太鼓腹の、丸く大きい」という意味。<flagon>は卓上で使うように葡萄酒などを入れた大瓶のことだ。絵画などでは見たことがあるが、それを表す日本語が見当たらない。形状や用途を考えて意訳するしかない。「カラフェ」や「デキャンタ」も考えたが、後で<stopper>(栓)が出てくる。我が家にはちょうどそれにあたる酒器があるが、プレゼントされたもので、呼び名がよく分からない。


「アヘンチンキ」と訳したのは<laudanum>で、アヘン末をエーテルに浸出させたものだ。双葉氏は「阿片」、村上氏は「阿片のアルコール溶剤」と、どこまでも説明調だ。最後の文、原文は<I had never tried the mixture but it seemed to go pretty well with the Geiger menage.>。双葉氏は「私は、まだまぜた奴を飲んだことがないが、ガイガーの家には実にふさわしい感じだった」。村上氏は「私はそんなカクテルを試したことはまだないが、ガイガーの住居ではおそらく欠かせないものなのだろう」だ。

英語圏では「ローダナム」、通常は「阿片チンキ」と呼ばれる調合薬は、それほど危険な薬ではない。咳止めや鎮痛に処方箋なしで買えたほどだ。常習性もないとされ、現在でも下痢止めなどに使われている。双葉氏の訳では、マーロウはまぜてない阿片なら経験したことがあるように聞こえる。村上氏の訳は、ガイガーが特別に作った混合物のように読めるが、<laudanum>はそのままで「アヘンチンキ」を意味する名詞だ。

<pretty well>を「ふさわしい」とか「欠かせない」と意訳する必要があるのだろうか。両氏とも、「アヘンチンキ」を、何か危険な薬物と思い込んでいて、意味深な訳になっているのではないだろうか。ここは、マーロウはまだ「アヘンチンキ」という薬を飲んだことはないが、ガイガーの家では常備薬として「かなりいい」仕事をしているという意味ととればいいところではないのか。

『大いなる眠り』註解 第七章(4)

《私は彼女を見るのをやめてガイガーを見た。彼は中国緞通の縁の向こうに、仰向けに倒れていた。トーテムポールのような物の前だ。鷲のような横顔の、大きな丸い眼がカメラのレンズになっていた。レンズは椅子の上の裸の娘に向けられていた。トーテムポールの横には、黒くなった閃光電球がクリップで留められていた。ガイガーは厚いフェルト底の中国のスリッパを履き、黒い繻子のパジャマのズボンの上に中国刺繍のついた上着を羽織っていた。その前面の大部分が血に染まっていた。ガラスの義眼が明るく輝いて私を見上げていた。彼のなかで飛び切り生き生きしているところだ。一目見て、私が聞いた三発の銃声に外れがないのが分かった。彼は完全に死んでいた。》

 

このパラグラフは易しい。両氏の訳にもほとんどちがいはない。日本語の文章としての表現に差があるだけだ。解釈にちがいがあるのは一つだけだ。<beyond the fringe of the Chinese rug>の<fringe>を、双葉氏は「飾り房の向こう」の意味にとっているが、村上氏は「敷物の外側に」と、「外辺」の意味を採用している。我が家に敷いてあるラグには長い房飾りがついているが、ガイガーのラグはどうなのだろう。どうも、このラグには苦労させられる。「縁の向こう」という曖昧な訳で逃げることにした。これなら、どちらの意味でも通用するだろう。

 

「閃光電球」と訳したところ、原文は<flash bulb>。双葉氏はそのまま「フラッシュ・バルブ」。村上氏は「フラッシュ・ライト」としている。片仮名を使用するなら「フラッシュ・バルブ」で問題ないと思うのになぜだろうか、と疑問に思い、試しに検索をかけてみた。すると、面白いことが分かった。片仮名にすると同じでも、英語では別のスペルを持つ「フラッシュ・バルブ」<Flush valve>があったのだ。それも、何と写真付きで。写真に写っているのは水洗便器。取っ手を押すと一定時間水が流れて自動で止まる、あの装置のことを「フラッシュ・バルブ」と呼ぶらしい。

 

なるほど、これは具合が悪い。そこで「フラッシュ・ライト」の出番となったわけだ。ところが、この「フラッシュ・ライト」という言葉、もともと「懐中電灯」を指す言葉で、日本では、特に強い明るさを持つ、棒状の懐中電灯のことをそう呼んでいるらしい。せっかくの言い換えが、また別の物を指す言葉になってしまっては何の意味もない。分かりやすさからいうと、あまり分かりやすいとはいえないが、辞書にある「閃光電球」をそのまま使うことにした。

 

<His glass eye shone brightly up at me and was by far the most life-like thing about him.>。双葉氏は、「ガラスの目玉は、ぴかぴかと私を見上げていた。それだけが生きている感じだった」と訳している。村上氏は「ガラスの義眼はきらきら光りながら私を見上げていたが、今となってはそれが、彼の中では最も生命を感じさせる部分になっていた」だ。意味としてはどちらも似たようなものだが、<by far>の扱いが忘れられているように思う。最上級をより強調して「遥かに」とか、くだけて言うなら「断トツに」とか訳せる強意が込められているはずなのに、どちらの訳も無視しているように思える。生命がそこから抜け出てしまったガイガーの身体の中で唯一生前と変わらぬ姿をとどめているガラスの義眼。「彼のなかで飛び切り生き生きしているところ」と訳してみた。

 

「一目見て、私が聞いた三発の銃声に外れがないのが分かった」は、原文は<At a glance none of the three shots I heard had missed.>。ここを双葉氏は「一目見て、私が聞いた三発の銃声は、みんな命中しているのがわかった」。村上氏は「一見したところ、私が銃声を聞いた三発の弾は、どれも的を外さなかったようだ」だ。両氏とも同じことを言っているようだが、微妙にちがう。<none of~ missed>で、「一つのミスもなかった」という意味になる。意味としては同じでも、「命中した」と訳すとニュアンスが変わってくる。村上氏は「外す」という否定的な意味のある語を使って、それを再度否定する。そうすることで肯定的な意味が強まるからだ。

 

ただ、<At a glance>を「一見したところ」と訳したことで、「ようだ」という婉曲な断定を意味する助動詞を引き出してしまった。せっかくの強めを割り引いているのが惜しい。なぜなら、その後に続くのが、<He was very dead.>という文だからだ。「彼は完全に死んでいた」という訳は双葉氏と同じ。村上氏も「彼は見事なまでに死んでいた」という最大級の表現を使ってガイガーの死に様を称揚している。そこまでいうなら、語尾に曖昧さを感じさせる「ようだ」は不要だろう。

『大いなる眠り』註解 第七章(3)

《彼女は美しい体をしていた。小さくしなやかで、硬く引き締まり、丸みをおびていた。肌はランプの光を浴び、かすかに真珠色の光沢を浮かべていた。脚はミセス・リーガンのようなけばけばしい優美さにはあと一歩及ばないが、とても素敵だった。私は後ろめたい思いや情欲に駆られることなしに、ざっと彼女に目を通した。そもそも彼女は裸の娘として部屋にいたのではない。ただの麻薬で頭のイカレた女としてだ。初めて会った時から私にとって彼女はイカレた女だった。》

 

深夜の室内で全裸の娘を前にしたマーロウの独白である。少し言い訳めいて聞こえるのは読者をおもんばかってのことだろうか。両氏の訳にさしたるちがいはない。私が「ランプ」としたところを、双葉氏が「電気スタンド」、村上氏が「フロア・スタンド」としているところに時代というものを感じるくらいか。ただ、双葉氏は三つある照明器具をすべて「電気スタンド」と訳しているのに対し、村上氏の方は、台座に載った物を「フロア・ライト」、床に置かれた一対の物を「フロア・スタンド」と訳している。原文は<the lamplight>だ。特定の照明器具の灯りと決めつけるのは、慎重な村上氏にしてはめずらしい。

 

娘の脚の美しさをリーガン夫人のそれと比較しているところ、原文は<Her legs didn’t quite have the raffish grace of Mrs. Regan’s legs, but they were very nice.>。双葉氏は「足はリーガン夫人ほど淫蕩的ななまめかしさはなかったが、すこぶる結構だった」、村上氏は「彼女の脚にはリーガン夫人のようなくだけた優雅さはなかったが、それなりに素敵だった」と訳している。<the raffish grace>だが、<raffish>には「いかがわしい、低俗な」という否定的な語義が、<grace>には「上品な、優雅な、しとやかさ」といった誉め言葉が並んでいる。

 

両極端に相反する言葉を強引にくっつけたところに、マーロウがリーガン夫人に抱く感情がほのめかされているのだろう。それを「淫蕩的ななまめかしさ」ととるか「くだけた優雅さ」ととるかでは、かなりの差が生じる。双葉氏のマーロウには、いかにも当時のハードボイルド探偵小説に登場する私立探偵の男っぽさが感じられるし、村上氏のマーロウには、折り目正しさのようなものが漂う。それは「すこぶる結構」と「それなりに素敵」にも表れている。私のマーロウは、その中間あたりの線をねらっているようだ。

 

最後の「麻薬で頭のイカレた女」と訳したところも、結構考えさせられた。ここは注意を要するところである。例によって原文を引く。<She was just a dope. To me she was always just a dope.>。<just a dope>が二度繰り返されている。双葉氏の訳「ただ麻薬中毒者として存在しているのだ。もっとも私にとって、彼女は、はじめて会ったときから麻薬みたいなものにすぎなかったが」。村上氏「そこにいるのは、麻薬で頭がどこかに飛んでいる一人の女に過ぎない。私にとって彼女は常に、頭がどこかに飛んでいる娘でしかなかった」。

 

原文のシンプルさに対して、両氏とも歯切れの悪い訳しぶりに思えるのには理由がある。実は<dope>には、一般的な「麻薬常用者」の意味の他に俗語表現として「愚か者」に類する人を貶めて言う類語が並ぶ。つまり、チャンドラーは、はじめの<just a dope>に通常の意味の「麻薬常用者」を、二度目のそれに俗語の「愚か者」の意味をあてて書いたのだ。わざと同じ表現が繰り返されたなら、その二つの間にはズレがあると考えるのは常識だ。しかし、日本語で、二つの意味を兼ね備える単語はなかなか思いつかない。それで、両氏も苦労したのだろう。

 

双葉氏の方は、あっさりと「麻薬みたいなもの」と逃げているが、「麻薬みたいなもの」では、カーメン嬢のぶっ飛んだキャラクターの説明にはなっていない。律儀な村上氏は「頭がどこかに飛んでいる」という説明を加えることで、二つの言葉に共通する「心神喪失」の語義を表すことに成功している。ただし、いつものことながら回りくどく感じられることは否めない。「頭がどこかに飛んでいる」女という表現は、一般的には使用されない、ここだけの言葉になってしまっている。それでは<dope>という通常日常的に使用されている言葉の訳語としては適当とはいえない。「イカレた」なら、日本語として古くはなっているが、まだ賞味期限は切れていないと思うのだが。

『大いなる眠り』註解 第七章(2)

《部屋の片端の低い壇のような物の上に、高い背凭れのチーク材の椅子があり、そこにミス・カーメン・スターンウッドが、房飾りのついたオレンジ色のショールを敷いて座っていた。やけに真っ直ぐに座り、両手は椅子の肘掛けに置き、両膝を閉じていた。背筋をピンと伸ばした姿勢はエジプトの女神のようだ。顎は水平に保たれ、両の唇の割れ目から小さな白い歯が輝いていた。両眼は大きく見開かれていた。暗灰色の虹彩が瞳孔を呑みこんでいた。狂人の目だった。彼女は意識を失っているように見えたが、気を失った者のとる姿勢ではなかった。心の中では何か重要な仕事を立派に遂行中であるかのようだった。口からは耳障りな含み笑いが漏れていたが、表情が変わることも唇が動くこともなかった。》

 

初めの文で、双葉氏が「チーク材の」という部分をカットしているが、それ以外は問題のない訳だ。同じく双葉氏、「暗灰色の虹彩が瞳孔を呑みこんでいた」のところを「瞳の灰色が、まつげをにらむみたいに上向いていた」と訳しているが、意味がよく分からない。因みに原文は<The dark slate color of the iris had devoured the pupil.>。<iris>は植物のアイリスではなく「虹彩」、<pupil>は中学では「生徒」と習ったけど「瞳、瞳孔」、<devour>は「貪り食う」の意味だ。

 

薬物の過度の接種によって「縮瞳」が起きていることを、マーロウは見て取ったのだろう。瞳孔が収縮している状態を「虹彩が瞳孔を呑みこんでいた」と表現したのだ。例によって村上氏は< dark slate color>を「粘板岩のような暗色の」と「粘板岩」にこだわって訳している。<slate>はもちろん粘板岩のことだが、「暗い青味がかった灰色」という色を表す意味もある。目の色を表すのに粘板岩を持ち出さないではいられない、このあたりのこだわりが村上訳の面目躍如たるところか。

 

最後のところ、双葉氏の訳では「口からは小さな笑い声みたいな音がもれていたが」、村上氏の訳は「口からは浮わついた含み笑いが聞こえたが」となっている。原文を見てみよう。<Out of her mouth came a tinny chuckling noise>の部分だ。はじめは双葉氏と同じように「小さな」と訳してしまった。<tinny>を<tiny>と読みちがえていたのだ。<tinny>は<tin>(スズ、ブリキ)から「スズのような」、「ブリキのような音のする」「(金属製品が)安っぽい」というような意味がある。

 

双葉氏の訳は<tinny>を<tiny>と読んだのだろうと推測できる。村上氏の方は「安っぽい」という意味からの「浮わついた」という訳ではないか。ただ、スズメッキを安っぽく見せているのは、主に視覚からくるのであって、聴覚の方でいうなら、「ブリキのような音のする」(不快な、耳障りな)の意をとるのが順当ではないだろうか。

 

《彼女は細長い翡翠のイヤリングを着けていた。見事なイヤリングで、おそらく二百ドルはくだらない。それ以外は何一つ身に着けていなかった。》

 

双葉氏の訳は「彼女は両耳に細長いひすいの耳飾りをつけていた」。この「耳飾り」という訳語が賞味期限切れ。どんな名訳も、流行に関する語彙は、十年も経てば錆が出てくる。経年劣化というやつで、どうしようもない。村上氏が、自分の好きなチャンドラーの小説をいつまでもピカピカにしておきたくて、錆取りをしたくなる気持ちがよく分かるところだ。

 

<She was wearing a pair of long jade earrings. They were nice earrings and had probably cost a couple of hundred dollars. She wasn’t wearing anything else.>。「彼女は細長い翡翠のイヤリングを着けていた」を「見事なイヤリングで、おそらく二百ドルはくだらない」という肯定的な価値判断を間に挟んで「それ以外は何一つ身に着けていなかった」という、同じ単語<wearing>を使い、その否定形で受ける。この鮮やかな対句表現を使ったスタイルがチャンドラーの文章だ。

 

『大いなる眠り』註解 第七章(1)

《横長の部屋だった。家の間口全部を使っている。低い天井は梁を見せ、茶色の漆喰壁は、鏤められた中国の刺繡や木目を浮かせた額に入れた中国と日本の版画で飾り立てられていた。低い書棚が並び、その中でならホリネズミが鼻も出さずに一週間過ごせそうなくらいけばの厚い桃色の中国緞通が敷いてあった。フロア・クッションがいくつかと絹でできた雑多な品が放り出されていた。誰であれ、そこに住む者は手を伸ばして親指で何か触っていなければならないとでもいうように。古代薔薇を織り出した幅広の低い長椅子があった。その上にはひとかたまりの洋服が乗っていて、中には薄紫色の絹の下着もあった。台座に乗った大きな木彫のランプの他に、翡翠色の笠に長い房飾りがついたフロア・スタンドが二つ立っていた。四隅にガーゴイルが彫られた黒い机の後ろには、背と肘掛けに彫刻を施した黒い椅子があった。磨き立てられ、黄色い繻子のクッションが置かれていた。部屋には何かが組み合わさったような奇妙な匂いが漂っていた。今のところ最もはっきりしているのは、銃の発射された後のような鼻を刺す臭いと、吐き気のするようなエーテルの匂いだ。》

 

<It was a wide room.>を双葉氏は「広い部屋だった」、村上氏は「横に長い部屋だった」と訳している。広い部屋としたいところだが、家の間口と比較しているところから、奥行きのない部屋なのだと分かるので、横に長いと訳すのが親切だろう。次を双葉氏は「薄暗い間接照明の天井」とやってしまっている。最初は<It had a low beamed ceiling>をそう取った。車の「ロービーム」からの連想である。しかし、ここは村上氏の「天井の梁が低く」が正解だろう。いわゆる「梁見せ天井」。ログキャビン風の建築ならなおさらだ。

 

<There were low bookshelves>を村上氏が「丈の低い本棚があり」としているのに、珍しく双葉氏の方が複数にこだわって「本棚がずらりと並び」としている。でも、<low>がどこかへ行ってしまっているのが惜しい。その次が面白い。双葉氏はこう訳す。「厚い桃色の中国じゅうたんがあった。このじゅうたんでなら、野鼠など一週間ぐらい、鼻をぴくりともさせず眠りつづけるだろう」。村上氏は「ピンク色の中国絨毯が敷かれていた。絨毯は厚く、地リスが一週間けば(傍点二字)の上に鼻先を見せずに過ごすことができそうだった」。原文は<there was a thick pinkish Chinese rug in which a gopher could have spent a week without showing his nose above the nap.>。

 

<rug>は、今ならそのまま「ラグ」でも通じそうだが、けばの厚さを強調して「緞通」を使ってみた。というのも「絨毯」は長尺の物を意味し、ラグのように一部に使う物に当てはまらないようだ。小形で方形の物を「緞通」と呼ぶ。ただし、このラグが方形でない場合「緞通」は誤訳になる。どうだろうか。<gopher>は、ホリネズミを意味する語なのだが、アメリカの一部では地リスのことを<gopher>と誤って呼んでいるらしい。アメリカ生活の経験者である村上氏ならではか。地下に穴を掘るのは共通しているから、まあどちらでも好きな方をと言いたいところだが、けばの長い敷物の中から鼻をのぞかせるイメージとして、「ホリネズミ」という呼称は捨て難いと思うが如何。

 

さらにもう一点<nap>の件がある。<nap>という名詞には二通りの意味があり、一つは双葉氏の訳にあるように「うたた寝、居眠り、午睡」の意。もう一つが村上氏の採用している「けば」だ。絨毯の上で眠りつづける野鼠のイメージも可愛くて捨てがたいが、< without showing his nose above the nap>とあるからには、「けば」の上に鼻を見せることなしに、と訳すしかなかろう。どちらにせよ、こういう比喩を楽しんで使うチャンドラーの文章が好きだ、としか言いようがない。

 

まだまだ続く。「フロア・クッションがいくつかと絹でできた雑多な品が放り出されていた」のところだ。双葉氏は「床には絹の房をくっつけたクッションがあった」としている。村上氏は「いくつかのフロア・クッションと絹でできた何やかやがあたりにばらまかれていた」である。<There were floor cushions, bits of odd silk tossed around.>という原文の<bits of odd silk>が厄介なのだ。複数のフロア・クッションと、絹製の何かが辺りに「トス(投げる、ほうる)」されている光景なのだが、村上氏も「何やかや」としか書けないように、何なのかよく分からないものが辺り一面に散らばっているらしい。

 

床に放り出された品物の数の多さを表せていない双葉氏の意訳は、次の<as if whoever lived there had to have a piece he could reach out and thumb.>にうまく続かない。双葉氏は「ここに住む人間なら、誰でもちょいと手を伸ばしてその房をいじれるようなぐあいだ」と、やはり意訳を重ねているが、「ちょいと手を伸ばし」たくらいで、広い部屋に置かれたクッションの房飾りがいじれるものだろうか。村上氏はこう訳す。「手を伸ばして常に何かを親指で触っていないと落ち着かない人間が、そこに暮らしているみたいだった」。しかし、これも少し、住人の性向に踏み込み過ぎた訳に思える。<whoever>とあるからには、そこに住む人間であれば誰でもという意味になる。特定の性向(例えばフェティッシュのような)を持つ人間を意味してはいない。ここは、誰であれ、その部屋に入れば何かに触れるくらい絹製品が散らばっていた、と解釈するのが穏当だろう。

 

「古代薔薇を織り出した幅広の低い長椅子があった」は<There was a broad low divan of old rose tapestry.>。これを双葉氏、「低いばら色のソファもあった」と、訳すが、少しあっさりしすぎでは。村上氏は「古いバラ模様のタペストリーのついた、低く幅の広い長椅子があり」と訳している。<old rose>が曲者で、近代のバラに対し、古いバラの品種を表す場合もあれば、「褪紅色」という薄赤色を表す場合もある。ここは「タペストリー」(綴れ織り)が手がかりになる。掛物になったタペストリーなら分かるように、絵模様を織り出した平織りの生地のことである。色だけを意味するならタペストリーの語はいらない。ここは、古いバラの模様を織り出した生地と読みたいところだ。

 

「四隅にガーゴイルが彫られた黒い机」は<There was a black desk with carved gargoyles at the corners>。双葉氏は「一隅には、彫刻のついた黒い机があり」としているが、<the corners>と複数になっているのを忘れている。ガーゴイルは、ノートルダム寺院の物が有名だが、屋根の上にいる例の怪獣である。当時としては説明するのも面倒だと思ったのか双葉氏はそこをトバしている。村上氏は「黒いデスクがひとつ、四隅にはガーゴイルが彫ってある」と、語順通りに訳している。

 

部屋に残っている臭いについて。双葉氏の訳では「変なにおいが部屋じゅうにただよっていた。そのにおいが強く感じられるときは、火薬が燃えたあとの臭気みたいでもあり、気持が悪くなるようなエーテルの匂いみたいにも思えた」と、いつになくまだるっこしい訳しぶりだ。村上氏は「部屋の空気にはいくつかの匂いが奇妙に混じりあっていた。今の時点で最も際だっているのは、コルダイト火薬のつんとした匂いと、気分が悪くなりそうなエーテルの芳香(アロマ)だった」と、几帳面な訳し方だ。

 

少し長い文だが原文を引く。<The room contained an odd assortment of odors, of which the most emphatic at the moment seemed to be the pungent aftermath of cordite and the sickish aroma of ether.>。問題は村上氏が「コルダイト火薬」と訳す<cordite>だ。それまでの黒色火薬とちがって煙の出ない無煙火薬の一種で、主に銃器の弾丸の薬莢内の火薬に使われる。そこから、探偵小説で<cordite>と書けば、銃を思い浮かべるという約束になっているのだろう。しかし、日本で「コルダイト火薬」と字義通り訳しても、註でもなければ通じない。こういう時こそ意訳が必要ではないだろうか。「部屋には何かが組み合わさったような奇妙な匂いが漂っていた。今のところ最もはっきりしているのは、銃の発射された後のような鼻を刺す臭いと、吐き気のするようなエーテルの匂いだ」と訳してみた。