HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第39章(4)

<the weak link in the chain>は「集団・計画の命取り」

【訳文】

 彼女はバッグから金のシガレット・ケースを取り出した。私は彼女の傍に寄り、マッチの火をつけた。彼女は微かな一筋の煙を吐き、眼を細めてそれを見つめた。
「隣に座って」彼女は突然言った。
「その前に少し話そう」
「何について? 私の翡翠のこと?」
「人殺しについて」
 彼女の表情に変化はなかった。また一筋煙を吐いた。今度は慎重に、もっとゆっくりと。「不愉快な話題ね。しなきゃならないの?」
 私は肩をすくめた。
「リン・マリオットは聖人じゃなかった」彼女は言った。「でも、まだそれについて話したい気分じゃない」
 彼女はしばらく冷やかに私を見つめ、それから、ハンカチを取るために開いたバッグに手を突っ込んだ。
「私としては、彼が宝石強盗の手先だったと考えてはいない。警察はそう考えているようなふりをしているが。連中はいつもそういうふりをする。実のところ、恐喝していたとも思っていない。おかしいだろう?」
「そう?」今では声はこれ以上ないほど冷え切っていた。
「まあ、そうでもないか」私は調子を合わせ、グラスに残っていた酒を飲んだ。「ここまで足を運んでくれたことに感謝している、ミセス・グレイル。しかし、どうやら雲行きが怪しくなってきたようだ。たとえば、私にはマリオットがギャングに殺されたとは思えない。彼がキャニオンに行ったのは翡翠のネックレスを買い戻すためじゃない。そもそも翡翠のネックレスは盗まれてもいない。彼がキャニオンに行ったのは、殺されるためだ。本人は殺しの片棒を担ぐ気でいたのだろうが。遺憾ながら、マリオットは最悪の殺人者だった」
 彼女は少し身を乗り出した。その微笑みから少し生気が抜けかけていた。前触れもなしに、何かが変わったというでもなく、彼女は美しくあることをやめた。百年前なら危険だったろうし、二十年前なら型破りと言えた。しかし、今ではただのハリウッドのB級映画に出て来る女のように見えた。
 彼女は何も言わなかったが、右手がバッグの留め金を叩いていた。
「最悪の殺人者」私は言った。「シェイクスピアの『リチャード三世』に登場する第二の刺客のような。そいつは良心の呵責を感じながら、それでも金を欲しがっていた。結局、決心がつかず、仕事を果たせなかった。そういう殺人者はすこぶる危険だ。排除されなければならない。時にはブラックジャックによってね」
 彼女は微笑んだ。「で、彼が殺そうとした相手は誰なの?」
「私だ」
「信じろというのが無理かもね――誰がそこまであなたを憎む。私の翡翠のネックレスは盗まれてもいないと言ったわね、その証拠があるの?」
「そうは言っていない。そう考えていると言ったんだ」
「それじゃ、どうしてそんな馬鹿げた話をしてるの?」
「証拠というのは」私は言った。「常に相対的なものだ。蓋然性の釣り合いがどう傾くかにかかっている。要は、それが人にどういう印象を与えるかということだ。弱いものではあるが私を殺す動機はあった。以前セントラル・アベニューの安酒場にいた歌手の足取りを捜そうとしていた。同じ頃、刑務所を出たムース・マロイという前科者もまた彼女を探し始めた。ただそれだけのことだ。多分私は彼の捜索を手伝っていたのだろう。当然、女を探し出すことは可能だった。さもなければ、私を殺さなければならない、それも一刻も早く、とマリオットを唆す価値もなかっただろう。そうでも言わなきゃ彼は信じなかったろう。しかし、そこにはマリオットを殺すという、より強い動機があった。自惚れか、愛か、欲か、あるいはそのすべてが混じり合ったもののせいで、彼はそれを見抜けなかった。彼は怯えていたが、我が身を案じてのことではない。彼は一役買って有罪になるかもしれない暴力を怖れた。しかし、一方で食うに困ってもいた。そこで一か八か腹をくくったのさ」
 私は話をやめた。彼女は肯いて言った。「とても興味深い。何の話をしているのか分かる人なら」
「一人、いるのさ」私は言った。
 我々はたがいに見つめ合った。彼女はまた右手をバッグに入れていた。何が入っているのか見当はついていた。しかし、出て来る気配はなかった。出番が来るのを待っているのだ。
「下手な芝居はやめよう」私は言った。「ここは法廷じゃない。我々だけだ。相手の言うことを一々あげつらうことなど求められていない。これでは一歩も前に進めない。スラム育ちの娘が億万長者の妻になる。運が向いてきたところで、みすぼらしい老婆が彼女に気づいた――ラジオ局で歌っている、その声に聞き覚えがあって会いに行ったんだろう――この老婆は黙らせる必要があった。しかし、たいして金はかからない。多くは知らなかったからだ。しかし、女との間に立ち、月々の支払いをし、女の家の信託証書を持ち、おかしな真似をしたら、いつでも相手を溝に放り込むことができる男――その男はすべてを知っていた。こちらは高くついた。しかし、それも問題ではなかった。誰も知られない限りは。ところがある日、ムース・マロイという名のタフガイが監獄を出て、昔の女を探し始めた。大男は女を愛していたからだ――今もまだ愛している。話がおかしくなるのはそこからだ。悲劇的であり、いかがわしくもある。相前後して、私立探偵も嗅ぎ回り始める。そうなると、最早マリオットは贅沢品どころか、計画の命取りになりかねない。彼は脅威になった。警察は逮捕して徹底的に調べ上げるだろう。ああいう手合いだ。警察の手にかかったら、ひとたまりもない。そういうわけで、口を割る前に殺された。ブラックジャックを使って。あなたに」
 彼女はバッグから手を出すだけでよかった。手には銃があった。彼女は私に銃を向け、微笑むだけでよかった。私にできることは何もなかった。
 しかし、それだけでは終わらなかった。ムース・マロイがコルト四五口径を手に、更衣室から出てきた。大きな毛むくじゃらの手に握られた銃は、相変わらず玩具のように見えた。
 私には眼もくれなかった。彼はミセス・ルーイン・ロックリッジ・グレイルを見ていた。背を丸め、口もとに微笑を浮かべ、そっと語りかけた。
「声に聞き覚えがあった」彼が言った。「八年の間ずっとその声ばかり聞いていた――それしか覚えていない。でもよ、お前の赤っぽい感じの髪も好きだったがな。よおベイビー、久しぶりだなあ」
 彼女は銃をそちらに向けた。
「そばに寄るんじゃない。このろくでなしが」彼女は言った。
 彼はぴたりと止まり、銃を持った手をだらんと下ろした。彼女からまだ二、三フィート距離があった。呼吸が荒くなった。
「思ってもみなかった」彼は静かに言った。「たった今、思い至った。お前、俺を警察に指したな。お前だ。かわいいヴェルマ」
 私は枕を投げた。しかし遅すぎた。彼女は彼の腹に五発撃ち込んだ。指を手袋に入れるほどの音しかしなかった。
 それから銃を私に向けて撃ったが、弾倉はからっぽだった。彼女は床に落ちたマロイの銃に跳びついた。二回目の枕は的を外さなかった。ベッドを回って彼女が枕を顔からはがす前に払いのけた。コルトをつかんでまたベッドを回った。
 彼はまだ立っていた。しかし体は揺れていた。口はだらしなく開き、両手は体を掻きむしっていた。彼は膝から頽れて横向きにベッドに倒れ込んだ。顔を俯せにして。息を喘がせる音が部屋を満たした。
 彼女が動く前に私は受話器をつかんだ。彼女の両眼は半ば凍りかけた水のような鈍い灰色だった。彼女はドアに突進した。私は彼女を留めようとしなかった。ドアを開けっぱなしにして出て行ったので、電話を終えてから閉めに行った。彼が窒息しないようにベッドの上で頭を少し回した。彼はまだ生きていた。しかし、腹に五発食らったあとではムース・マロイといえども長くは生きられない。
 私は電話に戻ってランドールの自宅にかけた。「マロイだ」私は言った。「私のアパートにいる。腹に五発喰らっている。ミセス・グレイルの仕業だ。救急病院には電話した、女は逃げた」
「それで、賢く立ち回る必要があった」それだけ言うと、彼はさっさと電話を切った。
 私はベッドに戻った。マロイはベッドの横に膝をつき、片手で山のようなシーツを手繰り寄せ、起き上がろうとしていた。顔に汗が流れていた。瞬きが緩慢になり、耳朶は黝ずんでいた。
 救急車が到着したときも彼はまだ膝をついて起き上がろうとしていた。ストレッチャーに載せるのも、四人がかりだった。
「わずかだが、チャンスはある――もし二五口径なら」出て行く前に救急医が言った。「内臓のどこを撃たれたかによるが、チャンスはある」
「彼はそれを望まないだろう」私は言った。
 言った通りだった。彼は夜のうちに死んだ。

【解説】

「それから、ハンカチを取るために開いたバッグに手を突っ込んだ」は<and then dipped her hand into her open bag for a handkerchief>。清水訳は「それから、開いたバッグに手を突っ込んで、ハンケチを取り出した」。村上訳は「それから開いたバッグの中に手を入れ、ハンカチを取り出した」。ハンカチと手はバッグの外に出ているのかどうかが気になる。これは、次にくる動作の仄めかしだからだ。

「ここは法廷じゃない。我々だけだ。相手の言うことを一々あげつらうことなど求められていない。これでは一歩も前に進めない」は<We're all alone here. Nothing either of us says has the slightest standing against what the other says. We cancel each other out>。<not in the slightest ~>は「少しも~でない」という慣用句だ。<stand against>は「~に反対する立場をとる」ことを意味する。

清水訳は「ここにはわれわれ二人きりしかいない。どんなことをしゃべっても、ほかに聞いているものはいない。お互いに責任を持たないでいい。跡で取り消せばいいんだ」。村上訳は「ここには我々二人しかいないんだ。誰も聞いてやしない。お互い言いたいことを言えばいい。何を言おうが、それで言質を取られることもない」だ。村上訳が清水訳の言い換えであることは一目瞭然だ。

「おかしな真似をしたら、いつでも相手を溝に放り込むことができる男」は<could throw her into the gutter any time she got funny>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「下手な真似をすればすぐにでも彼女をどぶに放り込める立場にいる男は」。<gutter>ほ「溝、どぶ」のことだが「貧民窟」の意味もある。

ヴェルマの素性を語るところで<A girl who started in the gutter>として出て来る。「スラム育ちの女」と訳しておいたが、清水訳は「素性の卑しい女」。村上訳は「裏街道を歩いてきた女」となっている。

「そうなると、最早マリオットは贅沢品どころか、計画の命取りになりかねない」は<So the weak link in the chain, Marriott, is no longer a luxury>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「そうなると、マリオットという鎖の弱い部分を放置しておけなくなる」と<is no longer a luxury>をスルーしている。<the weak link in the chain>は「(比喩的に)(集団・計画の)弱点、命取り」を意味する。

「八年の間ずっとその声ばかり聞いていた――それしか覚えていない。でもよ、お前の赤っぽい感じの髪も好きだったがな」は<I listened to that voice for eight years-all I could remember of it. I kind of liked your hair red, though>。清水訳は「八年間その声が聞きたかったんだ。それに、その赤い髪にも、たまらねえ想い出がある」。村上訳は「俺はその声を八年間、いっときも忘れなかった。俺としちゃ、以前の赤毛もけっこう気に入っていたんだがな」。

ここは清水氏のミス。夫人の髪は今は金髪だ。しかし<all I could remember of it>に続けて赤い髪の思い出を口にするマロイの心情に触れているところは大いに買う。村上訳は、果たしてそこのところが分かっているのだろうか。八年ぶりに耳にした声を聞いて顔を出してみたら、好きだった女の髪が赤毛から金髪に変わっているんだ。何で勝手に髪の色を変えたんだ、とひとこと言いたくもなるではないか。

「腹に五発喰らっている。ミセス・グレイルの仕業だ」は<Shot five times in the stomach by Mrs. Grayle>。清水訳は「グレイル夫人に腹を五発撃たれた」。村上訳は「五発撃ち込まれている。撃ったのはミセス・グレイルだ」。語順はこの方が正しいが、大事な< in the stomach>を抜かしているのが惜しい。

「それで、賢く立ち回る必要があった」は<So you had to play clever>。清水訳は「等々、俺を出しぬいたな」。両氏とも<had to>が効いていない。自分の部屋で逃亡中の殺人犯が撃たれ、そいつを撃った犯人は逃げたでは、マーロウが警察に疑われる。そこで顔見知りのランドールに電話したのだ。警察にはランドールから連絡が行くという寸法だ。これで警察の扱いが変わるだろう。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第39章(3)

「毛皮が渦を巻」く? <with a swirl of~>は「~をふわりとなびかせて」

【訳文】

「俺がジェシー・フロリアンを殺したと考えた理由は何だ?」彼は不意に尋ねた。
「首に残っていた指の痕の開き具合だ。君は女から何かを聞き出そうとしていた。そして、その気はないのに人を殺してしまうほど力が強いというのも事実だ」
「警察も俺の仕業と思ってるのか?」
「どうだろうな」
「俺は何を聞き出そうとしてたんだ?」
「女がヴェルマの居所を知っているかも知れない、と君は考えた」
 彼は黙ってうなずき、私を凝視し続けた。
「しかし、女は知らなかった」私は言った。「ヴェルマはあの女より抜け目がない」
 ドアを軽くノックする音がした。
 マロイは少し前屈みになって微笑み、銃をとりあげた。誰かがドアノブを回そうとした。マロイはゆっくり立ち上がり、屈みこんで耳を澄ました。それからドアを見てから私の方を振り返った。
 私はベッドに起き上がり、脚を床に下ろして立ち上がった。マロイは黙って身じろぎもせず私を見ていた。私はドアの方に行った。
「誰だ?」私はドアの羽目板に唇をつけて訊ねた。紛れもなく彼女の声だった。「開けなさい、お馬鹿さん。ウィンザー公爵夫人よ」
「ちょっと待って」
 私はマロイを振り返った。彼は眉をひそめた。私は彼の傍に寄り、小声で言った。「逃げ場がない。ベッドの裏にある更衣室で待っていてくれ。女を追い払う」
 彼は話を聞いて、考えていた。その表情は読めなかった。彼には失うものはほとんどなかった。彼は恐れるもののない男だった。その巨躯に恐怖心は組み込まれていなかった。ついに彼は肯いて帽子とコートをつまみあげ、そっとベッドを回って更衣室の中に入った。ドアが閉まった。しかし、ぴったりと閉まってはいなかった。
 私は彼の形跡がないか辺りを見回した。誰かが吸ったであろう煙草の吸殻だけが残っていた。私はドアに行き、錠を開けた。マロイは入った後で、錠をかけ直したのだ。
 彼女は半ば微笑を浮かべて立っていた。話に聞いていたホワイト・フォックスのハイネックの袖なし外套を身に着けて。耳から垂れ下がったエメラルドのペンダントは柔らかな白い毛皮にほとんど埋まっていた。指を軽く曲げて小さなイヴニング・バッグを抱えていた。
 私を見て、彼女の顔から微笑が消えた。頭から爪先までじろじろ見まわした。視線が冷やかになっていた。
「そういうことだったのね」彼女はにこりともしないで言った「パジャマに部屋着。私に可愛い素敵なエッチングを見せるために。私がばかだったわ」
 私は脇に立ってドアを支えた。「そうじゃないんだ。着がえようとしたところへ警官がやってきて、今帰ったところなんだ」
「ランドール?」
 私はうなずいた。うなずいただけでも嘘になる。だが、気が咎めない嘘だ。彼女は一瞬ためらった後、馥郁たる毛皮をふわりとなびかせて私の前を通り過ぎた。
 私はドアを閉めた。彼女はゆっくり歩いて部屋を横切り、ぼんやりと壁を眺め、それからいきなり振り返った。
「お互い理解し合いましょう」彼女は言った。「私を思い通りにしようなんて無理。廊下みたいなベッドルームでの情事なんか願い下げ。そんな時代もあったけど、過ぎたことよ。何をするにも雰囲気というものがなくてはね」
「出ていく前に一杯どうだい?」私はドアに凭れかかったまま、部屋を隔てて彼女と向き合った。
「私は出ていくの?」
「ここがお気に召さないように思えたのでね」
「言っておきたかったの。それには少し下品にならなきゃ。私はその辺にいる淫乱女じゃない。モノにすることはできる――けど、手を伸ばすだけではだめ。ええ、一杯いただくわ」
 私はキチネットに行き、まだ震えの残る手で二つのグラスにスコッチを注ぎ、ソーダで割った。グラスを手に部屋に戻り、一つを彼女に手渡した。
 更衣室は無音で、息遣いさえしなかった。
 彼女はグラスを取ってひとくち味見し、グラス越しに奥の壁を見た。「パジャマ姿で出迎える男は嫌いなの」彼女は言った。「おかしな話よね。あなたのことは好きだった。それも、かなり。でも、忘れることはできる。そうやっていつも乗り越えてきた」
 私はうなずいて酒を飲んだ。
「たいていの男は下劣な獣」彼女は言った。「それどころか、世界そのものかなり下劣。私に言わせれば、だけど」
「金が解決してくれるだろう」
「お金のないときはそう思う。実のところ、それはまた別の面倒を引き起こす」彼女は不思議そうに微笑んだ。「そして、古い方の面倒がいかに厄介だったかを忘れてしまう」

【解説】

「ベッドの裏にある更衣室で待っていてくれ」は<Go in the dressing room behind the bed and wait>。清水訳は「ベッドのうしろに戸棚がある。あそこに入って、待っていてくれ」。村上訳は「ベッドの奥にある化粧室に入っていてくれないか」。<dressing room>は、劇場であれば「楽屋」だが、家庭では「寝室の隣にある着替え用の小さな部屋」のこと。「化粧室」ともいうが、「戸棚」では狭すぎる。ウォークイン・クローゼットの意味で「戸棚」としたのだろうか。

「彼女は一瞬ためらった後、馥郁たる毛皮をふわりとなびかせて私の前を通り過ぎた」は<She hesitated a moment, then moved past me with a swirl of scented fur>。清水訳は「彼女はしばらくためらっていたが、毛皮の匂いを残しながら、私の前を通って部屋に入った」。村上訳は「彼女は少し迷ったが、私のそばを通って中に入った。香水を振った毛皮が、私の鼻先で小さな渦を巻いた」。毛皮が渦を巻くものだろうか? <with a swirl of~>は「~をふわりとなびかせて」の意味だ。

「私を思い通りにしようなんて無理。廊下みたいなベッドルームでの情事なんか願い下げ。そんな時代もあったけど、過ぎたことよ。何をするにも雰囲気というものがなくてはね」は<I'm not this much of a pushover. I don't go for hall bedroom romance. There was a time in my life when I had too much of it. I like things done with an air>。

清水訳は「私、こんなの嫌いよ。すぐベッドが出て来るんじゃ、少しも趣味がないじゃないの。それでよかった時代もあるけれど、いまさら、そんな時代を想い出したくないのよ。火あそびも、ロマンスの匂いが欲しいわ」。語順を入れ替え、解説がいりそうなところはスルーし、それらしい台詞にしている。

村上訳は「私はそんなお手軽な女じゃないの。せせこましい寝室でのどたばたした情事なんてごめんよ。そういうのは昔話、もううんざりなの。ものごとには情緒ってものがなくちゃね」。<pushover>は「騙されやすい(すぐ言いなりになる)人」のことを言う。<hall bedroom>とは<hall>(廊下)のように狭い寝室のことで、マーロウの収納式ベッドを採用した一間きりのアパートの部屋の狭さを揶揄っている。

「言っておきたかったの。それには少し下品にならなきゃ。私はその辺の淫乱女じゃない。モノにすることはできる――けど、手を伸ばすだけではだめ」は<I wanted to make a point. I have to be a little vulgar to make it. I'm not one of these promiscuous bitches. I can be had-but not just by reaching>。

清水訳は「一言(ひとこと)いっておきたかっただけだわ。誰にでも身をまかせる女と思われたくなかったのよ。身をまかせるのはかまわないけれど、抱きさえすれば、いつでもいうことをきくと思われるのが厭なんだわ」。二文目の< I have to be a little vulgar to make it>がカットされているだけでなく、最後の文も少し意味が変わっている。

村上訳は「私は要点を明らかにしておきたかっただけ。そのためにはあまり面白くないことも口にしなくてはならない。私はね、そのへんのやらせ(傍点三字)女とは違うの。男に身を任せることもあるかもしれない。でも、それほどお手軽にはいかない」。意味はその通りだが、これでは<vulgar>「(人が)育ちがよくない、趣味の悪い、粗野な、下品な」という言葉が生きてこない。

「彼女はグラスを取ってひとくち味見し、グラス越しに奥の壁を見た」は<She took the glass and tasted it and looked across it at the far wall>。清水訳は「グレイル夫人はグラスを口に持っていって、ちょっと唇をつけてから、正面の壁に視線を送った」。<looked across it>がカットされている。村上訳は「彼女はグラスを手に取ってそれを味わい、グラス越しに向こうの壁を見た」。<taste>に「味わう」の意味は当然あるが、ここでは「味見」くらいの意味ではないか。清水訳の方がこなれている。

「おかしな話よね」は<It's a funny thing>。ここは、その前の「パジャマ姿で出迎える男は嫌いなの」に続いているのではないだろうか。女をデートに誘っておいて、パジャマ姿で出迎える男はかなりあやしい。それで<It's a funny thing>と言ったのだ。ところが、清水訳は「なぜだかわからないけれど、(私はあんたが好きになったわ)」と、次の文へのつなぎとしている。村上訳も「どうしてかはわからないけど、(あなたのことが気に入ったのよ)」と、旧訳を踏襲している。首をひねりたくなるところだ。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第39章(2)

<squeeze out of>は「(情報・自白)などを(人から)強引に引き出す」

【訳文】

 彼は横ざまにテーブルの方に動いて銃を置くとオーバーコートを引き剥がすように脱いで一番上等の安楽椅子に腰を下ろした。椅子は軋んだが、どうにか持ちこたえた。ゆっくりと椅子の背にもたれ、自分の右手近くに来るように銃を置き直した。ポケットから煙草の箱を取り出して一本振り出し、指を使わずに口にくわえた。親指の爪でマッチを擦った。煙のいがらっぽい匂いが部屋の中に漂った。
「病気でもしてるのか? 」彼は言った。
「寝てただけさ。ひどい一日でね」
「ドアが開いてたぜ。誰か来るのを待ってるのか?」
「女だ」
 彼は考え深げに私を眺めた。
「待ちぼうけかもな」私は言った。「もし来たとしても、適当に追い払うよ」
「どんな女だ?」
「ただの女さ。もし来ても追い払うさ。君と話したいんだ」
 とても仄かな笑みが浮かんだ。ほとんど口は動いていない。彼はぎごちない手つきで煙草をふかした。まるで彼の指には小さすぎて扱いにくいとでもいうように。
「どうして俺がモンティに乗っていると思ったんだ?」彼は訊いた。
「ベイ・シティの警官だ。長い話になる。しかもほとんど当て推量だ」
「ベイ・シティの警官が俺をつけ回してるのか?」
「気になるか?」
 彼は再び微かな笑みを浮かべた。わずかに首を振った。
「君は女を殺した」私は言った。「ジェシー・フロリアンだ。あれはまちがいだった」
 彼は考えていた。それから肯いた。「俺だったらその話はよすがな」彼は静かに言った。
「しかし、そのせいでぶち壊しになった」私は言った。「君のことは怖くない。君は人殺しじゃない。君にあの女を殺す気はなかった。もう一つの方――セントラル街の――なら、切り抜けられただろう。しかし、脳みそが顔に飛び散るまで女の頭をベッドの柱に叩きつけては、もう抜け出せない」
「よほどひどい目にあいたいらしいな、兄弟?」彼はそっと言った。
「よくそういう目に遭っている」私は言った。「誰にやられたって大差ない。女を殺す気はなかった。そうなんだろう?」
 彼の眼は落ち着かなかった。神妙にこくりとうなずいた。
「自分にどれだけ力があるか、学習してもいい頃合いだ」私は言った。
「もう手遅れだ」彼は言った。
「君は彼女から何かを聞き出したかった」私は言った。それで彼女の首をつかんで強く振った。君がベッドの柱に頭を叩きつける前に女はすでに死んでいた」
 彼は私をじっと見つめた。
「君が彼女から聞きたかったことを知ってる」私は言った。
「続けろ」
「死体を発見したとき警官と一緒だった。事実を話すしかなかった」
「どこまで話した?」
「まあまあのところだ」私は言った。「しかし、今夜のことは知らない」
 彼は私を見つめた。「いいだろう。どうしてモンティにいると分かった?」その質問は二度目だったが、彼は忘れているようだった。
「分かるわけがない。しかし、逃げるなら海がいちばん手っ取り早い。ベイ・シティに匿うことができるなら賭博船の一隻に乗せることもできる。そこからまんまと逃げ果せることもできる。適切な助けがあればね」
「レアード・ブルネットはいい男だ」彼は他人事のように言った。「そう聞いている。俺は口をきいたこともない」
「君への言づてを伝えてくれた」
「知るか、あいつには頼りになる伝手がやたらとあるのさ。なあ、名詞に書いてあったことはいつやるんだ? あんたは正直だという気がしてる。そうでもなきゃ、ここへ来ようと思わなかった。どこへ行くんだ?」
 彼は煙草を揉み消して私を見た。彼の影が壁にぼんやり浮かび上がった。巨人の影だ。彼は嘘みたいに大きかった。

【解説】

「もう一つの方――セントラル街の――なら、切り抜けられただろう。しかし、脳みそが顔に飛び散るまで女の頭をベッドの柱に叩きつけては、もう抜け出せない」は<The other one-over on Central-you could have squeezed out of. But not out of beating a woman's head on a bedpost until her brains were on her face>。

清水訳は「もう一つの殺人――セントラル街の殺人事件だけなら、なんとかなったかもしれないが、女の頭をベッドの柱に叩きつけて、頭をぐしゃぐしゃに潰しちまっては、もう逃げることはできない」。

村上訳は「もう一人の相手についていえば――セントラル・アヴェニューの男だが――殺そうと思って殺せたかもしれない。しかし女の頭をベッド・ポストに何度も叩きつけて、脳味噌を飛び出させるというのは、君には意図してやれることじゃない」。

村上版のマーロウは、少しマロイを善人視し過ぎてはいないだろうか。<squeeze out of>には「(情報・自白)などを(人から)強引に引き出す」という意味がある。セントラル街の場合、マーロウという証人がいる。正当防衛を立証できれば、故殺という重罪は免れる。その気にさえなれば、マロイはマーロウから証言を得ることができた。だが、老婦人殺しには、目撃者がいない。故殺でないと分かっても、それを証明する手立てがない。そのディレンマを言っているのだ。

「知るか、あいつには頼りになる伝手がやたらとあるのさ」は<“Hell, there's a dozen grapevines that might help him to do that>。清水訳は「あの男が持ってきたわけじゃねえ」。村上訳は「そんなこと、やつにとっちゃ朝飯前だ。情報網を張り巡らしているからな」。<grapevine>は「葡萄の蔓」だが、そこから「噂(秘密)の情報経路」の意味になる。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第39章(1)

<primed for ~>は「~の準備ができて(いる)」

【訳文】

 ベイ・シティのグレイル家に電話を入れたのは十時頃だった。彼女を捕まえるには遅すぎるかと思ったが、そうでもなかった。メイドや執事相手に悪戦苦闘したあげく、やっと彼女の声を聞けた。快活な声で、夜会への準備万端整っているようだった。「電話すると約束していたので」私は言った。「少し遅くなったけど、いろいろと忙しくてね」
「また、すっぽかすつもり?」彼女の声が冷やかになった。
「それはないと思う。運転手はこんなに遅くても働いてるかい?」
「私が言いさえすれば遅くても働くわ」
「なら、車を回して拾ってくれないか? 卒業式用の服に体を押し込んでいるところでね」
「ご親切なこと」彼女は物憂げに言った。「本当に私が出向かなきゃいけないの?」アムサーは、彼女の言語中枢の分野で確かに素晴らしい仕事をしていた―もし、そこに問題とやらがあったとすればだが。
エッチングを見せたいんだ」
「たった一枚のエッチングのために?」
「一間のアパートなんでね」
「そんなものがあることは聞いている」また物憂げに言った。それから声音を変化させた。「焦らすのも程々にして。好い男だというのは認めるわ。もう一度住所をお願い」
 私はアパートの番地を教えた。「ロビーのドアは鍵がかかってる」私は言った。「でも、下に降りて掛けがねを外しておく」
「結構ね」彼女は言った。「かな梃子持参は御免だから」
 彼女は電話を切った。実在しない誰かと話したような不思議な感覚を残して。
 私はロビーに降りて掛けがねを外し、シャワーを浴び、パジャマを着てベッドに横たわった。一週間分眠れそうだった。それから再びベッドから身を引きはがし、忘れていたドアの錠をかけた。深い地吹雪の中を歩くようにしてキチネットに行き、グラスと本当に高級な相手を引っかけるときのためにとっておいたスコッチのボトルをセットした。
 私はもう一度ベッドに横になった。「祈るんだ」私は大声で言った。「祈るより他にすることはない」
 私は眼を閉じた。部屋の四方の壁には船の鼓動がこもっていた。静まり返った空気が霧を滴らせ、海風に戦ぐようだった。使われていない船倉の饐えた臭いがした。エンジンオイルの匂いがし、裸電球の下で祖父の眼鏡をかけて新聞を読んでいる紫色のシャツを着たイタリア人が見えた。換気坑の中を登っては登った。ヒマラヤに登って頂上に立つと、マシンガンを手にした男たちに取り囲まれた。何だかとても人間的な黄色い眼の小柄な男と話をした。恐喝や強請、多分もっと悪いことに手を染めている男だ。菫色の眼をした赤毛の大男のことを思った。今まで出会った中でおそらく最も親切な男だ。
 私は考え事をやめた。閉じた瞼の裏で光が動いた。私は混乱していた。私は空しい冒険から生還した極め付きの愚か者だった。一ドル時計を値踏みする質屋のようなしけた音を立てて爆発するダイナマイトの百ドルパッケージだった。市庁舎の壁を這い登るピンクの頭の虫だった。
 私は眠っていた。
 不本意ながら、ゆっくり目を覚まし、天井に反射した電灯の光を見つめた。部屋の中を何かがそっと動いていた。
 その動きは、こそこそして、静かで、重かった。私は耳を澄ました。それから、ゆっくり振り返り、ムース・マロイを見た。そこは陰になっていて、彼は暗がりの中で以前と同じように音を立てずに動いていた。手にした銃には黝ずんだ油性の無機質な光沢があった。黒い巻き毛の上に帽子をあみだにかぶり、猟犬のように鼻を鳴らしていた。
 彼は私が目を開けたのを見た。そっとベッドの端に立つと、私を見下ろした。
「ことづけを受け取った」彼は言った。「家は調べさせてもらった。周りにも警官の姿はなかった。もしこれが罠だったら、二人ともあの世行きだ」
 ベッドの上で少し身をよじると、彼は素早く枕の下を探った。相変わらず大きな顔は青白く、くぼんだ眼はどこかしら優しげだった。今夜はオーバーコートを着込んでいた。どこもかしこもぴちぴちだった。片方の肩の縫い目がほつれていた。おそらく着ただけでほつれたのだろう。店で最も大きいサイズだったにせよ、ムース・マロイにはまだ足りなかった。
「待ってたんだ」私は言った。「警察は関与していない。君に会いたかったのは私だけだ」
「続けろよ」彼は言った。

【解説】

「快活な声で、夜会への準備万端整っているようだった」は<She sounded breezy and well-primed for the evening>。清水訳は「機嫌がいいらしく、明るく晴れやかな声だった」。村上訳は「夜のこの時間にしては彼女の声はすがすがしく勢いがあった」だ。まず、清水訳には<the evening>への言及がない。そして、村上氏は「夜のこの時間にしては」と訳しているが、<primed for ~>は「~の準備ができて(いる)」の意味だ。デートへの誘いだから<the evening>はただの「夜」の意味ではない。食事には遅すぎるが、ナイトクラブで酒とダンスを楽しむには、いい頃合いだろう。

「卒業式用の服に体を押し込んでいるところでね」は<I'll be getting squeezed into my commencement suit>。<squeeze into>は「(小さめの服に)体を無理に押し込む」こと。<commencement>は「学位授与式、卒業式」。清水訳はあっさりと「それまでに服を着かえておく」だ。村上訳は「若き日の一張羅のスーツに身体を押し込んで待っているよ」と噛みくだいているが、少々くどい。

「忘れていたドアの錠をかけた」は<set the catch on the door, which I had forgotten to do>。清水訳は「忘れていたドアの錠を外し」と、逆になっている。<catch>(ドアの留め金)をセットするのだから、ここは「錠をかける」でなければならない。村上訳も「ドアの錠をかけた。それを忘れていたのだ」となっている。

「私は混乱していた」は<I was lost in space>。清水訳は「私のからだが宙に浮んだ」。村上訳は「私は空白の中に迷い込んでいた」。後に続く文を読めば、マーロウのからだは宙に浮いているわけでもなく、全くの空白の中に迷い込んだのでもないことが分かる。マーロウは馬鹿になったり、ダイナマイトになったり、虫になったりしている。つまり、自分が何なのかが分からなくなっていたのだ。<space>は会話で「(人が)内にこもる自由」を意味する。夢の中で迷子になっていたのだろう。

「手にした銃には黝ずんだ油性の無機質な光沢があった」は<A gun in his hand had a dark oily business-like sheen>。清水訳は「手に持ったピストルが黒く光って、無表情の光沢を見せていた」。村上訳は「彼が手にしている拳銃には油が引かれ、黒々としたビジネスライクな光沢があった」だ。何度も使用され、そのたびにガン・オイルを使って手入れされてきた愛用の銃なのだろう。「ビジネスライクな光沢」は翻訳になっていない。

「相変わらず大きな顔は青白く」は<His face was still wide and pale>。清水氏はここを「相変わらずおおらかな表情を浮かべ、顔色は蒼白く」と訳している。村上訳は「彼の顔は相変わらず横幅があり、青白く」だ。マロイの顔については、第二十六章の新聞をかぶっている場面で「大きな顔」という言及がなされている。<wide>は体に見合った顔の大きさと考えるべきではないか。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第38章(4)

<The things I do>は「俺もずいぶん忙しい人間らしい」だろうか?

【訳文】

 彼はしばらくじっと坐っていた。それから身を乗り出して机越しに銃を私の方に押してよこした。
「俺がやっているのは」彼はまるでその場に独りでいるみたいに物思いにふけった。「街を仕切り、市長を当選させ、警官を買収し、麻薬を売り捌き、悪党を匿い、老婦人の首から真珠を奪いとることか。時間がいくらあっても足りない」彼は短く笑った。「何とも忙しいことだ」
 私は銃に手を伸ばし、脇の下に押し込んだ。ブルネットは立ち上がった。「何も約束はしない」彼は私に目を据えて言った。「でも、君を信じるよ」
「約束までは期待していない」
「これだけのことを聞くために、大層な運試しをしたものだな」
「そうだな」
「さてと」彼は意味のない動きをして、机越しに手を差し出した。
「お人好しと握手してくれ」彼はそっと言った。
 私は握手した。手は小さく、硬く、少し熱かった。
「どうやって搬入口のことを見つけたのか、言う気はないんだな?」
「できないが、教えてくれたやつは悪党ではない」
「言わせることはできる」彼はそう言ってから首を振った。「いや、一度君の言うことを信じたからには、それも信じよう。そこに座ってもう一杯やっていてくれ」
 彼はブザーを押した。後ろのドアが開いて、見た目のいいタフガイの一人が入ってきた。
「ここにいて、酒が切れたらお代わりを用意しろ。手荒な真似はなしだ」
 殺し屋は腰をおろして私の方を見て静かに微笑んだ。ブルネットは急いで部屋を出て行った。私は煙草を吸った。酒を飲み終えると、殺し屋がお代わりを作ってくれた。私はそれも飲み干し、もう一本煙草を吸った。
 ブルネットが戻って来て部屋の角で手を洗い、また机の向こうに腰をおろした。殺し屋に顎をしゃくった。殺し屋は黙って部屋を出て行った。
 黄色い眼が私を検分していた。「君の勝ちだ、マーロウ。私は百六十四人の男を乗員リストに載せているんだが―」彼は肩をすくめた。「君はタクシーで帰ることができる。誰にも邪魔はされない。メッセージの件だが、心当たりをいくつか当ってみよう。お休み。君の実地教授に礼を言うべきだろうな」
「お休み」私はそう言って立ち上がり、部屋を出た。
 乗船用の台には別の男がいた。岸まで別のタクシーに乗った。私はビンゴ・パーラーに足を運び、人混みに紛れて壁にもたれた。
 数分もすると、レッドがやってきて、私の隣で壁にもたれた。
「簡単だったろう?」番号を読み上げる男の重くはっきりした声に逆らうように、レッドがそっと言った。
「礼を言わなきゃな。彼は乗ってきた。気にしていたよ」
レッドは周囲を見わたして、唇をもう少し私の耳に近づけた。「男は見つかったのかい?」
「いや、しかし望みはある。ブルネットがメッセージを伝える方法を探してくれる」
 レッドは首を振り、またテーブルの方を見た。欠伸をし、壁から離れて背を伸ばした。鷲鼻の男がまたやってきた。レッドは彼の方に足を踏み出して言った。「よう、オルソン」そう言って、男を突き飛ばすようにしてその前を通り過ぎた。
 オルソンは苦々しく後ろ姿を見送ったが、やがて帽子をかぶり直した。それから忌々し気に床に唾を吐いた。
 彼が行ってしまうと、私は店を出て、車を停めておいた線路沿いの駐車場に引き返した。
 私はハリウッドに引き返し、車を置いて、アパートに上がった。
 靴を脱ぎ、靴下だけになり、足指で床を感じながら歩きまわった。今でも、たまに痺れることがある。
 それから、壁から引き下ろしたベッドの端に腰をおろし、時間を計ろうとした。できない相談だった。マロイを見つけるには多くの時間や日数が掛かるにちがいない。警察に逮捕されるまで見つからないかもしれない。いつか警察が逮捕するとして―生きてるうちに。

【解説】

「俺がやっているのは」は<The things I do>。清水訳は「俺がしていることは……」。村上訳は「俺もずいぶん忙しい人間らしい」。村上訳は、そのあとに二回繰り返される<What a lot of time (I have)>のほうだろう。氏は二回目の<What a lot of time>のほうも「おかしいねえ」と訳を変えている。時々、こうして小説家としての顔をのぞかせるところが興味深い。

「見た目のいいタフガイの一人が入ってきた」は<one of the nice-tough guys came in>。清水訳は「用心棒の一人が入って来た」と、男を特定していない。多分、これは、前に出てきた<One of the velvety tough guys>と同一人物だろう。もう一人の方は「ゴリラ」と呼ばれているいかつい男だ。村上訳は「なりの良いタフガイの一人が中に入ってきた」だ。

「殺し屋は腰をおろして私の方を見て静かに微笑んだ」は<The torpedo sat down and smiled at me calmly>。清水訳は「用心棒は椅子に腰をおろし、私の方を向いて微笑した」。村上訳は「用心棒は腰をおろし、私に穏やかに微笑みかけた」。<torpedo>は「魚雷」のことだが、<米俗>では「プロのガンマン、殺し屋』を意味する。マーロウは、この男をブルネットに命じられたら殺しも辞さない男だと見ている。「用心棒」では役不足ではないか。

「殺し屋がお代わりを作ってくれた」は<The torpedo made me another>。清水訳は「用心棒がまたハイボールを作ってくれた」となっている。原文にはこの酒のことは<drink>としか書かれていないが、清水氏は一貫して「ハイボール」説をとっている。それには訳がある。<mix>、<make>という語が使われているので、ただ注いでいるだけでないことが分かるからだ。村上訳は「用心棒がお代わりを作ってくれた」で、酒の種類は特定していない。何しろ相手はプロのガンマンだ。作るとしてもウィスキー・ソーダくらいだろうが、それはそれで、ちょっといい気分かも知れない。

「彼が行ってしまうと、私は店を出て、車を停めておいた線路沿いの駐車場に引き返した」は<As soon as he had gone, I left the place and went along to the parking lot back towards the tracks where I had left my car>。清水氏は「私は店を出て駐車場から車を出しハリウッドへ戻った」と、次の文とひとまとめに訳している。村上訳は「彼が行ってしまうと、私はそこを出て、車を停めた線路近くの駐車場に向かって歩いた」。

「警察に逮捕されるまで見つからないかもしれない。いつか警察が逮捕するとして―生きてるうちに」は<He might never be found until the police got him. If they ever did-alive>。清水訳は「もし、警察の手で捕えることができたとしても、死んでいるかもしれないのだ」。村上訳は「その前に、警察に捕まるかもしれない。もし彼らに捕まえられれば――それも生きて捕まえられれば、ということだ」。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第38章(3)


<desk>が<table>に化けるわけ

【訳文】

 ドアが開いて、もう一人が帰ってきた。メス・ジャケット姿のギャングっぽい口をきくあの男が一緒だった。私の顔を一目見たとたん、男の顔は牡蠣のように白くなった。
「こいつは通していません」彼は唇の端を捲りあげて早口で言った。
「銃を持っていた」ブルネットはそう言って、レター・オープナーで銃を押しやった。「この銃だ。ボート・デッキの上で私の背中に突きつけたも同じだ」
「通していませんって、ボス」メス・ジャケットはやはり早口で言った。
 ブルネットは顔を上げ、黄色い眼で微かに私に微笑んだ。「どうしようか?」
「掃いて捨てろ」私は言った。「どこかで押しつぶせ」
「タクシーの男が証明してくれます」メス・ジャケットが声を上げた。
「五時半からずっと持ち場を離れなかったか?」
「一分たりとも離れていません、ボス」
「それは答えになっていない。一大帝国も一分で滅びることがある」
「一秒たりともです。ボス」
「なのに、そいつは通れた」私は言って、笑った。
 メス・ジャケットは滑らかなボクサーのステップを踏んで、拳を鞭のようにしならせた。もう少しで私の顎に届くところだった。鈍い音がした。拳が空中で溶けたようだ。彼は横倒しになり、机の角を引っ掻いて、仰向けに転がった。誰かが殴られるのを見るのは、いい気分転換になる。
 ブルネットは微笑み続けていた。
「君が彼を不当に扱っていないことを願うよ」ブルネットは言った。「甲板昇降口のドアの件が残っている」
「たまたま開いていたんだ」
「他の理由は思いつかないのか?」
「こんなに大勢に囲まれていては無理だ」
「なら、二人きりで話そう」ブルネットは私だけを見て、そう言った。
 ゴリラがメス・ジャケットの脇に手を入れて抱え上げ、床を引きずった。相棒が内側のドアを開けた。彼らは出て行き、ドアが閉まった。
「これでいい」ブルネットは言った。「君は誰だ。何が望みだ?」
「私立探偵だ。ムース・マロイと話がしたい」
「私立探偵だと証明できるものを見せろ」
 私は見せた。彼は紙入れを机越しに投げ返した。潮風に灼けた唇には微笑みが浮かび続けていたが、その微笑は芝居がかっていた。
「殺人事件の調査中だ」私は言った。「先週の木曜日の夜、あんたのベルヴェデア・クラブ近くの崖の上でマリオットという男が殺された。この殺人は、偶々別の女の殺人事件と関連している。それをやったのが銀行強盗の前科があるマロイという無敵のタフガイだ」
 彼は頷いた。「私にどうして欲しいのか、まだ聞いてなかったが、いずれは話してくれるだろう。どうやって船に乗ったかを教えてくれないか?」
「もう話した」
「それは事実じゃない」彼はおだやかに言った。「マーロウだったな? それは事実ではない、マーロウ。知ってると思うが。乗船用の台にいた若いのは嘘を言っていない。私は慎重に部下を選んでいる」
「ベイ・シティのどれだけかはあんたの物だ」私は言った。「どこまでかは知らないが、やろうと思えば何でもできるくらいは掌握している。ソンダーボーグという男がベイ・シティで隠れ家をやっている。そいつはマリファナ煙草や強盗、犯罪者を匿うのが仕事だ。当然のことながら、コネがなければやれないことだ。あんたを通してないとは考えられない。マロイはそこに匿われていた。そのマロイがいなくなった。七フィートもあろうかという大男のマロイは人目に立つ。賭博船なら隠れるにはもってこいだと思ってね」
「単純な男だな」ブルネットは優しく言った。「私が彼を匿おうと思ったとしよう。どうして危険を冒してまでここに運び入れなきゃならない?」彼は酒を啜った。「結局のところ、私には別の仕事がある。支障なく良好なタクシー営業を続けていくのは一仕事だ。悪党が身を隠すところは世間にいくらでもある。金さえあれば。もっとましなことを考えられないのか?」
「できないこともないが、うんざりだ」
「お役には立てそうもないな。それで、どうやってこの船に乗ったんだ?」
「言うつもりはない」
「残念だが、そうなると、無理にでも吐かせることになる。マーロウ」彼の歯が真鍮の船舶用ランプの光を受けてぎらりと光った。「詰まるところ、そういうことだ」
「もし話したら、マロイに言伝が頼めるか?」
「何と言うんだ?」
 私は札入れに手を伸ばし、机の上に名刺を取り出して裏返した。札入れをしまって、その代わりに鉛筆を手にした。五つの単語を名刺の裏に書いて机越しに押しやった。ブルネットは書かれた文字を読んだ。「何が何やらさっぱりだ」彼は言った。
「マロイには分かる」
 彼は椅子の背に深く凭れ、私をじっと見た。「解せないやつだな。命がけでやって来て、見ず知らずのチンピラに名刺を手渡せという。正気の沙汰じゃない」
「もしあんたが彼を知らないなら、そういうことになる」
「どうして銃を陸に置いて、普通に乗船しなかったんだ?」
「ついうっかりしてね。出直したところであのメス・ジャケットのタフガイは乗せてくれそうにない。そしたら、別の乗り方を知ってるやつにぶつかったんだ」
 彼の黄色い眼が新たな焔を帯びた。黙って微笑を浮かべていた。
「この男は悪党じゃないが、日がな海辺にいて聞き耳を立てている。あんたの船の荷物搬入口には内側から鍵がかかってないし、換気坑の格子は外されている。ボート・デッキに出るには男を一人倒す必要があるがね。乗員のリストをチェックした方がいい。ブルネット」
 彼は唇をそっと動かした。一つを別の上に重ねた。もう一度名刺に目をやった。
「この船にマロイという名の男は乗っていない」彼は言った。「しかし、搬入口の話が本当だったら、その話に乗ろう」
「行って見てくるといい」
 彼はまだ名刺を見ていた。「もし伝手があれば、マロイに伝言してやるよ。どうしてそんな気になるのか分からんが」
「搬入口を見てこいよ」

【解説】

「掃いて捨てろ」「どこかで押しつぶせ」は<Sweep him out><Squash him somewhere else>。<sweep>は「掃く」、<squash>は「ぺしゃんこにする」の意味。ゴミ扱いだ。清水訳は「やめさせたらいいだろう」。村上訳は「役に立たない男は邪魔なだけだろう」。

「なのに、そいつは通れた」は<But he can be had>。清水訳は「しかし、のされちまえば、同じことさ」。この訳にした意味がよく判らない。村上訳は「目にかすみがかかっていたのかもな」。一秒たりとも目を離さなかったはずなのに、阻止したはずの男が目の前にいる。それを揶揄うマーロウのセリフだ。そのまま訳しても意味は分かる。

「それをやったのが銀行強盗の前科があるマロイという無敵のタフガイだ」は<done by Malloy, an ex-con and bank robber and all-round tough guy>。清水訳は「銀行強盗の前科者のマロイが」となっていて<all-round tough guy>がカットされている。村上訳は「銀行強盗の前科がある元服役囚で、なにしろ腕っぷしの強いやつだ」。

「彼の歯が真鍮の船舶用ランプの光を受けてぎらりと光った」は<His teeth glinted in the light from the brass ship's lamps>。清水氏はここをカットしている。村上訳は「真鍮の船舶用ランプの明かりを受けて、彼の歯がぎらりと光った」。

「五つの単語を名刺の裏に書いて机越しに押しやった」は<I wrote five words on the back of the card and pushed it across the desk>。清水訳は「その裏に鉛筆で文字を五つしるし、彼の眼の前においた」。<five words>は「五文字」ではなく「五語」だ。村上訳は「そして名刺の裏に単語を五つ書いた。それをテーブルの向こうに差し出した」。村上氏の頭の中ではマーロウはテーブルの前にいるから、こうなる。でも、ブルネットはデスクの向こう側にいるので、名刺はたぶん届かない。面白い。

「どうしてそんな気になるのか分からんが」は< I don't know why I bother>。清水訳は「方法がなければ、仕方がない」となっているが<bother>は「煩わされる」の意味。これでは訳になっていない。村上訳は「なんで俺がそんなことをしなくちゃならないのか、もうひとつ解せないが」。

『さらば愛しき女よ』を読み比べるー第38章(2)

<director's chair>をわざわざ「重役用の椅子」と訳すのは変。

【訳文】

 我々は一列縦隊で甲板を横切った。頑丈な滑りやすい階段を降りた。降りたところに厚いドアがあった。彼はドアを開け、錠を調べた。彼は微笑し、頷いて、私を通すためにドアを支えた。私は中に入り、銃をポケットにしまった。
 ドアが閉まり、我々の後ろでカチリと音を立てた。彼は言った。
「静かな夜だ。今までのところは」
 目の前には派手に飾り立てたアーチがあり、その向こうに賭博場があった。混みあってはいなかった。どこにでもある賭博場のようだった。突き当たりには短いガラスのバー・カウンターとストゥールがあった。中央に下に降りる階段があり、膨れ上がっては萎んでゆく音楽が上がってきた。ルーレット盤が回る音がした。一人の男が一人の客とフェローの勝負をしていた。部屋には六十人ほどの客がいるばかりだ。フェロー・テーブルには銀行でも始められそうな金貨証券が積まれていた。プレイヤーは初老の白髪の男だった。ディーラーに対して儀礼上の注意を払っていたが、それ以上の関心はなかった。
 ディナージャケット姿の二人の物静かな男がアーチをくぐり、ぶらぶらやってきた。周りには目を向けなかった。お待ちかねの相手だ。二人はぶらぶらとこちらに向かっていた。連れの背の低い痩せた男がそれを待っていた。彼らはアーチをくぐる前から、ポケットに手を入れた。もちろん煙草を探して。
「ここからは少し込み入った話になる」背の低い男は言った。「気にしないだろう?」
「あなたがブルネットだな」私は突然言った。
 彼は肩をすくめた。「当然だ」
「タフには見えないな」私は言った。
「そうでないことを願うよ」
 二人のディナージャケットの男は穏やかに私に近づいてきた。
「こっちだ」ブルネットは言った。「気楽に話せる」
 彼はドアを開け、私は被告席に連れ込まれた。
 その部屋は船室のようでもあり、船室のようでなかった。真鍮のランプが二つ、木でなく、多分プラスチックの暗い机の上にぶら下がっていた。部屋の奥には木目塗りの寝棚があった。低い方はベッド・メイク済みだったが、上の方には数枚のレコード・ジャケットが積まれていた。ラジオと一体型になった大きな蓄音機が隅に置かれていた。革製の大きな肘掛けソファ、赤い絨毯、灰皿スタンド、煙草とデキャンタ、グラスの載った小テーブル、寝棚の対角線にあたる隅には小さなバーがあった。
 「座ってくれ」ブルネットはそう言って、机の向こう側に回り込んだ。机の上には事務的な書類がたくさん置かれ、簿記会計機で打たれた数字がたくさん並んでいた。彼は背の高いディレクターズ・チェアに腰かけると、少し後ろに傾けて私を検分した。それからまた立ち上がり、オーバー・コートとスカーフをとって傍らに投げ、座り直した。ペンを掴んで片耳の耳朶に軽く触れた。彼は猫の微笑を浮かべたが、私は猫が好きだ。
 若くもなく年寄りでもなく、太っても痩せてもいなかった。海上か、海の傍で多くの時間を過ごしたことで健康的な顔色をしていた。髪は栗色で、自然なウェーブがかかっていたが、海ではウェーブがより強く出ていた。額は狭く賢そうで、どこかしら脅すようなところのある眼は黄味を帯びていた。美しい手をしていた。個性を欠くほど手をかけてはいないが、手入れが行き届いていた。ディナー・ジャケットはミッドナイト・ブルーだろう。黒以上に黒く見えた。真珠は少し大きすぎるように思うが、やっかみかもしれない。
 彼はたっぷりと私を見てから口を開いた。「彼は銃を持っている」
 ビロードのような手触りのタフガイの一人が何かを手に私の背骨の真ん中あたりに凭れかかった。多分釣り竿ではないだろう。探るような手が銃を抜き取り、他の得物を探した。
「他には何か?」声が訪ねた。
 ブルネットは首を振った。「今はいい」
 銃使いの一人が私のオートマティックを机の上に滑らせた。ブルネットはペンを置き、レター・オープナーをつかんでデスク・パッドの上で銃を軽く弄った。
「やれやれ」彼は静かに言い、私の肩越しに視線を投げた。
「指図されなければ動けないのか?」
 取り巻きの一人が素早く外に出てドアを閉めた。もう一人はあまりに静かで、いないも同然だった。長い穏やかな静寂があった。それを破るものといっては、遠くから聞こえてくる、がやがやいう人声と深みのある音色の音楽、それとどこか下の方でするほとんど気づかないような鈍い振動音だった。 
「飲むか?」
「ありがたい」
 ゴリラのような男が小さなバーで、二つの飲み物を作った。その間、グラスを隠そうともしなかった。彼は黒いガラスの敷物の上に載せたグラスを机の両端に置いた。
「煙草は?」
「いただこう」
「エジプト煙草だが、それでいいか?」
「けっこうだ」
 我々は煙草に火をつけ、酒を飲んだ。上等のスコッチのような味だった。ゴリラは飲まなかった。
「私の用というのは―」私は話し始めた。
「申し訳ないが、その前に片づけておくことがあるだろう?」
 ソフトな猫のような微笑と気だるげに半ば閉じられた黄色い眼。

【解説】

「我々は一列縦隊で甲板を横切った。頑丈な滑りやすい階段を降りた」は<We moved Indian file across the deck. We went down brassbound slippery steps>。清水訳は「私たちは看板を横ぎり、真鍮のすべる階段を降りた」。村上訳は「我々は縦に前後になって甲板を進んだ。枠を真鍮で固めた滑りやすい階段を降りた」。

<Indian file>とは「一列縦隊」のこと。たった二人でそういうのもなんだから清水氏はカットし、村上氏はこう訳したのだろう。<brassbound>には「(家具やトランクなどの枠を)真鍮で補強した、頑丈な、壊れにくい、融通が利かない、厚かましい、図々しい」というは派生的な意味が辞書には載っている。船の階段を真鍮で作ったり、枠をわざわざ真鍮で固めたりするだろうか。

「目の前には派手に飾り立てたアーチがあり」は<There was a gilded arch in front of us>。清水訳は「私たちの眼の前に電灯で飾られた入口があって」。村上訳は「我々の正面には派手な装飾をしたアーチがあり」。<gilded>は「金メッキした、金ぴかの、うわべを飾った、裕福な」等の意味がある。暗い船内だから、電灯が灯っていても不思議ではないが、金でごてごてと飾り立てたアーチのような気がする。

「突き当たりには短いガラスのバー・カウンターとストゥールがあった」は<At the far end there was a short glass bar and some stools>。清水訳は「突き当りに小さなスタンドがあって、数脚の椅子がおいてあった」。村上訳は「突き当りにはガラスでできた短いバーがあり、スツールがいくつか置かれていた」。「ガラスでできた短いバー」というのはイメージ化が難しい。<short>というところからカウンターについての言及ではないかと考えた。

「中央に下に降りる階段があり、膨れ上がっては萎んでゆく音楽が上がってきた」は<In the middle a stairway going down and up this the music swelled and faded>。清水訳は「部屋の中央から階段が階下に通じていて、音楽が階下(した)から聞こえてきた」と<swelled and faded>をトバしている。村上訳は「中央には下に降りる階段があり、その階段を抜けて音楽が上がってきた。その音は膨らんだり、か細くなったりしていた」。

「ディーラーに対して儀礼上の注意を払っていたが、それ以上の関心はなかった」は<who looked politely attentive to the dealer, but no more>。清水訳は「親のカードの配る手をじっと見つめていた」。村上氏は「ディーラーに対して儀礼的に注意を払っていたが、特にゲームにのめりこんでいるようには見えなかった」と噛みくだいて訳している。

「ここからは少し込み入った話になる」は<From now on we have to have a little organization here>。直訳すれば「小さな組織を持つ必要がある」だが、清水訳は「この二人にも来てもらわなければならん」。村上訳は「これから先はちっと固い話になってくる」だ。両氏の訳は力点の置きどころがちがう。<organization>には「体系的思考力」という意味がある。ブルネットは状況の全体を見通す能力が必要になる、と言っているのだ。

「私は被告席に連れ込まれた」は<they took me into dock>。清水訳は「私はその部屋へ入った」。村上訳は「私は奥の部屋へ導かれた」。<dock>には船のドックの他に「被告席」の意味がある。また、<in dock>なら「入院中」の意味になる。場所が船の中ということもあり、いろいろな意味を掛け合わせているのだろう。

「真鍮のランプが二つ、木でなく、多分プラスチックの暗い机の上にぶら下がっていた」は<Two brass lamps swung in gimbels hung above a dark desk that was not wood, possibly plastic>。この<gimbels>が分からない。清水訳は例によって分からない部分はトバして、ランプについては言及していない。村上訳は「真鍮のランプが二つ、暗いデスクの上にさがって揺れていた」とやはりトバしている。

船舶用の吊りランプは船が揺れたときにぶつかって割れないように、電球のまわりに金属製の枠がついていることがある。それを言っているのではないかと思うが<gimbels>で調べてもそういう意味は見つからない。<gimbals>なら、船の羅針盤などを水平に保つ装置なので分かるのだが、わざわざランプをそんなものに入れるとも思えない。これについては保留にしておく。

「彼は背の高いディレクターズ・チェアに腰かけると」は<He sat in a tall backed director's chair>。清水訳は「彼は背の高い重役椅子に腰をおろして」。村上訳も「彼は高い背もたれがついた重役用の椅子に座り」だ。<director>には、たしかに「重役」の意味があるが<director's chair>は映画監督が使う座面等に帆布などを私用した折り畳み可能な椅子のことだ。

「髪は栗色で、自然なウェーブがかかっていたが、海ではウェーブがより強く出ていた」は<His hair was nut-brown and waved naturally and waved still more at sea>。清水訳は「髪の色は胡桃(くるみ)色で、自然に波打ち」と<waved still more at sea>をカットしている。村上訳は「髪は栗色で、自然なウェーブがかかっていた。海がより多くのウェーブを与えたかもしれない」。

「ビロードのような手触りのタフガイの一人が何かを手に私の背骨の真ん中あたりに凭れかかった」は<One of the velvety tough guys leaned against the middle of my spine with something>。清水訳は「一緒に部屋に入ってきた男の一人が、私の背骨のまん中にからだを押しつけた」。村上訳は「身なりはよいが中身はタフな男たちの一人が、私の背骨の真ん中あたりに何かを突きつけた」だ。

<lean against>は「もたれかかる」という意味。タフガイではあっても手荒な真似をしないで、そっと銃を突き付けている様子を描写している。背後から来た男について、マーロウは背中に触れた触覚を頼りにするしかない。両氏のように訳すと、マーロウに見えているように読めてしまう。手触りの良さを意味する「ビロードのような」<velvety>という語はぜひ使いたいところ。

「彼は黒いガラスの敷物の上に載せたグラスを机の両端に置いた」は<He placed one on each side of the desk, on black glass scooters>。清水訳は「彼はグラスを黒いガラスの皿にのせてデスクの両側においた」。村上訳は「彼はひとつをデスクのわきに置いた。ひとつを黒いガラスのテーブルの上に置いた」。

村上氏はどうしてこんな訳にしたのだろう? <on each side ~>は「~の両側に」の意味だということくらい知っているだろうに。<scooters>に戸惑ったからではないだろうか。船室の中に「スクーター」があるはずがない。ガラスでできた物といえば、前述のグラスの載った小さなテーブルしか思いつかない。それでこうなったのだろう。<scoot>には「ちょっと移動する」というような意味がある。コースターをそう呼んだのかもしれない。

<gimbels>といい、<scooters>といい、よく判らない名詞が出て来るので、ここの訳には手を焼いた。