HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『湖中の女を訳す』第五章(2)

<full of knuckles>を「一発」に減らすのは、非暴力主義?

【訳文】

 私は立ち上がり、ポケットからキングズリーの紹介状を取り出して男に手渡した。男は眉根を寄せてそれを見たが、それから足音高く小屋に戻り眼鏡を鼻にのせて戻ってきた。そして注意深くそれに目を通し、もう一度読んだ。シャツのポケットに入れ、フラップのボタンをかけてから手を差し出した。
「ようこそ、ミスタ・マーロウ」
 我々は握手を交わした。やすりのような手だった。
「キングズリーの小屋が見たいんだね? 喜んで案内するよ。まさか売るつもりじゃないだろうね?」彼は私に目を留めながら、湖の方を親指でぐいと指した。
「かもしれない」私は言った。「カリフォルニアじゃ、なんでも売っている」
「嘘だろう? あれがそうだよ――アメリカ杉で組まれている。こぶのある松材を並べ、屋根は合成材、基礎とポーチは石造り、浴槽とシャワー完備、窓にはベネチアン・ブラインドが備えつけ、大きな暖炉、主寝室には石油ストーブ――春と秋には、これが必要になる――ピルグリム社製コンビネーション・レンジはガスと薪両用、すべて高級品、山小屋にかけた費用が八千ドルだ。水は専用の貯水池が山の上にある」
「電気と電話はどうなってる?」私は訊いた。話の接ぎ穂だ。
「もちろん電気は来ている。電話はない。今すぐには無理だ。電話を引くとしたら、線を引っ張ってくるのに大金がかかる」
 青い瞳がじっと私を見ていた。私も見た。風雨にさらされてきた風貌にも拘らず、酒飲みのように見える。厚い皮膚はつやつやし、静脈が目立ち過ぎ、眼がぎらぎらと輝いている。
 私は言った。「今は誰か住んでいるのかな?」
「誰もいない。数週間前にミセス・キングズリーが来ていたが、山を下りた。そのうち戻るだろう。聞いてないかい?」
 私は驚いて見せた。「どうしてだ? 小屋には彼女が付きものなのか?」
 彼は顔をしかめ、それから頭を後ろに反らせ、大笑いした。高笑いはトラクターのバックファイアのようだった。それは森林地帯の静寂を粉々に吹き飛ばした。
「畜生め、言ってくれるじゃないか」彼は息を喘がせた。「彼女が付きものとは――」彼はまた大声を出し、それから罠のようにぴたりと口を閉じた。
「ああ、最高の小屋だよ」彼は私の眼を窺いながら言った。
「ベッドの寝心地は快適かい?」私は訊いた。
 彼は身を乗り出して薄笑いした。「ひょっとして顔を拳骨の跡だらけにしたいのか?」
 私は口を開け、相手を見た。「展開が速すぎて」私は言った。「話がよく見えない」
「べッドの寝心地の良さなんて俺に分かるはずがないだろう」彼はがなり立て、うまくすれば強烈な右パンチが私に届くように、少し前に屈んだ。
「知らないはずはないんだが」私は言った。「それはまあいい。自分で見つけられる」
「ふん」彼は苦々しげに言った。「探偵ってのはな、臭うんだよ。アメリカの州という州で追いかけっこをしてきたんだ。お前もキングズリーもくそくらえだ。自分のパジャマを俺が着ていないか、探偵を雇って探りに来させたってことか? やい、探偵、俺は片足は不自由かもしれんが、女に不自由したことは――」
 私は手を差し出した。引っこ抜かれて湖に放り込まれないことを願いながら。
「少々誤解があるようだ」私は話した。「あんたの女出入りを訊くためにやってきたわけじゃない。ミセス・キングズリーには会ったことがないし、ミスタ・キングズリーにも今朝会ったばかりだ。いったいどうしたんだ?」
 彼は視線を落として手の甲で口をごしごしこすった。まるで自分を傷めつけるかのように。それから、手を目の前に持ってきて、拳を堅く握りしめ、それから、また開き、指をじっと見つめた。それは少し震えていた。
「すまなかった。ミスタ・マーロウ」彼はゆっくり言った。「昨夜は箍が外れてしまって、まるでスウェーデン人が七人いるみたいな二日酔いなんだ。ひと月もここで一人きりなんで、独り言を言うようになった。ちょっとしたことがあってね」
「一杯やるというのはどうかな?」
 彼の目の焦点が私の上で定まり、きらりと光った。
「持っているのか?」
 私はポケットからライウィスキーの一パイント瓶を引っ張り出し、キャップの上に貼られたグリーン・ラベルがよく見えるように持ち上げて見せた。
「俺にはもったいない酒だ」彼は言った。「くそっ、なんてこった。グラスを取ってくる間待っててくれるか。それとも小屋に来るか?」
「ここがいい。景色を楽しむことにするさ」
 彼は思うように動かない方の足を揺らしながら小屋の中に入っていき、小さなグラス二つを手に戻ってきた。そして私と並んで岩に腰を下ろした。乾いた汗の匂いがした。

【解説】

「こぶのある松材を並べ」は<Lined with knotty pine>。清水訳は「こぶだらけの松材がならべてあって」。村上訳は「節のある松材がわたされ」。<lined with>には「~がずらりと並ぶ」と「~で裏打ちされている」の二つの意味がある。田中訳は「内張りには、松材の節がおおいところが使ってあります」。稲葉訳は「節(ふし)のおおい松材をつかって内装してある」。

ログ・キャビン(丸太小屋)は皮をはいだ太いログ(丸太)を井桁に組んで建てられている。丸太そのものが構造体であり、内装を兼ねている。その上にわざわざ松材を張って内装したりしたら、せっかくの丸太小屋が台無しになってしまう。この<Lined with knotty pine>は、屋根になる部分だろう。普通、ログ・キャビンに天井は張らない。屋根の裏がそのまま見えることになるので「こぶ」の多い松材を装飾代わりにしているのだと思う。

「ひょっとして顔を拳骨の跡だらけにしたいのか?」は<Maybe you'd like a face full of knuckles>。清水訳は「その顔に一発、食らわせてもらいたいのかね」。村上訳は「あんたどうやら、げんこつを一発食らいたがっているみたいだな」。ここも<full of knuckles>が、たった一発になってしまっている。田中訳は「あんたは、顔中コブだらけにされたいのかい?」と複数扱いになっている。

<「展開が速すぎて」私は言った。「話がよく見えない」>は<"That one went by me too fast," I said, "I never laid an eye on it.">。清水訳は<「いまの一発はあまり早かったので」と私はいった。「私の目には見えなかったよ」>と<That one>を「一発」と捉えている。村上訳は<「なあ、いったい何を言ってるんだ。私にはさっぱり見当もつかないね」と私は言った>。田中訳は「いやに気をまわすひとだなあ。そこまでは、こっちは考えなかったよ」。原文の<fast>と<lay eye on>(注意して見る)を活かして訳してみた。

「昨夜は箍が外れてしまって、まるでスウェーデン人が七人いるみたいな二日酔いなんだ」は<I was out on the roof last night and I've got a hangover like seven Swedes.>。清水訳は「ゆうべ、だいぶ飲みすぎたんでね。けさは頭がふらふらしている」。田中訳は「昨夜、山のほうに飲みにいってね。ひどい二日酔なんですよ」。村上訳は「ゆうべちょっと飲み過ぎてな。七人のスウェーデン人が集まったくらいの二日酔いを抱えていたんだ」。<aut on the roof>は<out on the tiles>と同じで「(屋根の上の猫のように)派手に遊び回る」こと。スウェーデン人についてはよく分からない。

『湖中の女』を訳す 第五章(1)

どうして<a high granite outcrop>を複数扱いしたのだろう

 

【訳文】

 

 サン・バーナディーノは午後の熱気で焼かれ、ぎらぎらと揺らめいていた。空気は舌に火ぶくれができそうなほど熱かった。喘ぎながらそこを通り抜ける途中、一パイント瓶を買う間だけ車を停めた。山に着く前に気絶したときの気つけ薬だ。そして、またクレストラインまでの長い坂道を上り出した。十五マイルで、五千フィート上っても、涼しいというにはほど遠かった。山道を三十マイル走り、高い松が聳えるバブリング・スプリングというところに着いた。下見板張りの店とガソリン・ポンプがひとつあるだけだが、まるで楽園のように思えた。そこからはずっと涼しかった。

 ピューマ湖のダムの両端と中央に武装した歩哨がいた。最初に出遭った歩哨は、ダムを渡る前に車の窓を全部閉めさせた。ダムから百ヤードほど離れたところにコルクの浮きがついたロープがあり、遊覧船はそれ以上近づくことができなかった。そういった些細なことを除けば、戦争はピューマ湖に大した影響を与えていないようだ。

 カヌーのパドルが青い水を漕ぎ、ボートにとりつけた船外機がのどかな音を立てるなか、若さを見せつけるようにスピードボートが派手な水しぶきを立てて急旋回し、中にいる女の子たちが手で水を掻きながら歓声を上げている。スピードボートが立てた余波に揺られながら、入漁許可証に二ドル払った人たちは、少しでも元を取ろうと、くたびれた味の魚を釣るのに躍起だった。

  道は、大きな花崗岩の露頭をかすめるようにして、雑草が目につく草地に下りていった。常緑菖蒲(ワイルド・アイリス)、白と紫の昇り藤(ルピナス)、白根(ビューグル・フラワー)、苧環(コロンバイン)、目草薄荷(ペニーロイヤル)、胡麻の葉草(デザート・ペイントブラッシュ)といった草花が咲き残っていた。高い松の木立ちは澄んだ青空を探るように枝を伸ばしていた。道はまた湖の高さに下り始め、あたりの風景は派手なスラックス、袋型ヘアネット、農夫風ハンカチーフ、入れ毛でふくらませた巻き髪、厚底サンダルと白く太い腿の娘たちでいっぱいになり始めた。自転車乗りはハイウェイを慎重によろよろと進み、時折り、不安気な顔の若者がスクーターの音を響かせて通り過ぎた。

 ハイウェイを村から一マイル走ったあたりで、曲がりくねって山に戻って行く細い分かれ道を見つけた。ハイウェイの標識の下に粗削りな木製の看板があり「リトル・フォーン湖、一マイル四分の三」とあった。その道に入った。はじめの一マイルは斜面に沿って小屋が散らばっていたが、その後見かけなくなった。やがて、また道が分かれ、一段と狭くなった道の方に、これも粗雑な木の看板があり、「 リトル・フォーン湖。私道につき、立ち入り禁止」と書いてあった。

 そちらにクライスラーを乗り入れ、地表に露出した大きな花崗岩の間を縫ってそろそろ進み、小さな滝を過ぎ、黒樫の木、アイアンウッド、マンザニータの静まり返った迷路を通り抜けた。枝の上で青カケスが鳴き騒ぎ、栗鼠は闖入者を叱りつけ、腹立ちまぎれに抱かえていた松ぼっくりを前肢で叩いた。頭に緋を頂いたキツツキが、きらきら輝く目で私を見ようと、暗闇の中を突っつくのを止め、それから木の幹の後ろに隠れ、もう一方の目で私を見た。五本の横木を組んだゲートまで来ると、また看板が立っていた。

 ゲートを抜けると、曲がりくねった道が木々の間を縫って二百ヤードほど続き、突然、眼下に、木々や岩、野草に囲まれた小さな楕円形の湖が現れた。まるでくるっとまるまった葉の上に落ちた露の滴のようだった。湖の端近くに、きめの粗いコンクリート製のダムがあり、上にロープを張った手すりがついていて、傍に古い水車があった。近くに、樹皮のついた松の自然木で組んだ小さな丸太小屋があった。

 岸伝いなら遠回りになり、ダムを渡れば近いあたりの対岸に、大きなアメリカ杉を組んだ丸太小屋が水の上に迫り出している。その先にはそれぞれ充分に距離を置いた別の小屋が二棟建っていた。三棟とも戸締りされ、カーテンが引かれ、ひっそりしていた。大きな一棟は梔子色のベネチアン・ブラインドがついた十二枚のガラスを嵌めた窓が湖に面している。

 ダムから見て湖の最も遠い端に、小さな桟橋とバンド用のパビリオンのようなものがあった。反り返った木の看板には大きな白い字で「キャンプ・キルケア」と記されていた。こんなところにそんなものがある理由が思いつかなかったので、車を降りて一番近い小屋に向かって下り始めた。小屋の裏手の方で斧を振るう音がした。

 小屋の扉をノックすると斧の音がやんだ。どこかで男の怒鳴り声がした。私は岩の上に腰かけ、煙草に火をつけた。小屋の角を曲がってくる足音がした。不揃いな足音だ。いかつい顔をした浅黒い男が、両刃の斧を手にしているのが目に入った。

 がっしりした体格で、 背はさほど高くなく、 足を引きずって歩いた 。一歩歩くごとに 右足を少し蹴り出して 浅い弧を描くように足を振った。無精ひげで黒い顎、落ち着いた青い瞳、大いに散髪を要する灰色の髪は耳にかぶさってカールしていた。ブルーのデニムのズボンを穿き、襟元をはだけた青いシャツから褐色の逞しい首がのぞいていた。口の端に煙草をぶら下げ、堅くて隙のない都会者の声で言った。

「何の用だ?」

「ミスタ・ビル・チェス?」

「そうだが」

 

【解説】

 

「スピードボートが立てた余波に揺られながら、入漁許可証に二ドル払った人たちは、少しでも元を取ろうと、くたびれた味の魚を釣るのに躍起だった」は<Jounced around in the wake of the speedboats people who had paid two dollars for a fishing license were trying to get a dime of it back in tired-tasting fish>。 

 

清水訳は「スピードボートが起こした波の中で、釣りをするのに二ドル払った連中がいくらかでも取り戻そうと仕切りに手を動かしていた」と<tired-tasting fish>をスルーしている。田中訳は「モーターボートのあおりをくらうダムのふちには、二ドルはらって釣りの許可をとった連中が、十セントもしないぐらいの、くたびれた魚をつりあげようとやっきだ」。村上訳は「そのスピードボートの航跡のまわりで、ニドル払って釣りの許可をとった人々がゆらゆらと揺れながら、少しでも元を取ろうと、くたびれた味のする魚を釣り上げるべく精を出していた」。

 

<tired-tasting fish>は、スピードボートの立てる波に揺られながら、二ドルを取り戻そうと釣りをする釣り人達の奮闘ぶりをからかったのだろう。そこまで苦労して釣った魚にはきっと釣り人の疲れが乗り移って、くたびれた味がするだろう、と言っているのだ。田中訳のように「ダムのふち」と取ると、何が<jounce>(ガタガタ揺れる)のかが分からない。「くたびれた魚」と<tasting>をトバしていることから考えると、田中氏は波に揺れて魚がくたびれたと考えたのかもしれない。

 

「道は、大きな花崗岩の露頭をかすめるようにして、雑草が目につく草地に下りていった」は<The road skimmed along a high granite outcrop and dropped to meadows of coarse grass>。清水訳は「道路は高い岩だらけの崖にそってつづいていて、雑草が生いしげる草原にくだって(傍点四字)行った」。田中訳は「道は、あちこちに露出した花崗岩の大きな岩のあいだをぬってのぼり、やがて、野草がいっぱいはえた平地にくだった」。

村上訳は「切り立った花崗岩の露頭のあいだを縫うように道路は続いていた。それからぼさぼさした草の繁った野原へと降りていった」。

 

どうして揃いも揃って三人とも<a high granite outcrop>を複数扱いで訳しているのだろう。単数で書かれている以上、この大きな花崗岩の露頭は一つきりで、要は、その大岩を境に道が下りはじめた、ということだ。<skim>は「すれすれに通る」という意味。狭い山道に大きな岩が迫り出すように露出していれば、それを「かすめるようにして」通るほかないではないか。多分初訳の誤りに気づかず、他の二氏が踏襲したのだろう。

 

「常緑菖蒲(ワイルド・アイリス)、白と紫の昇り藤(ルピナス)、白根(ビューグル・フラワー)、苧環(コロンバイン)、目草薄荷(ペニーロイヤル)、胡麻の葉草(デザート・ペイントブラッシュ)」は<the wild irises and white and purple lupine and bugle flowers and columbine and penny-royal and desert paint brush>。

 

清水訳は「野生のアイリス、白と紫のルピナス、ラッパ草、オダマキ、メグサハッカ、ゴマノハグサ」。田中訳は「山あやめ、白や深紅の花を咲かせているルーピン、ラッパ草、おだまき、はっか、それに砂漠によくあるごまのはぐさ(傍点六字)」。村上訳は「野生のアヤメと、白と紫のルピナスキランソウオダマキ、メグサハッカ、カステラソウ」。

 

<wild iris>は「野生のアイリス」ではなく「ディエテス・イリディオイデス」(常緑アヤメ)のこと。<bugle>は「ラッパ」なので「ラッパ草」と訳したのだろうが、<bugleweed>は「キランソウ」か「シロネ」。<desert paint brush>は「カスティーリャ・クロモサ」のことで、厳密には「ゴマノハグサ」でも「カステラソウ」でもない。その土地固有の植物にぴったりの和名はめったに見つかるものではない。カナにカナのルビは変だが、漢字にしてルビを振れば、調べることもできる。

 

「袋型ヘアネット、農夫風ハンカチーフ、入れ毛でふくらませた巻き髪」は<snoods and peasant handkerchiefs and rat rolls>。清水訳は「袋型のヘアネットと農民風ハンカチーフとラット・ロール」。田中訳は「れいのはちまき(傍点四字)のようなリボンをして、田舎風のスカーフをかけ、髪をいれ(傍点二字)毛でふくらした」。村上訳は「大きなリボン、農夫風のハンカチーフ、丸い巻き髪」。

 

<snood>には「ヘアネット」と「昔、スコットランドで処女のしるしとされた鉢巻状のリボン」の意味がある。野外に遊びに来た女性が髪をまとめておくための物が羅列されているのだと考えれば、長い髪をまとめるためのネットととるのが自然だが、どうだろうか。清水氏がさじを投げた格好の<rat rolls>だが、<rat>には「かもじ、入れ毛」の意味がある。長めの髪を外巻きにロールしてアップの巻き髪にするため、中に入れ毛を入れたのだろう。

 

「五本の横木を組んだゲート」は<a five-barred gate>。板を間を開けて五枚渡し、両端と対角線上に同様に板を張ることで、簀の子状の開き戸ができる。柵などで仕切った土地の入り口に設けることが多い。清水訳は「棒が横に五本わたしてあるゲート」、村上訳は「木材を五本わたしたゲート」。田中訳の「鉄棒が五本ついた鉄門」はおかしい。因みに、『マーロウ最後の事件』(1975年晶文社刊)所収の中篇「湖中の女」(稲葉明雄訳)では「五本の丸太ん棒を横たえた門柵」になっている。

 

「三棟とも戸締りされ、カーテンが引かれ、ひっそりしていた。大きな一棟は梔子色のベネチアン・ブラインドがついた十二枚のガラスを嵌めた窓が湖に面している」は<All three were shut up and quiet, with drawn curtains. The big one had orange-yellow venetian blinds and a twelve-paned window facing on the lake>だが、何故か田中訳はこの部分が欠落している。.



『湖中の女』を訳す 第四章(2)

<Nervous Nellie>を「ビビリのビリー」と訳してみた

【訳文】

私はアルモア医師に注意を戻した。今は電話に出ていたが、口は動かさず、受話器を耳にあて、煙草を吸いながら、待っていた。それから、相手の声が戻ってきたとき誰もがするように、身を乗り出して耳を傾け、受話器を置き、目の前のメモ用紙に何か書きとめた。すると、ページが黄色い厚手の本が机の上に現れ、彼はそのまん中あたりを開いた。その間、窓の外のクライスラーにちらっと目を走らせた。
 探していた箇所を本の中に見つけ、そこに身を屈めた。ページの上の空中にぷかぷかと煙が出てきた。また何か書いてから、本を脇に押しやり、もう一度受話器をつかんだ。ダイアルを回し、相手が出るのを待って、早口でしゃべり出した。頭を押し下げ、手にした煙草で空中に身ぶり手ぶりしながら。
 電話を終えて、受話器を置いた。椅子の背に凭れて沈み込み、机をじっと見つめていたが、三十秒ごとに窓の外を見ることは忘れなかった。彼は待っていた。何の理由もなかったが、一緒に待つことにした。医者は多くの人に電話し、多くの人と話をする。窓から外を眺め、眉をひそめ、神経質な一面をのぞかせ、悩み事を抱え、気分が外に出る。医者だってただの人間だ。哀しむために生まれてきて、我々と同じように長く厳しい闘いをしている。
 しかし、この男の振舞いには何かそそられるものがあった。私は腕時計を見て、そろそろ食事の時間だと思いながら、新しい煙草に火をつけ、じっとしていた。
 五分ほどが過ぎた。やがて、グリーンのセダンが一台、さっとコーナーを曲がり、通りを突き進んできた。車はアルモア医師の家の前でとまり、長いアンテナを震わせた。くすんだ金髪の大男が車から降り、アルモア医師の玄関に向かった。呼鈴を鳴らし、マッチを擦ろうと玄関前で身をかがめた。顔がこちらを向き、通りを隔てて、まさに私が座っている場所をじっと見た。
 ドアが開き、男は中に入った。見えない手がアルモア医師の書斎の窓のカーテンを閉め、部屋の中が見えなくなった。私はそこに座って、日にやけたカーテンの裏地を見つめた。時間がどんどん過ぎていった。
 玄関のドアが再び開き、大男はぶらぶらと階段を下り、門をくぐった。煙草の吸い殻を遠くにはじきとばし、髪をくしゃくしゃにした。一度肩をすくめ、あごの先をつねって、通りを斜めに横切った。静けさの中、その足取りは悠揚迫らず、はっきり聞こえた。男の後ろで、アルモア医師のカーテンがまた開いた。アルモア医師が窓辺に立って見ていた。
 雀斑の浮いた大きな手が車のドアの下枠に現れた。その上に深い皺が刻まれた大きな顔がぶら下がっていた。
 瞳の色はメタリック・ブルーだ。じっと私を見つめ、太く耳障りな声で話しかけた。
「誰かを待ってるのか?」彼は尋ねた。
「どうかな」私は言った。「誰か来るのか?」
「訊いたことに答えるんだ」
「おやおや」私は言った。「それがあのパントマイムへの返答か」
「パントマイムがどうした?」彼はやけに青い眼に敵意をぎらつかせて私を睨んだ。
 私は煙草で通りの向こう側を指した。
「ビビリのビリーは電話好きだ。オート・クラブから私の名前を聞き出し、それから電話帳で調べて警察にかけたんだろう。どういうことになってるんだ」
「運転免許証が見たい」
 私は相手を睨み返した。「警察のバッジを見せることはあるのか。それとも、タフぶって見せるだけで身分証明になるとでも?」
「タフに出なきゃならない時は、そうするさ」
 私は前に屈み、イグニッション・キーを回し、スターターを押した。エンジンがかかり、アイドリング状態になった。
「エンジンを切れ」彼は怒鳴って、ランニングボードに足をかけた。
 私はエンジンを切り、シートに凭れて男を見た。
「なんてやつだ」彼は言った。「引きずり出して舗道の上に放り出されたいのか?」
 私は札入れを取り出して渡した。彼はセルロイドのケースを抜き出して運転免許証を調べ、それからケースを裏返し、裏側に入っている私のもう一つの免許証の複写写真を見た。そして、さも馬鹿にしたように、札入れに押し込んで返して寄こした。私は札入れをしまった。彼の手が一度引っ込み、また出たときには青と金の警察のバッジをつかんでいた。
「デガーモ、警部補だ」彼は重く荒々しい声で言った。
「お会いできて光栄だ。警部補」
「挨拶は抜きだ。アルモアの家を下調べしていた理由を言え」
「そいつはとんだご挨拶だな、警部補。アルモアの家など調べちゃいない。アルモア医師の名も聞いたことはないし、家を下調べする理由もない」
 彼は唾を吐くために頸をひねった。今日は、唾を吐くやつにやたらと出会う。
「なら、狙いは何だ? ここでは覗き屋は嫌われている。この街に探偵は一人もいない」
「そうなのか?」
「ああ、そうだ。さっさと吐くんだ。署まで行って 強い光の下で汗を流したいなら別だがな」
 私は何も答えなかった。
「女の身内に雇われたのか?」彼は突然訊ねた。
 私は首を振った。
「なあ、この前それをやろうとした男は、今じゃ鎖に繋がれて道路工事をしてるんだぜ」
「そいつはいい」私は言った。「何のことだか分かればな。で、何をやろうとしたんだ?」
「アルモアから金をせびりとろうとしたのさ」彼はかすかな声で言った。
「惜しいことにネタを知らない」私は言った。「強請にはもってこいの相手なのに」
「そんな話をしても何の得にもならん」彼は言った。
「分かったよ」私は言った。「じゃあ、こう言おうか。私はアルモア医師を知らない。聞いたこともない。それに興味もない。ここには友人を訪ねてきて、景色を眺めてただけだ。仮に私が他に何をしていようが、あんたには何の関係もないことだ。それが気に入らないなら、署に帰って警部に報告するのが最善の策だ」
 彼はランニングボードに載せた足に体重をかけながら、疑わしそうに見た。「本当なんだな?」彼はゆっくり訊いた。
「本当だ」
「なんてこった。あの男は頭がおかしい」彼はそう言って、肩越しに振り返って家を見た。「医者に診せなきゃな」彼は笑った。ちっとも面白そうじゃなかった。ランニングボードに載せた足を下ろし、針金のような髪をくしゃくしゃにした。
「とっとと行っちまいな」彼は言った。「俺たちの居留地(リザヴェイション)には近づかないことだ。そうすりゃ敵に回すこともない」
 私はまたスターターを押した。エンジンが静かにアイドリングを始めたとき、私は言った。「近頃、アル・ノルガードはどうしてる?」
 彼は私を見つめた。「アルを知ってるのか?」
「まあな。二年ほど前にここで一緒に働いたことがある。ワックスが署長をしてた頃だ」
「アルはMPをしている。俺もそうしたいよ」彼は苦々しげに言った。彼は歩き出したが、急に踵を返すと、吐き捨てるように言った。「早く行け。俺の気が変わらないうちに」
 彼はのろのろと通りを横ぎってまたアルモア医師の門をくぐった。
 私はクラッチをつないで走り去った。街に帰る途中、自分の思いに耳を澄ませた。アルモア医師の細い神経質な手がカーテンの端を引っ張るように、思いは途切れがちに出入りした。
 ロサンジェルスに戻ってランチを食べ、郵便物が来ていないか見るためにカフェンガ・ビルディングのオフィスに行った。そこからキングズリーに電話した。
「レイヴァリーに会いました」私は話した。「隠し事などしていないという口ぶりでした。ちょっと突っついてみましたが、何も出てこなかった。私はまだ二人が喧嘩別れしたという線が捨てきれません。あの男はよりを戻したがってる」
「なら、彼女がどこにいるかも知っているはずだ」キングズリーは言った。
「そうかもしれませんが、話に乗ってきません。ところで、レイヴァリーの家の通りでちょっと奇妙なことが起きました。家は二軒だけで、もう一軒はアルモア医師の家です」私は簡単にその奇妙なことを話した。
 彼はしばらく黙って聴いていたが、最後に言った。「アルバート・アルモア医師か?」
「そうですが」
「いっときクリスタルのかかりつけ医だった。何度か家に来たことがある――ちょっと、飲み過ぎた時などに。いささか安易に注射するきらいがあった。彼の奥さんは――ええと、何かあったんだが、そうだ、自殺したんだった」
私は言った。「いつのことです?」
「覚えていない。ずっと昔のことだ。それほど親しくなかったのでね。君はこれからどうするつもりだ?」
 今からでは遅すぎるかもしれないがピューマ湖に向かう、と、私は言った。
 山では一時間くらい日の落ちるのが遅いから十分間に合うだろう、と彼は言った。
 私は、それは好都合だ、と言った。それで通話を終えた。

【解説】

「ページが黄色い厚手の本が机の上に現れ」は<a heavy book with yellow sides appeared on his desk>。清水氏は「縁が黄色の分厚い本がデスクの上に現れ」。田中訳は「きいろい紙の大きな本を机の上にもつてくると」。村上訳は「側面の黄色い分厚い本がデスクの上に現れた」。<side>には「(本、ノートの)片面、ページ」という意味があるが、三氏ともそれを採用していないのが不思議だ。

「ページの上の空中にぷかぷかと煙が出てきた」は<quick puffs of smoke appeared in the air over the pages>。清水氏は「タバコの煙をそのページの上にただよわせた」。田中訳は「ひらいた頁の上に、タバコの煙がただよった」。これだと、何か落ち着いた様子が伝わってくる。実際は<quick puffs of smoke>なので、村上訳の「ページの上の空間に短く吐かれた煙草の煙が漂った」がより正確だ。ただ、<appeared>(出現する、現れる)を三氏のように「漂う」と訳すのはどうか。医師は気が急いている。煙草の煙は、医師の頭上の空中に次から次へと立ち上っているのだ。

「顔がこちらを向き、通りを隔てて、まさに私が座っている場所をじっと見た」は<His head came around and he stared across the street exactly at where I was sitting>。清水訳は「頭が私の方に向けられ、道路をへだてて車に座っている私と視線があった」。田中訳は「それからくるっとふりかえり、おれのほうをまともに見た」。村上訳は「彼は首を曲げ、通りのこちら側をじっと睨んだ。ちょうど私の座っているあたりを」。話者の視線が対象に接近しているのは、関心の高まりを表現している。ここは<His head came around >を原文通りに訳すべきだろう。

「日にやけたカーテンの裏地を見つめた」は<stared at the sundarkened lining of the curtains>。清水訳は「陽にやけたカーテンを見つめていた」。田中訳は「カーテンの日にやけたふちをみていた」。村上訳は「陽光で黒くなったカーテンのライニングを眺めていた」。清水訳は<lining>をカット。田中訳は「ふち」としている。村上氏は例によってカタカナのままで済ませている。まあ、外来語になっているから、それはそれでいいが、カーテンの裏地が日にやけて、黒くなるだろうか? ヒトはメラニンのせいで黒くなるが、布地は濃色だった場合、むしろ白茶けるのでは。

「静けさの中、その足取りは悠揚迫らず、はっきり聞こえた」は<His steps in the quiet were leisurely and distinct>。清水訳は「あたりが静まり返っている中を一歩一歩ゆっくり歩いた」。田中訳は「しずかな歩き方で、のんびりしてるようだったが、目的ははっきりしていた」。村上訳は「その物静かな足取りはさりげなく、しかし、きっぱりしたものだった」。さて、どうだろう。

清水氏は<distinct>を「一歩一歩」と訳している。これはあたりが静かであることからくる聴覚を強調した訳だ。それに対して、田中、村上両氏は、<in the quiet>を足取りを修飾するものととらえ、足取りに秘められた男の意志のようなものと取っているようだ。そのために、両氏は順接の接続詞<and>で結ばれている部分を逆接であるかのように訳している。ここはマーロウが、だんだん近づいてくる足音に耳を澄ましている、ととらえた方が表現として優れていると思う。

「アルモア医師が窓辺に立って見ていた」は<Dr. Almore stood in his window and watched>。どうということのない文だが、「アルモア医師は窓の前に立って、外を見守っていた」(村上訳)と書かれると、妙に落ち着かない。視点が逆なのだ。マーロウから見て近いのは窓であって医師ではない。だから、「アルモア医師は窓の向こうに立って、見つめていた」(清水訳)とするか、「ドクター・アルモアは窓ぎわにたち、こちらを見ている」(田中訳)とするのが普通だ。村上訳には時々こうした視点の不一致が見られる。

「ビビリのビリーは電話好きだ」は<Nervous Nellie and the telephone>。<Nervous Nellie>を辞書で引くと「臆病者」。名前を使った言葉遊びで<Simple Simon><Even Steven>のように、頭韻や脚韻を踏むのがお約束。日本なら「小言幸兵衛」みたいなもの。清水訳は「おちつかない様子で電話をかけた」。田中訳は「ドクター・アルモアが電話をかけた結果さ」。村上訳は「あの神経質なお方と、電話の一幕だよ」。どれも、遊び心を欠いている。

「タフに出なきゃならない時は、そうするさ」は<If I have to get tough, fellow, you'll know it>。清水訳は「俺がこわもて(傍点四字)に出れば、こんなことじゃすまないよ」。村上訳は「もしおれがタフにならなくちゃいけないとなれば、おまえさんにもそれが一目でわかるはずだ」。田中訳は「しかたがなければ、うるさくもなる」。ここはマーロウが<acting tough>(空威張り、強がり)が警察のバッジ代わりになるのか、と聞いたことへの返事だ。<get tough>は「厳しい態度をとる」の意味。<you know it>は「~でしょ」くらいの挨拶に最後につける常套句。

「なあ、この前それをやろうとした男は、今じゃ鎖に繋がれて道路工事をしてるんだぜ」は<The last boy that tried it ended up on the road gang, sweetheart>。清水訳は「この前君と同じことをやったやつはハイウェイでくたばったよ」。田中訳は「このことに、最後に首をつつこんだあの私立探偵は、とうとう街にいられなくなったんだぞ。知ってるのかい、スイートハート?」。<end up>は「最後には~になる」という意味。<road gang>は「(道路補修に特派された)囚人道路工夫団」(米俗)のことだ。というわけで、両氏の訳は誤訳。村上訳は「なあ、探偵さん。この前それを試したやつはパクられて、道路工事に精を出す羽目になったぜ」。

「アルモアから金をせびりとろうとしたのさ」は<Tried to put the bite on him>。清水訳は「彼に咬みつこうとしたのさ」。田中訳は「ドクター・アルモアからうまい汁をすおうとしたんだよ」。村上訳は「あの男から金をせびり取ろうってことさ」。<put the bite on~>は「~に金をせがむ」という意味。

「隠し事などしていないという口ぶりでした」は<He told me just enough dirt to sound frank>。清水訳はここをカットしている。田中訳は「やつは、あまりしゃべらなかったので、きょうのところはまだ尻尾をだしていません」。村上訳は「正直に話すふりをしていたが、口にしたのはいい加減な話です」。<just enough dirt to sound frank>というのは、自分の話を信じさせるに足る程度は真実(dirt=ゴシップ)を述べた(が、まだ充分ではない)ということだろう。

『湖中の女』を訳す 第四章(1)

屋根の<tiles>は「タイル」じゃなくて「瓦」だろう。

【訳文】

 横長の、奥行きのない家で、薔薇色の化粧漆喰仕上げの壁がほどよくパステル調に色褪せ、窓枠はくすんだ緑色で縁どられていた。屋根は緑の瓦葺きで、肌理の粗い丸瓦だ。正面壁を刳った奥に、色とりどりのタイル片のモザイクに取り囲まれた玄関のドアがあり、前は小さな花壇になっている。家の周りは低い化粧漆喰の塀に囲まれ、塀の上の鉄柵は海辺の湿気で錆かけていた。塀の外、左手に車を三台収容できるガレージがあり、庭に通じる戸口がついていて、そこからコンクリートの通路が家の通用口に続いていた。
 門柱に埋め込んだ青銅製の銘板には「アルバート・S・アルモア、医学博士」とあった。
 そこに立って通りの向こうを眺めていたら、さっき見かけた黒いキャデラックがエンジン音を響かせて角をまがり、すぐそこまでやってきた。スピードを落とし、ガレージに入るために方向転換するスペースを確保しようと外にふくらみかけ、私の車が邪魔になると見て、道の端まで行き、装飾のついた鉄柵の前にある少し広くなったところで車を回した。車はゆっくり戻ってきて、通りの向こうのガレージの三つ目の空きスペースにおさまった。
 サングラスをかけた痩せた男は持ち手が二重になったドクターズ・バッグを手に、歩道を歩いて家に向かった。半分ほど行ったところで歩をゆるめ、通り越しにこちらを見た。私は車の方に歩いて行った。家に着いてドアの鍵を開けているとき、男はもう一度私を見た。
 クライスラーに乗り込んで一服しつつ、誰かを雇ってレイヴァリーの後をつけさせる必要性を考えた。今までのところその必要はないと見た。
 アルモア博士が入っていった通用口近くの低い窓のカーテンが動いた。細い手がカーテンを脇に寄せ、眼鏡がきらっと光るのが目にとまった。両側のカーテンがまた閉じられるまで、しばらくのあいだ、脇に寄せられていた。
 通り伝いに、レイヴァリーの家に目をやった。この角度からだと、家の通用口からペンキ塗りの木の階段で、表通りから下ってきたコンクリートの小径に出て、その先はやはりコンクリートの階段で下の通りに出られることが見て取れた。
 もう一度、向かいに建つアルモア医師の家に目をやり、彼はレイヴァリーのことを知っているのか、知っているならどれくらい知っているのだろう、とぼんやり考えていた。恐らく知っているだろう。このブロックにはたった二軒しか建っていないのだ。だが、医師である限り、彼のことを私に話そうとはしないだろう。見ると、さっきまで隙間が見えていたカーテンが今ではすっかり閉じられていた。
 三枚窓の真ん中の部分には網戸が嵌っていなかった。その奥に、アルモア医師は立ち、痩せた顔に険しい表情を浮かべ、通り越しに私の方をじっと見ていた。私が煙草の灰を窓の外に振り落とすと、彼は急に背を向けて机の前に坐った。目の前には持ち手が二重になった鞄がある。しゃっちょこばって座り、鞄の横の机の天板を指でコツコツ叩いていた。電話に手を伸ばし、受話器にさわったが、また手を引っ込めた。煙草に火をつけ、乱暴に手を振ってマッチの火を消した。それから大股で窓に近寄り、私の方をじっと見つめた。
 面白かった。というのも、彼が医者だからだ。医者はふつう、ほとんど人間に好奇心を抱かない。まだインターンのころから一生間に合うくらい、他人の秘密を聞かされるからだ。アルモア医師はどうやら私に興味があるらしい。興味があるどころではない。私のことが気に障るのだ。
 イグニッション・キーを回そうと手を伸ばしたとき、レイヴァリーの家の玄関扉が開いた。手を引っ込め、もとのようにシートの背に凭れた。レイヴァリーはすたすたと私邸の小径を上ってきて、通りをちらっと見てから、ガレージに入るために向き直った。さっき見かけたのと同じ格好だった。腕にラフなタオルと膝掛けを抱えていた。ガレージの扉が持ち上がる音がし、次いで車のドアが開いて閉じられ、やがてエンジンをかけるキュルキュル、カタカタという音が聞こえた。急勾配の坂道をバックで通りに出てきて、リア・エンドからもうもうと白いエグゾーストを吐き出した。かわいらしいブルーのコンヴァーチブルで、折り畳んだトップの上に、レイヴァリーの艶のある黒髪の頭が突き出ていた。ごく幅の広い白いテンプルの、粋なサングラスをかけていた。コンヴァーチブルは滑るようにブロックを走り抜け、踊るようにコーナーをまがった。
 どうでもいいことだった。ミスタ・クリストファー・レイヴァリーが広い太平洋の端に行き、太陽の下で横になるところを女の子に見せたからといって、見た者が必ずしも行方不明になる必要はない。

【解説】

「横長の、奥行きのない家で」は<It was a wide shallow house>。清水訳は「その家は横に長く、屋根が低く」。田中訳は「ひくい、横にひろい家で」。<shallow>は「浅い」の意味だが、対義語は<deep>なので、ここは「奥行きがない」という意味。村上訳は「横幅が広く、奥行きの狭い家屋だった」。「奥行きが狭い」という言い方もないとは言わないが、「横幅が広く」の後に続けるなら「奥行きが浅く」の方がよかったのでは。

「屋根は緑の瓦葺きで、肌理の粗い丸瓦だ」は<The roof was of green tiles, round rough ones>。簡単な文なので、辞書を引かずともわかると考えたのだろう。田中訳は「屋根は粗(あら)く削(けず)られた緑色のタイルだった」。田中訳は「屋根は、まるい、ラフな感じのタイルだ」。村上訳は「屋根は緑のタイルで葺(ふ)かれていた。粗い材質の丸いタイルだ」。問題は<tile>だ。辞書で引けば「タイル」と「瓦」の両語が併記されている。丸いタイルで屋根を葺いたら隙間ができるし、重ねて葺いたら鱗状に見えるので「まるい」とは言えないだろう。

「正面壁を刳った奥に、色とりどりのタイル片のモザイクに取り囲まれた玄関のドアがあり」は<There was a deeply inset front door framed in a mosaic of multi-colored pieces of tiling>。清水訳では「正面のドアのまわりはさまざまな色のタイルを組み合わせたモザイク模様になっていて」と<deeply inset>が抜け落ちている。田中訳は「家の正面からうんとひっこんだところに、まわりを色とりどりのちいさなタイルでかざった、玄関のドアがあり」。村上訳は「玄関のドアは奥に深くはめ込まれ、様々な色彩の小さなタイルをモザイクのようにあしらった枠で囲まれていた」。

田中氏にはこの家が立体的に見えていた様子がうかがえるが、後の二人はそうでもないようだ。陽光溢れるカリフォルニアのことだ。雨仕舞いの心配はなさそうだが、玄関の日除けに庇を設けるか、壁の一部を入隅状に刳って玄関部分をひっこめる必要がある。<deeply inset>とはそれを言っている。村上訳ではそれがうまく伝わらない。「枠」という語を持ち出したのは、何の「奥に深くはめ込まれ」ているのかがよく分からなかったからだろう。

「庭に通じる戸口がついていて」は<(garage,) with a door opening inside the yard>。清水訳は「庭の内がわにドアが開き」。村上訳も「庭の内側に向かってドアがついていて」となっている。「庭の内側」というのは何のことを言うのだろうか? 田中訳は「奥に、庭のほうにむかってひらくドアがあり」。要するにガレージ内から庭に入れる開口部があるということだ。<inside the yard>は「庭の内側」ではなく「庭に通じる」の意味。<door opening>を「開口部、戸口」の意味と採れば「庭に通じる戸口がついた(ガレージ)」のことだと分かる。

「さっき見かけた黒いキャデラックがエンジン音を響かせて角をまがり、すぐそこまでやってきた」は<the black Cadillac I had already seen came purring around the corner and then down the block>。清水訳は「さきほどの黒色のキャディラックが角をまがってきた」。田中訳は「さつき見かけた黒のキャディラックが角をまがり、通りをやってきた」。両氏とも<purring>を見て見ぬふりだ。<purring>は「(猫などが)喉をゴロゴロ鳴らすこと」だが「車のエンジン音」にも使う。村上訳は「先刻見かけた黒いキャディラックがエンジン音を響かせながら、角を曲がってこちらにやってきた」。<down the block>は「同ブロックの少し先」の意味。

「ガレージに入るために方向転換するスペースを確保しようと外にふくらみかけ」は<started to sweep outwards to get turning space to go into the garage>。清水訳はこの部分をカットしている。田中訳は「ガレージにはいるために、大きくターンしようとして」。村上訳は「ガレージに入るために外に向けて大きく方向転換しようとしたが」。両氏の訳からは<to get turning space>のニュアンスがあまり伝わってこない。これは内輪差により後輪部が何かに接触するのを恐れて、道路の外側にふくらむ運転動作のことだ。

「家の通用口からペンキ塗りの木の階段で、表通りから下ってきたコンクリートの小径に出て」は<his service porch gave on a flight of painted wooden stepssteps to a sloping concrete walk>。清水訳は「ポーチから彩色した木製の階段を降りるとコンクリートのゆるやかな勾配の歩道になっていて」。村上訳は「彼の家の屋根のポーチから、彩色された板張りの階段が、坂になったコンクリートの通路まで降りている」。両氏とも<service porch>を、ただ「ポーチ」と訳しているが、これは勝手口についている小屋根のこと。村上訳の「屋根のポーチ」は「屋根付きポーチ」が一般的。田中訳は「勝手口と、そのペンキぬりの木の上り段が、通りからさがってきたコンクリートの小径にわたしてあり」。

「見ると、さっきまで隙間が見えていたカーテンが今ではすっかり閉じられていた」は<As I looked, the curtains which had been lifted apart were now completely drawn aside>。清水訳は「私が見ているあいだに、なかば開かれていたカーテンがこんどはすっかりわきによせられた」。田中訳は「さっき、アルモアがのぞいていた窓のカーテンは、すっかりあけてあった」。村上訳は「私が眺めているあいだ、さっき隙間が見えていたカーテンはずっと閉じられたままだった」。<draw>はカーテンを「引く」ことで、開閉どちらにも使われるが、隙間が開いていたものが完全に引かれたというなら「閉じる」ととるのが普通だ。

「三枚窓の真ん中の部分には網戸が嵌っていなかった」は<The middle segment of the triple window they had masked had no screen>。清水訳は「三段になっている窓のまん中の部分はよろい(傍点三字)戸がなかった」。田中訳は「三段になった窓のまんなかの部分には、金網ははつてなかった」。村上訳は「三つの部分からなる窓には覆いがかかっていたが、真ん中のところだけはカーテンがかかっていなかった」。

村上氏は他の作品に出てくる<screen>は「網戸」と訳しているのだが、なぜかここだけは「カーテン」扱いをしている。<triple window>を「三段になった窓」というのも無理がある。「三連窓」としようかと思ったが、<window>と単数なので、一つの窓の中に三枚のガラスが使われた窓、という意味の「三枚窓」とした。日本のように引き戸ではないのでまんなかの窓は「嵌め殺し」になる。それで網戸が不要なのだろう。

「どうでもいいことだった。ミスタ・クリストファー・レイヴァリーが広い太平洋の端に行き、太陽の下で横になるところを女の子に見せたからといって、見た者が必ずしも行方不明になる必要はない」は<There was nothing in that for me. Mr. Christopher Lavery was bound for the edge of the broad Pacific, to lie in the sun and let the girls see what they didn't necessarily have to go on missing>。直訳すれば「私にとって何の関係もないことだ。クリストファー・レイヴァリー氏は、太陽の下で寝そべって、必ずしも行方不明にならなくてもいいものを少女たちに見てもらうために、広い太平洋の端へと向かっていた」だ。

清水訳は「私の仕事に役に立つものは何もなかった。クリストファー・レイバリー氏は広い太平洋の縁(ふち)まで行き、太陽を浴びて横たわり、、女の子たちに自慢のからだを見せるのだろう」。田中訳は「別に、おれには用はない。ミスター・クリストファー・レヴリーは太平洋をのぞむ砂浜にいき、日光浴をしながら、女どもにいいからだを見せてやるつもりなのだろう。せつかくだから、レディたちもたつぷりおがませてもらうといい」。村上訳は「そこには私の関心をそそるものはなかった。クリストファー・レイヴァリー氏は広大な太平洋のどこかの端っこに向かっており、そこで太陽の下に寝転んで、見逃したところでとくに不自由はないものを、娘たちの目にさらすのだ」。

<they didn't necessarily have to go on missing>を清水氏はカット。田中訳は「(見たからといって、必ずしも行方不明になる必要はない)から、レディたちもたつぷりおがませてもらうといい」という意味なのだろう。村上訳は「見逃したところでとくに不自由はないものを」と訳しているが、現にレイヴァリーといっしょに水着姿で写真に写っていたクリスタル・キングズリーは行方不明になっている。これは、それを仄めかしていると取るべきで、それには「行方不明」という言葉をちゃんと訳す必要がある。

『湖中の女』を訳す 第三章(4)

<the veneer peel off>を「化けの皮がはげる」と訳すのはうまい。

【訳文】

 彼は煙草の灰をテーブルのガラス天板の上に慎重に落とした。そして、上目づかいにちらっと私を見て、すぐに目をそらした。
「待ちぼうけを食わせたんだ」彼はゆっくり言った。「俺への面当てを考えてのことかもしれない。いつかの週末にそこへ行くことになっていたんだが、行かなかった。あの女にうんざりしていたんだ」
 私は言った。「ほほう」そして、じっくり長い時間をかけて彼を見つめた。「そいつはあまり気に入らないな。彼女とエルパソに行ったが喧嘩別れした、のほうがいい。そう言ってくれないか?」
 彼の日焼けした顔が芯から赤くなった。
「くそっ」彼は言った。「言ったはずだ。あの女とはどこにも行っていない。どこへもだ。何度言わせる気だ?」
「信じられる話をしてくれたら、一度で済むさ」
 彼は身を乗り出して煙草を消した。それからゆっくり無雑作に立ち上がり、慌てることもなく、ローブのベルトを締め直し、ダヴェンポートの端の方に動いた。
 「もういいだろう」彼ははっきりと厳しい声で言った。「出て行ってくれ。あんたのつまらん取り調べに辟易した。あんたは無駄遣いしてる。俺のと自分自身の時間を。そんなものに値打ちがあるとしたらだが」
 私は立ち上がり、にやりと笑いかけた。「たいしたものじゃないが、それに見合うだけの報酬はもらってるよ。ところで、ちょっとした不愉快な場面に出くわしたことはないか? デパートのストッキング売り場や装身具売り場で」
 彼は私をひどく注意深く見上げ、眉根を寄せ、口をすぼめた。
「何のことだかさっぱり分からない」彼は言った。しかし声の裏に思惑がうかがえた。
「知りたかったのはそれだけだ」私は言った。「ご清聴を感謝する。ところで、キングズリーのところをやめてから、何の仕事をしてるんだ?」
「あんたの知ったこっちゃない」
「ごもっとも。でも、調べりゃ分かることだ」私は言った。そして、ドアの方に歩きかけた。いくらもかからなかった。
「今のところ、何もしちゃいない」彼はそっけなく言った。「海軍から呼び出しがかかるのを待ってるところだ」
「しっかりやることだ」私は言った。
「じゃあ、あばよ、探偵。二度と来るんじゃないぞ。俺はいないからな」
 私はドアのところまで行き、ノブを引いた。海辺の湿気のせいでドアは敷居にくっついていた。ドアを開けて振り返ると、彼は目を細めて突っ立っていた。怒りを押し殺して。
「またお邪魔するかもしれない」私は言った。「が、冗談をやりとりするためじゃない。話し合うべき何かを見つけたときにな」
「まだ俺が嘘をついてると思ってるんだな」彼は激怒して言った。
「腹に何かあるようだ。見なくていい顔を見すぎたせいで分かる。私には関係のないことかもしれないが。もし関係していたら、また私を放り出すことになりそうだ」
「喜んで放り出すよ」彼は言った。「今度来るときは家に連れ帰ってくれる誰かを連れてくるんだな。尻から落ちて、頭をぶち割ったときの用心に」
 それから、思いもよらないことに、彼は足もとの絨毯にぺっと唾を吐いた。
 これにはぎょっとさせられた。それはまるで、化けの皮が剥げ、路地に置き去りにされる悪童を見ているようだった。あるいは、見たところ上品な女性が、いきなり汚い言葉をしゃべり出したのを聞いているような。
「じゃあな、色男」私はそう言って、突っ立ったままの男をそこに残し、いうことを聞かないドアを力を入れて引っぱって閉めた。小径を上って通りに出た。そして、歩道の上に立って向かいの家を眺めた。

【解説】

「彼は煙草の灰を慎重にテーブルのガラス天板の上に落とした」は<He flicked cigarette ash carefully at the glass top table>。清水訳は「彼はタバコの灰をテーブルの上のガラスに無雑作に振り落とした」。田中訳は「レヴリイは、なにげない様子で、ガラス張りのテーブルの上に、タバコの灰をはじき」。両氏とも<carefully>の訳が逆だ。村上訳は「彼は煙草の灰を注意深く、グラストップのテーブルの上に落とした」。

「しっかりやることだ」は<You ought to do well at that>。清水訳は「しっかりやるんだな」。田中訳は「きみなんか、海軍士官になったらよくにあうだろう」。村上訳は「君なら立派にやれそうだ」。<ought to~>は「~するべきだ」の意味だから、つまらないヒモ暮らしをやめて、海軍でバリバリやるべきだ、というような意味だろう。田中訳や村上訳はリップサービスにしても、少々持ち上げすぎているような気がする。

「尻から落ちて、頭をぶち割ったときの用心に」は<In case you land on your fanny and knock your brains out>。清水訳は「頭からつんのめって、頭をぶち割るかもしれないよ」。田中訳は「おれにほうりなげられたら、いやというほど尻もちをついて、脳みそがとびだすぜ」。村上訳は「あんたは思い切り尻餅をついて、頭が真っ白になっているかもしれないからな」。<In case>は「万一に備えて、…の場合の用心に」などの意味。<fanny>は「尻」なので、「頭からつんのめって」はまちがい。<knock someone's brains out>は「(人)の頭をかち割る」で「頭が真っ白になる」程度ではない。

「それから、思いもよらないことに、彼は足もとの絨毯にぺっと唾を吐いた」は<Then without any rhyme or reason that I could see, he spat on the rug in front of his feet>。清水訳は「それから、私が考えつく理由は何もないのだが、彼は足もとの絨毯につば(傍点二字)を吐いた」。<without any rhyme or reason>は「筋道の通っていない、訳の分からない」の意。ここをどう訳すか。田中訳は「そして、まったく不意に、レヴリイは、足もとの絨毯の上に、ペッ、と唾をはいた」。村上訳は「そのときとくにこれという理由もなく、彼が足下の絨毯の上にぺっと唾を吐くのを私は目にした」。

レイヴァリーの部屋の調度その他からうかがえるのは、それなりの暮らしをしている男の姿である。ところが、彼はマーロウにしつこくつきまとわれたことで、突然、地の自分をさらけ出す。<without any rhyme or reason>の<rhyme>とは「韻」のこと。それまで約束通りの対応ができていたのに馬脚を現したことを言っている。清水訳は直訳過ぎるし、村上氏は「理解する」の<see>を「見る」と訳している。田中訳はさすがにこなれていて巧いものだが、原文にある、マーロウの理解を越えたという感じが伝わってこない。

「それはまるで、化けの皮が剥げ、路地に置き去りにされる悪童を見ているようだった」は<It was like watching the veneer peel off and leave a tough kid in an alley>。清水訳はベニヤ板がいきなりどけられて、タフなお兄(にい)さんが路地に姿を現したようなものだった」。田中訳は「紳士づらをしたやつが、急に化けの皮がはげ、裏街の不良になったみたいだったのだ」。村上訳は「まるでうわべの飾りが引きはがされ、裏通りのならずものがその本性を覗かせるのを目にしたときのように」。

<veneer>は「ベニヤ」のことだが、「虚飾、見せかけ」の意味がある。三氏の訳は意味の上ではその通りなのだが、<leave>(残す)という語感があまり大事にされていない気がする。マーロウが目にしたのは、一生懸命上辺を取り繕ってはいるが、その正体は路地をうろついているタフぶった青年だった。それは、正体を現したというようなものではなく、はからずも、目にすることになった下地でしかない。

『湖中の女』を訳す 第三章(2)

[<in the way of ~>は「~の点では」という条件がついている

【訳文】

 レイヴァリーは勢いよくドアを閉め、ダヴェンポートに座った。打ち出し細工を施した銀の箱から煙草を一本ひっつかんで火をつけ、いらだたし気にこちらを見た。私は向かい合って座り、相手を観察した。スナップ写真で見たとおり、美貌という点では申し分なかった。素晴らしいトルソ―と極上の腿。栗色の瞳に微かに灰白色を帯びた白眼。長めの髪はこめかみのあたりで少しカールしている。褐色の肌にはまだ放蕩の兆しは見あたらなかった。たしかにいい体つきだが、私にとってはただそれだけのことだ。ただ、女たちが彼を放っておけないのは理解できた。
「彼女がどこにいるのかをなぜ教えてくれないんだ?」私は言った。「どうせ最後には分かることだろう。今のうちに教えてくれれば、君の邪魔はしないつもりだ」
「私立探偵ごときに邪魔される俺じゃない」彼は言った。
「そういったものでもない。私立探偵というのはうるさいものだ。しつっこいし、剣突を食うのになれている。報酬をもらってるんだ。やることは他にもあるが、それと同じくらい、君の邪魔をすることに時間を使うだろう」
「いいか」彼はそう言って身を乗り出し、こちらの鼻先に煙草を突きつけた。「電報の件は知ってる。しかしそいつは戯言だ。俺はクリスタル・キングズリーとエルパソには行っていない。その電報の日づけよりずっとずっと前から彼女には会っていない。何の連絡も取っていない。キングズリーにそう言ったはずだ」
「彼には君を信じる義理はない」
「俺があいつにに嘘をつく必要がどこにある?」彼は驚いたようだ。
「どこかにあるんじゃないか?」
「いいか」彼は熱心に言った。「あんたにはそう見えるかもしれんが、それはあの女を知らないからだ。キングズリーは彼女に紐をつけていない。彼女の態度が気にくわないなら、あいつには治療法がある。独占欲に凝り固まった亭主には吐き気がする」
「もし君とエルパソに行っていないなら」私は言った。「彼女はなぜこの電報を出したんだ?」
「さっぱり見当がつかない」
「もう少しましな言い訳がありそうなもんだ」私はそう言って、暖炉の前のマンザニータの切り花を指さした。「リトルフォーン湖でとってきたのか?」
「このあたりの丘はマンザニータだらけだよ」彼は人を小馬鹿にするように言った。
「このあたりじゃ、こんなに大きく咲かない」
 彼は笑った。「五月の第三週に行ったのさ。証拠が必要なら、いくらでも見つかるよ。彼女に会ったのはそれが最後だ」
「彼女との結婚は考えもしなかったのか?」
 彼は吐いた煙の向こうから言った。「考えはしたさ。金を持ってたからな。金はいつでも役に立つ。しかし、それはとんでもない厄介を背負いこむことになる」
 私は肯いただけで何も言わなかった。彼は暖炉のマンザニータの花に目をやり、椅子にもたれて、咽喉にある強い褐色の線を見せながら煙を宙に吐いた。しばらくのあいだ私は何も言わずにいた。彼は落ち着きをなくしかけていた。さっき渡された名刺をちらっと見て言った。「スキャンダルを掘り返すのが仕事ってわけだ。順調かい?」
「自慢できるようなことは何もない。あっちで一ドル、こっちで一ドルさ」
「そして、どれもこれも汚れた金ときている」彼は言った。
「なあ、ミスタ・レイヴァリー。我々が争う必要はない。キングズリーは君が妻の居所を知っててわざと教えないと考えている。嫌がらせか、はたまた細かな心配りか知らないが」
「どちらがやつの気に入るかな?」日に灼けたハンサムな男は鼻で笑った。
「そんなこと、どっちだっていいんだ。情報さえ得られれば。君と彼女がくっつこうが、一緒にどこへ行こうが、離婚するもしないも。彼にとってはどうでもいいことだ。彼はただ、万事順調で、彼女がどんなトラブルにも巻き込まれていないことを確かめたいだけなんだ」
 レイヴァリーは興味を引かれたみたいだ。「トラブル? どんなトラブルだ?」茶色の唇の上でその言葉を舐めるように味わっていた。
「彼の考えているトラブルは君には想像もつかないだろう」
「教えてくれ」彼は皮肉っぽく懇願した。「俺の知らないトラブルがあるならぜひ聞きたいものだ」
「いうじゃないか。まともな話をする暇はなくても、気の利いた文句を言う暇はあるんだ。彼女と州境を越えたことで、我々が君をどうにかするかもしれないと思ってるのなら、その心配は無用だ」
「利いた風な口をきくな。俺が運賃を支払ったことを証明できなきゃ、何の意味もない」
「この電報には何らかの意味がある」私は頑なに言い張った。前にも何度かそう言ったような気がした。
「ただの冗談かもな。そんな悪戯ばかりしてたから。くだらないものばかりだったが、中にはたちの悪いのもあった」
「この電報のねらいとするところが分からないんだ」

【解説】

「スナップ写真で見たとおり、美貌という点では申し分なかった」は<He had everything in the way of good looks the snapshot had indicated>。清水訳は「スナップ写真が示していたとおり、ハンサムな男のあらゆる条件をそなえていた」。田中訳は「スナップ写真むきの、あらゆる肉体的好条件をそろえていた」。村上訳は「写真で見たとおりのハンサムな風貌だった」。

ここでマーロウが使っているのは、外観の美点をほめあげることで、内面との落差を際だてる、一種のレトリックだ。それを示しているのが<in the way of ~>(~の点では)という言い方だ。つまり、美貌は全て兼ね備えている(が、それ以外は見るべきものはない)ということだ。ほんとうに言いたいことは言外にあることを匂わせている。三氏の訳からは、そこがあまり伝わってこない。

「彼には君を信じる義理はない」は<He didn't have to believe you>。清水訳は「彼は君がいったことを信じていないよ」。これは<have to>をトバしている。田中訳は「キングズリイが、きみのいうことを信用するとおもうかい?」。村上訳は「彼は君の言い分を信じなくちゃならないのか?」。両氏とも疑問文にしているが、原文は平叙文だ。

「彼女の態度が気にくわないなら、あいつには治療法がある」は<If he doesn't like the way she behaves he has a remedy>。清水訳は「あの女のすることが気にいらないとなるとあの男は何をするかわからない」。<remedy>は「治療法」のことだが、この語が何を指しているのか分からない。田中訳は「クリスタルのやり方を、亭主のキングズリイが気にいらなかったら、はっきり別れりゃいい」と治療法を離婚と決めつけている。村上訳は「もし女房の素行が気に入らなければ、やつにはそれなりに打つ手があるはずだ」。

「利いた風な口をきくな」は<GO climb up your thumb, wise guy>。直訳すれば「親指を登るんだ、利口者」だが、ハードボイルド小説で、出過ぎた真似を戒めるときに使うらしい。清水訳は「きいた(傍点三字)ふうな言い方をするな」。清水訳は「だから、どうした?」。村上訳は「好きなことを思っていればいい」。

『湖中の女』を訳す 第三章(1)

<burl walnut>というのは、ふし瘤のあるウォールナット

【訳文】

 アルテア・ストリートは、深い峡谷にV字の形に広がる土地のいちばん奥にあった。北は冷たく青い海岸線がマリブあたりの岬までのび、南はコースト・ハイウェイに沿って続く断崖の上にベイ・シティの海に面した市街地が広がっていた。
 せいぜいが三、四ブロックほどの短い通りで、突き当りは大きな地所を取り囲む高い鉄柵になっていた。柵の上につけられた金箔塗りの忍び返しの向こうに、樹木や灌木、芝生やカーブを描く私道の一部は瞥見できたが、邸は見えなかった。アルテア・ストリートの内陸側にある家々はよく手入れされていて、かなりの大きさだったが、渓谷の端に散らばるバンガローはたいしたことはなかった。突き当りの鉄柵の手前、短い半ブロックにあるのはたった二軒で、道を挟んでほぼ向い合うように建っていた。小さい方が六二三番地だった。
 その前を通り過ぎ、行き止まりの半円形に舗装されたところで車を回し、引き返してレイヴァリーの家の隣の空き地の前に車を停めた。家は斜面に蔓が這うように下向きに建てられていた。よくあるタイプだ。玄関扉は道路より少し下がった位置にあり、屋根の上がパティオになっていた。寝室は地階にあり、ガレージはビリヤード台のコーナー・ポケットに似ていた。真紅のブーゲンビリアが玄関の壁でかさこそと音をたて、玄関に続く小径の敷石は苔で縁取られていた。扉は狭く、格子が嵌り、上部は尖頭アーチ型をしていた。格子の下に鉄のノッカーがあった。私はそれを叩いた。
 反応がなかった。扉の横にある呼び鈴を押した。家の中のさほど遠くないところで鳴るのが聞こえたが、やはり何も起きなかった。もう一度ノッカーを試したが答えはなかった。小径に引き返してガレージに行き、サイドが白く塗られたタイヤのついた車が見えるところまでドアを開けた。それから玄関に引き返した。
 向かいのガレージから小ぎれいな黒いキャディラック・クーペがバックで出てきて方向転換し、レイヴァリーの家の前を通り過ぎるとき速度を落とし、サングラスをかけた痩せた男が、まるでそこに私の居場所はないというように鋭く見つめた。冷たい一瞥をくれてやるとそのまま走り去った。
 私はもう一度レイヴァリーの家の小径まで戻り、何回かノッカーを叩いた。今度は結果を出した。「ユダの窓」が開き、格子の横棒越しに輝く眼をしたハンサムな男が見えていた。
「うるさいじゃないか」声が言った。
「ミスタ・レイヴァリー?」
 男は、レイヴァリーだがそれがどうした、と言った。私は格子越しに名刺を突っ込んだ。陽に灼けた大きな手が名刺をつかんだ。輝く茶色の眼が覗き窓に現れ、声が言った。「生憎だが、今のところ探偵は間に合っている」
「私はドレイス・キングズリーに雇われている」
「あいつもあんたも知ったこっちゃない」彼はそう言ってユダの窓をバタンと閉めた。私はドアの横の呼鈴に凭れ、空いた方の手で煙草を取り出し、ドアの縁の木の部分でマッチを擦った。その途端、ドアがぐいと開かれ、水着の上にタオル地のバスローブを羽織り、ビーチサンダルを履いた大男が私に向かってきた。
 私は親指を呼鈴からはなし、にやりと笑って見せた。「どうした?」私は訊いた。「怖いのか?」
「もう一度呼鈴を鳴らしてみろ」彼は言った。「通りの端まで投げ飛ばしてやる」
「子どもじみた真似をするな」私は言った。「よく分かってるはずだ。私は君と話すし、君は私と話すことになる」
 ポケットから青と白の電報用紙を取りだして輝く茶色の眼の前に掲げて見せた。彼はむっつりとそれを読み、唇を噛んでうなるように言った。
「しょうがない、入れよ」
 彼はドアを大きく開け、私はその前を通って仄暗く落ち着いた部屋に入った。値の張りそうな杏子色の中国絨毯、深々とした椅子、白いドラム型のランプ、隅にある大きな家具調蓄音機、淡い黄褐色に暗褐色が混じったモヘアを張った長くて広いダヴェンポート、そして銅の炉格子と白木の化粧枠の着いた暖炉。火は炉格子の後ろで焚かれ、一部は大きなマンザニータの切り花の陰になっていた。花はところどころ黄色くなっていたが、まだきれいだった。ガラス天板の下にバール杢の浮き出たウォールナットの低い丸テーブルの上にはVAT69のボトルとグラスを載せたトレイと銅製の氷入れがあった。部屋は家の裏手まで素通しで、突き当りのアーチの向こうに、三つの細い窓と、下に降りる階段の白い鉄の手すりの上部が数フィートばかり見えていた。

【解説】

「アルテア・ストリートは、深い峡谷にV字の形に広がる土地のいちばん奥にあった」は<Altair Street lay on the edge of the V forming the inner end of a deep canyon>。清水訳は「アルテア通りは深い谷間(たにあい)の内がわのV字型の土地の端にあった」。村上訳は「アルテア・ストリートは深い渓谷(キャニオン)の奥の、V字をなした内側の突き当りにあった」。

両氏の訳は原文にある<the inner end>を忠実に訳そうとするあまり、かえって分かりにくくなってしまった悪い例だ。「内側の端」というのは扇形のかなめにあたる場所のことだろう。田中訳は「アルテア・ストリートは、V字形に深くきれこんだ湾の、いちばん奥のところにあった」だ。<canyon>を「湾」と訳したことは合点がいかないが、「湾」を「峡谷」に替えれば最もわかりやすい訳になる。

「家は斜面に蔓が這うように下向きに建てられていた。よくあるタイプだ」は<His house was built downwards, one of those clinging vine effects>。田中訳は「傾斜にそって、上から下にたてているような家で、蔦がいっぱい壁にはっている」となっている。<clinging vine>は直訳すれば「絡みつく蔓」だが、「蔦蔓効果」などという建築様式はないので、こう訳すしかない。斜面にしがみつくように建つ家を蔓性植物に喩えたもので、実際に蔦は生えていない。清水訳は「彼の家は壁を這うツタのように下に向かって建てられ」。村上訳は「家は斜面に沿って、蔦が垂れるように、下方に向かって建てられていた。よくあるスタイルだ」。

「上部は尖頭アーチ型をしていた」は<topped by a lancet arch>。清水訳は「上部が尖頭アーチになっていた」。田中訳は「鋭角的なアーチ型で」。村上訳は「上は円弧を組み合わせた尖ったアーチになっていた」だ。<lancet arch>はゴシック建築につきものの窓の形状で、「尖頭アーチ」は一般的な呼び名になっている。村上氏のように噛みくだく必要が果たしてあるのだろうか。

「ガラス天板の下にバール杢の浮き出たウォールナットの低い丸テーブルの上にはVAT69のボトルとグラスを載せたトレイと銅製の氷入れがあった」は<There was a bottle of Vat 69 and glasses on a tray and a copper icebucket on a low round burl walnut table with a glass top>。清水訳は「盆の上にバット69の壜といくつかのグラス、クルミ材の上にガラスをおいた背の低いテーブルに銅のアイス・バケットがおいてあった」。

田中訳は「ガラス張りの、ひくい、くるみ(傍点三字)の丸テーブルの上には、スコッチウイスキーのVAT69とグラス、それに銅の氷いれがのっている」。村上訳は「グラストップの胡桃材(くるみざい)の低い丸テーブルがあり、その上にはVAT69の瓶と、いくつかのグラスを載せた盆と、銅製のアイスバケットがあった」。

<burl walnut>というのは、ふし瘤のあるウォールナットのことで、単なるクルミ材ではない。銘木と言っていい高価な材である。「グラストップ」や「アイス・バケット」のような訳語のある単語を片仮名にしておきながら、なぜ「ウォールナット」のようによく知られた木の名前をわざわざ「クルミ」に替えてしまうのだろう? 「オーク」もそうだが、間違った訳語が定着したがために別種の木だと思われている木がけっこうある。