HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『湖中の女』を訳す 第二十六章

<dismal flats>は「見すぼらしい家屋」ではなく「海岸沿いの湿地」

【訳文】

 監房棟はほとんど新品同様だった。軍艦の灰色に塗られた鋼鉄の壁や扉は、二、三ヵ所、噛み煙草の唾を吐かれて外観を損ねていたが、まだ塗りたての鮮やかな光沢を保っていた。頭上の照明は天井に埋め込まれ、厚い摺り硝子のパネルが嵌っていた。監房の片側に二段ベッドがあり、上段には濃い灰色の毛布を巻きつけた男がいびきをかいていた。こんなに早くから眠りこんで、ウイスキーやジンの匂いもさせず、眠りを邪魔されないように上の寝台を選んでいるところから見て、古くからいる下宿人にちがいない。
 私は下の寝床に腰を下ろした。銃を持っているかどうかは調べられたが、ポケットはひっくり返されなかった。煙草を取り出して、膝の裏の熱く腫れあがったところをさすった。痛みはくるぶしまで広がっていた。ウィスキーを吐いたせいで、上着の前の方が嫌な匂いがした。私は布地を持ち上げ、そこに煙草の煙を吹きかけた。煙は天井の照明を蔽う平らな矩形の硝子のまわりをたゆたった。留置場は静まり返っていた。留置場のどこか遠く、別の場所で女が金切り声を上げていた。私のところは教会のように平和だった。
 どこにいるのかしらないが、女は叫び続けていた。か細く、甲高い非現実的な声だった。月明かりに照らされたコヨーテの叫び声に似ていたが、コヨーテのように哀調を帯びて高まっていきはしなかった。しばらくすると、その音は止んだ。
 立て続けに煙草を二本吸い、吸殻を隅の小さな便器に捨てた。上段の男はまだいびきをかいていた。見えるのは毛布の端から出ているべっとりと脂ぎった髪の毛だけだ。うつ伏せに寝て、熟睡している。したたかなものだ。
 私は再び寝台に座った。細長い鉄の薄板を並べた上に薄くて固いマットレスが敷いてある。濃い灰色の毛布が二枚、なかなかきちんと畳んである。とてもいい留置場だ。新市庁舎の十二階にある。とてもいい市庁舎だ。ベイ・シティはとてもいいところだ。そこに住む人々はそう思っている。もし私が住人だったらそう思うにちがいない。私の目に映るのは、青い入り江と断崖とヨットハーバー、そして静かな通りに面した家並み。古い家々は年経た樹々の陰で鬱々とし、新しい家々は緑が目に映える芝生と金網のフェンス越しに、支柱を添えた若木が並ぶ緑地のある大通りに面している。私は二十五番通りに住んでる娘を知っていた。気持ちのいい通りだった。彼女は気立てのいい娘だった。そして、ベイ・シティが好きだった。
 彼女は、古い幹線道路の南側の低湿地帯に広がるメキシコ人や黒人のスラム街のことなど考えもしなかったろう。あるいはまた、崖の南側に伸びる平らな海岸沿いの安酒場、盛り場の汗臭い小さなダンスホールマリファナ煙草を扱う店、静か過ぎるホテルのロビーで新聞を読むふりをしながら目を光らせる細い狐顔の男、そして板張りの遊歩道の上で網を張る掏摸、ぺてん師、詐欺師、酔っぱらい専門の盗っ人、ぽん引き、男娼たちのことも。
 私は扉のそばに行って立った。向かい側には誰も動くものはいなかった。監房棟の照明は薄暗くひっそりしていた。留置場というのは因果な稼業だ。
 私は時計を見た。九時五十四分。家に帰り、スリッパに履き替えてチェスの試合を再現する時刻だ。背の高いグラスに入った冷たい酒とパイプを燻らせる長い沈黙の時間。足を投げ出して何も考えずに座る時間。雑誌を読みながら欠伸をする時間。人間として、家長として、くつろいで夜の空気を吸いながら、明日のために頭を切り替える以外に何もすることのないひとりの男になる時間だ。
 青灰色の看守の制服を着た男が、番号を読みながら監房の間を通ってきた。彼は私の房の前で立ち止まり、扉のロックを解除して、彼らがいつもいつもいつも、そうしなければならないと思い込んでいる厳しい目を私に向けた。俺は警官だ、ブラザー。俺はタフだ、気をつけろ、ブラザー。さもないと四つん這いでしか歩けなくしてやるぞ、ブラザー。しゃっきりするんだ、ブラザー。本当のことをすっかりしゃべっちまえ、ブラザー、吐くんだ。忘れるんじゃねえ、俺たちはタフガイだ。俺たちは警官なんだ。お前のような屑どもを好きなように扱えるんだからな。
「出ろ」彼は言った。
 私が監房から出ると、彼は扉の鍵をかけ直して親指をくいと動かした。私たちは大きな鉄製の門扉に向かい、彼はその鍵を開けて私たちは通り抜け、彼は鍵をかけ直した。鍵束が大きな鉄の輪の中で楽しそうな音を立てた。しばらくして、私たちは内側は軍艦の灰色に、外側は木のように塗られた鋼鉄の扉を通った。
 デガーモがカウンターの傍に立って内勤の巡査部長としゃべっていた。
 メタリック・ブルーの眼を私に向けて言った。「調子はどうだ?」
「いい」
「うちのブタ箱みたいにか?」
「いいブタ箱だ」
「ウェバー警部が会いたいそうだ」
「そいつはいい」私は言った。
「いい、という以外に言葉を知らんのか?」
「今は」私は言った. 「ここではな」 
「少し足を引きずってるな」彼は言った. 「何かにつまずいたのか?」
「ああ」私は言った。「ブラックジャックにつまずいてね。ぴょんと跳び上がって左膝の裏に咬みついたんだ」
「そいつは気の毒だ」デガーモは言った。うつろな目だ。「係の者から所持品を受け取れ」
「持ってる」私は言った。「取られなかった」
「そいつはいい」彼は言った。
「そのとおり」私は言った。「いいよ」
 内勤の巡査部長はもじゃもじゃ頭を上げ、我々二人をじっと見つめた。
「そんなに、いいものがお望みなら」彼は言った. 「クーニーのけちなアイリッシュの鼻を見てったらどうだ。ワッフルにかけたシロップみたいに顔中に広がってるぞ」
 デガーモは興味なさそうに言った。「どうした? 喧嘩でもしたのか?」
「さあね」内勤の巡査部長は言った。「例のブラックジャックがぴょんと跳び上がって咬みついたのかもな」
「内勤の巡査部長にしちゃ、ぺらぺらとよくしゃべるな」デガーモは言った。
「内勤の巡査部長は、大抵おしゃべりときてる」内勤の巡査部長は言った。「だから殺人課の警部補になれないんだろうよ」
「な、これで分かったろう」とデガーモは言った。 「ここでは、俺たちはひとつの幸せな家族みたいなもんだ」 
「満面に笑みを浮かべながら」内勤の巡査部長は言った。「歓迎の意を表して両腕を大きく広げるが、両手には石を握ってるのさ」
 デガーモが私の方を向いて顎をしゃくり、我々は外に出た。

【解説】

「監房棟はほとんど新品同様だった」は<The cell block was almost brand new>。清水訳は「留置所の監房はほとんど真新しいといってよかった」。田中訳は「ブタ箱は、ほとんど新築だつた」。村上訳は「留置場は新築同様だった」。<cell block>を辞書で引くと「独房棟」と出る。しかし、ベッドは上下二段で、先客がいるところを見ると「独房」とはいえない。<cell>だけなら「監房」ですむが<block>がついていれば「一棟」の意味だ。しかし、マーロウは通路を歩いただけで留置場のすべてを見たわけではない。自分の見た範囲という意味で「監房棟」としてみた。

「軍艦の灰色に塗られた鋼鉄の壁や扉は、二、三ヵ所、噛み煙草の唾を吐かれて外観を損ねていたが、まだ塗りたての鮮やかな光沢を保っていた」は<The battleship gray paint on the steel walls and door still had the fresh gloss of newness disfigured in two or three places by squirted tobacco juice.>

清水訳は「スチールの壁とドアの軍艦色のグレイのペンキが、吐きつけられた噛みタバコの汁で二、三カ所よごれているほかはまだ新しさを保っていた」。田中訳は「鉄の壁は戦艦のように灰色のペンキでぬつてあり、ドアのしきり(傍点三字)のところも、まだピカピカで、ほんの二、三ヵ所、嚙タバコの汗(ママ)でよごれているだけだ」。田中氏は<door still had>の<still>を<sill>と誤読したのだろう。「汗」は誤植ではないか。

村上訳は「鋼鉄の壁は軍艦の灰色に塗られ、ドアはまだ新鮮な輝きを放っていたが、二、三ヵ所に煙草の汁をつけられ、美観がそのぶん損なわれていた」。田中訳もそうだが、<the steel walls and door>はセットで訳さないとドアが何色か、分からなくなる。また単に「煙草の汁」としてしまうと、<tobacco juice>が「タバコ(嗅ぎタバコまたは噛みタバコ)によって茶色になった唾液」であることが伝わりにくい。

「彼女は、古い幹線道路の南側の低湿地帯に広がるメキシコ人や黒人のスラム街のことなど考えもしなかったろう」は<She wouldn't think about the Mexican and Negro slums stretched out on the dismal flats south of the old interurban tracks.>。清水訳は「彼女はメキシコ人と黒人のスラム街が、いまは使われていない市街電車の線路の南がわの見すぼらしい家屋にひろがってゆくのを考えていなかった」。

清水氏は<the dismal flats>を「見すぼらしい家屋」と訳し、田中訳も「陰気な、ひくい建物」になっている。村上訳は「惨めな低地」としている。一般的には「陰鬱な」と訳されることの多い<dismal>だが、二つの辞書に「(太平洋海岸沿いの高地の)湿地(米方言)」、「(米南部)海岸沿いの湿地」という別解があった。また、<flat>は「家賃の低いアパート」の意味もあるが、<flats>のように複数形になると「平地、浅瀬、湿地、干潟」の意味になる。

「あるいはまた、崖の南側に伸びる平らな海岸沿いの安酒場、盛り場の汗臭い小さなダンスホール」は<Nor of the waterfront dives along the flat shore south of the cliffs, the sweaty little dance halls on the pike>。清水訳は「崖の南がわの海岸にそってならんでいる曖昧(あいまい)宿、汗くさい、ちっぽけなダンスホール」と<on the pike>をスルーしている。

田中訳は「また、南の断崖のむこうには、海岸にそつて埠頭があり、通りには、汗くさい、小汚いダンスホールが並び」と<dives>をカットしている。<on the pike>は「通りには」と訳されている。村上訳は「あるいはまた、崖の南側に沿って並んだ、海辺の曖昧宿のことも、尾根にある汗臭い小さなダンスホールのことも」と<on the pike>を「尾根にある」と訳している。

<pike>には「槍、キタカワカマス(魚)、有料道路、尖峰」等の意味がある。村上氏の「尾根」は「尖峰」から来ているのだろうが、海岸線に沿った猥雑な界隈を眺めていた視線が、唐突に何処とも知れぬ尾根に移るのはどうだろう。1902年にカリフォルニア州ロングビーチにできた娯楽施設に<the Pike>というのがある。海岸沿いの立地、複合的な遊興施設という意味で、その<the pike>を使ったと考えられないだろうか。

「留置場というのは因果な稼業だ」は<Business in the jail was rotten>。清水訳は「留置所はさびれていた」。村上訳は「留置場はいかにも閑散としていた」。<rotten>は「腐った、(道徳的に)腐敗堕落した」という意味だが、「寂れた、閑散とした」という意味はない。<rotten busines>には「因果な商売(稼業)」という意味がある。おそらく、これを使ったのだろう。どうしたことか、田中訳にはこの文を含む四つの文からなるセンテンスが見られない。うっかりして、読みトバしたのかもしれない。

<「満面に笑みを浮かべながら」内勤の巡査部長は言った。「歓迎の意を表して両腕を大きく広げるが、両手には石を握ってるのさ」>は<“With beaming smiles on our faces,” the desk sergeant said, “and our arms spread wide in welcome, and a rock in each hand.”>。ところが、清水訳にはこの部分が欠落している。章の結びにあたるところでもあり、うっかりミスとは考えにくい。田中訳といい清水訳といい、この章には遺漏が多い。何かわけでもあるのだろうか。

 

『湖中の女』を訳す 第二十五章

<touched>は「気がふれた、頭が変だ」


【訳文】

 ウェストモアは街外れを南北に走る通りだ。私は北に向かって車を走らせた。次の角で、もう使われていない都市間鉄道の線路をがたごとと横切り、一区画まるごと廃車置き場になっているブロックに入った。木製のフェンスの向こうには、解体された古自動車の残骸がグロテスクな格好で山と積まれ、まるで近代戦の戦場のようだ。月の下で錆びた部品の山はごつごつして見える。屋根の高さまで積み上げられた部品の間に細い道が通じていた。バックミラーにヘッドライトが光った。光が大きくなる。私はアクセルを踏み、ポケットからキーを取り出してグローブボックスの鍵を開けた。三八口径を取り出してシート上に置き、脚の横に寄せた。
 廃車置き場の向こうは煉瓦工場だった。荒れ地のずっと向こう、窯の上に突き出た高い煙突に煙は出ていない。暗い煉瓦の山、看板のある低い木造の建物、空っぽで、動くものもない、明かりもない。
 後ろの車が差を詰めた。やや狂気を帯びたサイレンが低い唸り声を上げて夜を抜けてきた。その音は、東は放置されたゴルフ場のへりをかすめ、西は煉瓦工場を横切っていった。私はもう少しスピードを上げたが、何の役にも立たなかった。後ろの車が急接近してきて、巨大な赤いスポットライトがいきなり道路一面を照らし出した。
 その車は横並びになり、割り込みはじめた。私はクライスラーを急停止し、パトカーの後ろに回り込んで、半インチの余裕をもってUターンし、逆方向にエンジンをふかした。後ろで、荒っぽいギア鳴りと激怒したエンジンの咆哮が聞こえ、赤いスポットライトが煉瓦工場を何マイルも越え、あたりをなめまわした。
 無駄骨だった。彼らはすぐ私の背後に迫り、スピードを上げてきた。逃げおおせると思ったわけではない。私としては、人家のあるところまで戻れば、何ごとかと通りに出てきた人の目に留まり、もしかしたら覚えておいてもらえるかと思ったのだ。
 思ったようにはいかなかった。パトカーがまた横に並び、耳障りな声が怒鳴った。
「路肩に寄せろ。さもないと風穴をあけるぞ!」
 私は道路脇に車を停め、ハンドブレーキを引いた。銃をグローブ・ボックスに入れ、音を立てて蓋を閉じた。私の左フロントフェンダーのすぐ前でパトカーのスプリングが跳ね上がった。太った男がドアをバタンと閉めて車から飛び出てきて怒鳴った。
「警察のサイレンを聞いたことがないのか? 車から降りるんだ!」
 私は車から出て、月光の下、車の横に降り立った。太った男は銃を手にしていた。
「免許証をよこすんだ」シャベルのブレードぐらい固い声で吠えた。
 私は免許証を差し出した。車に乗っていた別の警官がハンドルの下から滑り出て、傍にやってきて私の手から免許証を受け取り、懐中電灯をつけて読んだ。
「名前はマーロウ」彼は言った。「何てこった。探偵だとよ。こいつは傑作だ。クーニー」
 クーニーは言った。「それだけか? じゃ、これはいらないな」彼は銃をホルスターに戻し、革製のフラップをボタンで留めた。「俺の小さな手で間に合うだろう 」彼は言った。「まかせとけ」
 もう一人が言った。「五十五マイル出てる。飲んでるな。まちがいなく」
「匂いを嗅いでみな」クーニーが言った。
 もう一人の警官は礼儀正しく薄笑いを浮かべながら身を乗り出した。「匂いを嗅がせてもらうよ、探偵さん?」
 私は匂いを嗅がせた。
「ふうむ」と彼は慎重に言った。「ふらついてはいない。それは認めるよ」
「夏にしちゃ冷える夜だ。一杯飲ませてやったらどうだい。ダブス巡査」
「そいつはいい考えだ」ダブスは言った。彼は車に戻り、半パイント入りのボトルをとってきた。まだ三分の一残っていた。「あんまり残っちゃいないが」彼は言った。彼はボトルを差し出した。「景気づけに一杯やりな」
「飲みたくないといったらどうする」私は言った。
「そんなこと言うなよ」クーニーは鼻を鳴らした。「腹をふんづけて欲しいのか、と考えてしまうだろうが」
 私はボトルの栓を開けて匂いを嗅いだ。ボトルの中に入っていた酒はウィスキーのような匂いがした。ただのウィスキーだ。
「年がら年中、同じギャグばかりじゃ仕事は勤まらないぜ」私は言った。クーニーが言った。「八時二十七分。記録しておけ、ダブス巡査」
 ダブスは車に戻って中に屈みこんで報告書に書いた。私はボトルを持ち上げてクーニーに言った。「どうしてもこれを飲めと?」
「いや、 代わりに、腹にジャンプしてもらうこともできる」
 私はボトルを傾けて、口にウィスキーを含んだが、喉の奥には入れなかった。クーニーは突進してきて、私の腹に拳を叩き込んだ。私はウィスキーを吐き出してむせた。手からボトルが落ちた。
 それを拾おうと前屈みになったところへ、クーニーの太った膝が、顔めがけて上がってきた。私は脇に寄ってからだを起こし、ありったけの力で相手の鼻を殴りつけた。彼は左手で顔をおさえ、うめき声をあげながら、右手をホルスターに伸ばした。ダブスが横から走ってきて、低い位置で腕を振り回した。ブラックジャックが私の左膝の裏側を打って、足が痺れ、私は地べたに座り込み、歯を食いしばってウイスキーを吐き出した。
 クーニーは血まみれの顔から手を離した。
「ちくしょう」彼はぞっとするようなだみ声で言った。「これは血だ。俺の血だ」。彼は荒々しい唸り声を上げ、私の顔に向かって足を振り下ろした。
 私は転がって肩でそれを受けた。それでも痛いことに変わりはなかった。
 ダブスは二人の中に割って入り、言った。「もう充分だ。チャーリー。ぶち壊しにしない方がいい」
 クーニーは、足を引きずって後ろに三歩下がり、パトカーのランニングボードに座り込んで顔を押さえた。彼は手探りでハンカチを探し、鼻にそっとあてた。
「ちょっと待ってくれ」ハンカチ越しに彼は言った。「ちょっとでいい。ほんのちょっと」
 ダブスは言った。「落ち着け。もう充分だ。仕方ないだろう。世の中そうしたもんだ」彼は脚の横でブラックジャックをゆっくり揺らしていた。クーニーはランニングボードにつかまって起き上がり、よろよろと前に進んだ。ダブスは彼の胸に手を添えてそっと押し返した。クーニーは手をどけようとした。
「俺は血が見たいんだ」彼は叫んだ。「もっと血が見たい」
 ダブスはそっけなく言った。「何もするな。落ち着け。欲しいものはみんな手に入れた」 クーニーは振り向いて、重い足どりでパトカーの向こう側に歩いて行った。 車に寄りかかって、ハンカチ越しにぶつぶつつぶやいていた。 ダブスは私に言った。
「立ちな、ボーイフレンド」
 私は立ち上がり、膝の裏を揉んだ。足裏の神経は怒れる猿のように跳ね上がった。
「車に乗れ」ダブスは言った。「我々の車だ」
 私はパトカーまで行って乗り込んだ」
 ダブスは言った。「君はもう一台の方を運転するんだ。チャーリー」
「俺はこの車のフェンダーを全部引きちぎってやるぜ 」クーニーは叫んだ。
 ダブスはウィスキーのボトルを拾い上げ、フェンスの向こうに投げ、私の横に滑り込んだ。彼はスターターを押した。
「こいつは高くつくぜ」彼は言った。「あいつを殴るべきじゃなかった」
 私は言った。「どこがいけない?」
「あいつはいいやつだからだ」ダブスは言った。「少しやかましいが」
「だが、面白くない」私は言った。「これっぽっちも面白くない」
「あいつには言うなよ」ダブスは言った。パトカーは動き出した。「彼の気持ちを傷つけてしまう」
 クーニーはクライスラーに乗り込むと、ドアをバタンと閉めてエンジンをかけた。そして、まるで歯車をすり減らそうとしているみたいに、ギアをガリガリと鳴らした。ダブスはパトカーを難なく運転して、再び煉瓦工場に沿って北に向かった。
「新しいブタ箱は、きっと気にいるよ」彼は言った。
「何の罪だ?」 彼はしばらく考えた後、馴れた手つきで車を操り、クーニーが後ろに続いているのをバックミラーで見ていた。 
「スピード違反」と彼は言った。「公務執行妨害。 H.B.D.」。H.B.D.は「飲酒運転(had been drinking)」を意味する警察のスラングだ。
「腹を殴られ、肩を蹴られ、危害を加えると脅されて酒を飲まされ、銃で脅され、ブラックジャックで殴られた。それも丸腰でだ。これについてはどう考えてるんだ? こっちの方をいくらかでも活用することはできないのか?」
「忘れてしまうことだ 」と彼は疲れたように言った。「こんなことを俺が楽しんでるとでも思っているのか?」
「この街も少しはきれいになったと思ってたんだ」私は言った。「まっとうな人間なら、防弾チョッキなしで夜の通りを歩けるくらいには」
「いくらかはきれいになった」彼は言った。「きれいになり過ぎると困る者もいる。汚い金が入って来なくなるのが怖いんだ」
「そういうことは言わない方がいい」私は言った。「組合員証をなくすことになる」
 彼は笑った。「知ったことか」彼は「二週間後には陸軍に入るんだ」
 彼にとって、この事件は終わったのだ。何の意味もなかった。彼はそれを当然のこととして受け止めていた。苦にしてさえいなかった。

【解説】

「やや狂気を帯びたサイレンが低い唸り声を上げて夜を抜けてきた」は<The low whine of a lightly touched siren growled through the night>。清水訳は「サイレンの低い呻きが夜の闇をつんざいて聞こえた」。<a lightly touched>はスルー。田中訳は「調子のいいサイレンの音が、夜の闇のなかに響いてきた」。村上訳は「軽く押されたサイレンの低く唸るような響きが、夜の闇を貫いて聞こえた」だ。

当時のアメリカのパトカーのサイレンがどんな仕組みか知らないが、クラクションではあるまいし、「軽く押された」というのはどうだろう。それに、軽く押された」と「低くうなる」では辻褄が合わない。章の冒頭から、陰鬱で物寂しい情景描写が続いている。田中訳の「調子のいい」というのも、その場の雰囲気にそぐわない。<touch>は通例<touched>と、過去分詞で形容詞的に用いられるときは「気がふれた、頭が変だ」のように「(人の)精神が損なわれている」の意味になる。

「太った男がドアをバタンと閉めて車から飛び出てきて怒鳴った」は<A fat man slammed out of it roaring.>。清水訳は「ふとった男が大声でどなりながら車から出てきた」。田中訳は「デブのお巡りが、わめきながらおりてきた」。両氏が「どなる」わめく」と訳したのは<roaling>。では、<slammed out>はどうなったのか? <slam (out)>は「ドアをバタンと閉める」こと。村上訳は「太った男が怒声をあげながら、ドアをばたんと閉めて車から出てきた」。わけは知らないが、村上氏は擬音をひらがなで書くのを好む。

「五十五マイル出てる。飲んでるな。まちがいなく」<Doing fifty-five. Been drinking, I wouldn't wonder.>。清水訳は「五十五マイル出てた。飲んでるんだろう」。田中訳は「制限速度以上に五十五マイルで走つてた。飲んでたんだろう。まちがいない」。村上訳は「スピード違反に、飲酒運転。その線でいいな」。後で出てくる罪状に合わせたのだろうが、いくら初めからそうする気でも、被疑者の前で「その線でいいな」と言うのは乱暴に過ぎる。

「まるで歯車をすり減らそうとしているみたいに、ギアをガリガリと鳴らした」は<clashed the gears as if he was trying to strip them.>。清水訳は「乱暴にギアを入れた」。田中訳は「ギヤがぶつこわれたかと思うぐらい、ガリガリ鳴らした」。村上訳は「ギアを派手にクラッシュさせた。まるでギアを粉々にしてしまいたいみたいに」。<strip>は「ねじ山をすり減らす」、<clash>は「大きな金属音を立てる」という意味。「クラッシュさせる」の英訳は<crush>で、こちらは「押しつぶす」の意。もしかしたら村上氏は両者を取り違えたのではないか。

 

『湖中の女』を訳す 第二十四章

<play one's cards right>は「うまく立ち回りさえすれば」

【訳文】

 ウェストモア・ストリートの家は、大きな家の後ろにある小さな木造の平屋だった。小さい方の家に番号表示はなかったが、手前の家のドアの横にステンシルで1618と型抜きがされ、裏に薄明かりが点っていた。コンクリートの狭い小径が窓の下を通って奥の家まで続いている。小さなポーチの上には一人掛けの椅子がひとつ置いてあった。私はポーチに上がり、呼鈴を鳴らした。
 そんなに遠くないところでベルが鳴った。網戸の後ろで玄関ドアが開いたが、明かりはつかなかった。暗闇の中から不平たらたらの声がした。
「なによ?」
 私は暗闇に向かって言った。「ミスタ・タリーはご在宅ですか?」
 声は単調で抑揚を欠いていた。「あんた誰?」
「友人です」
 暗闇の中に座っていた女は、喉の奥の方で曖昧な音を立てた。面白がっていたのかもしれない。それとも、ただの咳払いか。
「はいはい」彼女は言った。「で、いくらなの?」
「取り立てじゃありません。ミセス・タリー。ミセス・タリーですよね?」
「ねえ、頼むから消えて、私を放っておいて」声は言った。「ミスタ・タリーはここにいない。ずっといなかったし、これから先もいない」
 私は鼻を網戸に押しつけて部屋の中をのぞこうとした。家具の輪郭がぼんやり見えた。声がしたところにソファの形も見えた。女はそこに寝そべっていた。仰向けに寝て天井を見上げているようだ。ぴくりとも動かない。
「具合が悪いの」声が言った。「もめ事はもうたくさん。帰って、私にかまわないで」
 私は言った。「グレイソン夫妻と話をしてきたところなんです」わずかな沈黙が続いたが、動きはなく、それからため息が漏れた。「そんな人、知らない」
 網戸のドア枠に体をもたせ、通りに続く狭い通路を振り返った。駐車灯をつけた車が一台、道の向こうにいた。ブロックに沿って他に何台か停まっていた。
 私は言った。「いや、あなたは知ってるはずだ、ミセス・タリー。私は彼らのために働いている。彼らはまだあきらめず頑張っています。あなたはどうです。取り戻したいと思いませんか?」
 声が言った。「私は放っておいてほしいの」
「情報が欲しいんです」私は言った。「私はそれを手に入れるつもりだ。できれば穏やかに。それができなければ、大声を出してでも」
 声は言った。「あんたも、警官なの?」
「私が警官じゃないことは知ってるでしょう、ミセス・タリー。グレイソン夫妻は警官と話したりしない。お二人に電話して訊いてみればいい」
「そんな人のことは知らない」という声が聞こえた。「もし、知ってても、ここには電話がない。帰ってよ、お巡りさん。具合が悪いの。ここひと月ずっと病気なの」
「私の名前はマーロウ」私は言った。「フィリップ・マーロウロスアンジェルスの私立探偵だ。グレイソン夫妻と話をしてきた。つかんだことがあるんだが、ご主人と話がしたい」
 ソファの上の女は、こちらに届くか届かないくらい微かな笑い声を立てた。「つかんだ ことがある」と彼女は言った。「聞き覚えのある台詞ね。やれやれ。つかんだことがある。ジョージ・タリーも、つかんだことがある。一時はね」
「またつかむこともできる」私は言った。「うまく立ち回りさえすれば」
「そういうことなら」彼女は言った。「彼の名前は今すぐリストから消した方がいい」
 私はドアの枠に寄りかかり、そうする代わりに顎を掻いた。表通りで誰かが懐中電灯をつけた。なぜかはわからない。灯りがまた消えた。私の車の近くのようだった。
 ソファの上のぼんやりした青白い顔が消え、かわりに髪が現れた。女は顔を壁に向けた。
「疲れた」彼女は言った。壁に向かって話しているので声がくぐもっていた。「心底くたびれた。出てってよ、ねえ。おとなしく帰って」
「少し金の助けを借りるというのはどうかな?」
「葉巻の匂いがしない?」
 嗅いでみた。葉巻の匂いはしなかった。私は言った。「しないね」
「ここにお巡りがいたの。ここに二時間もよ。何もかもうんざり。出て行って」
「考えてみてくれ。ミセス・タリー」
 彼女はソファの上で寝返りをうった。ぼんやりとした顔がまた見えた。はっきりとではないが、もう少しで目が見えそうだった。
「あんたの方こそ、考えてもみて」彼女は言った。「私はあんたを知らない。知りたくもない。話すことなど何もない。もし、あったとしても話すつもりはない。私はここで生きている。もし、これで生きていると言えたらね。とにかく、かろうじて生きてはいる。私のことは、静かにそっとしておいてほしいの。もう帰って、私を一人にしておいて」
「中に入れてくれないか」私は言った。「この件について話し合おう。見せるものがある」
 彼女は突然ソファの上でこちらに向き直り、両足で床を打った。声が怒りを帯びた。
「出て行かないと」彼女は言った。「大声を出すわよ。さあ、今すぐに!」
「オーケイ」私はあわてて言った。「名刺をドアに挟んでおく。名前を忘れないように。もしかして気が変わったときのために」
 名刺を取り出して網戸の隙間に差し入れた。私は言った。「それじゃ、おやすみ。ミセス・タリー」
 返事はなかった。部屋の奥から目がこちらを見ていた。暗闇の中で微かに光って見えた。私はポーチから下り、狭い小径を歩いて通りに引き返した。
 通りの向こうでは、駐車灯をつけた車が、静かなエンジン音を立てていた。至るところ、何千もの通りで、何千もの車が、静かなエンジン音を立てている。私はクライスラーに乗り込み、エンジンをかけた。

【訳文】

「大きな家の後ろにある小さな木造の平屋だった」は<a small frame bungalow behind a larger house>。清水訳は「一軒の大きな邸のうしろの小さなバンガロウだった」。田中訳は「大きな家のうしろにある、ちいさな、木造のバンガロー風の建物だつた」。村上訳は「小ぶりな木造バンガローで、大きな家の背後にあった」。日本で「バンガロー」といえば、キャンプ場のあれを指すが、あれは英語では<hut>。<bungalow>は、通例平屋で正面に広いベランダがついた一戸建て住宅を意味する。

「手前の家のドアの横にステンシルで1618と型抜きがされ」は<the one in front showed a stencilled 1618 beside the door>。もしかすると、目的の家は1618番地内に建てられたセカンド・ハウスだったという可能性もある。<1618½>は、そういう意味だったのかもしれない。もし、そうだとすると田中訳の「一六一八ノ二」あたりが、適訳ということになる。

「ミスタ・タリーはここにいない」は<Mr. Talley isn't here>。自分の夫を、ミスタ呼ばわりするのは、かなり他人行儀な態度だ。タリーという人物に対するわだかまりが感じられる。ここはそのまま訳すべきだろう。ところが、清水訳は「タリーはいないわ」。田中訳は「うちのひとはいないわ」。村上訳は「主人はここにいない」。三氏とも、わざわざ自分の夫であることが分かるように訳している。小さな親切、大きなお世話というものだ。

「声がしたところにソファの形も見えた」は<From where the voice came from also showed the shape of a couch>。清水訳は「声のする方に長椅子がおいてあるようだった」。田中訳は「声がするほうには、長椅子のかたちが見えた」。村上訳は「声の聞こえてくるあたりにはソファのような形が見えた」。<couch>は「寝椅子」や「長椅子」と訳されることが多い。家具としては、両肘掛けが「ソファ」、片肘掛け、あるいは肘掛けなしが「カウチ」と分類されるようだが、アメリカで<couch>といえば「ソファ」のことだ。

「うまく立ち回りさえすれば」は<if he plays his cards right>。清水訳は「使うカードをまちがえなければね」。田中訳は「へんなことをしなければ」。村上訳は「カードを正しく扱えばね」。<play one's cards right>は、カードゲームから出てきたフレーズ。「(いかさまをせずルールにのっとって)しっかり事を運ぶ」という意味で使われる。

 

『湖中の女』を訳す 第二十三章(2)

<fussy about>は「(小さなことに)こだわる」

【訳文】

 私はミセス・グレイソンを見た。手は動き続けていた。もう一ダースは靴下を繕い終えていた。グレイソンの長い骨ばった足で、靴下はすぐ傷むのだろう。
「タリーに何が起きたんです? はめられたんですか?」
「疑いの余地がない。彼の奥さんはひどく腹を立てていた。奥さんの話では、バーで警官と飲んでいて、一服盛られたようだ。道の反対側にパトカーが待っていて、彼が運転を始めると、すぐに逮捕されたらしい。その上、留置場ではお座なりの検査しか受けていない」
「それにたいした意味はありません。逮捕された後で奥さんに言ったことです。誰だってそれくらいのことは言いますよ」
「私だって警察が不正をしてるとは考えたくない」グレイソンは言った。「しかし、そういうことは現に起きているし、誰でも知っている」
 私は言った。「もし、警察がお嬢さんの死に関してうっかりミスをしていたなら、それをタリーに暴露されたくはなかったでしょう。何人かの首が飛ぶ話です。もし、警察が彼の本当の狙いが強請りだと考えたなら、彼をどう処理するかでそこまで気を揉まなくてもよさそうなものだ。タリーは今どこにいるんです? 要するに、確かな手がかりがあるとして、彼はそれを手に入れたか、追跡中で、自分が探しているものを知っていたということです」
 グレイソンは言った。「彼がどこにいるのかは知らない。刑期は半年だったが、とうの昔に終わっている」
「奥さんの方はどうしてます?」
 彼は自分の妻を見た。彼女はそっけなく言った。「ベイシティ、ウェストモア・ストリート、一六一八番地南。ユースタスと私は、彼女に少しばかりお金を送りました。一人残されて暮らしに困っていたから」
 私は住所を書き留め、椅子の背に凭れて言った。
「今朝、誰かがレイヴァリーを撃ち殺しました。彼の浴室で」
 グレイソン夫人のふっくらとした手が籠の端で動かなくなった。グレイソンはパイプを握り、口を開いて座っていた。そして、死体を目の前にしているように、軽く咳払いをした。古びた黒いパイプが、気づかないほどゆっくり動いて歯の間に戻った。
「もちろん、期待のしすぎかもしれないが」と彼は言いかけ、宙に浮いた言葉に吹きかけるように淡い煙を少し吐いて、続けた。「アルモア医師はそれに関係しているのだろうか」
「そう考えたいところです」私は言った。「だいいち、住まいが目と鼻の先だ。警察は私の依頼人の夫人が彼を撃ったと考えています。警察が彼女を見つけたら、事件は解決したようなもの。ですが、もしアルモアが絡んでいるとしたら、それはきっとお嬢さんの死に起因してるはず。だからこそ、私はそのことについて何かを見つけようとしているのです」
 グレイソンは言った。「一つの殺人を犯した者は、次の殺人を犯すことに、二五パーセント以上躊躇はしないだろう」彼はこの問題について考え抜いたかのように言った。
 私は言った。「そうかもしれません。最初の殺人の動機として何が考えられますか?」
「フローレンスは放縦だった」彼は悲しげに言った。「わがままで手に負えない娘だった。浪費家で金遣いが荒く、いつも、どうにも信用できそうにない友だちを新しく見つけてきた。大きな声でよくしゃべり、たいていは道化役を演じていた。あんな妻は、アルバート・S・アルモアのような男にとっては爆弾を抱えているようなものだ。しかし、それが最大の動機だとは思えない。そうじゃないか、レティ?」
 彼は妻を見たが、妻の方は彼を見なかった。かがり針を丸い毛糸の玉に突き刺したきり、何も言わなかった。
 グレイソンは溜め息をついて続けた。「どうやら、フローレンスは彼が診療所の看護婦とできていることを、みんなに言いふらすと脅していたようだ。彼は放っておけなかったんだろう。一つのスキャンダルは易々と別のスキャンダルにつながりかねないからね」
 私は言った。「彼はどうやって殺したんです?」
「もちろん、モルヒネだ。彼はどんな時も持ち歩いていて、いつも使っていた。モルヒネの使用に関しては専門家だった。娘が深い昏睡状態になってから、ガレージに運んで、エンジンをかけたんだ。知っての通り、検死はなかった。しかし、もし解剖されていたなら、その夜、娘が皮下注射をされていたことがわかったはずだ」
 私はうなずいた。彼は満足そうに椅子の背に凭れ、片手を頭に持って行き、それから顔を撫でるように下ろし、骨ばった膝の上に落とした。彼はこの局面についても研究を重ねてきたようだ。
 私は彼らを見た。年老いた二人が静かに座って、事件から一年半もの間、憎しみという毒を心に注ぎ続けている。アルモアがレイヴァリーを撃ったと分かれば、彼らは喜ぶことだろう。大喜びするに違いない。きっとその知らせは彼らのくるぶしまで温めてくれるだろう。
 しばらくしてから私は言った。「あなたは多くのことを信じておられる。自分がそうしたいという理由でね。彼女が自殺した可能性だってあるし、隠蔽工作は、ひとつはコンディの賭博場を守るため、もう一つは、アルモアが公聴会で質問されるのを防ぐためだったとも考えられる」
「ばかな」グレイソンは語気を荒げた。「彼が娘を殺したに決まってる。娘はベッドにいた。眠ってたんだ」
「分かりませんよ。娘さん自身が麻薬を常用していたかもしれません。麻薬に耐性ができていたのかもしれない。その場合、効果は長くは続きません。夜中に起きて、ガラスに映った自分を見て、悪魔が自分を指差しているのを見たかもしれない。そういうこともあります」
「これくらい相手をすれば、もう充分だろう」グレイソンは言った。
 私は立ち上がった。私は二人に礼を言い、ドアに向かって一ヤードほど行ってから言った。「タリーが逮捕された後、この件について何もなされなかったんですか?」
「リーチという地方検事補に会った」グレイソンは不満たらたらだった。「骨折り損だった。検事局には干渉する正当性がないという見解だ。麻薬の件にも無関心だった。しかし、コンディの店はひと月ばかり後に閉鎖された。何かのきっかけにはなったのかもしれない」
「ベイシティの警察がこっそり逃がしたんでしょう。探す気さえあれば、コンディはどこか別のところで見つかりますよ。 賭博台やらなにやら、前の店そっくりそのままで」
 私はまたドアのほうに歩きかけた。グレイソンは椅子から立ち上がり、足を引きずるように部屋を横切って私の後についてきた.。黄色い顔に赤みが差していた。
「無礼な真似をするつもりはなかった」彼は言った. 「レティと私は、この事件について、こんなふうにくよくよ思い悩むべきではないんだろう」
「お二人ともよく我慢されたと思います」私は言った。「まだ名前があがっていない、他の誰かがこの件に関わっていませんでしたか?」
 彼は頭を振って、それから妻の方を振り返った。彼女の両手は卵形のかがり用裏当ての上で修繕中の靴下を握ったまま動きをとめていた。少し首を傾げていた。耳を澄ましているようにも見えたが、私たちの話にではなかった。
 私は言った。「私が耳にした話では、アルモア医師の診療所の看護師があの夜、彼女をベッドに寝かせたそうですが、それが彼の浮気相手でしょうか?」
 ミセス・グレイソンが急に口を挟んだ。「ちょっと待って。私たちはその人に会ったことはないけど、なんだか可愛い名前でした。もう少し時間をちょうだい」
 一分ほども待ったろうか。「ミルドレッド・なんとか」彼女はそう言って歯を鳴らした。
 私ははっと息を呑んだ。「まさか、ミルドレッド・ハヴィランドじゃないでしょうね? ミセス・グレイソン?」
 彼女は明るく微笑んでうなずいた。「そうよ、ミルドレッド・ハヴィランド。覚えてるでしょ、ユースタス?」
 彼は覚えていなかった。彼はまちがった厩舎に入り込んだ馬のように我々を見た。彼はドアを開けながら言った。
「それが、何か?」
「タリーは小柄な男だって言いましたよね?」私はなおも食い下がった。「例えばの話ですが、声も態度も大きい、いかつい大男ではありませんね?」
「いいえ」ミセス・グレイソンは言った。「タリーさんは中背ともいえないくらいで、中年で茶色っぽい髪をした、とても穏やかな声で話す人でした。少し心配そうな表情をしてました。何というか、いつも心配事を抱えている人みたいな」
「その必要があったようですね」私は言った。
 グレイソンが骨ばった手を出し、私はそれを握った。タオル掛けと握手しているような気がした。
「もし彼を捕まえたら」彼はそう言ってパイプのステムを口にしっかりくわえた。「請求書を持ってまた来てくれ。もちろん、アルモアを捕まえたら、ということだよ」
 私は、アルモアのことだとわかっているが、請求書は要らないだろうと言った。
 私は静かな廊下を戻った。自動運転のエレベーターは、赤いフラシ天の絨毯が敷かれていた。年ふりた香水の匂いがした。お茶を飲む三人の寡婦といった趣きの…。

【解説】

「もし、警察が彼の本当の狙いが強請りだと考えたなら、彼をどう処理するかでそこまで気を揉まなくてもよさそうなものだ」は<If they thought what he was really after was blackmail, they wouldn't be too fussy about how they took care of him>。清水訳は「彼がねらってたのが恐喝だったと警察が考えたとしたら、警察は彼を始末するのにいろいろと騒ぎ立てなかったでしょう」。

村上訳は「でももしタリーの目的が脅迫にあるとわかれば、警察は必死になって彼をどうこうしようとまでは思いますまい」。ところが、田中訳だけは「また、タリイがドクター・アルモアをゆするタネをさがしてると警察で信じこんでいたら。あらつぽいまねもへいきでやつたにちがいない」と逆になっている。<fussy about ~>は「~を気にする、(小さなことに)こだわる」という意味で「騒ぎ立てる」や「必死になって」ということではない。

「ベイシティ、ウェストモア・ストリート、一六一八番地南」は<1618Ѕ Westmore Street, Bay City>と書かれているテクストと<1618½ Westmore Street, Bay City>となっている二通りのテクストがあるようだ。清水訳と村上訳は<1618½>のようだ。田中訳は「一六一八ノ二」としている。アメリカの住所表示は、交差する二本の通りを基準にして、数字の後に方角を示す、NEWSのうちのどれか一文字をつける。通りの名前が一つの場合、後ろに<S>があるなら、その通りは東西に延びているということだ。

「ベイシティの警察がこっそり逃がしたんでしょう」は<That was probably the Bay City cops throwing a little smoke>。清水訳は「おそらくベイ・シティの警察が少々動いたのでしょう」。田中訳は「それは、ベイ・シティの警察が、煙幕を張つてるんでしよう」。村上訳は「ベイ・シティ―の警察が多分少しばかり煙幕を張ったのでしょう」。<throw smoke>は「退屈なパーティーや会場から、さよならを言わずに気付かれずに逃げること」を表すスラング

「彼女の両手は卵形のかがり用裏当ての上で修繕中の靴下を握ったまま動きをとめていた」は<Her hands were motionless holding the current sock on the darning egg>。清水訳は「夫人の手は編みかけているソックスを持ったまま動かなかった」と<the darning egg>をトバしている。田中訳は「ミセズ・グレイスンは、かがり玉の上にべつの靴下をかぶせていたが、その手はじつと動かなかつた」。<darning egg>は「かがり縫いの時に穴に当てる、石や陶器などでできた卵形の道具」のこと、村上訳は「彼女の手は卵形のかがりもの(傍点五字)用裏当ての上に修繕中の靴下を置いたまま、じっと止まっていた」。

「私ははっと息を呑んだ」は<I took a deep breath>。清水訳は「私は息を深く吐いた」。田中訳はここをカットしている。村上訳は「私はひとつ深く呼吸をした」。<take a deep breath>を辞書で引けば「深呼吸する」と出てくる。だが、文脈から考えた場合、こういう時、息は「吐く」ものか、「呑む」ものか。あるいは、「呼吸」するものか。驚いた時などに一瞬、息を止めることを「息を呑む」という。マーロウは「ミルドレッド」の名を聞いたとき、びっくりしたはずだ。ここは「息を呑んだ」のではないだろうか。

「年ふりた香水の匂いがした。お茶を飲む三人の寡婦といった趣きの…」は<It had an elderly perfume in it, like three widows drinking tea>。清水訳は「紅茶を飲んでいる三人の未亡人のような年老いた匂いがただよっていた」。田中訳は「未亡人が三人集まつてお茶を飲んでる時のような、なんだかばあさんくさい香水のにおいがした」。村上訳は「エレベーターには古くさい香水の匂いがした。お茶を飲んでいる三人の未亡人くらい旧弊な匂いだった」。好みが分かれるところだが、章の終わりらしく決めたいところだ。

 

『湖中の女』を訳す 第二十三章(1)

<mean business>は「(冗談ではなく)本気だ」という意味

【訳文】

 ロスモア・アームズは大きな前庭を囲むように建つ、暗赤色の煉瓦造りの陰気な建物だった。フラシ天を張り廻らしたロビーの中には、静寂、鉢植えの植物、犬小屋みたいに大きな籠に入れられて退屈しきったカナリア、古い絨毯の埃の匂い、そして、時を経た山梔子のうんざりするほど甘い香りが収まっていた。
 グレイソン夫妻は北棟の五階、正面側に住んでいた。二人が一緒に座っていたのは、わざと二十年は時代遅れに見えるように設えた部屋だった。分厚い詰め物で膨れ上がった家具に卵形の真鍮のドアノブ、金箔で縁どられた巨大な壁鏡、窓際の大理石張りのテーブル、窓の両端には深紅のフラシ天の厚手のカーテンが掛かっていた。パイプ煙草の煙の向こうに、夕食に食べたラムチョップとブロッコリの匂いが漂っていた。
  グレイソンの妻はふくよかな女性だった。かつてはベイビー・ブルーだったであろう大きな瞳も今は色褪せ、眼鏡のせいでぼやけ、わずかに飛び出て見えた。髪は白く縮れていた。太いくるぶしを交差させて座り、足先をかろうじて床に伸ばし、靴下をかがっていた。膝の上に柳を編んだ大きな裁縫籠をのせていた。
 グレイソンは、長身で猫背の黄色い顔をした男で、怒り肩で眉毛が濃く、ほとんど顎というものがなかった。顔の上の方は本気だが、下の方はバイバイと言っていた。遠近両用眼鏡をかけ、不機嫌そうに夕刊にかじりついている。彼のことは電話帳で調べてあった。公認会計士で、いかにもそれらしかった。指にインクの染みをつけ、前開きのヴェストのポケットには鉛筆を四本も入れていた。
 彼は私の名刺を丹念に七回読み、私をじろじろと眺め回してから、ゆっくり口を開いた。
「私どもに、何の御用でしょう、マーロウさん?」
「レイヴァリーという男に興味がありまして。アルモア医師の向かいに住む男です。お嬢さんは、アルモア医師夫人でした。レイヴァリーはあの晩、お嬢さんを発見した男です。彼女が――死んでいるのを」
 私が最後の言葉をわざとためらいがちに言うと、二人は鳥猟犬のように身構えた。グレイソンは妻に目をやり、妻は頭を振った。
「それについては話したくない」グレイソンは即座に言った。「我々にとって、あまりにも辛いことなので」
 私は少し待ち、彼らと同じように沈痛な顔をした。それから言った。「お気持ちは分かります。 ご迷惑をかける気はありません。ただ、その件を調べるために、 あなた方が雇った男に渡りをつけたいんです」
 彼らはまた互いに見つめ合った。ミセス・グレイソンは今度は頭を振らなかった。
 グレイソンが訊いた。「どういうことかな?」
「少し私の話をした方がいいようです」私は、キングズリーの名前を出さずに、自分が何のために雇われたかを話した。アルモアの家の前で起きたデガーモとの前日の一件も話した。二人はまた身構えた。
 グレイソンは語気鋭く言った。「君はアルモア医師と面識がなく、しかも、彼に近づきもしなかったのに、彼は警官を呼んだということか。ただ家の外にいたというだけで?」
 私は言った。「その通り。もっとも、少なくとも一時間は外にいましたが。つまり、私の車が、ということです」
「何とも解せない話だな」グレイソンは言った。
「まあ、とても神経質な人と言えるでしょうね」私は言った。「そして、デガーモは私に尋ねました。彼女の家族――つまり、あなたの娘さんの家族――に雇われたのか、と。彼はまだ安心していないようですね。どう思います?」
「何を安心するんだ?」彼は私の方を見ないで言った。そしてゆっくりパイプに火をつけ直し、大きな金属製の鉛筆の端で煙草を押し込み、もう一度火をつけた。
 私は肩をすくめ、何も答えなかった。彼はちらりと私を見て、すぐに目をそらした。ミセス・グレイソンは私を見なかったが、鼻の孔は震えていた。
「彼は君のことをどうやって知ったんだ?」グレイソンがいきなり訊いた。
「車のナンバーをメモして、オートクラブに電話して名前を聞き、電話帳で調べたんです。私ならそうしたでしょうね。彼がそんな動きをするのが窓越しに見えていました」
「それでは彼が自分のために警察を働かせていると」グレイソンは言った。
「そうとばかりは言えません。もしあのときの捜査がまちがいだったら、警察は今になってそれがバレて欲しくはないでしょう」
「まちがい!」彼は金切り声に近い笑い声を立てた。
「オーケイ」私は言った。「触れたくない話題であることは承知しています。でも、少しくらい新鮮な風にあてても差し障りはない。ずっと彼が彼女を殺したと思っていた。そうでしょう? だから探偵を雇った」
 ミセス・グレイソンはちらっと目を上げ、またひょいと首をすくめ、繕い終えた靴下をもう一足丸めた。
 グレイソンは何も言わなかった。
 私は言った。「何か証拠はあったんですか、それとも、ただ虫が好かなかったとか?」
「証拠はあった」グレイソンは苦々しげに言った。そして急にはっきりした声を上げた。結局そのことについて話すと決心したかのように。「あったにちがいない。あると聞いていたんだ。だが手にすることができなかった。警察が処分してしまった」
「その男は飲酒運転で逮捕され、送検されたと聞きましたが」
「その通りだ」
「しかし、彼は何をしようとしていたのか、あなたに教えなかった」
「聞いていない」
「気に入らないな」私は言った。「この男は、自分の情報をあなたの利益のために使うか、それともそれを自分のものにしておいて医者を強請るか、決めかねていたみたいだ」
 グレイソンはまた妻の方を見た。彼女は静かに言った。「タリーさんはそんな人には見えませんでした。物静かで、出しゃばることのない小柄な人でした。もちろん、人は見かけでは分かりませんが」
「タリーという名前なんですね。それが私の聞きたかったことの一つです」
「その他には何があるんだ?」グレイソンは訊いた。
「どうやってタリーを見つけるか? お二人の心に疑惑を植えつけたものは何か? 何かあったはずです。さしたる理由もなしに、お二人がタリーを雇うはずがない」
 グレイソンは取り澄ました微かな笑みを浮かべた。彼は小さな顎に手を伸ばして黄色い長い一本の指でこすった。
 ミセス・グレイソンは言った。「麻薬(ドープ)」
「妻は文字通りの意味で言っているんだ」グレイソンはすぐに言った。まるで、その一言が青信号だったかのように。「アルモアは麻薬医だった。まちがいなく今もそうだ。娘はそのことを私たちにはっきりと口にした。彼のいるところで。彼はそれが気にいらなかった」
「麻薬医というのはどういう意味です? グレイソンさん」
「主に、酒と放蕩で神経衰弱の瀬戸際にいる人々を診る医者のことだ。この手の連中は常に鎮静剤や麻薬を投与しなければならない。倫理的な医師なら、いつかは治療を断り、療養所行きを勧める段階がやってくる。だがアルモアのような連中はちがう。金が入ってくる限り、患者が生きていて正気を保っている限り、たとえその過程で絶望的な中毒者になったとしても、彼らは続けるだろう。ぼろい商売だが」彼は澄まして言った。「医者にとっては危険な仕事だろうな」
「間違いなく」私は言った。「しかし、大金が転がり込んでくる。コンディという名前の男を知っていますか?」
「面識はない。だが、どういう人物かは知っている。フローレンスは彼がアルモアの麻薬の供給源ではないかと疑っていた」
「あり得ますね。アルモアは処方箋を何枚も書きたくなかったんでしょう。レイヴァリーはご存知ですか?」
「会ったことはない。でも、誰だか知っている」
「レイヴァリーがアルモアのことを強請っていると思ったことはないんですか?」
 それは彼には思いもよらなかったようだ。彼は片手を頭のてっぺんに持って行き、それから顔を撫でるように下ろし、骨ばった膝の上に落とした。彼は頭を振った。
「いや。どうしてそう思うんだ?」
「彼が死体の第一発見者だったからです」私は言った。タリーの目に、おかしいと映ったものは、レイヴァリーにも同じように見えたはずです」
「レイヴァリーというのはそういう男なのか?」
「分かりません。彼にはこれといった生計手段も、仕事もない。その割にはずいぶんと顔が広くて、特に女性の間で」
「なるほどね」グレイソンは言った。「そういうことは、実に慎重に取り扱われる」 彼は皮肉っぽい笑みを浮かべた。「仕事をしていると、その痕跡に出くわすことがある。無担保融資、長期未払い。無価値な投資をするとは思えないような人物が行った、一見したところ無価値な投資。明らかに償却すべきであるにもかかわらず、所得税の調査を恐れて償却していない不良債権。ああ、そうだ。その手のことは簡単に按配できる」

【解説】

「時を経た山梔子のうんざりするほど甘い香りが収まっていた」は<the cloying fragranct of gardenias long ago>。清水訳は「だいぶ日数のたったくちなし(傍点四字)の鼻をつく香りがただよっていた」。田中訳は「とつくの昔にしぼんでしまつたくちなし(傍点四字)の、あきあきするようなかおりがあるだけだ」。村上訳は「遠い昔のガーデニアの饐(す)えた香りがあった」。

ガーデニアというのは、クチナシのことだ。初夏に咲く花で、甘い香りで知られている。日本では『くちなしの花』という歌が売れたせいで、妙に切ないイメージがあるが、アメリカでは、ダンス・パーティーに女性を誘うときに贈られる花として知られている。花言葉は「とても幸せ」で、これには「(あなたと踊れて)とても幸せ」という意味が込められているという。

<long ago>は「昔の」を意味する形容詞。作品内の季節は六月も半ばを過ぎている。たしかに、清水、田中両氏の訳にあるように、梔子の花の盛りは過ぎているのかもしれない。ただ、<cloying>は「鼻についてくる、うんざりする」という意味で、「嫌な匂い」のことをいうのではない。村上訳の「饐えた」は、少しちがう気がする。せっかく「遠い昔の」という訳語を持ってきておきながら、「饐えた香り」にしてしまうのは惜しい。

「窓の両端には深紅のフラシ天の厚手のカーテンが掛かっていた」は<dark red plush side drapes by the windows>。清水訳は「窓の両がわの暗赤色の気どった壁かけ」になっているが、これはおかしい。<drapes>と複数形になっている場合、ふつうは「厚手のカーテン」を指す。清水氏は<plush>を「気どった」と解しているが、これは「フラシ天」。ビロードの一種で、毛羽の長い生地だ。英語の「プラッシュ」に「天鵞絨(ビロード)」の「天」をくっつけた造語と思われる。

田中訳は「窓には、ダークな感じの、赤いビロードのカーテンがさがつていた」。村上訳は「深紅のフラシ天のカーテンが窓際にかかっていた」だが、「窓際」は「窓に近いあたり、窓のそば」のことだ。カーテンが掛けられているのは「窓」そのものではないだろうか。

「パイプ煙草の煙の向こうに、夕食に食べたラムチョップとブロッコリの匂いが漂っていた」は<It smelled of tobacco smoke and behind the air was telling me they had had lamb chops and broccoli for dinner>。清水訳は「パイプ・タバコの匂いがただよっていた。その匂いの前の空気がまだ残っていて、夕食にラム・チョップとブロッコリを摂(と)ったことを語っていた」。村上訳は「パイプ煙草の匂いが漂っていたが、奥の方から漂ってくる空気から、彼らの今夜の夕食がラムチョップとブロッコリであったことが推測できた」。どちらもくどい。田中訳は「パイプタバコのにおいにまじつて、夕食にたべたらしいラム・チョップとブロッコリーのにおいがした」。これでいいのでは。

「膝の上に柳を編んだ大きな裁縫籠をのせていた」は<a big wicker sewing basket in her lap>。清水訳は「柳の枝で編んだ大きな編み物籠を膝におき」。村上訳は「膝には大きな籐(とう)の編み物用バスケットが置かれていた」。<sewing>は「裁縫、縫い物」。「編み物」なら<knitting>だろう。清水氏は「靴下を編みながら」と訳しているので、編み物としても仕方がないが、村上氏は「靴下をかがっていた」と訳していながら、「編み物用」は変だと思わなかったのか。田中訳は「膝の上に、つくろい物をいれる、おおきな柳細工のバスケットをのせていた」と<sewing>をそのまま訳さず、「つくろい物をいれる」と説明的な語を補っている。

「顔の上の方は本気だが、下の方はバイバイと言っていた」は<The upper part of his face meant business. The lower part was just saying goodby>。清水訳は「顔の上の半分は仕事の顔だった。下の半分はたださよならというだけだった」。田中訳は「顔の上のほうを見ると、なかなかしつかりしているようだが、下半分は、ただ、グッドバイといつてるようだ」。村上訳は「顔の上半分はただただ実務的だったし、下半分はすぐにも別れの言葉を告げたがっていた」。

<mean business>は、「仕事を意味する」という意味ではなく、「(冗談でなく)本気だ」という意味。つまり、目には一応、真剣さがうかがえたが、その半面、口は今にも「帰ってくれ」と言いそうだった、ということだろう。相手に自分に対する無関心を見て取った、いかにもマーロウらしい皮肉である。

「レイヴァリーはあの晩、お嬢さんを発見した男です。彼女が――死んでいるのを」は<Lavery is the man who found your daughter the night she-died>。マーロウは最後の一語をわざと躊躇うことで効果を狙っている。それで、語順を気にして訳すことになる。清水訳は「レイバリーはあなたの娘さんを最初に発見した人間です……亡くなられた晩にです」。訳としては正しいが、<last word>がこれではまずい。

田中訳は「レヴリイは、あの晩、お嬢さんを最初に見つけた男なんですよ。お嬢さんが……死んでいるのを」。村上訳は「レイヴァリーはあなたの娘さんを夜に発見した人物です――死体を」。清水、田中両氏はなぜ、原文にない「最初に」を補ったのだろう? 村上訳だが、<the night>を平たく「夜に」と訳すのは解せない。語順を気にせず訳せば「レイヴァリーは彼女が死んだ夜にお嬢さんを発見した男です」となる。両親にしてみれば、ただの夜ではない。ここは「あの晩」もしくは「あの夜」とするべきだろう。

「二人は鳥猟犬のように身構えた」は<They both pointed like bird dogs>。清水訳は「二人とも猟犬のようにからだを緊張させた」。田中訳は「二人は猟犬みたいに、顔をキッとこちらにふりむけた」。村上訳は「二人はどちらもまるで鳥猟犬のようにはっと顔を上げた」。

<bird dog>は鳥猟用に使われる犬のこと。飼い主は銃で獲物をしとめる。だから、犬は獲物を見つけると「そこにいるよ」と、動きを止めて場所を指示(point)するよう訓練されている。獲物を隠れ場所から追い出す他の猟犬と違うのはそこだ。犬種によっても用途が異なる。ポインターは文字通り、前肢を上げて場所を示し、セッターは伏せ(セット)の姿勢で教える。スパニエルは鳥を驚かせて飛び立たせ、レトリーバーは獲物を回収(retrieve)する。

「彼はまだ安心していないようですね。どう思います?」は<Looks as if he didn't feel safe yet, wouldn't you say?>。清水訳は「彼はまだ身の危険を感じているようです。そう思えませんか」。田中訳は「まだ、安心できないような様子でね。これを、いつたい、どうおもいます?」。村上訳は「アルモア医師は自分の身が十分に護られているとは思っていないように見受けられます。いかがでしょう?」。<he>は、田中氏のいうように、デガーモを指すのか、それとも、村上氏のいうように、アルモア医師なのか?

英文では人称代名詞が頻出するので、こういうことが起こりがち。田中氏はそれを嫌って、出来る限り固有名詞に替えている。その田中氏にして、固有名詞に替えていないのは、これが自明だということだろう。一つの会話の中に<Degarmo>と<he>が使われているのだから、当然、デガーモのことと考えるのが普通だ。

では、なぜ村上氏はこの<he>を、わざわざアルモア医師に替えたのか。それは、これ以降の二人の会話の中に出てくる<he>がアルモア医師を指しているからだろう。つまり、二人の頭の中にある「彼」とはアルモア医師をおいて他にないからだ。でも、果たしてそうだろうか。そこまで断定するのは難しいのではないか。もみ消しに加担した警察だって不安を抱えているに決まっている。探偵を差し向けたのがグレイソンではないのかという疑問はどちらも共有しているからだ。ここはチャンドラーに聞いてみたいところだ。

『湖中の女』を訳す 第二十二章

<bought myself a drink>が、「一人で一杯やる」という訳になる理由


【訳文】

 ハリウッドに戻ってきて、オフィスに上がったのは夕暮れ時だった。ビルは空っぽで、廊下もしんとしていた。各室のドアは開いていて、中では真空掃除機や乾いたモップやはたきを手にした女たちが掃除中だった。
 自室のドアの鍵を開け、郵便物投入口の前に落ちていた封筒を拾い上げ、よく見もせず机の上に放り投げた。窓を押し上げ、外に身を乗り出し、早々と輝き出したネオンサインを眺め、隣のコーヒー・ショップの換気扇から路地を立ち上ってくる、温かい食べ物の匂いを嗅いだ。
 上着を脱ぎ、ネクタイを外して、机に向かい、深い抽斗からオフィス用のボトルを取り出し、一人で一杯やった。何の役にも立たなかった。もう一杯飲んだが、結果は同じだった。
 今頃、ウェバーはキングズリーに会っているだろう。彼の妻は、すでに手配済みか、あるいは今にも手配されるだろう。警察にとっては型通りの事件に見えたはず。猥らな二人の間に起きた猥らな事件。情事に耽り、酒を飲み過ぎ、近づき過ぎたあまり、激しい憎悪と殺人衝動が生じ、やがて死に至る。
 これではいささか単純すぎるように思えた。
 私は封筒に手を伸ばし、封を切った。切手は貼ってなかった。こうあった。「マーロウ様。フローレンス・アルモアの両親はユースタス・グレイソン夫妻で、現在はロスモア・アームズに住んでいます。住所は、サウスオックスフォード・アベニュー、六四〇番地。電話帳に載っている番号に電話して確認しました。草々。エイドリアン・フロムセット」
 優雅な手書き文字だ。それを書いた手と同じように優雅だった。手紙を脇に押しやり、もう一杯飲んだ。ささくれ立った気持ちが少し落ち着いてきた。私は机の上の物を掻きまわした。手が腫れぼったく火照って、ぎごちなく感じた。机の角に指を走らせ、埃を拭き取ってできた筋を見た。指の上についた埃に目をやり、拭き取った。腕時計を見た。壁を見た。何も考えてはいなかった。
 酒瓶を片づけ、グラスを洗い流すために洗面台に向かった。すすぎ終わってから手を洗い、冷たい水で顔を洗って、鏡に見入った。左頬に残っていた赤みは消えていたが、まだ少し腫れていた。大したことはないが、また気を引き締めるには、それで十分だった。私は髪をかきあげ、白髪に目をとめた。白髪が増えてきていた。髪の下にあるのは浮かない顔だ。その顔が全くもって気に入らなかった。
 机に戻り、もう一度ミス・フロムセットの手紙を読んだ。ガラスの上で手紙のしわを伸ばして、匂いを嗅ぎ、さらにしわを伸ばして、折り畳んで上着のポケットに入れた。
 私はじっと座って、耳を澄ました。開かれた窓の外で、夕暮れが徐々に静かになっていった。そして、それとともに、きわめてゆっくりと、私も静かになっていった。

【解説】

「ハリウッドに戻ってきて、オフィスに上がったのは夕暮れ時だった」は<It was early evening when I got back to Hollywood and up to the office>。清水訳は「私がハリウッドにもどってオフィスに着いたときはもう夕方だった」。村上訳は「ハリウッドに戻り、オフィスに着いたときには既に夕方になっていた」。田中訳は「あかるいうちに、おれはハリウッドにもどり、自分のオフィスにあがつていつた」。マーロウとしては、割と早かったと思ったのか、それとも、もうこんな時間、なのか、原文からは分からない。こういう時はそのままにしておくのが無難だ。

「郵便物投入口の前に落ちていた封筒を拾い上げ」は<picked up an envelope that lay in front of the mail slot>。清水訳は「郵便物差入れ口から落とされていた封筒を拾い上げ」。田中訳は「郵便差入口のむこうにおちていた手紙をひろつて」。村上訳は「メール・スロットから床に落ちた郵便物を拾い上げ」。<mail slot>が「メール・スロット」でいいなら苦労はしない。でも、もっといい訳語はないものか。辞書には「郵便受け」というのもあるが、事実上「受け」ではないので、使用不可。

問題は三氏とも、<in front of>を訳していないこと。思うに、ドアが「内開き」か「外開き」かのちがいにあるのではないか。アメリカの場合、日本と違って玄関ドアは内開きになっている。だから、ドアを開けたら、目の前に郵便物が落ちていて、その向こうに<mail slot>が見える。だから<lay in front of the mail slot>なのだ。田中訳では「郵便差入口のむこうに」手紙があるが、それでは、ドアが邪魔して封筒が見えないはず。清水、村上両氏の場合、ドアがどこにあるのかはっきりしない。

「窓を押し上げ」は<I ran the windows up>。清水訳は「それから、窓をあけて」。村上訳は「窓を押し開け」。田中訳は「そして窓をおしあげ」。どうでもいいことのようだが、<up>とある以上、この窓は、欧米によくある、上下二枚のガラス窓の上部が固定されていて、下の窓だけを上げる「片上げ下げ窓」だろう。村上訳のように「押し開け」とすると、「両開き窓」であるかのように読める。

「早々と輝き出したネオンサインを眺め」は<looking at the early neon lights glowing>。清水訳は「早目のネオン・サインが輝き始めていて」。田中訳は「気のはやいネオンがつきはじめ」。村上訳だけが「夕暮れの空に輝くネオンサインを眺め」となっている。冒頭の<It was early evening>を引きずってしまっているのだろうか。

「机に向かい、深い抽斗からオフィス用のボトルを取り出し、一人で一杯やった」は<sat down at the desk and got the office bottle out of the deep drawer and bought myself a drink>。清水訳は「深い引出しからオフィス用のウィスキーの壜をとり出して、ひと(傍点二字)口飲んだ」。<sat down at the desk>はトバしている。田中訳は「机の上に腰をおろすと、いちばん下の引出しからオフィス用のウィスキーの壜をだして、ひとりで一杯やつた」。村上訳は「デスクに腰掛け、深い抽斗からオフィス用のボトルを取りだし、一杯飲んだ」。

問題は、マーロウはどこに座ったのか、ということだ。知らぬふりを決め込んでいる清水訳は別として、田中、村上両氏は「机の上」、「デスク」に腰掛けた、と訳している。ところで、考えてみてほしい。<deep drawer>(深い抽斗)というのは、ふつう、机の「いちばん下の引出し」のことだ。そこなら、ボトルを立ててしまうことができる。これから一番下の抽斗にあるボトルをとるのに、わざわざ机の上に腰を下ろすだろうか。<sit at a desk>は「机に向かう」という意味。机の上に座るなら、<sit on a desk>とするだろう。

<buy someone a drink>は「(人に)一杯おごる」という意味。単に「ひと口飲む」、「一杯飲む」という意味ではない。「自分に一杯おごる」という訳も考えられるが、楽しい気分や祝い事ならそれもありだが、この場面のように、憂さ晴らしに飲むときには似合わない。<buy you a drink>(一杯おごるよ)という一言には、その後二人で飲むということが暗黙の裡に了承済みだ。<bought myself a drink>はそれを踏まえている。だから「一人で一杯やる」という訳になる。

「腕時計を見た。壁を見た。何も考えてはいなかった」は<I looked at my watch. I looked at the wall. I looked at nothing>。清水訳は「腕時計を見た。壁を見た。何も目に入っていなかった」。田中訳は「腕時計を見て、壁に目をやる。だが、おれは何も見てはいなかつた」。村上訳は「腕時計に目をやった。壁を眺めた。それからあとはもう何も見なかった」。いわゆる「心ここにあらず」という状態なのだろう。<look at>は「見る、調べる」の他に「考える」という意味がある。三つ目の<look at>には一捻り利かせたという解釈だ。

「大したことはないが、また気を引き締めるには、それで十分だった」は<Not very much, but enough to make me tighten up again.>。清水訳は「たいしたことはないのだが、もう一度気をひきしめるだけのききめ(傍点三字)はあった」。田中訳は「たしかにほんのちよつとだが、充分、おれは腹がたつてきた」。村上訳は「ずいぶんましにはなっていたものの、それでも私の身は再び硬くなった」。<tighten up>は「締めつける、ピンと張る」こと。<make me>とあるからには、自分で自分にネジを巻き直すことを言うのだろう。

「私は髪をかきあげ」は<I brushed my hair>。清水訳は「髪をブラシで梳(と)きすかし」、田中訳は「髪にブラシをかけながら」、村上訳は「髪にブラシをあてていて」となっているが、これからどこかに出かけていくあてもないのに、わざわざブラシをかけたりするものだろうか? 顔を洗った後で、額にかかった髪を手で「払いのけた」と考える方が自然だ。他動詞<brush>には、そういう意味もある。

マーロウは、他の作品でも、よく窓を開けては、隣のコーヒー・ショップから漂ってくる匂いを嗅いでいる。自分のテリトリーに帰ってきたことを確かめるかのように。好いようにいたぶられ、気を昂らせたマーロウが次第に落ち着いて行くまでを、まるまる一章を使って丁寧にその心理の移ろいを追ってゆく。派手なアクションもなければ、しゃれた会話もない。権力を持たない、ただの一人の中年男のうら寂れた横顔を淡々と見つめる。他のハードボイルド小説にはあまりみられない、こういうところがチャンドラーの独擅場だ。

『湖中の女』を訳す 第二十一章(2)

拳は握りしめられたのか、それとも解かれたのか?

【訳文】

 私は言った。「私はロスアンジェルスのある実業家のために働いている。自分が噂の種になりたくなくて、私を雇ったわけだ。ひと月ほど前、彼の妻が家出した。そのあと、レイヴァリーと駆け落ちしたという電報が届いた。しかし、依頼人は二日前に街で偶然レイヴァリーと出くわし、彼は駆け落ちを否認した。依頼人は彼の話を信じ、妻の身を案じた。かなり見境のない女らしい。悪い連中と掛かり合いになって面倒に巻き込まれているんじゃないか。私はレイヴァリーに会いに行ったが、彼は駆け落ちを否定した。私も半ば信じかけたが、あとになって彼がサン・バーナディーノのホテルで彼女と一緒にいたという確かな証拠をつかんだ。彼女がそれまで滞在していた山小屋を出たと思われる夜のことだ。証拠が手に入ったので、今度こそレイヴァリーを締め上げてやろうとここにやってきた。ところが、呼鈴に返事がない。ドアが少し開いていた。で、私は中に入り、あちこち見て回るうちに銃を見つけ、家の中を捜索した。私が発見したとき、彼は今と同じ状態だった」
「君には家を捜索する権限などない」ウェバーは冷ややかに言った。
「もちろんない」私は同意した。「が、こんな機会を見逃すという手もない」
「君を雇った人物の名前は?」
「キングズリー」私は彼のベヴァリ・ヒルズの住所を教えた。「彼はオリーヴ・ストリートのトレロア・ビルディングにある化粧品会社を経営している。ギラ―レイン社だ」
 ウェバーはデガーモを見た。デガーモは気怠そうに封筒の上に書きとめた。ウェバーは私の方を振り返って言った。
「ほかには?」
「私は夫人が滞在していた山小屋に行った。リトル・フォーン湖といって、ピューマ・ポイントの近くにある。サン・バーナディーノから四十六マイルほど山の中に入ったところだ」
 私はデガーモを見た。彼はゆっくりと書いていた。その手が一瞬止まり、ぎごちなく宙に浮き、それから封筒の上に落ち、また書き出した。私は続けた。
「ひと月ほど前、キングズリーの山荘の管理人の女房が亭主と喧嘩をして家を出て行った。みんながそう思っていた。昨日、その女が湖で溺死しているのが見つかった」
 ウェバーはほとんど目を瞑り、踵に体重をかけて体を揺すっていた。彼は穏やかといってもいいような声で訊いた。「なぜ、そんな話をする?  この件と関係があるとでも?」
「時間的にはつながりがある。当時、レイヴァリーもそこにいた。他の関係については知らないが、一応耳に入れておこうと思ってね」
 デガーモは身じろぎもせず椅子に座って、目の前の床を見ていた。表情は硬く、いつも以上に獰猛な印象を受けた。ウェバーは言った。
「その溺れたとかいう女だが 自殺だったのか?」
「自殺か他殺か。彼女は遺書がわりのメモを残していた。だが、女の亭主が容疑者として逮捕された。名前はチェスだ。ビル・チェス。妻はミュリエル・チェス」
「そんなことはどうでもいい」ウェバーはつっけんどんに言った。「ここで起きたことだけに話を絞ろう」
「ここでは何も起きちゃいない」私は、デガーモを見やりながら言った。「ここへ来るのはこれで二度になる。一度目はレイヴァリーと話をしたが、尻尾をつかめなかった。二度目は話すこともできず、骨折り損だった」
 ウェバーがゆっくり言った。「ひとつ君に質問しようと思うが、正直に答えてほしい。話したくはないだろうが、後で話すより今話しておいた方がいい。知っての通り、結局は私に話すことになるんだからな。質問というのはこうだ。君は家の中を徹底的に調べたと思うが、そのキングズリーの妻がここにいたと思わせるものを何か見たか?」
「それは公正な質問とは言えない」私は言った。「証人に推論を求めている」
「質問に答えるんだ」彼はむっつりと言った。「ここは法廷ではない」
「答えはイエスだ」私は言った。「階下のクローゼットに、女物の服がぶら下がってる。ミセス・キングズリーがレイヴァリーと会った夜にサン・バーナディーノで着ていた、と私が聞いた証言と特徴が一致する。ざっくりとした説明だった。白黒のスーツ、白が主だ。それに白黒のバンドが巻かれたパナマ帽」
 デガーモは手にしていた封筒を指でパチンとはじいた。
「差し詰め、依頼人に取っちゃ、あんたは大当たりってとこだ」彼は言った。「なんと、殺人が行われた家に女がいて、それが被害者と駆け落ちしたはずの女だったとは。遠くまで犯人捜しに行かずにすみますね、チーフ?」
 ウェバーはほとんど、あるいはまったく表情を変えず、ただ注意深くじっと私を見ていた。そして、デガーモの言ったことにぼんやりとうなずいた。
 私は言った。「君らも馬鹿の集まりってわけじゃない。服は注文仕立てで、すぐに調べがつく。私が話したことで、君らは一時間を節約した。もしかしたら、電話一本で済むかもしれない」
「ほかに何か?」ウェバーは静かに訊いた。
 私が答える前に家の外に車が止まった。続いてまた一台。ウェバーは弾かれたように玄関に行き、ドアを開けた。三人の男が入ってきた。縮れ毛の小男と牡牛みたいな大男だ。二人とも重そうな黒い革鞄を提げていた。その後ろにダークグレイのスーツに黒いネクタイを締めた、長身瘦躯の男がいた。ポーカーフェイスで、目だけ輝かせていた。
 ウェバーは縮れ毛の男に指を突きつけて言った。「階下の浴室だ、ブゾーニ。家じゅうの指紋がありったけほしい。特に女がつけたらしい指紋を。時間のかかる仕事になりそうだ」
「それを全部私がやるわけだ」ブゾーニはぶつぶつ言った。彼と牡牛みたいな男は部屋の奥に行き、階段を降りた。
「死体がお待ちかねだ、ガーランド」ウェバーが三人目の男に言った。「下に降りて、拝んで来よう。ワゴンは呼んだのか?」
 やる気満々の男は軽くうなずき、男とウェバーは二人の男の後を追った。
 デガーモは封筒と鉛筆をうっちゃった。彼は無表情に私を見つめた。
 私は言った。「昨日の我々の会話について、話したものだろうか――それとも、あれは個人的な取引なのか?」
「好きなだけ話しゃいい」彼は言った。「市民を守るのが我々の仕事だ」
「そのことなんだが」私は言った。「アルモアの件についてもっと知りたいんだ」
 彼の顔がじわじわ赤くなり、意地の悪そうな目になった。「アルモアのことは知らないと言ったよな」
「昨日はそうだった。彼について何も知っちゃいなかった。そのあと知ったんだ。レイヴァリーはミセス・アルモアの知り合いで、彼女が自殺したこと、その死体をレイヴァリーが発見したこと、そして、レイヴァリーが少なくとも彼を脅迫したか、あるいは脅迫するネタを握っていたと疑われていたことを。それに、パトロール警官は、二人ともアルモアの家がここから通りを隔てた真向いにあるという事実に興味を持っているようだった。そのうちの一人は、この事件はすっかりもみ消されたと言った、あるいは、そう匂わせた」
 デガーモはゆっくり凄みを利かせて言った。「あのろくでなしめら、胸からバッジを剥ぎとってやる。つまらぬことばかりしゃべりたがる。能なしの口たたきどもめ」
「それじゃ、根も葉もない噂だというんだな」私は言った。
 彼は煙草に目をやった。「根も葉もない噂とは何だ?」
「アルモアが妻を殺し、それを揉み消すだけのコネを持っていた、という噂さ」
 デガーモは立ち上がり、歩いてきて、私の方に身を屈めた。「もう一度言ってみろ」彼は小声で言った。
 私は繰り返した。彼は平手で私の顔を引っぱたいた。頭が大きくぐらついた。顔が熱くなり、腫れ上がるのを感じた。
「もう一度言ってみろ」彼は小声で言った。
 私は繰り返した。彼の手が飛んできて、また私の横っ面を張り倒した。
「もう一度言ってみろ」
「やめとけ。三度目の正直だ。失敗するかもしれない」私は手を上げて頬をこすった。
 彼は私の上に身を乗り出すように立ち、歯を剥き出し、真っ青な眼を獣のようにぎらぎら輝かせた。
「警官にそんなことを言えば、どうなるかわかっただろう。もう一回やってみろ、今度は平手打ちくらいじゃすまないからな」
 私は唇を固く噛んで、頬をさすった。
「俺たちのやることに、そのでかい鼻を突っ込んでみろ、目を覚ますと、どこかの路地で猫が手前の顔を覗き込んでる、なんてことになるぜ」
 私は何も言わなかった。彼は自分の椅子に戻り、肩で息をした。私は顔をさするのをやめて、片手を差し出し、指をゆっくりと動かした。固く握り締めた拳の緊張を解くためだ。
「覚えておくよ」私は言った。「どっちもな」

【解説】

「証拠が手に入ったので」は<With that in my pocket>。村上訳は「その証拠をポケットに」と、文字通りポケットに入れたように訳しているが、この証拠というのは、人から聞いた話であって、ポケットに入れられるような「物的証拠」ではない。ちなみに、<in one's pocket>は「所有して」という意味。清水訳は「私はその証拠を懐にして」、田中訳は「そのことがわかつたので」と、そういう意味合いになるように訳している。

「昨日、その女が湖で溺死しているのが見つかった」は、<Yesterday she was found drowned in the lake>。清水訳は「きのう、その女が湖で溺れて死んでるのが発見された」。田中訳は「ところが、昨日、湖のなかにしずんでいるのがわかつたんです」。村上訳は「ところが昨日、彼女が湖の底に沈んでいたのが発見された」。大差ないように思えるかもしれない。だが、死体は、村上訳のように「湖の底に沈んで」はいなかった。ダムができたせいで湖中に沈んだ、古い桟橋にひっかかっていたのだ。

旧訳はふたつとも『湖中の女』という表題になっている。すでに書いたように、原題はウォルター・スコットの<The Lady of the Lake>をひねったものと考えられる。その邦訳の表題は『湖上の美人』とするものが多い。旧訳の表題はそれを踏襲したのだろう。村上氏の新訳が『水底の女』になっているのが、はじめから気になっていたのだが、もしかしたら、村上氏の頭の中では、死体は湖底に沈んでいるのかもしれない。そういう思い込みがあって、この表題になったのではないだろうか。

「証人に推論を求めている」は<It calls for a conclusion of the witness>。清水訳は「証人の終結証言になる」。<conclusion>は「終わり、結論」のことだから、こう訳したのだろうが、これでは意味が分からない。田中訳は「証人の考えをきいてるようなものだから」と噛みくだいている。村上訳は「それが求めているのは証人の推断だ」。

殺人事件の犯行現場に最初に足を踏み入れたマーロウは、裁判所に呼ばれたら証人になる。しかし、ここはウェバーの言うように法廷ではない。現場で何を見たか目撃供述を聴取されているのだ。ただ、ウェバーはこう訊いている。<Have you seen anything that suggests to you that this Kingsley woman has been here?>。この<suggest>(暗示する)をマーロウは問題にしている。何がキングズリーの妻を「それとなく示す」のか、の判断は目撃者一人に任されている。法廷では当然そこが追及されることになる。マーロウは、かつて検事局にいたことを、それとなくウェバーに示しているのだ。

「私が話したことで、君らは一時間を節約した。もしかしたら、電話一本で済むかもしれない」は<I've saved you an hour by telling you, perhaps even no more than a phone call>。清水訳は「私が話をしたので、君たちは一時間はとくをしたわけだ。おそらく電話一本ですむだろう」。田中訳は「一時間ぐらい、時間を節約してあげただけだ。いや、電話を一つしないですんだぐらいかな」。村上訳は「私はそちらの手間を一時間ほど省いてあげただけだ。せいぜい一回の電話程度の手間だろうが」。

田中、村上両氏の訳では、一通話程度の時間しか節約していないことになる。果たしてそうだろうか。たしかに、注文服から持ち主の身元を割り出すのは容易だ。しかし、マーロウの話がなかったら、キングズリー夫人と被害者との関係を探り当てるまで、時間がかかるだろう。到底一時間では済まない。マーロウが前もって捜索しておいたおかげで、警察としては格段に手間が省けたわけだ。原文のカンマで切られている二つの節の間に(あなた方に必要とされる時間は)という文句を挿むと、話が通じやすくなる。

「それを全部私がやるわけだ」は<I do all the work>。清水訳は「時間がかかるのはなれてますよ」。田中訳は「そいつは、ありがたい」。村上訳は「仰せの通りに」。台詞を受ける<grunted>をどう訳すかで、前の台詞の訳し方が変わってくる。清水氏は「無愛想な口調でいった」。田中氏は「皮肉をいい」。村上氏は「あきらめたように言った」と訳している。<grunt>は「ぶうぶう言う、不平を言う」という意味。辞書によっては「無関心だったり、うるさがったりしているときに漏らす低いうなり声」というのもあるから、文意のとらえ方で変わってくるのだろう。

「ワゴンは呼んだのか?」は<You've ordered the wagon?>。清水訳は「ワゴンを頼んだかい」。前のところで、清水氏の訳文に突然「ワゴン」が出てきたのは、これのことを言っていたのだな、と分かる。田中訳は「霊柩車をよんどいたかね?」。村上訳は「搬送車は呼んだかな?」。正式な検死官がいないベイ・シティでは葬儀屋が週替わりで検死官を兼ねている。この<wagon>は当然「霊柩車」のことだろう。英語では<hearse>だが、<meat wagon>という呼び名もある。「霊柩車」ではぶしつけだし、「搬送車」という語も耳慣れない。<meat>抜きの「ワゴン」でいいのでは?

「やる気満々の男は軽くうなずき」は<The bright-eyed man nodded briefly>。清水訳は「目が輝いている男はかるくうなずき」。田中訳は「目がよくひかる男は、みじかくううなずき」。村上訳は「明るい目の男は短く肯いた」。どうしてそんなに目の明るさにこだわるひつようがあるのか。実は、その前にも<bright eye>が出てくる。「ポーカーフェイスで、目だけ輝かせていた」<He had very bright eyes and a poker face>がそれだ。

<bright-eyed>は「元気はつらつとして、やる気十分で」という意味のイディオム。例によってチャンドラーは<bright eyes>「きらきら輝く目、生き生きとした目」と、ダブルミーニングをねらったのだろう。黒っぽい服に黒ネクタイという葬儀屋の服装で身を固めた男は持ち前のポーカーフェイスの陰で、商売繁盛を喜んでいる。ここは単に明るい目の持ち主というのではなく、やる気が目に出ている、ということを表現しているのだ。

「指をゆっくりと動かした。固く握り締めた拳の緊張を解くためだ」は<worked the fingers slowly, to get the hard clench out of them>。清水訳は「指をゆっくり動かして、かたく握りしめた」。村上訳は「ゆっくりと指を動かした。そしてぎゅっと堅く握りしめた」。両氏とも、「握りしめた」説だ。田中訳は「ついかたくゲンコツのかたちになりそうになる指を、ゆつくりうごかした」。拳骨の形になろうとするのを意志が食い止めている、という解釈だ。

<clench>には「拳を固める」という意味の動詞もあるが、ここは<the hard clench>とあるように「固い握りしめ」を表す名詞扱い。<out of ~>は「~から外へ、~から抜け出して」という意味。では、その<them>とは何か。当然、すぐ前にある<fingers>に決まっている。この後マーロウが口にしたのは「覚えておくよ」という捨て台詞だ。つまり、今は何もしないでおくが、そのうちに決着をつける時が来る、という気持である。とすれば、ここは握りしめていた拳をゆるめた、と考えるのが妥当だろう。

「どっちもな」と訳したのは<Both ways>。清水訳では「(考えておくよ)どっちにするかをね」になっている。<both>なので、どっちか片方ではおかしい。田中訳、村上訳はどちらも「いろんな意味で」という訳になっている。<both ways>は「往復、両方、左右」のように、二つセットで用いるのが普通。「いろんな」では選択肢が多すぎる。マーロウは何と何を「覚えておく」と言ったのか? おそらく、デガーモの「平手打ちじゃすまない」と「路地に転がす」という二つの警告を指すのだろう。そんな脅しに怯んだりするものか、という、マーロウの精一杯の強がりである。