HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第九章(4)

《「あそこから落ちたんですよ。かなりの衝撃だったにちがいない。雨はこの辺では早いうちにやんでます。午後九時頃でしょう。壊れた木の内側は乾いている。これは雨がやんだ後を示しています。水位のある時に落ちたので、ひどく壊れてはいません。潮が半分引く以前なら遠くまで流されていたでしょうし、半分以上引いた後だったら杭近くにいたでしょう。ということは昨夜の十時を回った頃です。もしかしたら九時半頃かもしれませんが、それより前ではありません。今朝、魚を釣ろうとやってきた奴らが水の下にある車を見つけました。それで、ウィンチ付きの艀を調達して引き揚げたところ死体が見つかったわけです」

 平服の男が甲板を足の爪先でこすっていた。オールズは横目で私を見て、葉巻を紙巻き煙草のようにぴくぴく動かした。

「酔っぱらってたのか?」誰に訊くというのでもなく訊いた。

 さっきタオルで頭を拭いていた男が柵のところまで行き、大きな咳払いをしたので、みんながそちらを見た。「砂が入っちまってね」彼はそう言って唾を吐いた。「そこのお友達ほどたっぷりじゃないが」

 制服警官が言った。「酔っていたのかもしれません。すべては雨の中の孤独なパフォーマンス。酔っぱらいのやりそうなことです」

 「酔っぱらってたってことはあり得ない」平服の男は言った。「ハンド・スロットルが途中まで開かれていて、側頭部を何かで殴られている。俺に言わせりゃ、これは殺人だ」

 オールズはタオルの男を見て、「どう思うね?君」

 タオルの男は自慢気に、にやりと笑った。「自殺だね。こちとらには関係のないことだが、まあそちらさんが訊きなすったから自殺と答えたまでのことでさ。まず第一に、そいつは畝でも引くみたいに怖ろしいほど真っ直ぐ桟橋に突っ込んでる。タイヤ痕を見ればはっきり分かることでさあ。保安官の言う通り、雨が止んだ後のことでしょうよ。それからすごい勢いで桟橋にぶつかって柵をきれいに突き破った。そうでなきゃ車はひっくり返ってた。それも何回転もしてね。たいそうなスピードでまともに柵にぶつかってる。ハーフ・スロットルどころの騒ぎじゃない。車が落ちる時、手で引いたんだろう。額の傷もその時ついたのかもしれない」

 オールズは言った。「大した目利きだよ、君は。死体はもう調べたのか?」 彼は保安官代理にきいた。保安官代理は私を見、それから操舵室にもたれかかっているクルーを見た。「いいんだ。後にしよう」オールズは言った。》

 

晴れた朝。リドの白い桟橋近くに上がった黒い車。目に浮かぶような光景だ。ただ、階級や職業の異なる男が何人も登場するので、言葉の遣い方を訳し分ける必要がある。英語自体はシンプルなものだが、日本語でフラットに訳すと誰の発言なのか見当がつかなくなる。使う語彙や、敬語の使用で上下関係を区別するのが、日本語らしい訳文にする秘訣だが、あまりやり過ぎると臭くなるので、注意が必要だ。

 

「潮が半分引く以前なら遠くまで流されていたでしょうし、半分以上引いた後だったら杭近くにいたでしょう」のところは<not more than half tide or she’d have drifted farther, and noto more than half tide going out or she’d have crowded the piles.>である。村上氏から見てみよう。「半潮より水位が高ければ、車はもっと沖合まで運ばれていたでしょう。半潮より水位が低ければ、もっと杭の近くにいたでしょう」と、珍しく簡潔だ。

 

双葉氏は、というと「干潮の中ごろでしょう。中ごろより前とすれば沖へひきずられているはずです。干潮の中ごろより後だとすると防波堤に打ちつけられているはずです」と、こちらは意を尽くして訳している。気になるのは「半潮」という耳慣れない言葉だ。広辞苑で引いても出ていない。電子辞書にはあるのかもしれないが、ネットで検索すると「半潮」は中国語としては使われているようだ。厖大な数の読者を持つ村上氏が採用したことで、今後日本語として認められるかもしれない。

 

ただ、今のところ馴染みのないことはまちがいない。<half tide>という言葉を「干潮の中ごろ」とするか「半潮」という新語を使うかについては悩まなかった。意味さえ分かれば訳し様はあるものだ。スタンダードに「引き潮(Ebb tide)」という名曲がある。<half tide>も、あちらではよく使う言葉なのだろう。日本語にないのがおかしい。因みに「大潮」と「小潮」の間を「中潮」というが、<half tide>の訳語には使えない。「半潮」が使われるようになることはあるだろうか?

 

「オールズは横目で私を見て、葉巻を紙巻き煙草のようにぴくぴく動かした」は<Ohls looked sideways along his eyes at me, and twitched his little cigar like a cigarette.>だ。双葉氏は「オウルズは横目で私を見て、口の葉巻をシガレットみたいに上下に動かした」。村上氏は「オールズは横目でちらっとこちらを見て、その小さな葉巻を紙巻き煙草のように指でつまんだ」。はたして、いまオールズの葉巻は、口の中なのか、指の間なのか?

 

手がかりになりそうなのは、<twitch>だろう。「ぐいと引く」と「(痙攣的に)ぴくぴく動く」の意味がある。双葉氏は後者を採用したのだろう。村上氏は前者と取ったのかもしれない。ただ、口から葉巻を取り出すだけの動きに「ぐいと引く」意味を持つ<twitch>を使うだろうか?文の流れを考えると、一連の動作は顔周辺の動きのように取れそうだ。「オールズは横目で私を見て、彼の葉巻を紙巻き煙草のようにぴくぴく動かした」と訳したのは葉巻の在りかをはっきりさせることのない一種の逃げである。実は、その少し前にオールズは葉巻を口にくわえて上下に動かす動きをしてみせている。一種の癖と考えいいかもしれない。

 

「すべては雨の中の孤独なパフォーマンス。酔っぱらいのやりそうなことです」は<Showing off all alone in the rain. Drunks will do anything.>。双葉氏は「この雨の中を一人ならね。酔っぱらいはなんでもやってのけますよ」。村上氏は「あんな雨の中に一人でいたら、酒を飲みたくなるのもわかる。酔っ払いは何でもやりかねない」だ。双葉氏の訳では、何をしようとしたのかが分からない。村上氏の訳でも同じだ。どうして、両氏とも<Showing off >の持つ「誇示する・見せびらかす・目立ちたがり屋」の意味を採らないのだろう?

 

「ハンド・スロットルが途中まで開かれていて」は<The hand throttle’s set halfway down>。ハンド・スロットルを適当な位置にセットしておくことによって、アクセルから足が離れてもエンジン・ブレーキがかからない。簡易オート・クルーズ・コントロールのようなものだ。この手の殺害方法はミステリでよく使われる手。双葉氏は「手動ブレーキは半分ほどかかっていたし」としているが、それは「ハンド・ブレーキ」で、むしろ、被害者を助けることになる。村上氏は「手動スロットルは半分あたりにセットされ」としている。

 

タオル男の長広舌はなかなか訳しがいのあるところだ。「タイヤ痕を見ればはっきり分かることでさあ」は<You can read his tread marks all the way nearly.>。双葉氏はここを「あれこれ考えてみりゃあわかりますが」としている。<tread marks>を<trademarks>(トレードマーク)とでも読みちがえたのだろうか?村上氏は「それはタイヤの跡を見りゃはっきりわかることさ」と訳している。

 

「たいそうなスピードでまともに柵にぶつかってる。ハーフ・スロットルどころの騒ぎじゃない」は<So he had plenty of speed and hit the rail square. That’s more than half-throttle.>。双葉氏は「真正面からすごい速力で柵に突っこんでる。ブレーキが半分かかっていたなんてはなし(傍点三字)になりませんぜ」とやはりブレーキを使って訳している。村上氏は「だから相当なスピードで、正面から突っ込んだことになる。ハーフ・スロットルじゃそれだけのスピードは出るまい」としている。

 

気になるのは、両氏とも<square>を「(真)正面から」というふうに訳していることだ。これは、方形を意味する<square>からくる「直角に」という訳を採用したのだろう。しかし、長い桟橋を一直線に走っていることはすでに分かっていることだ。ここは角度ではなく、躊躇があったかどうかが語られているのではないだろうか?副詞の<square>には、「まともに、直接に」の意味がある。今風に言うなら「ガチ」とか「マジ」の意味合いではないだろうか。

 

<オールズは言った。「大した目利きだよ、君は。死体はもう調べたのか?」>は<Ohles said. “You got eyes, buddy. Flisked him?”>だが、はじめの言葉はタオル男にかけたもので、後の方は保安官補に向かって言った言葉だ。双葉氏は、ここを<「なかなか目がきくじゃないか」オウルズはタオルの男に言い、そばの保安官補にきいた。「死体は調べたかね?」>と、語順を変えることでうまく処理している。村上氏は<オールズは言った。「鋭い意見だ。ところで死体の持ち物はもう調べたか?」>と、コンパクトな原文に適切な言葉を添えることで意味がよく分かるようにしている。訳者なりの工夫の仕方があるのだ。