HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第十一章(2)

《彼女は黙って煙草の煙を吐き、落ち着いた黒い瞳で私をじっと見つめた。「もしかすると、その思いつきも悪くはなかったかも」彼女は静かに言った。「彼は妹を愛していた。私たちの仲間うちではあまりないことよ」

「彼には逮捕歴があった」

彼女は肩をすくめ、ぞんざいに言った。「彼はいい人と知り合えなかった。この腐りきった犯罪者でいっぱいの国で逮捕歴が意味するのは、それだけのことよ」

「ずいぶん思い切ったことをいうじゃないか」

彼女は右手の手袋を脱ぎ、人差し指の第一関節を噛み、しっかりした目で私を見た。「私はオーウェンのことであなたに会いに来たんじゃない。父があなたに会いたいと思った理由を話す気にはまだなれない?」

「お父上の許可なしには」

「カーメンの件だった?」

「それについても同じ理由で言えない」私はパイプに煙草を詰め終え、火をつけた。彼女はしばらくの間煙を見ていた。それから、彼女の手は開いたままのバッグの中に入り、厚い白封筒と一緒に出てきた。彼女はそれを机越しに放ってよこした。

「とにかく、見てみることね」彼女は言った。

私はそれをつまみ上げた。住所はタイプで打たれていた。ウェスト・ハリウッド、アルタ・ブレア・クレッセント、三七六五番地、ミセス・ヴィヴィアン・リーガン様。メッセンジャー・サービスによって配達され、午前八時三十五分のスタンプが押してある。封筒を開け、光沢のある縦十センチ、横八センチほどの写真を抜き出した。中に入っていたのはそれだけだった。

 壇上に置かれた、ガイガーの高い背凭れのチーク材の椅子に、イヤリング以外は生まれたままの姿のカーメンが座っていた。眼は私の記憶に残るそれより幾分狂気じみていた。写真の裏には何も書いてなかった。私はそれを封筒に戻した。

「いくら要求してきたんだ?」

「五千ドル――ネガとその他の写真の分も含めて。取引は今夜のうちに。さもなければ、どこかのスキャンダル紙に売り込むって」

「その要求はどうやって?」

「女が私に電話してきた。これが届いて半時間ぐらいたってから」

「スキャンダル紙の件は心配ない。最近はその手の物を扱ったら即座に有罪判決が下る。他には何があった?」

「何か他のものがなければいけないの?」

「そうだ」

 彼女は少し困ったようにじっと私を見つめた。「あるわ。女が言ったの。この件には警察が関わっている。私は早く金を払った方がいい。でないと、金網越しに妹に面会することになるだろうと」

「いいね」私は言った。「警察にどんな関わりがあるって?」

「分からない」

「カーメンは今どこにいる?」

「家にいる。昨日の夜具合が悪かったの。まだ寝てると思う」

「昨日の夜、妹は家を空けたか?」

「いいえ、私は出かけたけど、召使が言うには妹は出かけていない。私はラス・オリンダスに行って、エディー・マーズのサイプレス・クラブにルーレットをしに行ったの。身ぐるみはがされたわ」

「なるほどルーレットが好きか。いかにもだな」

彼女は脚を組み、煙草に火をつけた。「そうよ。私はルーレットが好き。スターンウッド家の者はみんな負け試合が好き。ルーレットしかり、家出する男との結婚しかり。五十八歳で障害物競馬に出て、転倒した馬の下敷きになって、障碍者として生きるのもしかり。スターンウッド家の者はお金を持ってるけど、それで買えたのは雨天引換券だけ」》

 

「ずいぶん思い切ったことをいうじゃないか」は<I would’t go that far>。<go that far>で「そこまで」の意味がある。双葉氏は「僕はそこまで言いすぎたくないな」。村上氏も「私としては、そこまでは割り切れないが」と「そこまで」を使って訳している。自分としては「そこまで」は同意しかねる、という意味だ。立場を替えて言えば「あなたの考えは飛躍しすぎている」ということだ。今はしがない私立探偵だが、マーロウも以前は検事局の捜査官だ。それにマーロウの依頼人は将軍であって、娘ではない。金持ちの跳ねっ返り娘に返す言葉としては両氏とも遠慮しすぎではないだろうか。

 

「それから、彼女の手は開いたままのバッグの中に入り、厚い白封筒と一緒に出てきた」は<Then her hand went into her open bag and came out with a thick white envelope.>。双葉氏は「手をあけたままのハンドバッグに入れ、厚い白い封筒をとりだした」。村上氏も「それから開いたままになっているバッグに手を入れ、分厚い白い封筒を取り出し、(それをデスク越しにこちらに放った)」と彼女を主語にして訳している。ここはマーロウの眼が、彼女の手に近寄っていく、映画でいえばクローズアップの手法である。カメラの「寄り」によって視点人物の関心の高まりを表現しているのだ。こういうところは粗略に扱うべきではない。

 

「彼女はそれを机越しに放ってよこした」は<She tossed it across the desk.>。双葉氏は「彼女はそれを机の上に投げだした」と訳している。気持ちとしては机の上に置きたいところだが、<across>は<a+cross>で、「十字に」が原義。机の上にでは十字にならない。さっき、クローズアップでとらえた関心の対象である封筒が、彼女と私を隔てている机を飛び越えて近づいてくるのだ。

 

「封筒を開け、光沢のある縦十センチ、横八センチほどの写真を抜き出した。中に入っていたのはそれだけだった」は<I opened the envelope  and drew out the shiny 41/4 by 31/4 photo that was all there was inside.>。インチ表示で徹底したいのはやまやまだが、「私は封筒をあけ、縦四インチ四分の一、横三インチ四分の一の写真をひっぱりだした」という双葉氏の訳でおおよその大きさが分かるだろうか?ついでに言うと、「光沢のある」も、後半の文も双葉氏はカットしている。

 

そこへいくと、センチ表示に換算済みの村上訳は分かりやすい。「私は封筒を開け、光沢のある10センチ×8センチほどの写真を取り出した。中に入っているのはそれだけだった」E版に近いサイズだが、ぴったり合うサイズないので、「版」のサイズ表示は使えなかった。分かりやすさを第一にするならメートル法を採用するしかないのかもしれない。けれども、体格を表すフィートやポンドといった単位がものをいう場面もあるので、そこが悩ましいところだ。

 

「スキャンダル紙」は、<scandal sheet>。双葉氏は「赤新聞」と訳している。欧米には扇情的な報道を意味するイエロー・ジャーナリズムという言葉もあるが、どうして日本と欧米とでは色がちがうのかが面白い。村上氏は夫人は「スキャンダル紙」、マーロウは「スキャンダル新聞」と使い分けている。何か意味でもあるのだろうか。

 

「身ぐるみはがされたわ」は<I lost my shirt.>。双葉氏は「すってんてんにされたわ」。村上氏も同じく「すってんてんにされたけど」だ。賭け事で負けて無一文になることを意味する<lose one’s shirt>は辞書に「すってんてんになる」とそのまま書かれているので、両氏ともにそれを使ったのだろう。「着ていたシャツまでなくした」という語義を生かして「身ぐるみはがされたわ」と訳してみた。

 

「雨天引換券」と訳したのは<rain check>。双葉氏は「空手形」と意訳しているが、雨のために屋外競技などが中止になった際、渡される券のことである。村上氏は「雨天順延券」として、「レインチェック」とルビを振っている。前に<take>をつけると、招待を丁寧に断る〔またの機会に」の意味になる。夫人が使っているのは、こちらの方だろう。何かに期待しても、相手から「またの機会に」とやんわりと断られてしまう不運な一族の運命を揶揄しているのだ。