HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『大いなる眠り』註解 第二十三章(4)

《我々はラス・オリンダスを離れ、潮騒が聞こえる砂上の掘っ立て小屋みたいな家や、それより大きな家々が背後にある斜面を背に建ち並ぶ、湿っぽい海沿いの小さな町を走り抜けた。ところどころに黄色く光る窓が見えたが、大半の家は灯が消えていた。海からやってきた海藻の匂いが霧に紛れた。タイヤが大通りの湿ったコンクリートで歌うように鳴った。世界は湿っぽく虚ろだった。
 デル・レイに近づいた頃、ドラッグ・ストアを出て初めて彼女が口をきいた。何かが深いところで打ち震えているようなくぐもった声だった。
「デル・レイ・ビーチクラブに行って。海が見たいの。次の通りを左よ」
 交差点には黄色いライトが点滅していた。私はそこを折れ、片側が切り立った崖になった坂を下った。右手に郊外電車の線路が走っていて、線路の遠方に低くまばらな光が見えた。はるか遠くに桟橋の灯りがきらめき、街の上空はもやっていた。そちらの霧はほとんど晴れていた。線路が切り立った崖の下に向けて曲がるところで道路は線路を横切り、やがて舗装された海岸道路に出た。そこは開けて遮るもののないビーチとの境界になっていた。車が歩道沿いに駐まっていた。黒々と、海に立ち向かうように。二、三百ヤードほど向こうにビーチクラブの灯りがあった。
 私は縁石に乗り上げて車を停め、ヘッドライトを消し、両手をハンドルの上に置いていた。薄れてゆく霧の下で、まるで意識の縁で形を取りつつある思考のように、波がほとんど音もなく渦を巻いて泡立ち騒いでいた。
「もっと近くに来て」彼女はかすれたような声で言った。
 私は運転席からシートの真ん中に腰をずらせた。彼女は窓の外を覗こうとするみたいに私に背を向けた。そして後ろ向きに音もなく私の腕に身を委ねた。すんでのところで頭をハンドルにぶつけるところだった。目を閉じ、顔はぼんやりしていた。それから私は彼女が目を開け、瞬くのを見た。暗闇の中でもその輝きが見えた。
「私を抱きしめて、獣よ、あなたは」彼女は言った。
 最初は緩く体に腕を回した。彼女の髪が顔に当たってざらついた。私は腕に力を入れ、彼女を抱き上げた。その顔をゆっくり自分の顔に近づけた。
彼女の瞼が素早く瞬いた。蛾が羽ばたくように。 
私はしっかりと素早くキスした。それから長くゆっくり纏わりつくようなキスをした。彼女の唇は私の唇の下で開いた。彼女の体が私の腕の中で震えはじめた。
「人殺し」彼女はそっと言った。吐いた息が私の口に入ってきた。
 私は彼女の震えが私の体を震わすようになるまで彼女を抱きしめた。私はキスし続けた。長い時間がたって、彼女は口がきけるところまで頭を引いた。「どこに住んでるの?」
ホバート・アームズ。フランクリン通り、ケンモアの近くだ」
「行ったことない」
「行きたいか?」
「ええ」彼女は息を吐いた。
「エディ・マーズは君の何をつかんでるんだ?」
 彼女の体が腕の中で硬くなり、荒々しい息遣いになった。彼女は頭を後ろに引き、白目が見えるほど目を見開いて私を見つめた。
「そういうことね」彼女はそっとさえない声で言った。
「そういうことだ。キスは素敵だが、父上は君と寝させるために私を雇っていない」
「この人でなし」彼女は身じろぎもせず、穏やかに言った。
 私は彼女に笑いかけた。「私を氷柱だなんて思うなよ」私は言った。「私は目も開いているし感覚を欠いてもいない。皆と同じように温かい血が通っている。君をものにするのは簡単だ──むしろ簡単すぎる。エディ・マーズは君の何をつかんでるんだ?」
「もう一度言ったら、叫び声をあげるわよ」
「やればいい。叫んでみろよ」
 彼女は私から身をふりほどいて上体を起こし、車の向こう側の隅に真っ直ぐ坐った。
「そんなつまらないことのために人は撃たれてきたのよ、マーロウ」
「何の意味もないことのために人は撃たれてきた。初めて会ったとき探偵だと言ったはずだ。その可愛い頭に叩き込んでおくといい。私は仕事でやっているんだ、お嬢さん。遊び半分じゃない」
 彼女はバッグの中を探ってハンカチを取り出し、その端を噛み、私から顔を背けた。ハンカチが裂ける音が聞こえてきた。彼女は歯でそれを引き裂いた。ゆっくり、何度も何度も。
「なぜそう考えるの?彼が私の何かをつかんでいると」彼女は囁いた。彼女の声はハンカチのせいでくぐもって聞こえた。
「彼は君に大金を勝たせ、それを取り戻すために君に拳銃使いを差し向ける。君は特に驚いた様子もない。君を助けた私に感謝さえしなかった。すべてがよくできた芝居のようだ。自惚れを承知で言うなら、少なくともその一部は私に対する謝礼の慈善興行だったのだろう」
「彼が勝ち負けを思い通りにできると考えているのね」
「当然だ。同額配当の賭け(イーヴン・マネー・ベット)なら五回中四回はそうだ」
「あなたのそういうところが我慢ならないって、口で言わなきゃ分からないの?探偵さん」
「君は私に何の借りもない。支払いはすんでいる」
 彼女は引きちぎられたハンカチを窓から車の外に放った。「とても素敵な女の扱い方ね」
「君とのキスは気に入った」
「あなたはひどく冷静だった。うまく乗せられたわ。あなたにお祝いを言うべき?それとも父の方かしら?」
「君とのキスは気に入った」
 彼女の声が冷やかで気取った口調に変った。「手間を取らせて悪いけど、ここから連れ出してくれない。どうしても家に帰りたい気分なの」
「私の妹になる気はないんだろう?」
「剃刀を持ってたら喉を切り裂いてやるところよ──何が出てくるかしらね」
「芋虫の血さ」私は言った。
 私はエンジンをかけて車を回すと、来た道を引き返し郊外電車の線路を横切ってハイウェイにのり、やがて街の中をウェスト・ハリウッドに向かった。帰り道、彼女は私に口をきかなかった。ほとんど動きもしなかった。私は門を抜け、擁壁の下を走るドライブウェイを上り、広い家の車寄せに車を着けた。彼女はぐいっとドアを開けて、車が停まりきる前に外に出た。その時でさえ何も言わなかった。呼び鈴を押した後、ドアに向かって立っている彼女の背中を私は見ていた。ドアが開き、ノリスが顔を出した。彼女は彼を押しのけてあっという間に姿を消した。ドアがバタンと閉まり、座ったまま私はそれを見ていた。
 私はドライブウェイを引き返し、家に帰った。》

「世界は湿っぽく虚ろだった」は<The world was a wet emptiness.>。双葉氏は「世界は湿った空虚さにつつまれていた」と訳すが、世界が「湿った空虚さ」に包含されるのではなく<The world>=<a wet emptiness>ではないのか。村上氏は「世界は濡れそぼり、空っぽだった」としているが、「濡れそぼり」は「濡れそぼち」の誤りだろう。参照しているのは初版。今は訂正済みと思いたい。こんなサイトでも誤りを指摘してくれる方がいて、その都度訂正させてもらっている。まちがいがそのまま残るのは耐えがたいものだ。

「車が歩道沿いに駐まっていた。黒々と、海に立ち向かうように」は<Cars were parked along the sidewalk, facing out to sea, dark.>。双葉氏は「頭を海に向けた数台の車が歩道に沿ってとまっていた。暗かった」と訳している。村上氏は「遊歩道に沿って車が並んで駐車していた。暗い中で、鼻先を海に向けて」だ。この<dark>が気になる。双葉氏の訳では何が暗かったのかよく分からないが、辺りの様子のように読める。村上氏もそう取っている。しかし、原文は一文で、カンマによって三つに区切られている。そのすべての主語は<cars>ではないのか。直訳すれば「車は歩道沿いに停まっていた、海に面して、暗く」となる。暗いのは、車列だろう。

「彼女はかすれたような声で言った」は<she said almost thickly>。双葉氏は「彼女が低い声で言った」。村上氏は「彼女は厚みのある声で言った」だ。<thickly>には確かに「厚く」の意味があるが、声を表す場合は「しわがれ声、だみ声」のような意味になる。「厚みのある声」というのはどう考えても直訳だ。前に<almost>がついていることから考えて、もう少しでだみ声といえそうな声なのだろう。いわゆるハスキー・ヴォイスのことだ。

ホバート・アームズ。フランクリン通り、ケンモアの近くだ」は<Hobart Arms. Franklin near Kenmore.>。今までフランクリン街と訳してきたが、地図を調べるとフランクリン・アヴェニューはロスアンジェルスを東西に走る通りの名で、ケンモアは、南北に走るやはりアヴェニューだ。つまり、東西に長く伸びるフランクリン通りとケンモア通りが交差するあたりにあるというわけだ。双葉氏は、この二十三章だけ「ホバート・アダムズ館」としている。誤植だろう。

「君をものにするのは簡単だ──むしろ簡単すぎる」は<You’re easy to take── too damned easy>。双葉氏はここを「君は抱くのにいい。すごいほどいい」と訳しているが、これでは、マーロウが抱きたいのを我慢しているようだ。村上氏は「そして君は簡単に手に入る。いや、あまりにも簡単に手に入りすぎる」だ。ヴィヴィアンを相手にしない理由として、自分は普通の男性で、温かい血が通っているが、据え膳は食わない主義だ、と言って聞かしているわけだ。

「その端を噛み」は<bit on it>。双葉氏は「その端を結んだ」と訳している。<bit>は<bite>の過去形。訳者の勘違いか、誤植か、どちらにせよ誤りである。村上氏は「それを噛んだ」とほぼ直訳している。

「慈善興行」と訳したのは<benefit>。<benefit performance>を略したもので、募金目的で催される興行のこと。その前のエディの仕組んだ一幕を受けて言っているのだろう。双葉氏は「利益を得る」の意味と解して「いくらか僕の役に立ったぐらいなものだ」と訳しているが<for my benefit>と書かれているので、金を受け取らないマーロウのために仕組まれた「慈善興行」と取るのが正しい。村上氏は「私への謝礼代わりの余興」と訳している。

「同額配当の賭け」は<even money bets>。双葉氏は例によってカットしている。村上氏は「丁か半かの勝負について言えば」と、まるで日本の鉄火場のような時代がかった訳にしているが、「イーヴン・マネー・ベット」はカジノ等で普通に使われる「賭金と配当金が 1対1 の倍率になっている賭け方のこと」。ルーレットで言えば「赤か黒か」、「偶数か奇数か」 などのかけ方がこれに該当する。<even>には偶数の意味があるので、村上氏は丁半と訳したのだろうが、ヴィヴィアンの掛け方は「赤」の一点張りだった。

「あなたのそういうところが我慢ならないって、口で言わなきゃ分からないの」と訳したところは<Do I have to tell you I loathe your guts>。<guts>は「勇気、根性」などの意味の日本語にもなっているが、原義の「臓物(腸)」から「身体の奥底にあるその人の本質」のような意味を持つ。<to hate one's guts>は「その人の本質を憎む(内部まで含めたその人のすべてが嫌い)」という意味。<loathe>は<hate>より程度が上の「ひどく嫌う」という意味の単語。

双葉氏は「あなたの高慢ちきは鼻もちならないって、私に言わせたいの?」と訳している。<guts>がある、というのはふつう誉め言葉だから、非難する場合はその過剰をいましめる言葉になる。勇気も度胸も度が過ぎれば「高慢ちき」と感じられるわけだ。村上氏は「あなたは胸くそ悪いやつだって、わざわざ声に出して言わなくちゃならないのかしら」だ。こちらはマーロウが持つ<guts>=「本質」に対する相手の感情<loathe>を「胸くそ悪い」という言葉で表している。

「あなたはひどく冷静だった。うまく乗せられたわ」は<You kept your head beautifully. That’s so flattering.>。双葉氏は「頭がいいわ、とても口がうまいのね」。村上氏は「あなたは頭を見事に冷静に保っていた。嬉しくて涙が出るわ」だ。<keep one's head>は「心の平静を失わない」という意味で「落ち着いている」様子を表すイディオム。特に頭にこだわる必要はないと思うが両氏とも「頭」を用いている。<flattering>は「(お世辞、へつらいで)うれしがらせる、喜ばせる」の意。

「私の妹になる気はないんだろう?」は<You won’t be a sister to me?>。双葉氏は「僕の妹になったつもりじゃないだろうな?」。村上氏は「私の妹になってはくれないだろうね?」だ。マーロウを運転手代わりに顎で使おうとするじゃじゃ馬に対する嫌味なので、そういうニュアンスが伝わればいい。喉を掻っ切ってやりたいと思うほど怒らせるには、どの訳がいいだろう?

「擁壁の下を走るドライブウェイを上り」とめずらしく説明を加えたところの原文は<up the sunken driveway>。双葉氏はあっさりと「車道から」。村上氏は「一段掘り下げられたドライブウェイを通って」だ。高台に建つ屋敷に続く道は左右を土留め用の擁壁で固めている。<sunken>は「地面より低いところ(にある)」の意味。冒頭でくわしく説明されているのでカットしてもいいようなところだ。

『大いなる眠り』註解 第二十三章(3)

《彼女は私の腕につかまって震えはじめた。車に着くまでずっとしがみついていた。車に着くころには彼女の震えはとまっていた。私は建物の裏側の樹間を抜けるカーブの続く道を運転した。道はドゥ・カザン大通りに面していた。ラス・オリンダスの中心街だ。パチパチ音を立てる年代物のアーク灯の下を通ってしばらく行くと街に出た。ビルディング、死んだような小売店、夜間電鈴の上に灯りがついたガソリン・スタンド、そして最後にまだ開いているドラッグストアがあった。
「何か飲んだほうがいい」私は言った。
 彼女はシートの隅で青白い顎の先を動かした。私は車の向きを変え、道路を斜に横切って縁石に駐車した。
「ブラック・コーヒーにライ・ウィスキーを少し、これがいいんだ」私は言った。
「水兵二人分くらいは飲めそうよ。大好きなの」
ドアを開けてやると彼女は私の傍に降り、髪が私の頬を撫でた。我々はドラッグ・ストアの中に入った。私は酒売り場でライ・ウィスキーの一パイント瓶を買い、止まり木に腰を下ろし、ひび割れの生じた大理石のカウンターの上に置いた。
「コーヒー二つ」私は言った。「ブラックで、濃いのを、今年淹れたやつだ」
「ここで酒を飲むことはできませんよ」店員が言った。洗いざらしの青い上っ張りを着て、頭のてっぺんの髪は薄く、まずまず率直な眼をした、壁を見る前に顎をぶつけるような真似は決してしない男だ。
 ヴィヴィアン・リーガンはバッグの中から煙草の箱を出し、男がやるように振って二本出した。それを私の方に差し出した。
「ここで酒を飲むのは法律で禁じられています」店員が言った。
 私は煙草に火をつけ、彼に注意を払わなかった。彼は変色したニッケル製のコーヒー沸かしから二つのカップにコーヒーを注ぎ、我々の前に置いた。ライ・ウィスキーの瓶を見て、小声でぶつぶつ言い、それからうんざりしたように言った。「しょうがない、通りを見ている間にやってくれ」
 彼はショウ・ウインドウまで行くと我々を背にして立った。両耳が突き出ていた。
「こんなことをしていると生きた心地がしない」私は言い、ウィスキー瓶の蓋をひねって開け、コーヒーの中にたっぷり注いだ。「この街の法の執行ぶりはずば抜けてる。禁酒法時代、エディ・マーズのところはナイトクラブだったんだが、二人の制服警官が毎晩ロビーに立って──客がこの店で買う代わりに、自分の酒を持ち込まないか見張ってた」
 店員がさっと振り返ってカウンターの後ろに歩いて戻り、処方箋調剤室の小さなガラス窓の向こうへ消えた。
 我々は酒をたっぷり仕込んだコーヒーを啜った。私はコーヒー沸かしの後ろにある鏡越しにヴィヴィアンの顔を見た。緊張し、青白く、野性的で美しかった。唇は強烈な赤だった。「悪戯な眼をしている」私は言った。「エディ・マーズは君の何をつかんでるんだ?」
 彼女は鏡の中の私を見た。「今夜ルーレットで彼からたっぷりふんだくってやった──五千ドルで始めたの。昨日彼に借りて使わずにすんだ金よ」
「それが彼を怒らせたのかもしれない。あの頓痴気は彼が寄こしたと思うかい?」
「頓痴気って?」
「銃を持った男のことだ」
「あなたも頓痴気?」
「確かに」私は笑った。「しかし、厳密にいえば、塀のまちがった側にいるのが頓痴気だ」
「思うんだけど、まちがった側ってあるのかな」
「話がそれたようだ。エディ・マーズは君の何をつかんでるんだ?」
「私の弱みを握っているということ?」
「そうだ」
 彼女は唇を反り返らせた。「気を利かせてよ、お願い、マーロウ。もっと気の利いたこと言ってよ」
「将軍の具合はどうだ?私は気が利くふりなどしない」
「あまりよくない。父は今日起きてこなかった。質問をやめることくらいできるわよね」
「君に関して同じ考えを抱いたのを思い出すよ。将軍はどこまで知っているんだ?」
「おそらくすべてを知っている」
「ノリスが伝えるのか?」
「いいえ、地方検事のワイルドが会いに来たの。あの写真燃やしてくれた?」
「勿論だ。妹のことが心配なんだね──時々は」
「それだけが心配の種よ。パパのことも多少は心配、厄介ごとは隠しておくの」
「彼はさほど幻想を抱いてる訳じゃない」私は言った。「が、まだ自尊心は持っている」
「私たちは彼の血統。それが厄介なの」彼女は鏡の中の私を、深く遠い目で見つめた。「自分の血を厭いながら父に死んでほしくない。いつだって手に負えない血だけれど、いつもいつも腐臭を放つ血だったわけじゃない」
「今はそうなのか?」
「あなたはそう思ってるでしょう?」
「君についてはちがう。君はただ役を演じているだけだ」
彼女はうつむいた。私はもうひと口コーヒーを啜ってから二人の煙草に火をつけた。「それであなたは人を撃つのね」彼女は静かに言った。「あなたは人殺し」
「私が?どうして?」
「新聞も警察も体裁を繕っていた。でも、私は読んだことを信じこんだりしない」
「へえ、私がガイガーを殺したと考えたんだ──それともブロディ──もしかして二人とも」
 彼女は何も言わなかった。「私にそんな必要はなかった」私は言った。「もし、やったとしても、無罪放免だったろう。二人とも私に鉛の弾を食らわすのに躊躇しなかったはずだ」
「根っからの人殺しなのよ、警官もみんなそう」
「言ってくれるね」
「肉屋が屠殺された肉に抱くほどの感情しか持ち合わせない、暗い死んだように無口な男たちの一人。初めて会ったときから知ってたわ」
「君にはその差が分かるくらいたくさんの胡散臭い友達がいるわけだ」
「あなたと比べたらやわなものよ」
「有難いね、レディ。そういう君だってイングリッシュ・マフィンというわけじゃない」
「こんな腐った小さな町、とっとと出ましょう」
 私は勘定を払い、ライウィスキーの瓶をポケットに入れて店を出た。店員はまだ私のことを嫌っていた。》

また<De Cazens>が出てきた。今度は、大通りの名前になっている。フランス人っぽい人名なら「ドゥ・カザン」でも構わないが、大通りの名となると、どうだろう。自信がなくなってきた。アメリカ人が発音しやすい表記に変えた方がいいかもしれない。一応そのままにしておくが、ことによったら「デ・カゼンス」に変える日が来るかもしれない。

「パチパチ音を立てる年代物のアーク灯」のところを第二十一章で「まばらなアーク灯」と訳していた村上氏も、今度は「ぱちぱちという音を立てる旧式のアーク灯」と正しく訳している。でも、それならなぜ発表前に訳を直さなかったのだろう。何度もいうことだが、早川書房校閲部は仕事をしていないのか?

「私は車の向きを変え、道路を斜に横切って縁石に駐車した」のところ、双葉氏は「私は車をとめた」と、あっさり。原文は<I turned diagonally into the curb and parked.>。村上氏は「私はタ-ンし、道路を斜めに横切って縁石に車を駐めた」。まあ、どうでもいいといえば、どうでもいいようなところなので、カットしたのだろう。

ドラッグ・ストアでコーヒーを注文するところの「ブラックで、濃いのを、今年淹れたやつだ」は<Black, strong and made this year.>。夜遅くに入ってきてつまらないことを言うマーロウは、まったく嫌な客だ。双葉氏は「ブラックでうんと強くしてくれ」。村上氏は「ブラックで強いやつ。今年になって作られたものがいいな」。コーヒーの<strong>はふつう「濃い」じゃないだろうか?

ドラッグ・ストアの店員の人物評で「壁を見る前に顎をぶつけるような真似は決してしない男だ」は<his chin would never hit a wall before he saw it>。用心深いことを言っているのだから、村上氏の「危ない橋は決して渡らないタイプだ」で正解。例によって、双葉氏は、ここもカットしている。用心深いことを評したことわざや故事成語はけっこうあると思うのだが。

覆面男のことを「頓痴気」と訳したが、原文は<loogan>。「愚か者、馬鹿」を表す俗語で、<loser>と<Hooligan>を合わせて作られたという説もあるが真偽は定かではない。双葉氏は「ルーガン」と、あえて訳していない。ヴィヴィアンが聞いたことがない言葉という設定になっているので、あえてそうしたのだろう。村上氏は「ハジキ屋」という造語を使っている。<What’s a loogan?>と訊かれたマーロウが<A guy with a gan.>と説明しているからだろう。

「頓痴気」という死語を引っ張り出してきたのは、ヴィヴィアンが知らなくても不思議ではない、あまり耳慣れない言葉が欲しかったからだ。「とんま」と「いんちき」の組み合わせという説もあるので<loogan>には意味的にピッタリではないかと思う。<loogan>を「銃を持った男」という意味で使うのは、チャンドラーの『大いなる眠り』だけ、と紹介しているウェブ・サイトもある。わざわざ「ハジキ屋」という造語を使う意味があるのだろうか?

「暗い死んだように無口な男たちの一人」は<One of those dark deadly quiet men>。双葉氏は「冷酷無残な男」と手っ取り早くまとめている。<dark>と<deadly>はよく組み合わせて使われる相性のいい言葉。「邪悪」や「死」を連想させるダブル・ミーニングになっていると思われる。村上氏は「暗くて、どこまでも寡黙な男たち。(中略)あなたはそういう人間の一人なのよ」と、原文の語順にこだわる氏にしては珍しく語順を入れ替えている。

「イングリッシュ・マフィン」が双葉訳では「お茶うけのビスケット」になっている。こういう部分については、たしかに村上氏のいうように、どんな名訳であっても、十年、二十年たったら見直して、手を入れてゆく必要があるだろう。当時はあまり知られていなかっただろうイングリッシュ・マフィンだが、今ではどこでも見かける普通の食べ物になっている。

ヴィヴィアンとマーロウの掛け合いの妙味を味わえるところだが、「あなたと比べたらやわなものよ」の原文<They’re all soft compared to you.>を双葉氏は「あの連中なんか、あなたにくらべりゃ甘いものよ」と訳している。イングリッシュ・マフィンは間に何か挟んで食べる朝食用のパンのようなものだから別に甘くない。<soft>な物の一例として挙げたのだ。マフィンを「お茶うけのビスケット」に変更したための苦肉の訳だろう。

『大いなる眠り』註解 第二十三章(2)

《「お見事な手並みね、マーロウ。今は私のボディガードなの?」彼女の声にはとげとげしい響きがあった。
「そのようだ。ほら、バッグだ」
彼女は受け取った。私は言った。「車はあるのかな?」
彼女は笑った。「男と一緒に来たの。あなたはここで何をしてたの?」
「エディ・マーズが私に会いたがってね」
「知り合いだとは知らなかった。どうして知ってるの?」
「聞きたいかい。彼は自分の妻と駆け落ちした誰かを、私が探していると思ったのさ」
「そうなの?」
「いや」
「それで、どうしてここへ来たわけ?」
「自分の妻と駆け落ちした誰かを私が探している、と彼が考えた理由を見つけるためだ」
「見つかった?」
「いや」
「ラジオのアナウンサーみたいに情報を漏らすのね」彼女は言った。「私には関係ないことだけど──たとえその男が私の夫だったとしても、あなたは興味などないと思ってた」
「人は私を見ると必ずその話を持ち出すんだ」
 彼女は煩わしそうに歯を鳴らした。銃を持った覆面の男の一件は彼女に何の印象も与えなかったようだ。「いいわ、ガレージまで連れてって」彼女は言った。「エスコート役のところに寄らなきゃいけないの」
 小径に沿って歩き、建物の角を回るとその前に灯りがあった。それからもう一つの角を曲がって、二つの投光照明に照らされた厩舎の明るい中庭に出た。それは今も煉瓦敷きで中央の格子状の溝蓋に向けて今も傾斜がついていた。車が輝き、茶色の作業着を着た男が腰掛から立ち上がってこちらの方にやって来た。
「私のボーイフレンド、まだ酔い潰れてる?」ヴィヴィアンはぞんざいに訊いた。
「残念ながらそのようで、お嬢さん。毛布を掛けて窓を閉めときました。彼なら大丈夫。ちょっと一休みといったところです」
 我々は大きなキャデラックのところまで行き、作業着の男が後部ドアを開けた。広い後部座席の上にだらしなく体を投げだし、格子縞の羅紗の膝掛を顎までかぶり、男は口を開けていびきをかいていた。大量の酒を飲みそうな、大きな金髪の男だった。
「ミスタ・ラリー・コブを紹介するわ」ヴィヴィアンは言った。「ミスタ・コブ、こちらはミスタ・マーロウ」
 私はうなった。
「ミスタ・コブは私のエスコート役だった」彼女は言った。「とてもいいエスコート役、ミスタ・コブは。気が利いていて。素面でいるところを見せたいわ。私も素面の彼を見たい。誰だって素面の彼を見たいと思うわ。記録に残すという意味で。歴史の一部になれる。瞬く間に時の流れに埋もれはするが、忘却されることはない──ラリー・コブが素面でいる時」
「はいはい」私は言った。
「彼と結婚しようとまで考えたわ」彼女は高い緊張した声で続けた。強盗に遭った衝撃が今になって出てきたかのように。「楽しいことなんて何ひとつ心の中になかった時のこと。私たちにはそんな時があるの。何しろ、大金でしょ。ヨット、ロングアイランドのどこそこ、ニューポートのどこそこ、バーミュダのどこそこ、たぶん世界中のそこかしこに散らばっているいろんな所でね──上物のスコッチの瓶は別として。ミスタ・コブとスコッチの瓶は、そんなに離れていないの」
「はいはい」私は言った。「彼を家まで連れてゆく運転手はいるのかい?」
「『はいはい』はやめて。不作法よ」彼女は眉を吊り上げて私を見た。作業着の男が下唇を強く噛んだ。「あら、まちがいなく一個小隊の運転手がいるわ。多分、彼らは毎朝ガレージ前に分隊ごとに整列する、磨き立てられたボタン、制服を輝かせ、手にはしみひとつない純白の手袋──ウェストポイント士官学校のような気品を身に纏って」
「まあいい、それでその運転手はどこにいるんだ?」
「今夜は自分で運転してきたんです」作業着の男は弁解がましく言った。「ご自宅に電話して誰かに彼を迎えに来させることはできますが」
 ヴィヴィアンは振り返り、ダイアモンドのティアラでもプレゼントされたみたいに彼に微笑みかけた。「それは素敵」彼女は言った。「そうしてくれる?私、本当にミスタ・コブにこんな形で死んでほしくない──口を開けたままなんて。喉の渇きで死んだと思われるわ」
 作業着の男が言った。「もし彼の臭いを嗅がなければですがね、お嬢さん」
 彼女はバッグを開け、一握りの紙幣をつかんで彼に押しつけた。「彼の面倒を見てくれるでしょう、きっとよ」
「これはこれは」男が目を丸くして言った。「承知いたしました、お嬢さん」
「リーガンよ、名前は」彼女は甘く囁いた。「ミセス・リーガン。きっとまた会えるわね。ここはまだそんなに長くないわね、ちがう?」
「え、まあ」彼の両手は彼が手にしている大金のことで半狂乱になっていた。
「ここにいるとそれを愛するようになるわ」彼女は言った。彼女は私の腕を取った。「あなたの車で行きましょう、マーロウ」
「外の通りに停めてあるんだが」
「それで構わないわ、マーロウ。私、霧の中の散歩って大好き。興味深い人にも会えるし」
「言ってくれるね」私は言った。》

「ラジオのアナウンサーみたいに情報を漏らすのね」は<You leak information like a radio announcer>。双葉氏も村上氏も「あなた、ラジオのアナウンサーみたいに口が軽いのね」、「まったく、ラジオのアナウンサー顔負けの口の軽さね」と「口の軽さ」を付け加えている。おそらく、新訳は旧訳をそのまま手直ししただけなのだろうが、ラジオのアナウンサーが口の軽い人間の代表みたいに評されるのはおかしい。ヴィヴィアンは、マーロウが情報を小出しにするのを評しているのではないのか。

「それは今も煉瓦敷きで中央の格子状の溝蓋に向けて今も傾斜がついていた」は<It was still paved with brick and still sloped to a grating in the middle.>。双葉氏は例によって、一文全部をカットしている。そんなに難しい文ではないので、読み落としたのかもしれない。村上氏は「今でも煉瓦敷きのままで、中央の格子つきの穴に向けて緩やかな傾斜がついている」だ。「格子つきの穴」は<grating>。「グレーチング」は一般に流布している、側溝の上に載せる穴の開いた金属製の蓋である。

「どこそこ」は<a place>。「(特定の目的に使用される)場所、建物」の意味だが、双葉氏はすべてを「別荘」と訳している。わざわざ<a place>を使っているところを見れば、「別荘」に限らないのではないだろうか。行きつけの店だったり、賭場だったり、とにかく憂さ晴らしのできる場所だろう。村上氏も「どこそこ」と訳している。

「上物のスコッチの瓶は別として。ミスタ・コブとスコッチの瓶は、そんなに離れていないの」の方が問題だ。原文は<just a good Scotch bottle apart. And to Mr. Cobb a bottle of Scotch is not very far.>。双葉氏は「いいウィスキーが世界じゅうにちらばっているみたいにね。もっとも、コッブさんとウィスキーは切ってもきれない仲だけど」と訳している。<apart>は「離れて」の意味だから、これはこれで理解できる。

村上氏はこう訳す。「スコッチのボトルを一本空にする間に、次なる贅沢な場所にさっと移動できる。ミスタ・コブについていえば、スコッチのボトルはそこまで長くは持たないかもしれないけれどね」。そっけない原文に比べ、かなりの意味内容が付加されている。原文には、ほんとうにこんな意味があるのだろうか。

ここは、ヴィヴィアンが気鬱状態になったとき、気分転換に使う場所を数え上げているところだ。何も面白いものがないから、エスコート役を務める酒浸りのミスタ・コブと結婚でもしてみようか、などと思いつくのだ。そういう憂さ晴らしのための場は、世界中にちらばっている。原文は<all over the world probably>と──で直接結ばれている。

それらは世界中に点在しているが、スコッチの瓶だけは別で、ミスタ・コブとそれは<not very far>「あまり遠くはない」つまり、いつも一緒だと言いたいのだろう。村上氏のような説明を加える必要があるとは思えない。むしろ、解釈の仕方は異なるが、双葉訳の方が簡明でより原文に近いと考えられる。村上訳の不人気なところは、こういうこじつけめいた解釈が必要以上に混入されるところにあるのではないだろうか。

「あら、まちがいなく一個小隊の運転手がいるわ。多分、彼らは毎朝ガレージ前に分隊ごとに整列する、磨き立てられたボタン、制服を輝かせ、手にはしみひとつない純白の手袋──ウェストポイント士官学校のような気品を身に纏って」というヴィヴィアンの台詞を、双葉氏は「運転手なら一中隊くらいいますぜ。朝になると車庫の前に整列するんでさ。ボタンをきらきら、靴をぴかぴか、真っ白な手袋で、士官学校の生徒みたいに気取ってますぜ」と男の台詞にしている。

ヴィヴィアンのマーロウへの文句のあとに<The man in the smock>「上っ張りの男」が出てきたのに引きずられたのだろう。英語には、日本語の文で男と女を区別する「ぜ」だとか「わ」にあたる語尾が存在しない。それはそれですっきりしていて好ましいのだが、こういう時には往生する。ただし、使用する語彙に社会階層の差は現れるので、この一連の文章が「スモックを着た男」(村上訳)が日常使う言葉で構成されているとは到底思えない。

「今夜は自分で運転してきたんです」は<He drove hisself tonight.>。双葉氏は「出かけましたんで」と訳している。運転手が自分の車を運転している、と読んだわけだ。しかし、この<He>は、ミスタ・コブのことである。双葉氏のこの頓珍漢な訳は、前の台詞を作業着の男の台詞と取り違えたことに端を発している。「一中隊くらいいる」はずの運転手の姿が見えないことの言い訳をしていると思い込んでしまったのだろう。

「彼の両手は彼が手にしている大金のことで半狂乱になっていた」は<His hands were doing frantic things with the fistful of money he was holding.>。<fistful>は「ひとつかみ、一握り」だが、<fistful of money>となると「大金」(米俗)の意味になる。村上氏は「彼の手は札をひとつかみ手にしているせいで、ばたばたとわけのわからない動きをした」と嚙み砕いて訳しているが「ばたばたとわけのわからない動きをした」という説明は親切なようでいて、かえって事態をわけのわからないものにしている。村上氏の悪い癖だ。

双葉氏は「彼は手にあまる札をそろえるのに夢中だった」と訳している。<frantic>は「気が狂ったように」の意味だが、「大慌て」の意味もあるから「夢中」という訳語は悪くない。主語は<he>ではなく<His hands>なので、「彼の両手は」を主語にすればもっといい。ただ、手の動きを「札をそろえる」ことに決めつけているところが気にかかる。たしかによく分かるようにはなるが、果たして本当にそうかどうかは分からない。分からない部分は分からないままにしておくのが翻訳をする際の正しい姿勢ではないだろうか。

「ここにいるとそれを愛するようになるわ」は<You’ll get to love it here>。村上氏は「ここがきっと好きになるわよ」と訳しているが、村上氏は<it>が目に入らなかったのだろう。双葉氏は「ここにいるとますますお金が好きになるわよ」と、単刀直入に<it>を「金」と名指して訳している。この<you>は「あなた」に限らず、自戒を込めて「人は(誰も)」の意味で使っているのではないか。そうとれるように訳してみた。

「言ってくれるね」と訳したのは<Oh, nuts>。<nuts>は強い拒絶や不満、嫌悪の感情を表す間投詞。「ちぇっ、ばかな、くそっ」等々の汚い言葉が当てはまるが、双葉氏は相手が若い女性ということもあって「むちゃ言いなさんな」と、ソフトに訳している。村上氏は「言うね」だ。無論、その前のヴィヴィアンの<You meet such interesting people>という言葉を聞いたマーロウの実感である。この<you>もマーロウを指すのではなく「人」一般を表している。

『大いなる眠り』註解 第二十三章(1)

《軽やかな足音、女の足音が見えない小径をやってくると、私の前にいた男が霧によりかかるように前に出た。女は見えなかったが、やがてぼんやりと見えてきた。尊大に構えた頭に見覚えがあった。男が素早く行動に出た。二つの影が霧の中で混ぜ合わされ、霧の一部のようだった。一瞬完全な沈黙が降りた。やがて男が言った。
 「これは銃だ、レディ。静かにしろ。霧の中でも音は伝わる。バッグを俺に渡すんだ」
 女は音を立てなかった。私は一歩前に出た。突然、男の帽子の縁にぼんやりした毛羽が見えた。娘はじっと動かず突っ立っていた。それから彼女の息づかいが、柔らかな木にやすりをかけるような耳障りな音を立て始めた。
 「声を上げてみな」男が言った。「首を掻っ切るぞ」
 彼女は大声を出さなかった。動きもしなかった。動きは彼の方にあり、耳障りな含み笑いが聞こえた。「こっちにいるほうがいいとさ」彼は言った。留め金の外れるカチッという音と手探りする音がした。男は向きを変え、私の木の方に向かってきた。三歩か四歩歩いて、また含み笑いをした。その含み笑いには聞き覚えがあった。私はポケットからパイプを取り出し、銃のように構えた。
 私はそっと呼びかけた。「おい、ラニー」
 男ははっと立ち止まり、手を上に上げはじめた。私は言った。「よせ、ラニー。それはするなと言ったはずだ。撃つぞ」
 誰も動かなかった。女は小径の向こうで動かなかった。私は動かなかった。ラニーも動かなかった。
 「バッグを下ろして両脚の間に置け」私は言った。
「ゆっくりと、焦るんじゃない」
彼は屈んだ。私は飛び出して、屈みこんでいる彼に近づいた。彼は荒い息をして体を起こし私に向き合った。両手は空っぽだった。
「教えてくれ。こんな真似をして私はただで済むのかな」私は言った。私は彼の方に身を傾け、彼のコートのポケットから銃を抜き出した。「誰かが私にいつも銃をくれる」私は彼に言った。「そのせいで、歩いている間ずっと体が曲がって動きが取れん。とっとと失せろ」
 我々の息がぶつかり合い、からみ合った。眼は塀の上の二匹の雄猫のようだった。私は一歩退いた。
 「行けよ、ラニー。恨みっこなしだ。お前が黙っていれば、私も黙っている。それでいいな?」
「いいだろう」だみ声で彼は言った。
 霧が彼をのみ込んだ。彼の足音が微かになり、やがて消えた。私はバッグを取り上げ、中身を手で確かめ、小径の方に向かった。彼女はまだじっと動かずに立ったまま、指輪が微かにきらめく手袋をしていない片手で、グレーの毛皮のコートを喉にしっかり巻きつけていた。帽子はかぶっていなかった。彼女の二つに分けた黒い髪は夜の闇の一部になっていた。両の眼も同じだった。》

「霧の中でも音は伝わる」は<sound carries in the fog>。双葉氏は「音を立てても霧で消える」と逆の意味に訳している。つまり、大声を上げても無駄だ、という意味だ。村上氏は「この霧じゃ音は遠くまで届く」と逆だ。本当はどうなのか。実は多量に水蒸気を含む霧の中では音は乾燥した空気の中より速く進むらしい。村上氏の方が正しいわけだが、原文にそこまでの意味があるだろうか。霧はものを見えにくくするが、音は伝えるということを言いたいだけではないだろうか。

双葉氏は「男の帽子の縁が見えた」と、あっさりカットしているが、「ぼんやりした毛羽」と訳したのは<foggy fuzz>。村上氏は「ぼんやりとした綿毛のようなもの」だ。<fuzz>には、どちらの意味もある。霧の中でのことだから、どちらでもいいようなものだが、なぜこんなことをわざわざ持ち出したのか、作家の意図が気になる。

「首を掻っ切るぞ」は<I’ll cut you in half>。双葉氏は「なますにするぜ」と、半分どころではない切りようだ。時代劇でもあるまいし、そんなに切り刻む必要もないだろうに。村上氏は「命はないぞ」と<cut>を無視している。持っているのは銃だといいながら<cut>と言っているのは、音を立てたくないからだ。頭と胴を切り離しても「真っ二つに」することにはならないが、その前に<Yell>(大声を上げる)と言っているのだから、ここは音を立てる原因を取り除く意味で、上記の訳にした。

「こっちにいるほうがいいとさ」は<It better be in here>。双葉氏は「こっちへはいったほうがよかろう」と訳しているが、どこへ入るのだろう。この台詞の前後に人の移動を表す記述は見られない。村上氏は「こいつは置いていってもらおう」と、バッグについての言及であることを匂わせている。霧の中のことで、マーロウにははっきりと見えていない。音だけが頼りだ。当然読者にも分からない。この辺の描写はさすがに堂に入ったものだ。

「その含み笑いには聞き覚えがあった」は<The chuckle was something out of my own memories.>。双葉氏は「聞き覚えのある笑いかただが思い出せない」と訳している。村上氏は「そのくすくす笑いにも覚えがあった」だ。ここは覚えがないと「ラニー」という呼びかけが出てこない。<something out of >はただ単に「何か」を表しているのだが、双葉氏は<out of memory>と読んで「メモリー不足」の意味にとってしまったのだろう。村上氏の「も」がよく分からない。笑い声の他の何かも覚えていたのだろうか。

「教えてくれ。こんな真似をして私はただで済むのかな」は<Tell me I can't get away with it.>。村上氏は「こんなことをしてただで済むと思うなよ、とは言わないのか」となっているが、双葉氏の訳ではスッポリ抜け落ちている。こういう人の感情を逆なでするようなことをあえて口にするのがマーロウのマーロウたる所以なので、これを訳さない手はない。否定文で使われる<get away with>には「(悪いことをして)ただで済む」の意味がある。

「眼は塀の上の二匹の雄猫のようだった」は<our eyes were like the eyes of two tomcats on a wall.>。村上氏はこれを「壁の上の二匹の雄猫のように、我々は互いを睨んだ」と訳している。たしかに<wall>は、通常「壁」だが、二匹の雄猫がにらみ合うには場所が悪かろう。ここは、双葉氏の「私たちの目は塀の上の牡猫みたいだった」の方に軍配を上げたい。「二匹の」が抜けているところが惜しいが。

「彼女の二つに分けた黒い髪は夜の闇の一部になっていた」は<Her dark parted hair was part of the darkness of the night.>。双葉氏は何と思ったのか、ここを「二つに分けられた黒い髪は花の暗さの一部に似ていた」と訳している。<night>に似たスペルを持つ「花」を表す単語が思いつかない。もしかしたら誤植だろうか。村上氏は「二つに分けられた黒髪は夜の闇の一部になっていた」と訳している。

『大いなる眠り』註解 第二十二章(3)

《エディ・マーズはかすかに微笑み、それから頷いて胸の内ポケットに手を伸ばした。隅を金で飾った仔海豹の鞣革製の大きな財布を抜き出し、無造作にクルピエのテーブルに投げた。「かっきり千ドル単位で賭けを受けろ」彼は言った。「ご異存がなければ、今回に限り、このレディお一人との勝負にさせていただきます」
 誰にも異存はなかった。ヴィヴィアン・リーガンは身を乗り出し、両手で乱暴に儲けを全部、レイアウトの大きな赤のダイヤモンドの上に押しやった。
 クルピエは急ぐ風もなくテーブルの上に身を傾けた。彼は金とチップを数えてその場に積み重ねると、きれいな山にした端数のチップと札を、レイクでレイアウトの外に押し出した。彼はエディ・マーズの財布を開けて千ドル札の平たい束を二つ引き出した。その一束の封を切り、六枚を数えて未開封の束に加えると、残りの四枚を財布の中に戻し、マッチ箱みたいにさりげなく脇に置いた。エディ・マーズは財布に触れもしなかった。クルピエ以外に動くものはなかった。彼は左手で回転盤を回し、手首を軽くひねって上の縁すれすれに象牙の球を投げ入れた。それから手を引いて、両腕を組んだ。
 ヴィヴィアンの両唇はゆっくり、光を受けた歯がナイフのようにきらきらするところまで開いた。球は回転盤のスロープをのろのろとさまよいながら下り、数字を区切るクロムの仕切りの上で跳ねた。長い時間が過ぎた後で、ことんという乾いた音とともに突然その動きは止まった。回転盤は球をのせたまま速度を緩めていった。クルピエは盤の回転が完全に止むまで組んだ両腕を解かなかった。
「赤の勝ち」彼は関心がなさそうに形式的に言った。小さな象牙の球は赤の25にあった。ダブル・ゼロから三つ目。ヴィヴィアン・リーガンは頭をのけ反らせて勝ち誇るように笑った。
 クルピエはレイクを取り上げ、千ドルの札束の山をレイアウト越しにゆっくり押して彼女の賭け金に加え、それらすべてをゆっくりと勝負の場の外に出した。
 エディ・マーズは微笑んで財布をポケットにしまうと、踵を返して鏡板についたドアを抜けて部屋を後にした。
 十数人ほどの人々は一斉に息を吐き出し、バーの方へ散っていった。私も彼らとともにそこを離れ、ヴィヴィアンが儲けをかき集めてテーブルを離れる前に部屋の向こう側にいた。私は人気のない広いロビーに出て、手荷物預かりの娘から帽子とコートを貰って、二十五セント硬貨をトレイに入れ、ポーチに出た。ドアマンがどこからか私の傍に現れて言った。「お車をお持ちしましょうか?」
 私は言った。「少しばかり歩くよ」
 張出し屋根の縁に廻らした渦巻き装飾は霧のせいで湿っていた。海岸の切り立った崖に向かって暗さを増していくモントレー糸杉から霧が滴だっていた。どこを見渡しても十フィート足らずの視界しか得られなかった。私はポーチの階段を降り、木立の間をあてもなく歩き、覚束ない小径を辿っていくと、霧を舐めるように岸に打ち寄せる波の音が崖のずっと下の方から聞こえてきた。どこにもわずかな光すらなかった。木立ははっきり見える時もあればぼんやりと見える時もあり、やがて霧のほかは何も見えなくなった。私は左に回り込み、駐車場代わりの厩舎を一回りする砂利道の方に引き返した。屋敷の輪郭がようやく見分けられるようになって、私は足を止めた。私の少し前で男の咳が聞こえた。
 湿った芝生のせいで足音は立たなかった。男は再び咳をし、ハンカチか袖で咳を抑えた。彼がそうしている間に、私は近づいた。小径の傍らに立つぼんやりとした影を私は認めた。何かが私を木の陰に入って屈みこませた。男が振り返った。その顔は霧でぼんやりと白いはずだった。そうではなかった。暗いままだった。覆面をつけていたのだ。
 私は待った。木の陰で。》

またもや出てきた「隅を金で飾った仔海豹の鞣革製の大きな財布」は<a large pinseal wallet with gold corners>。第四章でガイガーの店を訪れた客が持っていた財布の大型版だ。<pinseal>を調べるとチャンドラーの『大いなる眠り』が例文として引用されている。若い海豹の皮をなめした革に角に金の飾をつけるのが当時の流行だったのだろうか。それともチャンドラーがどこかで目にして気になっていたのだろうか。双葉氏は「角に金をつけた大きな紙入」。村上氏は「角に金をあしらった、大きなアザラシ革の札入れ」。両氏とも子どものアザラシであることにこだわっていない。

「レイアウトの大きな赤のダイヤモンド」は<the large red diamond on the layout>。ルーレット・テーブルにはどこに賭けるかを記したレイアウトと呼ばれる枠がある。長方形をいくつかの線で区切ったその最下段にあるのが赤のダイアモンド。双葉氏は「大きな赤い仕切り」と訳しているが、仕切り線は普通白だ。村上訳は「レイアウトの大きな赤のダイヤモンド」。こうとしか訳しようがない。

「マッチ箱みたいに」は<as if it had been a packet of matches>。双葉氏も同じ訳だが、村上氏は「まるで紙マッチか何かみたいに」とより詳しく訳している。この時代にアメリカではすでに紙マッチ(ブックマッチ)は流布していたから、紙マッチであっても不思議ではないが、<packet>には「束」のほかに「小箱」の意味もある。あえて紙マッチと解する理由があるだろうか。

ここで<a packet of matches>を出してきた理由は、日本語訳ではよく分からない。実は、その前に出てきた「千ドル札の平たい束」が<flat packets of thousand-dollar bills>、「未開封の束」が<unbroken packet>と、いつものように<packet>が使い回されているのだ。同じ<packet>であるのに、片方は千ドル札の札束、もう一方はマッチの箱(あるいは束)という軽重の比較の面白さをねらっての< a packet of matches>だ。もしかしたら、村上氏は<packet>が繰り返されることで< a packet of matches>をそのまま英語で「マッチの束」と読んで、紙マッチを思い浮かべたのかもしれない。

「ヴィヴィアンの両唇はゆっくり、光を受けた歯がナイフのようにきらきらするところまで開いた」は<Vivian’s lips parted slowly until her teeth caught the light and glittered like knives.>。双葉氏は「ヴィヴィアンのくちびるが徐々に開いた。光を受けた歯がナイフを並べたようにきらめいた」と訳している。村上氏も「ヴィヴィアンの唇がゆっくりと開いた。歯が明かりを受けて、ナイフのようにきらりと光った」と訳す。

唇が開いて、歯がきらめくのが見えた、という結果的には同じことを言っているのだが、両氏の訳では<until>の意味が伝わらない。もしかしたら、それ以上に開いたかもしれないと思わせる表現になっている。ふだんは細かいところにこだわらない双葉氏が<knives>の複数形を気にして「ナイフを並べたように」と訳しているのが面白い。正しいのだろうが、ヴィヴィアンの歯の一本一本がナイフのように思えて、少し怖い。

「その顔は霧でぼんやりと白いはずだった」は<His face should have been a white blur when he did that.>。双葉氏は「白いものがほのめいた。顔が白いのか」と訳しているが、白く見えたはずがない。顔は<mask>で覆われているのだから。<should have been>は「はずだった」と訳すべきで、村上氏も「その顔は霧に白くぼやけて見えるはずだったが」と訳している。

『大いなる眠り』註解 第二十二章(2)

《人ごみが二つに分かれ、夜会服を着た二人の男がそれを押し分けたので、彼女のうなじと剥き出しの肩が見えた。鈍いグリーンのヴェルベット地のローカット・ドレスはこういう場にはドレッシー過ぎるように見えた。人込みが再び閉じ、黒い頭しか見えなくなった。二人の男は部屋を横切ってきてバーに寄りかかり、スコッチ・アンド・ソーダを注文した。一人は紅潮して興奮していた。黒い縁取りのあるハンカチで顔を拭った。ズボンの両脇に上から下まで通った繻子の側章はタイヤ痕といってもいいほど幅広かった。
「あんな勝ちっぷりを見るのは初めてだよ」浮足立った声で言った。「二回は見送ったが、赤ばかりに賭け続けての八勝だ。あれがルーレットだ。あれこそルーレットてもんだ」
「むずむずしてきたよ」もう一人が言った。「一度に千ドル賭けているんだ。負けっこないよ」彼らはグラスに鼻を突っ込み、音立てて一気に飲み干すと戻って行った。
「小者が利いた風な口をきくもんだ」バーテンダーはゆっくりとした話しぶりをした。「一度に千ドルがどうした。私は昔ハバナで見たんです。馬面の年寄りが──」
 中央テーブルで大きなざわめきが起こり、それを制するようによく通る外国訛りのある声がした。「しばらくお待ちください、マダム。このテーブルではあなたの賭けた金額をお受けできません。まもなくミスタ・マーズがこちらに参ります」
 私はバカルディをそこに残し、絨毯を踏んで向こう側に行った。小編成の楽団はいくらか大きめにタンゴを演奏し始めていた。誰も踊りはしなかったし、踊るそぶりも見せなかった。私はディナー・ジャケットやイブニング・ドレスの正装や、スポーツ・ジャケットやビジネス・スーツを着た人々がちらほらする中を歩いて左端のテーブルまで行った。そこは静まり返っていた。二人のクルピエはその後ろに立って頭を寄せ、眼は横の方を見ていた。一人は空っぽのレイアウト上で、チップを集めるレイクを所在なく前後に動かしていた。二人ともヴィヴィアン・リーガンを見つめていた。
 彼女は長い睫をひくひくさせ、顔は不自然なほど白かった。彼女は中央テーブルの回転盤の真正面にいた。前には金とチップが乱雑に積み上げられていた。かなり大金のようだった。彼女は冷やかで、不遜で、不機嫌そうに気取りすましてクルピエに言った。
「ここがこんなに安っぽい店だなんて知らなかったわ。早く回しなさいよ。のっぽさん。もう一勝負したいの。総賭けの勝負をね。あなたって取るときはさっさと持っていくのに、出すときは泣き言を言い始めるのね」
 クルピエは冷たく丁重な笑みを浮かべたが、それはこれまでに何千という田舎者と何百万の愚か者を見てきた笑みだ。彼の高雅で漠とした第三者的な態度は完璧だった。彼は重々しく言った。「このテーブルはあなたの賭けをお受けできません、マダム。あなたはそこに一万六千ドル以上お持ちです」
「あなたのお金なのよ」娘は嘲った。「取り戻したくないの?」
 脇にいた一人の男が彼女に話しかけようとした。彼女はさっと振り返ると、何か吐き捨てた。彼は赤い顔をして人ごみの中に引き下がった。ブロンズの手すりに囲まれた区域の突き当りにある鏡板についたドアが開いた。エディ・マーズが顔に物憂げな微笑を浮かべながらドアを通り抜けてやって来た。両手はディナー・ジャケットのポケットに突っ込まれ、両手の親指の爪だけが外に出て輝いていた。そのポーズがお気に入りのようだ。ぶらぶらとクルピエの背後へ歩いていき中央テーブルの角で立ち止まった。気だるげで穏やかに話しかけたが、物言いはクルピエよりくだけていた。
「何か問題でも?ミセス・リーガン」
彼女は突きを入れるように彼の方に振り向いた。頬の曲線は内的な緊張に耐えられないかのようにこわばっていた。彼女は彼に答えなかった。
 エディ・マーズは重々しく言った。「もうこれ以上お賭けにならないのなら、お宅まで誰かに送らせましょう」
 娘の頬に赤みがさした。頬骨がひときわ白く目立った。それから調子が外れたように笑い出した。彼女は苦々しげに言った。
「もう一勝負するわ、エディ。赤に総賭けよ。赤が好きなの。血の色だから」》

「タイヤ痕」は<tire tracks>。双葉氏はこれを「トラックのタイヤ」と訳しているが、さすがにそれはないだろう。夜会服のズボンにはサテン生地のリボン状の布が縫い目の部分に縫い付けられている。その幅が広かったのだろう。当時のタイヤは今ほど幅広くなかったから比喩として使ったのだろうが、トラックのタイヤは有り得ない。

「小者が利いた風な口をきくもんだ」は<So wise the little men are>。双葉氏は「小人は養いがたしでさ」と出来合いのことわざをつかっている。村上氏は「けち臭いことを言ってますね」と意訳している。後にくる科白が分かっているから意味的にはそうなのだろうが、<the little men>をどうにか生かしたいと思って「小者」という訳語をひねり出した。

「馬面の年寄り」は<an old horseface>。村上氏はこれを「ひどく不器量なばあさん」と訳している。そういう意味がどこかにあるのか、いろいろ調べてみたが分からなかった。双葉氏は<horserace>と誤読したのだろう。「むかしハヴァナの競馬で」と訳している。話が途中で遮られているからいいようなものの、続いていたらどうなっていたことか、想像すると面白い。

「そこは静まり返っていた」は<It had gone dead.>。双葉氏は「全然からだった」。村上氏は「そのルーレット台は既に動きを止めていた」と言葉を補っている。人々が中央テーブルに集まっているからだろう。マーロウがいるのは左端のテーブルである。中央テーブルで騒ぎが起きて客がそちらに動いたので、そこは、もう稼働していない。

「彼女は中央テーブルの回転盤の真正面にいた」は<She was at the middle table, exactly opposite the wheel.>。双葉氏も「彼女は中央の台の回転盤の真正面にいた」と訳している。村上氏はここを「彼女は中央のテーブルの、ルーレットを挟んで私のちょうど正面にいた」と訳している。マーロウがいるのは左端のテーブルだ。二つのテーブルがどれだけ近いかは別として、中央テーブルには客がいて、人だかりもあるはずだ。「私のちょうど正面」はおかしい。

「あなたって取るときはさっさと持っていくのに、出すときは泣き言を言い始めるのね」は<You take it away fast enough I've noticed, but when it comes to dishing it out you start to whine.>。これだけある情報量を双葉氏は「引っこむてはないでしょ」の一言で片づけている。村上氏の「取るときはさっさか急いで持って行くくせに、自分が吐き出すとなるとうだうだ泣き言を言い出すんだから」の長台詞とは対照的だ。

<take it away>と<dish it out>を対句表現として使っている。わざわざ皿という単語を持ち出しているのは、料理に喩えているのだろう。「片づける」時には食べ終わるのを待つように<take it away>するのに、料理を「配る」段になると、なかなか<dish it out>(惜しげなく提供する)しない給仕人にクルピエを喩えている。

「彼の高雅で漠とした第三者的な態度は完璧だった」は<His tall dark disinterested manner was flawless.>。問題は、前半の<tall>と<dark>だ。双葉氏は例によって面倒なところはカットし「その無関心な態度はあっぱれだった」と訳している。村上氏は「彼は長身で、髪が黒く、その乱れのない態度には非の打ちどころがなかった」と彼の外見を表しているという読みで訳している。

だが<tall dark disinterested>は全部が<manner>を修飾していると考えることもできる。<tall>には「上品な、優雅な」の用例があるし、<dark>には、はっきりしない曖昧な様子を示すいくつもの意味が含まれている。外見と物腰、二つの意味を兼ねていると見るのが自然だ。しかし、日本語でその二つを共に表す語はそうやすやすとは見つからない。そこで、仕方なく外見の方は捨て、物腰を表す修飾語の方を選んだ。

『大いなる眠り』註解 第二十二章(1)

《黄色い飾帯を巻いた小編成のメキシコ人楽団が、誰も踊らない当世風なルンバを控えめに演奏するのに飽きたのが十時半ごろだった。シェケレ奏者はさも痛そうに指先をこすり合わせると、ほとんど同じ動きで煙草を口に運んだ。他の四人は申し合わせたように屈み込み、椅子の下からグラスを取ってすすり、舌鼓を打って目を輝かせた。飲み方を見ればテキーラのようだが、多分ただのミネラルウォーターだ。その芝居は音楽と同じくらいむだだった。誰も彼らを見もしなかった。
 その部屋はかつての舞踏室で、エディ・マーズは彼の商売に必要最小限の改装を施していた。クロムの輝きもなければ、天井に四角く刳ったコーニスからの間接照明もなく、溶融ガラスの絵画も、過激な革と磨き上げた金属配管でできた椅子もなし。ハリウッドのナイトクラブ特有のモダニズム紛いの虚仮威しは一切なかった。重厚なクリスタル・シャンデリアからの灯りに、壁の薔薇色のダマスク織の鏡板は時間の経過により少し色褪せ、埃で色調が暗くなっていたが、今もまだ往時のままの薔薇色のダマスク織だった。それはかつて寄木張りの床によく調和していたが、今は小編成のメキシコ人楽団の前のガラスのように滑らかな小さなスペースだけが剥き出しになっていた。残りの部分は大金を投じたにちがいない分厚いオールド・ローズ色の絨毯に覆われていた。寄木張りは十種類ほどの広葉樹で構成されていた。ビルマ・チークから僅かな諧調を見せる六種のオークを経て、マホガニーのような赤みを帯びた木から、カリフォルニアの丘陵地帯に生える野生のライラックの冴えた淡青色に溶暗するまで全てが精巧な様式で正確に推移するよう敷き詰められていた。
 そこは今でも美しい部屋で、整然とした流行遅れのダンスに代わって、今そこにはルーレット台があった。向こうの壁に沿ってテーブルが三つ。低いブロンズの手すりがそれらをひとまとまりに、クルピエたちの周りを囲っていた。三台とも稼働中だったが、客は中央の一つに集まっていた。近くにヴィヴィアン・リーガンの黒い頭が見えた。私は部屋の反対側にあるバー・カウンターに凭れてバカルディの小さなグラスをマホガニーの上で回していた。バーテンダーが私の横にかがみ込み、中央テーブルに陣取った身なりの良い集団を見ていた。「今夜は彼女がかっさらっていきますよ。まちがいっこありません」彼は言った。「あの背の高い華奢な黒髪です」
「誰なんだい?」
「名前は知らないけど、入り浸りです」
「彼女の名前を知らない訳がないだろう」
「私はここで仕事をしてるだけです。ミスタ」彼は悪びれもせず、そう言った。「彼女は一人です。連れの男は酔っぱらってます。車に放り込みました」
「私が彼女を家まで送ろう」私は言った。
「本気ですか。やれやれ。ともかく幸運を祈りますよ。そのバカルディ、何かで割りますか。それともそのままがお好きですか?」
「そのままが好きというほどではないが、今はこれでいい」私は言った。
「私なら喉頭炎の薬でも飲んだ方がましですね」》

「シェケレ奏者」は<the gourd player>。<gourd>とは瓢箪で作った打楽器のことで、ラテンやアフロ・ミュージックで使われている。胴の周りに網状のものがついているので、両側の皮の部分を叩くと、それが胴に当たって乾いた音を立てる。双葉氏は「小太鼓をたたいていた男」。村上氏は「瓢箪で作った楽器を演奏していた男」と訳しているが、<player>を「男」と決めつけるのはどうか?まあ、時代も時代だから男だとは思うけれど。

「過激な革と磨き上げた金属配管でできた椅子」は<chairs in violent leather and polished metal tubing>。双葉氏はあっさり「金属性の家具」と訳している。これはこれで不親切だが、村上氏は「きつい紫色の革を張った椅子もなく、ぴかぴかの金属配管もなかった」とご丁寧に二つに分けて訳している。村上氏は<violent>を<violet>「すみれ色(青みがかった紫色)」と空目したのではないだろうか?まあ、きつい紫色の革の椅子も過激ではあるが。ここは、一つ一つを<no>を先につけて否定していく、定家卿の「見渡せば花も紅葉もなかりけり」と同じないものを数え上げていく高踏的なレトリック。他のインテリアは一つずつカンマで区切られているから、無理に二つに分けたりしない方がいい。

「薔薇色のダマスク織」は<rose-damask>(二度目は<rose damask>)。双葉氏は今回も「石竹色」と訳しているが、もし色を指すなら<damask rose>「淡紅色」という表記が一般的だ。村上氏は二度とも「バラ色のダマスク織り」と訳している。分からないのは、チャンドラーが何故二回目はハイフンを入れなかったかだ。その理由が分からない。

「オールド・ローズ色の絨毯」は<old-rose carpeting>。「オールド・ローズ」は19世紀以降に作られた「モダン・ローズ」以前のバラを指す。双葉氏は「深いばら色のじゅうたん」。村上氏は「灰色がかったピンク色のカーペット」。どちらもまちがいではないが、第二十二章ではチャンドラーがめずらしく色にこだわって書いているので、色名としてのオールド・ローズに敬意を表したまでのこと。先に挙げた<damask rose>もオールド・ローズを代表する一品種だ。

「寄木張りは十種類ほどの広葉樹で構成されていた。ビルマ・チークから僅かな諧調を見せる六種のオークを経て、マホガニーのような赤みを帯びた木から、カリフォルニアの丘陵地帯に生える野生のライラックの冴えた淡青色に溶暗するまで全てが精巧な様式で正確に推移するよう敷き詰められていた」は<The parquetry was made of a dozen kinds of hardwood, from Burma teak through half a dozen shades of oak and ruddy wood that looked like mahogany, and fading out to the hard pale wild lilac of the California hills, all laid in elabolate patterns, with the accuracy of a transit.>。

双葉氏は「寄木細工の床は、いろいろな種類の材木が使ってあった。ビルマ・チーク、樫、マホガ二ーみたいに見える赤っぽい材木、カリフォルニアの丘々にある野生ライラック、それらが精巧な模様を織りだしていたものだ」と、実にあっさりしたものだ。マーロウの寄木の床への愛着がちっとも伝わってこない。なるほど、これでは村上氏が自分で訳してみたくなる気持ちも分かる。

その村上氏の訳はこうだ。「寄木細工には十種類以上の硬木が使われていた。ビルマ・チークから、微妙に色合いの異なる六種類の樫を通過して、マホガニーみたいな赤みを帯びた木へと移り、それからカリフォルニアの丘陵地帯に生える頑丈な薄青色の野生のライラックへと色が淡くなっていく。そんなすべてが念入りに並べられ、その模様のグラデーションはまさに絶妙だった」。

丁寧な訳だが「頑丈な薄青色」は変だ。それまで色に注目して書いているのに、ここで突然材質を述べたとは思えない。<hard>「くっきりした」は薄青色の色あいの形容だと考えたい。因みに、両氏とも<oak>を「樫(かし)」と訳すが、これは誤り。オークは落葉樹で、樫は常緑樹。明治時代の翻訳家が誤訳したのがそのままになっている。オークを日本語にするなら「楢(なら)」である。

「私なら喉頭炎の薬でも飲んだ方がましですね」は<Me, I’d just as leave drink croup medicine.>。双葉氏は「あっしゃ喉頭炎の薬に使うだけでさ」。村上氏は「あたしなら喉頭炎の薬でも飲んでますがね」と訳している。<I'd (just) as leave do something>というイディオムは<I would rather do something.>の意味だ。バカルディはカクテルのベースに使うラム酒として有名だが、度数は75.5度もある。双葉氏のように喉頭炎の薬として使うのは難しいかもしれない。