HARD BOILED CAFE

ハードボイルド探偵小説に関する本の紹介。チャンドラーの翻訳にまつわるエッセイ等。

『湖中の女を訳す』第六章(3)

<green stone>は「緑色の石」ではなく「翡翠」の一種


【訳文】

 すぐ横で激しい動きがあり、ビル・チェスが言った。「あれを見ろ!」山で聞く雷鳴のようなうなり声だ。
 硬い指が腹が立つほど私の腕に食い込んだ。彼は手すりから大きく身を乗り出し、呆けたように下を見つめていた。日に灼けた顔が真っ青になっていた。私も一緒に水中の足場の端を見下ろした。
 心なしか、水没した緑色の割板の端あたりで、暗闇に何かがゆらゆら揺らめくようで、それは一度は動きを止めたものの、また揺れながら床の下に戻っていった。
 その何かは、人間の腕に似過ぎていた。
 ビル・チェスは体を硬直させた。音も立てずに振り返り、重い足取りで桟橋を戻っていった。そして、ばらばらに積まれた石の山の上に屈み込んだ。息を喘がせるのが聞こえた。大きな石を胸のところまで持ち上げ、桟橋まで戻り始めた。百ポンドはありそうだ。ぴんと張った褐色の皮膚の下で、首の筋肉が帆布の下のロープのように浮き出た。固く食いしばった歯の間からシューシュー息が洩れた。
 桟橋の端までくると足場を固め、高々と石を持ち上げた。しばらくの間じっと掲げたまま、下を目測していた。何やら苦し気な声を上げ、体を前に傾け、激しく体をぶつけて手すりを揺らし、重い石は水面を打ち割って中に沈んだ。
 水しぶきが二人の頭上を越えて飛んだ。岩はまっすぐに落ちて、水没した板張りの端に命中した。何かが揺れて出入りするのを見たのと同じところだ。
 しばらくの間、水は混乱して沸き立ち、やがて波紋は遠くに広がっていき、真ん中の泡立ちもだんだん小さくなった。水中で木が折れるような鈍い音がした。それは、聞こえるはずの音が、ずっと後になって届いたような音だった。年古りて腐った厚板が突然水面に浮かび上がり、ぎざぎざになった端が一フィートばかり水上に突き出て、ぴしゃりと水面を打って倒れ、どこかへ流れていった。
 また底の方が見通せるようになった。何かが動いたが、板ではなかった。それは、たいそうくたびれて、もうどうにでもしてくれと言いたげに、ゆっくりと浮かび上がってきた。長く黒くねじれた何かが、しどけなく回転しながら水の中を浮かび上がってくる。それは、何気なく、そっと、特に急ぐふうもなく水面に浮び上った。水浸しで黝ずんだウール、インクよりも黒い革の胴着、スラックスだった。靴とスラックスの裾の間に醜く膨れ上がった何かが見えた。ダークブロンドの髪が水の中で真っ直ぐに広がり、効果を狙いすますかのように少しの間静止し、やがて再び絡み合うように渦巻くのを見た。
 それは、もう一回転して、片腕がわずかに水の上に出た。腕の先は奇形の手のように膨らんでいた。それから顔が見えた。どろどろに膨れ上がった灰白色の塊は造作を欠いていた。眼も口もない。灰色のパン生地のしみ、人の髪の毛のついた悪夢だ。
 重そうな翡翠のネックレスがかつて首だったところに半ば埋もれ、きらきら光る何かが大きな粗い緑の石を繋いでいた。
 手すりを握るビル・チェスの拳は血の気が失せ、磨かれた骨のようだった。
「ミュリエル!」彼はしゃがれ声を出した。「なんてことだ。ミュリエルだ」
 声は、遥か彼方、丘の上、木々の生い茂る静かな茂みから聞こえてくるようだった。

【解説】

「硬い指が腹が立つほど私の腕に食い込んだ」は<His hard fingers dug into the flesh of my arm until I started to get mad>。清水訳は「彼のこわばった指が私の腕を痛くなるほどつかんだ」。村上訳は「硬い指が私の腕に、いいようのない強さでぐい(傍点二字)と食い込んだ」。田中訳は「そして、そのがつちりした指が、おれの腕の肉にくいこんだ。あまりはげしくつかむので、おれは気分をこわしたほどだ」と、最も原文に忠実だ。

「心なしか、水没した緑色の割板の端あたりで、暗闇に何かがゆらゆら揺らめくようで、それは一度は動きを止めたものの、また揺れながら床の下に戻っていった」は<Languidly at the edge of this green and sunken shelf of wood something waved out from the darkness, hesitated, waved back again out of sight under the flooring>。清水訳は「その水中の緑色の床(ゆか)の端に暗い水の底からゆるやかに浮かび上がり、また床の下に消えていっているものがあった」。

田中訳は「うすぐらい水中の、みどりがかつたセットの水中の部分のふちから、なにかが、ゆらゆら、ただよいでて、また板のうしろにひっこんでいる」。村上訳は「ぼんやりとではあるが、水底に沈んだその緑色の板材の端のところで、暗闇の中から何かが突き出され、揺れているのが見えた。それは戸惑い、手招きするように揺れながら、床板の下にまた引っ込んで見えなくなった」。

<wave>には「手を振る」という意味があり、それを使えばよく分かるのだが、その次にある<The something had looked far too much like a human arm>を先取りすることになるので、訳者はやむを得ず、こういうあいまいな言い方を採用しているのだ。<hasitate>には「一時的に動作を止める」という意味がある。「戸惑い」と訳してしまうと「何か」が擬人化されることになり、せっかくぼかして置いた効果が消えてしまう。村上氏は「手招き」も使っているので、承知の上で使ったのだろう。

「腕の先は奇形の手のように膨らんでいた」は<the arm ended in a bloated hand that was the hand of a freak>。清水訳は「その腕の先の手は醜くふくれ上がって、怪物の手だった」。田中訳は「水でふやけた指さきがあらわれた。なにか、いたずらつぽい手だ」。村上訳は「腕の先は膨張した手になっていた。まるで作り損ないの手のようだ」。<freak>は「(動植物の)奇形、変種」のことだが、辞書には「造化のいたずら」といった表現もあるので、田中、村上両氏のような訳になるのだろう。「奇形」という表現は直截過ぎると思われるのだろうか。

「灰色のパン生地のしみ、人の髪の毛のついた悪夢だ」は<A blotch of gray dough, a nightmare with human hair on it>。清水訳は「ただ灰色のかたまりであった。灰色の粘土をかためて、人間の髪の毛を植えたのとおなじであった」。田中訳は「灰色がかった白い肉塊だ。できものがつぶれたようなグレイのかたまり。悪夢にあらわれる、髪だけあるノッペラボーの顔……」。村上訳は「灰色のぐにゃぐにゃしたこねもの(傍点四字)、人の髪がついた悪夢だ」。

< blotch>には「しみ、できもの」の二つの意味がある。<without eyes, without mouth>と、直前にあるから、この< blotch>は、両眼と口の痕跡を意味しているものと思われる。<dough>は「こね粉、パン生地」のこと。家庭でパンを焼くようになった今とは違って、当時は焼かれる前のパン生地を目にする機会がなかったので、清水、田中両氏のように訳に工夫が要ったのだろう。

「重そうな翡翠のネックレスがかつて首だったところに半ば埋もれ」は<A heavy necklace of green stone showed on what had been a neck, half imbedded>。清水訳は「大きな緑色の宝石の頸飾りが頸であったところになかば埋もれて見えていた」までで、その後はカットしている。田中訳は「もとは首だつたらしいところに、グリーンのいやにごついネックレースがぶらさがっている。みどり色の、大きな、ラフな感じの石は、半分首にはめこんだようになつていて」。村上訳は「かつては首であったところに、緑色の石がついた重そうなネックレスが、半ば食い込むようにかかっていた」。

<green stone>は「緑色岩、グリーンストーン」のことで、翡翠の一種。翡翠にはネフライト(軟玉)とジェダイト(硬玉)の二種類があって、ニュージーランド産のはネフライトマオリの人々が護符として用いているのをヨーロッパから来た開拓者が目に留め、それがジェイド(翡翠)だと気づかず「グリーンストーン」と呼んだのが初めといわれている。

『湖中の女を訳す』第六章(2)

flat angle>は「鈍角」でも「浅い角度」でもない

【訳文】

 我々はまた、小犬のように仲よく並んで歩き出した。少なくとも五十ヤードくらいの間。かろうじて車が通れるほどの道幅の道路が、湖面に迫り出すようにして、高い岩の間を抜けていた。最遠端から半分ほどのところに、別の小さな小屋が岩の基礎の上に建っていた。三つ目の小屋は湖畔からかなり離れた平地のようなところに建っていた。両方とも閉じられていて、ずっと空き家のようだった。
 一、二分後、ビル・チェスが言った。「あの尻軽女が逃げ出したというのは本当か?」
「そのようだ」
「あんたは本物の刑事なのか、それともただの探偵か?」
「ただの探偵さ」
「あの女には誰か連れがいたのか?」
「私はそうだと睨んでいる」
「そうにちがいない。キングズリーも察しがつくはずだ。友だちが大勢いたからな」
「ここにやってきたのか?」
 彼は答えなかった。
「そのうちの一人はレイヴァリーと言わなかったか?」
「知らないな」彼は言った。
「隠すようなことじゃない」私は言った。
「彼女はメキシコから電報を打っている。レイヴァリーとエルパソに行くと」私はポケットから電報を取り出して彼に渡した。彼は手探りでシャツのポケットから眼鏡を取り出し、立ちどまってそれを読んだ。彼は電報を返し、眼鏡をしまって、青い湖を眺めた。
「あんたは隠し事を漏らしてくれた。これはこちらの内輪話さ」
「レイヴァリーはここに来たことがある」彼はゆっくり言った。
「あいつは二か月前彼女に会ったことを認めてる。多分ここだ。それからは会っていないと言っている。その言い分を信じるべきかどうかは分からない。信じるべき理由も、信じるべきでない理由もない」
「今はそいつと一緒じゃないんだな?」
「そう言っている」
「結婚のような細かなことで大騒ぎするような女じゃない」彼は真面目くさって言った。「フロリダへのハネムーンの方が性に合ってるだろう」
「けど、あんたははっきりしたことは聞いていない。どこに行くとか、確かなことは何も聞かなかったというんだな?」
「そうだ」彼は言った。「もし知ってても、俺が漏らすかどうか疑わしいな。俺は腐っちゃいるが、そこまで腐っちゃいない」
「おつきあいに感謝する」
「あんたに借りはない」彼は言った。「あんたも他の詮索好きも勝手にすりゃいいんだ」
「また、はじめる気か」私は言った。
 湖の端まで来ていた。私は彼をそこに残し、小さな桟橋に向かった。桟橋の端にある木の手すりにもたれた。バンド用のパビリオンのように見えたものは、ダムに正対するように立つ二枚の壁でしかなかった。壁の上に二フィートほどの庇が笠木のように突き出していた。ビル・チェスが後ろにやってきて、並んで手すりに凭れた。
「とはいえ、酒の礼を忘れているわけじゃない」彼は言った。
「ああ。湖に魚はいるのか?」
「こすっからい古手の鱒がいる。新入りはいない。俺はあまり釣りが好きじゃない。魚なんてどうでもいいのさ。またきつくあたって悪かった」
 私はにやりと笑って、手すりごしに深く淀んだ水を見下ろした。覗き込むと緑色をしていた。下で渦巻きのような動きがあり、水の中で緑がかったものが素早く動いた。
「あれが爺様だ」ビル・チェスは言った。「あの大きさを見てみろよ。あんなに太っちまって、ちっとは恥ってものを知るべきだ」.
 水の下に水中の床のようなものがあった。その意味が分からないので聞いてみた。
「ダムができる前の船着き場さ。今では水位が上がって、古い船着き場は六フィートの水の底だ」
 平底船がすり切れたロープで桟橋の杭に繋がれていた。船はほとんど動くことなく水の上に身を横たえていたが、微かに揺れていた。空気は静かで穏やかで陽光に溢れ、街なかでは味わえない静謐さに充ちていた。ドレイス・キングズリーと彼の妻、そのボーイフレンドのことなんか忘れて何時間でもそこにいることができただろう。

【解説】

「あんたは隠し事を漏らしてくれた。これはこちらの内輪話さ」は<That's a little confidence for you to hold against some of what you gave me>。マーロウは自分も内部情報を漏らすことで、相手との間に信頼関係を築こうとしたんだろう。清水氏はここをカットしている。田中訳は「きみからきいたことはだまってるから、これも、ひとには言わんでくれ」。村上訳は「そちらが秘密を打ち明けてくれたからこそ、わたしもこうやって信頼して内輪話をしているんだ」。

「あんたも他の詮索好きも勝手にすりゃいいんだ」は<The hell with you and every other God damn snooper>。<The hell with you>はビル・チェスの口癖のようだ。清水訳は「あんただろうが誰だろうが、探偵(いぬ)のつら(傍点二字)は見たくないんだ」。田中訳は「あんたなんかどうなろうと、おれはしっちゃいないよ。ひとのことに鼻をつっこんで飯をくつてるやつなんかはね」。村上訳は「私立探偵なんて、どいつもこいつもまったく反吐(へど)が出るぜ」。

「バンド用のパビリオンのように見えたものは、ダムに正対するように立つ二枚の壁でしかなかった」は<had looked like a band pavilion was nothing but two pieces of propped up wall meeting at a flat angle towards the dam>。<a flat angle>をどう訳しているかだが、清水訳は「音楽堂のように見えたのは二つの壁がダムに水平の角度でできていただけだった」。「水平の角度」というのがよく分からない。

田中訳は「遠くからながめるとバンドのステージに見えないこともなかったが、近よってしらべると、ただ、水面にでた二つの板壁が、ダムの方にむかって鈍角にうちつけてあるだけで」。村上訳は「バンド用ステージのように見えるものを眺めた。それは二枚の大道具の壁面を、ダムに向けて浅い角度で合わせたものに過ぎなかった」。両氏とも「鈍角」、「浅い角度」と訳しているが、<flat angle>は「平角(180度)」であって、二直角より小さい角度を表しはしない。

『湖中の女を訳す』第六章(1)

<brighten up>は「~を明るくする」から「機嫌を直す、元気づける」

【訳文】

我々は湖岸へと続く斜面を下り、狭い堰堤の上に出た。ビル・チェスは、鉄の支柱に取り付けられた手すりのロープをつかみながら、強張った足を振るようにして私の前を歩いた。ひとところで水がゆっくり渦を巻いてコンクリートの上を越えていた。
「朝になったら、水車から少し水を落とすことにしよう」彼は肩越しに言った。「あれはそれくらいの役にしか立たない。どこかの映画の撮影班が三年前に建てて、ここで映画を撮ったんだ。反対側の端にあるあの小さな桟橋も連中の仕事の一部だよ。ほとんど壊して持ち去ったんだが、あの桟橋と水車はキングズリーが残させた。風景に色を添えるとかで」
 私は彼の後についてキングズリーの小屋のポーチに通じる、がっしりした木の階段を上がった。彼がドアの鍵を開け、我々はしんとして暖かな室内に入った。閉め切った部屋は暑いくらいだ。ブラインドの羽板を洩れる光が床に狭い横縞を描いていた。居間は細長く、居心地がよさそうで、インディアン風の敷物が敷かれていた。詰め物を入れ、継ぎ目を金具で留めた山小屋風の椅子、更紗のカーテン、堅木張りの白木の床、たくさんのランプ、部屋の一隅に円いストゥールを並べた小さな作りつけのバーがある。部屋はこざっぱりしていて、住人が急に出て行ったようには見えなかった。
 我々は寝室に入った。二つある寝室のうち、ひとつはトゥィン・ベッド、もうひとつはダブル・ベッドで、クリーム色の掛布には暗紫色の毛糸で模様が縫いつけてあった。これが主寝室だ、とビル・チェスが言った。ニスを塗った木のドレッサーの上には、翡翠色の琺瑯細工とステンレス・スティール製の化粧道具と付属品、化粧品の雑多な取り合わせがひと揃え置かれていた。一組のコールド・クリームの瓶にはギラ―レン社の波打つ黄金のブランドが冠されていた。部屋の片側全面がスライディング・ドアのついたクローゼットになっていた。私はドアを開け、中を覗いた。中はリゾート向きの婦人服でいっぱいのようだった。ビル・チェスは、私がそれらを詮索している間、苦々しげに私を見ていた。私はドアを閉め、下の奥行きのある靴用の抽斗を開けた。新品同様の靴が少なくとも半ダースは揃っている。私は抽斗を閉めて、立ち上がった。
 ビル・チェスが、顎を突き出し、固く握った両の拳を腰にあてて私の前に立ちはだかった。「何のために、夫人の服が見たかったのかね?」彼は怒気を孕んだ声で尋ねた。
「理由はいくつもある」私は言った。「たとえば、ミセス・キングズリーはここを出た切り家に帰っていない。夫はそれから彼女に会っていない。居所さえ分からないんだ」
 彼は両拳を下ろし、脇でゆっくり捻った。「探偵なんだな」彼はうなった。「いつだって第一印象が正しいんだ。俺は自分でそう言ってたのに。膝を抱えて泣く女みたいに、何もかもあんたに打ち明けちまった。やれやれ、俺は何てとんまな男なんだ」
「信用を大事にすることにかけては、私は誰にも負けない」私は言った。そして彼の横を通ってキッチンに入った。
 緑と白の大きなコンビネーション・レンジ、ラッカーを塗った松材のシンク、サービス・ポーチには自動給湯器があった。キッチンの反対側は気持ちのいい朝食室に通じていて、多くの窓と高価なプラスチックの朝食セットがあった。棚には色とりどりの皿やグラス、白目の盛り皿のセットが賑やかに並んでいた。
 すべてが整然としていた。流し台に汚れたカップや皿はなく、使った痕跡のあるグラスや酒の空き瓶も転がっていなかった。蟻も蠅もいない。どんなにふしだらな暮らしぶりだったにせよ、ミセス・ ドレイス・キングズリーはいつものグリニッチ・ビレッジめいた汚れを残すことなくなんとかやってのけていた。
 居間に戻り、また正面のポーチに出てビル・チェスが鍵をかけるのを待った。鍵をかけ終え、しかめっ面をして私を見たときこう言った。
「私はあんたに、思いのたけを吐き出してくれと頼みはしなかった。しかし、あんたがそうするのを止めようともしなかった。夫人があんたに言い寄ったことを キングズリーは知らなくていい。これ以上に裏に何かあるのでなければね」
「勝手にしろ」彼は言った。まだしかめっ面はそのままだった。
「ああ、勝手にするさ。奥さんとキングズリーの奥さんが一緒に出て行った可能性はないのか?」
「それはない」彼は言った。
「あんたが憂さ晴らしに出かけた後、二人が喧嘩し、それから仲直りして互いの首にかじりついて涙を流したってことはないだろうか。それから、ミセス・キングズリーが奥さんを連れて山を下りた。何かに乗らなきゃ山を下れないだろう?」
 馬鹿げた話だが、彼は真剣に受けとめた。
「いや。ミュリエルは人にすがって泣いたりしない。ミュリエルに涙はそぐわない。万が一泣きたくなったとしても、あの尻軽女の肩を借りたりはしないだろう。乗り物なら、あいつには自分のフォードがあった。俺のは曲がらない足で運転できるように改造してあって、運転が難しいんだ」
「ちょっと思いついたまでさ」私は言った。
「また似たようなことを思いついても、そのままにしておくことだ」彼は言った。
「赤の他人の前で、何でも吐き出してしまう男にしちゃ、やけに神経質だな」私は言った。
 彼は私の方に一歩踏み出した。「喧嘩を売ろうってのか?」
「なあ」私は言った。「あんたは、根はいい男だと思おうとしているんだ。ちょっとはそっちも手を貸してくれないか?」
 彼は少しの間、息を荒げていたが、救いようがないとでも言いたげに、両手を下ろして広げてみせた。
「機嫌を直すには遅すぎるかもしれんが」彼は溜め息をついた。「湖を回って帰る気はあるか?」
「いいね、あんたの足に負担がかからないなら」
「今まで何度もやってきていることさ」

【解説】

「強張った足を振るようにして私の前を歩いた」は<swung his stiff leg in front of me>。清水訳は「固くなった脚を私の目の前で振り動かした」。田中訳は「わるい足をまわすようにして、おれの前をすすんでゆく」。村上訳だけが「義足を振るようにして私の前を歩いた」と<stiff leg>を「義足」と訳している。<stiff>は「曲がらない、硬い」の意味。「義足」と決めつけるのはどうだろうか。

「朝になったら、水車から少し水を落とすことにしよう」は<I'll let some out through the wheel in the morning>。清水訳は「朝になるといつも水車に水を流してやるんです」。村上訳は「朝のうちに水車のところから、少し水を落としておこう」。その前の水が堰堤を越えて溢れていたことについての言及だ。田中訳は「明日の朝は、どうしてもあのボロ水車をぶっこわしてやろう」と物騒なことを言っている。自在な訳が小実昌訳の特徴だが、さすがにこれはやり過ぎだ。雇い主が気に入っているものを使用人が壊すことなどできはしない。

「ニスを塗った木のドレッサー」は<a dresser of varnished wood>。清水訳は「ワニスをかけた木製の化粧テーブル」。田中訳は「ニスでみがいた木のタンス」。ところが、村上訳だけが「艶消し木材でできたドレッサー」となっている。<varnish>は「ワニス(ニス)」。動詞の場合は「ワニスを塗る、磨く、艶を出す」の意味で、「艶消し」では逆の意味になってしまう。勘違いしたのだろうか。

翡翠色の琺瑯細工とステンレス・スティール製の化粧道具と付属品、化粧品の雑多な取り合わせがひと揃え置かれていた」は<there were toilet articles and accessories in jade green enamel and stainless steel, and an assortment of cosmetic oddments>。前半部分の解釈が訳者によって異なっている。<oddments>とは「残り物、半端物」の意。<assortment of ~>は「~の取り合わせ、盛り合わせ」。

清水訳は「琥珀(こはく)グリーンのエナメルとステンレス・スチールの洗面道具のかずかず(傍点四字)とさまざまの化粧品がおかれてあった」。清水氏はこの<in>を「(道具、材料、表現様式を表す)~で作った」の意味と解している。そのうえで<accessories>を「付属品」と読んで「(洗面道具)のかずかず」と訳したのだろう。

田中訳は「グリーンがかった硬玉色のエナメルをぬった容器やステンレスのケースにはいった洗面道具、そのほかこまごましたものがあり、また、化粧道具もみえた」。氏は「(場所を表す)~の中に」と解して、「容器や(ステンレスの)ケース」を訳の中につけ加えたのだろう。<accessories>は、やはり「そのほかこまごましたもの」の中に含まれていると考えられる。

村上訳は「化粧道具やアクセサリーが置かれていた。アクセサリーは翡翠色(ひすいいろ)のエナメルとステンレス・スティールでできていた。そして様々な化粧品が並んでいた」と両氏とは異なり、<accessories>を文字通り「アクセサリー(装身具)」と解釈したうえで「アクセサリーは翡翠色(ひすいいろ)のエナメルとステンレス・スティールでできていた」と<in jade green enamel and stainless steel>を「アクセサリー」だけにかかるものという解釈だ。

ただ、社長夫人のアクセサリーが「エナメルとステンレス・スティールでできてい」るというのは、いささか突飛過ぎないか。村上氏は、いったいどんなアクセサリーを想像していたのだろう。まさかネックレスにステンレス・スティールを使うはずもないし、イヤリングだと考えるとモダンすぎる。これが化粧道具なら、ステンレス・スティール製の物もありそうだし、エナメル加工された物もあるだろう。また、田中氏のように容器と考えるなら、琺瑯引きやステンレスのトレイはいかにもありそうだ。しかし、容器に入っていたなら、マーロウなら、そのことを一言添えるはずだ。

「膝を抱えて泣く女みたいに、何もかもあんたに打ち明けちまった」は<Boy, did I open up to you. Nellie with her hair in her lap>。<Nellie>の再登場だ。清水訳は「うっかり何もかもしゃべっちまった。へまなことをやったもんだ」と、二つ目の文は作文している。田中訳も「おれは、ペラペラ、くだらないことまでしゃべって――。なにもかも、こっちからもうしあげてしまった。ウィスキーをくれて、話をきいてくれるご親切なお方だとおもったら、こんなことだ」。これは、それだけでは意味が分からない文を解きほぐしているのだろう。村上訳は「なのにおれは秘密をそっくり打ち明けちまった」と後半はカットしている。

「ラッカーを塗った松材のシンク」は<a sink of lacquered yellow pine>。清水訳は「黄いろいラッカーを塗った松材の流し台」。田中訳は「松色のラッカーをぬった流し」。村上訳は「シンクはラッカーを塗られた黄色松材でできていた」。<yellow pine>は、「北米産の松の総称」。堅く黄色がかった木質なのでそう呼ばれる。黄色いラッカーを塗ってしまったら、松かどうかなんて分からないだろうに。「松色」というのもかなり怪しい。「イエローパイン」材はソフトな色調からカントリー調の家具に用いられることが多い。ここで塗られているのはもちろん透明なクリアラッカーである。

「勝手にしろ」は<The hell with you>。「勝手にするさ」は<the hell with me>。清水訳は「何をいいやがる」。「べつに何もいっていない」。田中訳は「あんたなんかに用はない」。「おれに用はないかもしれん」。村上訳は「糞野郎め」。「私はたしかに糞野郎だ」。<The hell with ~>は「どうなっても構わない、まっぴらだ、うんざりだ」という気持ちを表すイディオムだ。「これ以上~と一緒にい(し)たくない」という意味で、単なる罵り言葉ではない。

「機嫌を直すには遅すぎるかもしれんが」は<Boy, can I brighten up anybody's afternoon>。清水訳は「俺が誰かの役に立つなんてことがあるのかね」。田中訳は「なんだって、おれは、ひとにくってかかってばかりいるんだろう」。村上訳は「まったくもう、おれのやることなすことすべてとんちんかん(傍点六字)だな」。<brighten up>は「~を明るくする」から「機嫌を直す、元気づける」という意味になる。<brighten up someone's day>は「(人の)一日を明るくする」という意味で使われるイディオムだ。マーロウがやってきたのが午後だったから、<day>のところを<afternoon>と洒落たのだろう。

『湖中の女を訳す』第五章(4)

三度繰り返される<get away with>をどう扱うか?

【訳文】

話が途切れた。言葉は宙を漂い、やがてゆっくり落ちて、あとには沈黙が残った。彼は身を屈めて岩の上の瓶を手に取り、じっと凝視めた。心の中で瓶と戦っているようだった。ウィスキーが勝った。いつものように。彼は瓶の口から直にごくごく飲んで、キャップをきつく閉めた。まるで、そうすることに何か意味でもあるかのように。そして、石を拾って水の中に放り込んだ。
「俺はダムを横切って帰ってきた」彼はゆっくり言った。すでに酔いが回った声だった。「新品のピストン・ヘッドみたいに調子がいい。何でもしたい放題さ。俺たち男ってのは、ちょっとしたことで勘違いすることがあるよな? 好き放題しておいてバレずに済む訳がない。とんでもない話だ。ミュリエルが話すのを聞いていると、声を荒げもしない。だが、俺自身が思いもよらないことを俺について言ってのける。ああ、そうだ。俺は見事に好き放題やってるよ」
「それで奥さんは出て行ったんだ」彼が黙り込んだので、私は言った。
「その晩。俺はここにいもしなかった。気がすさんで、生酔いではいられなかった。フォードに飛び乗って湖の北側に行って、俺みたいなろくでなし二人を引きとめて散々酔っぱらった。だが気は晴れなかった。朝の四時頃、家に帰ってきたら、ミュリエルはいなかった。荷物をまとめて出て行ったんだ。跡形もなかった。箪笥の上の書き置きと枕の上のコールドクリームだか何だかを別にして。
 彼はくたびれた古財布から端が折れた紙片をとり出して私に渡した。ノートを破った、青い罫線の入った紙に、鉛筆でこう書かれていた。
「ごめんね、ビル。でも、これ以上あなたと一緒に暮らすより死んだほうがまし。ミュリエル」
 私はそれを返した。「あちらはどうなった?」私は湖の向こうを目で示して尋ねた。
 ビル・チェスは平たい石を拾い上げ、水切りを試みたが、石は跳ねるのを嫌がった。
「どうもこうもない」彼は言った。「あの女も荷造りして山を下りた。同じ晩のことだ。その後は顔を見ていない。二度と会いたくないね。ひと月経ってもミュリエルは何も言ってこない。一言たりとも。女房がどこにいるのか俺には見当もつかない。誰か他の男と一緒かもな。そいつが俺より優しくしてくれるように願ってるよ」
 彼は立ち上がり、ポケットから鍵束を取り出して振って見せた。「向こうに行って、キングズリーの小屋を見たいのなら、案内するよ。昼メロにつき合わせちまってすまなかった。それに酒をありがとうよ。ほれ」彼はいくらか酒の残った瓶を取り上げ、私に渡した。

【解説】

「俺は新品のピストン・ヘッドみたいに絶好調だ」は<I'm as smooth as a new piston head>。清水訳では「私はものごとにあまりこだわらない。何とかなると思ってる」になっている。ふだんのものの考え方と取っている。田中訳は「しらばつくれた顔をしてね」とそのときの態度という解釈だ。村上訳は「まるで新品のピストン・ヘッドみたいに滑らかな気分さ」と、その時の気持ちと捉えている。

これは次にくる<I'm getting away with something>について説明していると考えられる。<get away with>は、「(よくないこと)を罰せられないで(見つからずに)やりおおす.」の意味。清水訳は「何とかなると思ってる」。田中訳は「女房のミューリエルなんかにはわかるはずがないと思いこんで」。村上訳は「よしよし、うまいことやった、みたいな気分になってね」。

チャンドラーは一つの言い回しを同センテンスの中でニュアンスを変えて使うのが上手い。ここでも、<I'm getting away with something>、< I'm not getting away with anything at all>、<I'm getting away with it lovely>と、三度繰り返している。すべて現在進行形になっていることに注目したい。たった一度きりのことを言っているわけではなく、これが「習慣的な行動」であることを表している。だから、ミセス・キングズリーとの一度きりの浮気ととるのはおかしい。そういう意味では清水訳が当を得ている。

「俺は見事に好き放題やってるよ」は<I'm getting away with it lovely>。清水訳は「まったくうまくないんだ」。田中訳は「まったく、よくできてますよ」。村上訳は「うまいことやったなんてとんでもない」。<lovely>は反語だろう。それを活かすには田中氏のように肯定的な表現にした方がいい。いろいろと考えてみたが、<get away with>を三通りに訳すのは難しかった。もっといい訳があるはずだと思う。

「昼メロにつき合わせちまってすまなかった」は<And thanks for listening to the soap opera>。<soap opera>は、平日昼間に放映しているテレビのメロ・ドラマのこと。石鹸会社が提供していることから、こう呼ばれるようになった。清水訳は「くだらない話を聞いてもらってありがとう」。田中訳は「くだらないグチをきいてくれて、ありがとう」。村上訳は「くだらない身の上話につきあってくれて、ありがとうよ」。「スペース・オペラ」は普通に使われているが、「ソープ・オペラ」はまだ日本語として市民権を得ていない。しかし、「昼メロ」なら使えるのでは。

『湖中の女を訳す』第五章(3)

<in a lance of light>(光の槍の中に)は何の比喩だろう?

【訳文】

私は瓶の金属キャップを捻り切り、相手のグラスにたっぷりと、自分のグラスには軽く注いだ。我々はグラスを合わせ、そして飲んだ。彼は酒を舌の上で転がし、微かな陽射しのようにわびし気な微笑を顔に浮かべた。
「こいつは本物だ」彼は言った。「しかし、どうしてあんなにまくしたててしまったものか。こんなとこに独りでいると気が滅入るんだろうな。話し相手も、本当の友だちも、女房もいない」彼はそこで間を置き、横目でこちらを見た。「とりわけ女房がな」
 私は小さな湖の青い水をじっと見ていた。せり出した岩の下、一条の光の中に魚が浮かび上がり、波紋がまるい輪を広げた。微風がさざ波に似た音を立て松の樹冠を揺らした。
「女房が出て行ったんだ」彼はゆっくり言った。「ひと月前のことだ。六月十二日の金曜日、忘れられない日になるだろう」
 私ははっとからだを強ばらせたが、彼の空のグラスにウィスキーを注げないほどではなかった。六月十二日の金曜日は、ミセス・クリスタル・キングズリーがパーティのために街に戻ってくるはずだった日だ。
「しかし、そんな話を聞きたくはないだろう」彼は言った。彼の色あせた青い目には、それについて語りたいという強い思いが、何よりもはっきりと見えていた。
「私には関係ないことだが」私は言った。「それで君の気が少しでも晴れるなら――」
 彼は深くうなずいた。「二人の男が公園のベンチでばったり出会う」彼は言った。「そして神について話しはじめる。そんなことってないか? 一番仲の好い友だちとも神について話したことなんかない男たちが」
「分かるよ」私は言った。
 彼は一口飲んで湖を見渡した。「女房はかわいい女だった」彼は低い声で言った。「
時々とげのあることも言うが、かわいい女だった。俺とミュリエルは一目惚れだったんだ。初めて会ったのはリバーサイドの店だ。一年と三カ月前になる。ミュリエルみたいな子と出会えるような店じゃなかった。ところが、俺たちは出会って、そして結婚した。俺はミュリエルを愛していた。俺には過ぎた女房だと思っていた。そして、あいつとうまくやっていくには、俺は鼻つまみ過ぎた」
 私はそこにいることを知らせるために少し動いたが、魔法が解けるのを恐れて何も言わなかった。口をつけてもいない酒を手に座っていた。飲むのは好きだが、人が私を日記代わりに使っているときは別だ。
 彼は悲し気に続けた。「だが、あんたも知ってるだろう、結婚というものを――どんな結婚でも、しばらく経つと、俺みたいな、どこにでもいる、くだらない男は、脚に触りたくなるんだ。他の女の脚に。ひどいかもしれんが、そういうもんだ」
 彼は私を見た。私は、よく聞く話だ、と言った。
 彼は二杯目を空けた。私は瓶を手渡した。一羽の青カケスが羽を動かさず、バランスをとるために止まることさえせず、枝から枝へと飛び跳ねて松の木を登っていった。
「そういうことさ」ビル・チェスは言った。「山育ちはみんな半分正気じゃない。俺もそうなりつつある。ここの生活は安泰だ。家賃を払うこともないし、年金も毎月届くし、ボーナスの半分は戦時国債に回している。滅多とお目にかかれない可愛いブロンドと結婚もしていた。それなのに俺の頭はいつもどうかしていて、それが分からないんだ。だからあそこに行くんだ」彼は湖の対岸にあるアメリカ杉の小屋を指さした。午後の遅い陽射しを浴びてくすんだ濃赤色に色を変えていた。「まさにあの前庭だ」彼は言った。「窓の真下で、俺にとっちゃ草の葉一枚の値打ちもない派手な尻軽女と。ちくしょう、なんて間抜けだ」
 彼は三杯目を空け、グラスを岩の上にぐらつかないように置いた。シャツから煙草を一本取り出し、親指でマッチを擦って、素早くスパスパ吹かした。私は口を開けて息をしながら、カーテンの後ろに隠れた押し込みのように静かにしていた。
「どうしても」彼はとうとう言った。「火遊びがしたいなら、家から離れたところで、せめて女房とは違うタイプを選ぶと思うだろう。だが、あそこにいる尻軽女はそうじゃない。ミュリエルに似た金髪で、サイズも目方も同じ、同じタイプで、眼の色もほとんど同じだ。違うのはそこからだ。確かにきれいだが、誰にでもって訳じゃない。俺にとっちゃ、ミュリエルの半分もきれいじゃない。それはともかく、あの朝、いつも通り自分の仕事をすまそうと、あそこでごみを燃やしてると、あの女が小屋の裏戸口から出てくるじゃないか。ピンクの乳首が透けて見えるくらい薄い生地のパジャマ姿で。そして、物憂い、良からぬ声で言う『一杯引っかけたら、ビル。こんな気持ちのいい朝にそんなに精出して働くものじゃないわ』。俺も酒には目がない方だから勝手口に行って一杯引っかける。やがて、一杯が二杯、二杯が三杯になり、気がつくと家の中に上がり込んでる。近づけば近づくほど、いよいよ女の眼が艶めいてくる」
 彼はそこで一息ついて、厳しい表情でじっと私を見た。
「あそこのベッドの寝心地は快適かと訊かれて、俺はカッとなった。あんたに他意はなかったにせよ、俺には思い出すことがたっぷりあったんだ。ああ――俺が潜り込んだベッドは快適な寝心地だったよ」

【解説】

「一条の光の中に魚が浮かび上がり」は<a fish surfaced in a lance of light>。<lance>は「槍」のことだ。「光の槍の中」が何を意味するのかが問題だ。清水訳は「魚が一尾、きらりと光って姿をあらわし」。田中訳は「魚がおどり、キラッと水面がひかって」。村上訳は「一匹の魚が光の槍のようにさっと水面に浮上し」。

清水氏は光ったのは魚、田中氏は水面、村上氏は比喩だと捉えている。実は、この前に「せり出した岩の下」<Under an overhanging rock>という部分がある。これが大事。つまり、魚が出てきたのは岩陰で、普通なら光るはずがない。そこで<in a lance of light>が問題になる。岩の間から、そこにだけ一条の光が差し込んだと考えれば「光の槍」という比喩も納得できる。

「俺には過ぎた女房だと思っていた。そして、あいつとうまくやっていくには、俺は鼻つまみ過ぎた」は<I knew I was well off. And I was too much of a skunk to play ball with her>。清水訳は「夢中でした。だが、私はあの女にはふさわしくないくだらない男でした」。田中訳は「かねにはこまらなかったが、あんな女を女房にするのは、おれにはもったいない、とそのときも思いましたよ」。村上訳は「恵まれていると思ったよ。でも俺ときたら、彼女とそのままうまくやっていくにはあまりにもろくでもない男だった」。

<well off>は「富裕な、うまくいっていて」、<skunk>はあのスカンクから「いやなやつ、鼻つまみ」、<play ball with ~>は「~と協力する」という意味。<well off>を、清水氏はその前の<I loved her>から「愛が十分ある」と考えたのだろう。田中氏はずばり「金」と取っている。しかし、ここは村上訳の「恵まれている」が正解だろう。清水、田中両氏の訳からは<too much of a skunk>という激しい自嘲が伝わらない。女の方はよき伴侶だったのに、男の方が「鼻つまみ」だった。「釣り合わぬは不仲の元」というやつである。

「脚に触りたくなるんだ。他の女の脚に」は<he wants to feel a leg. Some other leg>。清水訳は「男は女の脚にさわりたくなる。ちがう女の脚にね」。田中訳は「ほかの女に足をつかいたくなる。もう一つの足をね」。村上訳は「身体がむずむずしてくるんだ。ほかの女の脚につい目が行くようになる」。<feel one’s legs>だと、「足もとがしっかりしているのを感じる、自信がつく」の意味になるが、<leg>が単数であることが気になる。田中訳は独特の解釈だが、単数の<leg>を使った際どいスラングは確かにある。<get a leg over>というのがそれで、ずばり「(男性が女性と)ヤる」という意味らしい。田中訳に比べると、村上訳ははるかに上品だ。

「窓の真下で、俺にとっちゃ草の葉一枚の値打ちもない派手な尻軽女と。ちくしょう、なんて間抜けだ」は<right under the windows, and a showy little tart that means no more to me than a blade of grass. Jesus, what a sap a guy can be>。清水訳は「あの窓のすぐ下で、私には一枚の草っ葉とおんなじ自堕落な女がはでなかっこうをしてるんです」と後半をカットしている。田中訳は「窓のま下に、へたに芝居がかった色気狂いが腰かけてるのがどうしても気になってね、草つ葉ほどのとりえ(傍点三字)もない、あの女が――。おれは、ほんとに、どこまでバカだろう」と「腰かけてるのがどうしても気になってね」をつけ加えている。村上訳は「あの窓の下で、派手な尻軽女と。ジーザス、男というのは、どこまで愚かしくなれるものか」。

「素早くスパスパ吹かした」は<puffed rapidly>。清水訳は「たてつづけに煙を吐いた」。田中訳は「プカプカ、いそがしそうにふかした」。村上訳は「せわしなく煙を吸い込んだ」。村上氏が煙草を吸うのかどうか知らないが、マリファナ煙草でもなければ、そうは煙は吸い込むことはない。<puff>にも「ぷっと吹く」という意味はあるが「吸い込む」の意味はない。

「それはともかく、あの朝、いつも通り自分の仕事をすまそうと、あそこでごみを燃やしてると、あの女が小屋の裏戸口から出てくるじゃないか」は<Well, I'm over there burning trash that morning and minding my own business, as much as I ever mind it. And she comes to the back door of the cabin>。この回想部分はすべて現在形が使われている。しかし、三氏の訳はすべて過去形になっている。

清水訳「とにかく、私はその朝、ごみ(傍点二字)を燃しに行ったとき、いつものように仕事のことしか考えていなかった。あの女が(略)キャビンの裏に現れて」

田中訳「ま、それはともかく、あの朝、おれはゴミをやいてた。女のことなんかなにもかんがえずにね。そしたら(略)クリスタル・キングズリイが裏口からでてきて」

村上訳「それでね、おれはその朝、いつもどおりあそこに行ってゴミを燃やしていた。日々の仕事をただこなしていただけさ。そうしていると、彼女はキャビンの裏口から出てきた」

「近づけば近づくほど、いよいよ女の眼が艶めいてくる」も<And the closer I get to her the more bedroom her eyes are>と最後まで現在形で通している。清水訳は「私が女に近づけば近づくほど、女の目が寝室にいるときの目になっていった」。田中訳は「クリスタル・キングズリイはくつついてきて、とうとう寝室にひっぱりこまれてしまつたんですよ」。村上訳は「そしておれと彼女との距離が狭まるほど、彼女の目が色っぽく燃え始めた」と、やはり過去形になっている。そうまでこだわる必要はないのかもしれないが、一応現在形になっているところは、現在形で訳してみた。臨場感が増したように思う。

『湖中の女を訳す』第五章(2)

<full of knuckles>を「一発」に減らすのは、非暴力主義?

【訳文】

 私は立ち上がり、ポケットからキングズリーの紹介状を取り出して男に手渡した。男は眉根を寄せてそれを見たが、それから足音高く小屋に戻り眼鏡を鼻にのせて戻ってきた。そして注意深くそれに目を通し、もう一度読んだ。シャツのポケットに入れ、フラップのボタンをかけてから手を差し出した。
「ようこそ、ミスタ・マーロウ」
 我々は握手を交わした。やすりのような手だった。
「キングズリーの小屋が見たいんだね? 喜んで案内するよ。まさか売るつもりじゃないだろうね?」彼は私に目を留めながら、湖の方を親指でぐいと指した。
「かもしれない」私は言った。「カリフォルニアじゃ、なんでも売っている」
「嘘だろう? あれがそうだよ――アメリカ杉で組まれている。こぶのある松材を並べ、屋根は合成材、基礎とポーチは石造り、浴槽とシャワー完備、窓にはベネチアン・ブラインドが備えつけ、大きな暖炉、主寝室には石油ストーブ――春と秋には、これが必要になる――ピルグリム社製コンビネーション・レンジはガスと薪両用、すべて高級品、山小屋にかけた費用が八千ドルだ。水は専用の貯水池が山の上にある」
「電気と電話はどうなってる?」私は訊いた。話の接ぎ穂だ。
「もちろん電気は来ている。電話はない。今すぐには無理だ。電話を引くとしたら、線を引っ張ってくるのに大金がかかる」
 青い瞳がじっと私を見ていた。私も見た。風雨にさらされてきた風貌にも拘らず、酒飲みのように見える。厚い皮膚はつやつやし、静脈が目立ち過ぎ、眼がぎらぎらと輝いている。
 私は言った。「今は誰か住んでいるのかな?」
「誰もいない。数週間前にミセス・キングズリーが来ていたが、山を下りた。そのうち戻るだろう。聞いてないかい?」
 私は驚いて見せた。「どうしてだ? 小屋には彼女が付きものなのか?」
 彼は顔をしかめ、それから頭を後ろに反らせ、大笑いした。高笑いはトラクターのバックファイアのようだった。それは森林地帯の静寂を粉々に吹き飛ばした。
「畜生め、言ってくれるじゃないか」彼は息を喘がせた。「彼女が付きものとは――」彼はまた大声を出し、それから罠のようにぴたりと口を閉じた。
「ああ、最高の小屋だよ」彼は私の眼を窺いながら言った。
「ベッドの寝心地は快適かい?」私は訊いた。
 彼は身を乗り出して薄笑いした。「ひょっとして顔を拳骨の跡だらけにしたいのか?」
 私は口を開け、相手を見た。「展開が速すぎて」私は言った。「話がよく見えない」
「べッドの寝心地の良さなんて俺に分かるはずがないだろう」彼はがなり立て、うまくすれば強烈な右パンチが私に届くように、少し前に屈んだ。
「知らないはずはないんだが」私は言った。「それはまあいい。自分で見つけられる」
「ふん」彼は苦々しげに言った。「探偵ってのはな、臭うんだよ。アメリカの州という州で追いかけっこをしてきたんだ。お前もキングズリーもくそくらえだ。自分のパジャマを俺が着ていないか、探偵を雇って探りに来させたってことか? やい、探偵、俺は片足は不自由かもしれんが、女に不自由したことは――」
 私は手を差し出した。引っこ抜かれて湖に放り込まれないことを願いながら。
「少々誤解があるようだ」私は話した。「あんたの女出入りを訊くためにやってきたわけじゃない。ミセス・キングズリーには会ったことがないし、ミスタ・キングズリーにも今朝会ったばかりだ。いったいどうしたんだ?」
 彼は視線を落として手の甲で口をごしごしこすった。まるで自分を傷めつけるかのように。それから、手を目の前に持ってきて、拳を堅く握りしめ、それから、また開き、指をじっと見つめた。それは少し震えていた。
「すまなかった。ミスタ・マーロウ」彼はゆっくり言った。「昨夜は箍が外れてしまって、まるでスウェーデン人が七人いるみたいな二日酔いなんだ。ひと月もここで一人きりなんで、独り言を言うようになった。ちょっとしたことがあってね」
「一杯やるというのはどうかな?」
 彼の目の焦点が私の上で定まり、きらりと光った。
「持っているのか?」
 私はポケットからライウィスキーの一パイント瓶を引っ張り出し、キャップの上に貼られたグリーン・ラベルがよく見えるように持ち上げて見せた。
「俺にはもったいない酒だ」彼は言った。「くそっ、なんてこった。グラスを取ってくる間待っててくれるか。それとも小屋に来るか?」
「ここがいい。景色を楽しむことにするさ」
 彼は思うように動かない方の足を揺らしながら小屋の中に入っていき、小さなグラス二つを手に戻ってきた。そして私と並んで岩に腰を下ろした。乾いた汗の匂いがした。

【解説】

「こぶのある松材を並べ」は<Lined with knotty pine>。清水訳は「こぶだらけの松材がならべてあって」。村上訳は「節のある松材がわたされ」。<lined with>には「~がずらりと並ぶ」と「~で裏打ちされている」の二つの意味がある。田中訳は「内張りには、松材の節がおおいところが使ってあります」。稲葉訳は「節(ふし)のおおい松材をつかって内装してある」。

ログ・キャビン(丸太小屋)は皮をはいだ太いログ(丸太)を井桁に組んで建てられている。丸太そのものが構造体であり、内装を兼ねている。その上にわざわざ松材を張って内装したりしたら、せっかくの丸太小屋が台無しになってしまう。この<Lined with knotty pine>は、屋根になる部分だろう。普通、ログ・キャビンに天井は張らない。屋根の裏がそのまま見えることになるので「こぶ」の多い松材を装飾代わりにしているのだと思う。

「ひょっとして顔を拳骨の跡だらけにしたいのか?」は<Maybe you'd like a face full of knuckles>。清水訳は「その顔に一発、食らわせてもらいたいのかね」。村上訳は「あんたどうやら、げんこつを一発食らいたがっているみたいだな」。ここも<full of knuckles>が、たった一発になってしまっている。田中訳は「あんたは、顔中コブだらけにされたいのかい?」と複数扱いになっている。

<「展開が速すぎて」私は言った。「話がよく見えない」>は<"That one went by me too fast," I said, "I never laid an eye on it.">。清水訳は<「いまの一発はあまり早かったので」と私はいった。「私の目には見えなかったよ」>と<That one>を「一発」と捉えている。村上訳は<「なあ、いったい何を言ってるんだ。私にはさっぱり見当もつかないね」と私は言った>。田中訳は「いやに気をまわすひとだなあ。そこまでは、こっちは考えなかったよ」。原文の<fast>と<lay eye on>(注意して見る)を活かして訳してみた。

「昨夜は箍が外れてしまって、まるでスウェーデン人が七人いるみたいな二日酔いなんだ」は<I was out on the roof last night and I've got a hangover like seven Swedes.>。清水訳は「ゆうべ、だいぶ飲みすぎたんでね。けさは頭がふらふらしている」。田中訳は「昨夜、山のほうに飲みにいってね。ひどい二日酔なんですよ」。村上訳は「ゆうべちょっと飲み過ぎてな。七人のスウェーデン人が集まったくらいの二日酔いを抱えていたんだ」。<aut on the roof>は<out on the tiles>と同じで「(屋根の上の猫のように)派手に遊び回る」こと。スウェーデン人についてはよく分からない。

『湖中の女』を訳す 第五章(1)

どうして<a high granite outcrop>を複数扱いしたのだろう

 

【訳文】

 

 サン・バーナディーノは午後の熱気で焼かれ、ぎらぎらと揺らめいていた。空気は舌に火ぶくれができそうなほど熱かった。喘ぎながらそこを通り抜ける途中、一パイント瓶を買う間だけ車を停めた。山に着く前に気絶したときの気つけ薬だ。そして、またクレストラインまでの長い坂道を上り出した。十五マイルで、五千フィート上っても、涼しいというにはほど遠かった。山道を三十マイル走り、高い松が聳えるバブリング・スプリングというところに着いた。下見板張りの店とガソリン・ポンプがひとつあるだけだが、まるで楽園のように思えた。そこからはずっと涼しかった。

 ピューマ湖のダムの両端と中央に武装した歩哨がいた。最初に出遭った歩哨は、ダムを渡る前に車の窓を全部閉めさせた。ダムから百ヤードほど離れたところにコルクの浮きがついたロープがあり、遊覧船はそれ以上近づくことができなかった。そういった些細なことを除けば、戦争はピューマ湖に大した影響を与えていないようだ。

 カヌーのパドルが青い水を漕ぎ、ボートにとりつけた船外機がのどかな音を立てるなか、若さを見せつけるようにスピードボートが派手な水しぶきを立てて急旋回し、中にいる女の子たちが手で水を掻きながら歓声を上げている。スピードボートが立てた余波に揺られながら、入漁許可証に二ドル払った人たちは、少しでも元を取ろうと、くたびれた味の魚を釣るのに躍起だった。

  道は、大きな花崗岩の露頭をかすめるようにして、雑草が目につく草地に下りていった。常緑菖蒲(ワイルド・アイリス)、白と紫の昇り藤(ルピナス)、白根(ビューグル・フラワー)、苧環(コロンバイン)、目草薄荷(ペニーロイヤル)、胡麻の葉草(デザート・ペイントブラッシュ)といった草花が咲き残っていた。高い松の木立ちは澄んだ青空を探るように枝を伸ばしていた。道はまた湖の高さに下り始め、あたりの風景は派手なスラックス、袋型ヘアネット、農夫風ハンカチーフ、入れ毛でふくらませた巻き髪、厚底サンダルと白く太い腿の娘たちでいっぱいになり始めた。自転車乗りはハイウェイを慎重によろよろと進み、時折り、不安気な顔の若者がスクーターの音を響かせて通り過ぎた。

 ハイウェイを村から一マイル走ったあたりで、曲がりくねって山に戻って行く細い分かれ道を見つけた。ハイウェイの標識の下に粗削りな木製の看板があり「リトル・フォーン湖、一マイル四分の三」とあった。その道に入った。はじめの一マイルは斜面に沿って小屋が散らばっていたが、その後見かけなくなった。やがて、また道が分かれ、一段と狭くなった道の方に、これも粗雑な木の看板があり、「 リトル・フォーン湖。私道につき、立ち入り禁止」と書いてあった。

 そちらにクライスラーを乗り入れ、地表に露出した大きな花崗岩の間を縫ってそろそろ進み、小さな滝を過ぎ、黒樫の木、アイアンウッド、マンザニータの静まり返った迷路を通り抜けた。枝の上で青カケスが鳴き騒ぎ、栗鼠は闖入者を叱りつけ、腹立ちまぎれに抱かえていた松ぼっくりを前肢で叩いた。頭に緋を頂いたキツツキが、きらきら輝く目で私を見ようと、暗闇の中を突っつくのを止め、それから木の幹の後ろに隠れ、もう一方の目で私を見た。五本の横木を組んだゲートまで来ると、また看板が立っていた。

 ゲートを抜けると、曲がりくねった道が木々の間を縫って二百ヤードほど続き、突然、眼下に、木々や岩、野草に囲まれた小さな楕円形の湖が現れた。まるでくるっとまるまった葉の上に落ちた露の滴のようだった。湖の端近くに、きめの粗いコンクリート製のダムがあり、上にロープを張った手すりがついていて、傍に古い水車があった。近くに、樹皮のついた松の自然木で組んだ小さな丸太小屋があった。

 岸伝いなら遠回りになり、ダムを渡れば近いあたりの対岸に、大きなアメリカ杉を組んだ丸太小屋が水の上に迫り出している。その先にはそれぞれ充分に距離を置いた別の小屋が二棟建っていた。三棟とも戸締りされ、カーテンが引かれ、ひっそりしていた。大きな一棟は梔子色のベネチアン・ブラインドがついた十二枚のガラスを嵌めた窓が湖に面している。

 ダムから見て湖の最も遠い端に、小さな桟橋とバンド用のパビリオンのようなものがあった。反り返った木の看板には大きな白い字で「キャンプ・キルケア」と記されていた。こんなところにそんなものがある理由が思いつかなかったので、車を降りて一番近い小屋に向かって下り始めた。小屋の裏手の方で斧を振るう音がした。

 小屋の扉をノックすると斧の音がやんだ。どこかで男の怒鳴り声がした。私は岩の上に腰かけ、煙草に火をつけた。小屋の角を曲がってくる足音がした。不揃いな足音だ。いかつい顔をした浅黒い男が、両刃の斧を手にしているのが目に入った。

 がっしりした体格で、 背はさほど高くなく、 足を引きずって歩いた 。一歩歩くごとに 右足を少し蹴り出して 浅い弧を描くように足を振った。無精ひげで黒い顎、落ち着いた青い瞳、大いに散髪を要する灰色の髪は耳にかぶさってカールしていた。ブルーのデニムのズボンを穿き、襟元をはだけた青いシャツから褐色の逞しい首がのぞいていた。口の端に煙草をぶら下げ、堅くて隙のない都会者の声で言った。

「何の用だ?」

「ミスタ・ビル・チェス?」

「そうだが」

 

【解説】

 

「スピードボートが立てた余波に揺られながら、入漁許可証に二ドル払った人たちは、少しでも元を取ろうと、くたびれた味の魚を釣るのに躍起だった」は<Jounced around in the wake of the speedboats people who had paid two dollars for a fishing license were trying to get a dime of it back in tired-tasting fish>。 

 

清水訳は「スピードボートが起こした波の中で、釣りをするのに二ドル払った連中がいくらかでも取り戻そうと仕切りに手を動かしていた」と<tired-tasting fish>をスルーしている。田中訳は「モーターボートのあおりをくらうダムのふちには、二ドルはらって釣りの許可をとった連中が、十セントもしないぐらいの、くたびれた魚をつりあげようとやっきだ」。村上訳は「そのスピードボートの航跡のまわりで、ニドル払って釣りの許可をとった人々がゆらゆらと揺れながら、少しでも元を取ろうと、くたびれた味のする魚を釣り上げるべく精を出していた」。

 

<tired-tasting fish>は、スピードボートの立てる波に揺られながら、二ドルを取り戻そうと釣りをする釣り人達の奮闘ぶりをからかったのだろう。そこまで苦労して釣った魚にはきっと釣り人の疲れが乗り移って、くたびれた味がするだろう、と言っているのだ。田中訳のように「ダムのふち」と取ると、何が<jounce>(ガタガタ揺れる)のかが分からない。「くたびれた魚」と<tasting>をトバしていることから考えると、田中氏は波に揺れて魚がくたびれたと考えたのかもしれない。

 

「道は、大きな花崗岩の露頭をかすめるようにして、雑草が目につく草地に下りていった」は<The road skimmed along a high granite outcrop and dropped to meadows of coarse grass>。清水訳は「道路は高い岩だらけの崖にそってつづいていて、雑草が生いしげる草原にくだって(傍点四字)行った」。田中訳は「道は、あちこちに露出した花崗岩の大きな岩のあいだをぬってのぼり、やがて、野草がいっぱいはえた平地にくだった」。

村上訳は「切り立った花崗岩の露頭のあいだを縫うように道路は続いていた。それからぼさぼさした草の繁った野原へと降りていった」。

 

どうして揃いも揃って三人とも<a high granite outcrop>を複数扱いで訳しているのだろう。単数で書かれている以上、この大きな花崗岩の露頭は一つきりで、要は、その大岩を境に道が下りはじめた、ということだ。<skim>は「すれすれに通る」という意味。狭い山道に大きな岩が迫り出すように露出していれば、それを「かすめるようにして」通るほかないではないか。多分初訳の誤りに気づかず、他の二氏が踏襲したのだろう。

 

「常緑菖蒲(ワイルド・アイリス)、白と紫の昇り藤(ルピナス)、白根(ビューグル・フラワー)、苧環(コロンバイン)、目草薄荷(ペニーロイヤル)、胡麻の葉草(デザート・ペイントブラッシュ)」は<the wild irises and white and purple lupine and bugle flowers and columbine and penny-royal and desert paint brush>。

 

清水訳は「野生のアイリス、白と紫のルピナス、ラッパ草、オダマキ、メグサハッカ、ゴマノハグサ」。田中訳は「山あやめ、白や深紅の花を咲かせているルーピン、ラッパ草、おだまき、はっか、それに砂漠によくあるごまのはぐさ(傍点六字)」。村上訳は「野生のアヤメと、白と紫のルピナスキランソウオダマキ、メグサハッカ、カステラソウ」。

 

<wild iris>は「野生のアイリス」ではなく「ディエテス・イリディオイデス」(常緑アヤメ)のこと。<bugle>は「ラッパ」なので「ラッパ草」と訳したのだろうが、<bugleweed>は「キランソウ」か「シロネ」。<desert paint brush>は「カスティーリャ・クロモサ」のことで、厳密には「ゴマノハグサ」でも「カステラソウ」でもない。その土地固有の植物にぴったりの和名はめったに見つかるものではない。カナにカナのルビは変だが、漢字にしてルビを振れば、調べることもできる。

 

「袋型ヘアネット、農夫風ハンカチーフ、入れ毛でふくらませた巻き髪」は<snoods and peasant handkerchiefs and rat rolls>。清水訳は「袋型のヘアネットと農民風ハンカチーフとラット・ロール」。田中訳は「れいのはちまき(傍点四字)のようなリボンをして、田舎風のスカーフをかけ、髪をいれ(傍点二字)毛でふくらした」。村上訳は「大きなリボン、農夫風のハンカチーフ、丸い巻き髪」。

 

<snood>には「ヘアネット」と「昔、スコットランドで処女のしるしとされた鉢巻状のリボン」の意味がある。野外に遊びに来た女性が髪をまとめておくための物が羅列されているのだと考えれば、長い髪をまとめるためのネットととるのが自然だが、どうだろうか。清水氏がさじを投げた格好の<rat rolls>だが、<rat>には「かもじ、入れ毛」の意味がある。長めの髪を外巻きにロールしてアップの巻き髪にするため、中に入れ毛を入れたのだろう。

 

「五本の横木を組んだゲート」は<a five-barred gate>。板を間を開けて五枚渡し、両端と対角線上に同様に板を張ることで、簀の子状の開き戸ができる。柵などで仕切った土地の入り口に設けることが多い。清水訳は「棒が横に五本わたしてあるゲート」、村上訳は「木材を五本わたしたゲート」。田中訳の「鉄棒が五本ついた鉄門」はおかしい。因みに、『マーロウ最後の事件』(1975年晶文社刊)所収の中篇「湖中の女」(稲葉明雄訳)では「五本の丸太ん棒を横たえた門柵」になっている。

 

「三棟とも戸締りされ、カーテンが引かれ、ひっそりしていた。大きな一棟は梔子色のベネチアン・ブラインドがついた十二枚のガラスを嵌めた窓が湖に面している」は<All three were shut up and quiet, with drawn curtains. The big one had orange-yellow venetian blinds and a twelve-paned window facing on the lake>だが、何故か田中訳はこの部分が欠落している。.